閑話 初恋の痛み(ラインハルト視点)
「結界の外へ出るとしても、あまり遠くまでは行かれぬよう。ハティスの森には入らぬと、そうお約束ください」
しつこく食い下がるエスターに、ラインハルトはため息をついた。
「ユリはおまえの娘か? なぜそこまで、異世界の魔法使いを気にかけるのだ」
「私のせいで、ユリ様はこちらの世界に強引に連れてこられたのです。気にかけて当然ではありませんか」
どうだか、とラインハルトは心の中でつぶやいた。
その後もあれこれとエスターはラインハルトに注文をつけ、うるさがったラインハルトに追い払われるようにして、ようやく帰っていった。
面倒な事になった、とラインハルトは思った。
エスターは誰に対しても礼儀正しいが、それは騎士としての範囲内で、優しいというわけではない、とラインハルトは思っている。
実際、エスターは常に周囲とは一線を引き、誰とも、特に貴族とは親しく付き合わぬよう、気をつけているように見える。それなのに、ユリにはやけにご執心のようだ。
ある意味、ユリが異世界の人間だからこそ、エスターは気安く接することができるのだろう、とわかっている。
こちらの世界のしがらみに縛られず、気を遣う必要のない相手。また、ユリ自身もどこかのんびりした、平和な空気に包まれているように思う。こちらの警戒心をとき、思わず心を許してしまうような、穏やかな空気だ。
おそらくユリは、元の世界でもあくせく働く必要のない、豪商の娘か何かであったのだろう。
初めて会った時、食事の様子を観察してみたが、ユリは食事を中断されても気にすることなく、平気で席を立った。飢えたことも、目を離した隙に誰かに食糧を奪い取られた経験もないのだろう。
ユリに付けた侍女、アリーの話だと、ユリ本人は貴族ではないと言っているらしいが、それが本当だとしても、かなりの富裕層の出身だろう。髪も肌も手入れが行き届き、美しく整えられている。
ラインハルトは、くるくると目まぐるしく表情の変わるユリを思った。
大きな茶色の瞳は、まあ愛らしいと言えなくもない。瞳と同じ色の髪は長く、艶やかで美しい。肌はきめ細かく、唇はふっくらと花の蕾のようだ。まるで口づけられるのを待っているように……。
そこまで考え、ラインハルトは頭を振った。
バカバカしい。私までエスターの物狂いが移ったのか。そもそもこの体では、話にもならぬ。
「ユリ様、この皮の水筒にノズリ茶をお入れいたしました。堅パンもお持ちになって。ノズリの実を干したものも……」
アリーがあれこれと食べ物を入れた袋をユリに背負わせている。
「いい加減にしろ。遊びに行くのではないのだぞ」
「まあ、殿下」
ラインハルトの言葉に、アリーが目を吊り上げた。
「ちゃんと食べておかねば、いざという時に力が出ませんわ。ただでさえユリ様は、このように細いお体をされてますのに」
アリーがぎゅっとユリの体を抱きしめた。
たしかにユリは、こちらの世界の女性に比べて骨が細いというか、体が薄いようだ。皮膚もやわく、生まれたてのカカチの雛のように傷つきやすそうに見える。
「……ともかく、そんなに食糧を詰め込まずとも、日暮れまでには戻る予定だ」
「そうは仰られても、結界の外に食堂などありませんわ」
アリーは一歩も引かず、さらにユリの荷物に何かを詰めようとしている。まるで雛にエサを与える親鳥だ。
「食堂などなくて当たり前だ。遊びに行くのではないと何度言えば」
ラインハルトとアリーが言い合っていると、
「おお、殿下。遅くなって申し訳ありません。ユリ様、本日は宜しくお願いいたします」
ルーファスが部屋を訪れ、ラインハルトとユリに挨拶をした。ユリもにこにこと挨拶を返している。
「ルーファス、ユリ、さっさと行くぞ。これでは訓練前に日が暮れる」
「まあ殿下、横暴ですわ」
ルーファスが、ふとユリの背負っている荷物に目をとめた。
「ずいぶんと重そうな荷物ですな。わたしが持ちましょう、ユリ様」
ルーファスはユリから荷物を取り上げ、代わりにユリに小さな花飴を与えた。ロージャ国の子どもに人気の、カラフルな花型の飴だ。
「ありがとうございます、可愛い飴ですね!」
喜ぶユリに、ルーファスは相好を崩した。
「お気に召しましたか。次は果実の飴がけでもお持ちいたしましょうか」
嬉しそうなルーファスに、おまえは孫に貢ぐ爺か、とラインハルトは心の中で突っ込んだ。
エスターにアリー、そしてルーファスまで。
この年若い異世界の魔法使いには、人をたらし込む不思議な魅力があるらしい。
自分にはさっぱりわからぬが、とラインハルトはユリを睨むように見た。
「ラインハルト様?」
ユリがのんびりと自分の名を呼ぶ。何の思惑もない、緊張感のかけらもない声だ。
確かにこれは気が抜ける。警戒心をゆるめたところに、するりと心の内に入られてしまうのか。
「……さっさと仕度しろ。出発するぞ」
ラインハルトはユリに背を向けた。
もしかしたらこの胸の痛みは、罪悪感なのかもしれない。
この子どものような異世界人を、勝手な理由で荒んだ世界に引きずり込んでしまった。その愚かさへの後悔、もしくは自己嫌悪。
それだけだ、とラインハルトは自分に言い聞かせた。




