少女は転移した幼なじみと恋はしない
「おーい、子豚。今日もおやつ食べまくってんのか?」
人の家の2階の窓に小石をぶつけてくるのは、お隣の琉生君だ。
かなり、年下だがいちいち人を構ってくる。小学4年生と、まだまだお子様だ。
「人のうちに小石を投げないの!」
お互いに両親は共働きで帰りが遅いため、高校生である子豚こと葵が、夕食の面倒などを時々みている。
「子豚、今日コンビニ弁当がいい」
今日は葵が野菜をみじん切りにしてハンバーグに入れ込んだのだ。
琉生にそれがバレて、わがままを言われている。
「せっかく作ったんだから、わがまま言わないで食べて……。今日は手作りプリン付き!」
「いつまでもプリンに騙される年だと思うなよ!」
琉生は文句を言いながらも、ハンバーグとプリンを平らげてしまう。
「ごちそうさまでした! ほら琉生君もきちんと言って!」
「子豚がブーブー言ってて、何のことか分かんないね。それよりゲームやろうぜ! どうせ下手くそなんだろうけど!」
葵がお皿を片付けると二人でのゲームタイムだ。
葵と琉生がゲームに熱中していれば、急に地鳴りがし始めた。
「琉生君。大きい地震が来る。机の下に……」
葵が声を荒げた時には本震が来ており、琉生を葵が抱き抱え守っている。
「大丈夫、大丈夫! そばにいるから……」
葵の意識はそこで途絶えた。
「ここは……」
葵が目を覚ますと、目の前には白い天井があった。
周囲を見渡せば、ここが我が家でも病院でもないことが分かる。
「エルミーヌ様お目覚めになられましたか?」
メイドの格好をしたおばさんが話しかけてくるが、誰だか分からない。
「あなたは誰?」
「エルミーヌ様?」
メイドは医者を呼びに行き、そこへ男女もかけつけた。品の良い優し気な二人だった。
「頭を打たれておりますから、一時的な記憶障害かと思われます」
「そうですか……。分かりました。ありがとうございました」
男女は医者を見送ると、葵に向かって話しかけてきた。
「怪我は治癒魔法で治っているから、大丈夫だろう。明日はとりあえず学校を休みなさい」
葵は、エルミーヌという名で公爵家の令嬢として、生を受けたらしい。先程の男女は両親であったようだ。
両親から何故意識を失ったのか、事の顛末を聞く。どうやら、魔法学校に在籍しているらしく、魔法の練習中にほかの子から魔法を受けてしまい、記憶を失ったということになっていた。
翌日もエルミーヌとしての記憶は戻ることがなく、見舞いに一人の少年と少女が来た。
「エルミーヌ、オスヴィン君が見舞いに来てくれたよ」
父がそう説明すると、オスヴィンは胸に手を当ててからベッドのほうへと歩いてきた。
その後ろにひょこひょこと少女が歩いてついてくる。
「シャレット公爵、この度は誠に申し訳ございませんでした。私の不注意でエルミーヌ様にお怪我をさせてしまって……」
「いいんだよ。魔法の練習中にはよくある事だ。うちの娘もきっと油断していたのであろう」
葵は首を傾げていると、また父が説明してくれる。
「こちらのお嬢さんは、マリー・ビロンさんだ。そして、今回君が練習中に彼女の魔法を受けてしまったらしい」
葵は頷くと、マリーに話しかける。
「そうだったんですね。でもお気になさらないでください。お父様が言っていたように私の不注意だったんです」
葵はにこりと微笑めば、マリーとオスヴィンには驚かれ、二人とも父親の顔を見た。
「どうやら、記憶をなくしているらしい。前より明るくなったし、いいだろ?」
父親は寂しそうに笑うと、ゆっくりしていってと二人を部屋に残し、部屋から出た。
「そんなに、僕に未練があるのか?」
父がいなくなるとオスヴィンの態度が大きく変わった。マリーとの距離も近くなっている気がする。
葵が首を傾げていると、オスヴィンが続ける。
「記憶喪失のフリをして、急にしおらしい態度をしても無駄だ。僕は君との婚約を破棄する」
