36.気持ちの在り処
「ユリ様、大丈夫ですか」
精神的にヘロヘロ状態で控室に戻ると、エスターが慌てて駆け寄ってきた。
「エスター殿、側室の件は白紙に戻りましたぞ」
ルーファスがエスターに小声で伝えると、エスターはほっとしたようにルーファスに頭を下げた。
「そうですか、良かった。……ありがとうございます、ルーファス殿」
「いやいや、私は特に何もしておりません。ラインハルト様と、それからリオン殿下のおかげですな」
ルーファスの言葉に、エスターはラインハルトへ視線を向けた。
「エスター、戻るぞ。長居は無用だ」
ラインハルトが言うと、エスターは複雑そうな表情で頭を下げた。
「かしこまりました。……参りましょう、ユリ様」
「おい、エスター」
来た時と同じように馬に乗って帰る道すがら、ラインハルトが馬を並べ、話しかけてきた。
「……何か」
エスターが無愛想に返す。聞いたこともないような冷たい声音に、わたしは少し驚いて背後のエスターを見上げた。
月明りに照らされたエスターは、まるでよく出来た彫像のようだ。完璧な容貌だが、冷ややかで取り付く島もない。わたしはアリーがエスターを評した「近寄りがたい」という言葉を思い出していた。
「まだ怒っているのか」
ラインハルトがため息交じりに言った。無言のままのエスターに、ラインハルトは肩をすくめた。
「今回は、うるさい貴族どもにもこちらの意向を知らしめる良い機会だった。思惑通り、陛下のみならず貴族どもも、勝手に納得してくれたようだぞ。これからは持ち込まれる縁談も減るだろう」
「……それは、感謝しておりますが」
エスターは低く言った。
「だからといって、あそこまでする必要はなかったのではありませんか」
言葉の端々に、抑えきれない怒気がこめられている。
あそこまで、って……、アレか、キスのことか。でも、殿下はいくら二十七歳といっても見た目小学生なんだし、そこまで気にするようなことでも……、と思っていると、
「考えすぎだ、エスター。見てみろ、当事者のユリでさえ、何とも思っておらん」
ラインハルトが顔を歪めて言った。
「あの場にいた貴族どもも、ルーファスも。……皆、私のした事は陛下への当てこすりとしか思っておらん」
「……殿下のお気持ちは?」
エスターが静かに言った。
「他の誰かの思惑などどうでもいい。殿下自身のお気持ちは? 本当に、貴族たちへの意思表示のためだけに、あのような事をなさったのですか」
ラインハルトはエスターを見返したが、すぐに視線を逸らした。
「……くだらん」
いつの間にかラインハルトの居室のある棟についていたらしい。ラインハルトは馬から降り、棟の前で待っていた従僕に手綱を渡した。
「明日は神殿に行く。装備を整えておけ」
それだけ言うと、ラインハルトはこちらを見もせずに、居室のある別棟に入って行った。
エスターは黙ったままラインハルトを見送ると、私の部屋のある棟へと馬首をめぐらせた。
「エスター……」
わたしは戸惑い、なんと言えばいいのか迷った。
あんな言い方、まるでラインハルトの気持ちがわたしにあるみたいだ。まさかそんなはず……と思っていると、
「ユリ様」
ふいに背後からぎゅっと抱きしめられ、わたしは硬直した。
「エ、エスター」
「ユリ様……」
耳元にかかる息が熱い。
「気づいておいでかどうかわかりませんが、ラインハルト殿下は、ユリ様を想っていらっしゃいます」
驚愕のセリフに、わたしは思わず後ろに座るエスターを見ようとした。が、きつく抱きしめられて身動きがとれない。
「まさか」
「本当です」
エスターは、はあ、と苦しげに息を吐いた。
「私にはわかります。殿下があなたを見る目は、私と同じだ。……許されないとわかっていても、抑えられない。貴族どもの思惑など、口実に過ぎません。ただ、あなたに触れたいから、だからあのような」
「そんな……、そんなはずは」
わたしはうろたえて言葉を探した。
いや、だってラインハルトは……、どう見ても子ども(というか美少女)だし、わたしに対する態度だって、とてもそんな好意を抱いているようには思えない。だが、
「たとえあなたの目にどのように映っていても、彼は成人した男です」
わたしの心を読んだようにエスターは言った。
「ラインハルト殿下は、私と同じようにあなたを欲している。だからあなたに口づけたのです」
「エスター……」
なんと言えばいいのかわからず、わたしは口ごもった。
「ユリ様、あなたのお気持ちは?」
わたしを抱きしめたまま、エスターが言った。
「どうかあなたの気持ちをお聞かせてください。……わたしの想いは迷惑ですか?」