オスヴィンはマリーの腰に手を回す。葵はそういう事かと納得する。
「家同士の婚約ですけれども、やっぱり好きな人と結ばれるべきですよね。私それとなく父に婚約が解消できないか打診します」
二人は唖然として、葵の顔を見る。
「家同士の婚約だからお前のお父上に打診するタイミングを見ていたというのに……。本当に記憶がないのか?」
「はい、今の私では貴族としてのルールも何も分かりません。もし、私の父の説得ができなければ、あなたがその事を自分の父親に言えば、いいのではないでしょうか? 社交のできない妻は、貴族にとっておそらく致命的なのでしょう」
葵は前世の記憶しかないため曖昧であるが、貴族のイメージで伝える。
「オスヴィン様……」
マリーがオスヴィンの胸に体を預ける。葵はそれを見て微笑み、マリーに話しかける。
「本当に、好きなのですね? オスヴィン様絶対に彼女を泣かせるような事はしてはいけませんよ」
「お前が今までずっと彼女を泣かせてきたのであろう。無表情で心無いことをずっとしてきた! なのに拍子抜けだ。なんだ! その演技は気に食わん。婚約破棄の件は父上に相談させてもらう」
にやつくマリーを抱きしめたまま、オスヴィンは部屋から出て行った。
すると、部屋には父が入ってきた。
「エルミーヌはあれでよかったのかい? オスヴィン君のことが本当は好きだと思っていたから、関係が修復するのを父さんたちは待っていたんだぞ?」
「今となっては記憶がありませんからね。お父様、これから私が生き直すために、貴族のことや常識を教えていただけませんか?」
父は悲しそうに頷くといろいろと話をしてくれた。今週は学校をお休みして、いろいろなことを学び、来週から学校は再開することとなった。
皆が休みの魔法学校に来て、特別に魔法の補講をする。
「魔法の使い方すら、忘れているとは……。ちょっと大変ですね」
黒いフードを被っているため、よく顔が見えないが、この学校の先生らしい。
「はい、オスヴィン君、婚約者のためだから頑張って」
建前上まだ婚約者であるオスヴィンは、どうやら婚約を破棄することをまだ認めてもらえないようで、家長である父から命を受け、休日なのに付き合ってくれているようだ。
オスヴィンはキリっと先生を睨むと、空中に魔法陣を描き、魔法を発動させる。
「我、汝と契約する者なり、人を覆う水の球を我が手に……。水球!」
オスヴィンの手から水の球が飛び出し、的にぶつかった。
葵はそれを見て拍手をすると、オスヴィンから睨まれた。
「これしきの魔法で、称賛なんていらない」
オスヴィンは膨れっ面で、的の前から退いた。
先生がクスクス笑いながら、葵に一枚の紙を渡すと、一歩下がる。
そこには、魔法陣が描かれているようだ。
「このように、精霊に呼びかけて、魔法陣を描くことで魔法を発動します。確かシャレット家は雷の家系でしたね?雷の精霊に向けて、呪文を唱えてみてください。」
葵は見よう見真似で、杖を手に取ると、魔力を乗せて魔法陣を空中に描き始めた。
魔法陣や呪文は先生に手渡されたものを見る。
「我、汝と契約する者なり、雷鳴轟かせ、我が手に雷を……。雷球!」
「…………。」
葵が魔法を発動すべく、恥じらいながら、呪文を唱えるも、見事に魔法は発動されない。
「ダメですか。オスヴィン君帰っていいですよ。婚約者の義務は果たしました。これからつきっきりで、魔法の練習をしますから……」
「ふん。魔法も発動できないとは、益々、父上を説得できる材料が増えたようだ」
オスヴィンが帰る支度をすると、葵は一つの袋を渡す。
「これ、少しですけど……」
オスヴィンは袋の中を見ると、首を傾げる。
「なんだ? これは?」
「せめてもの、お礼です。父からあなたが来ることは伺っていましたから」
オスヴィンはふんというと、その場を去った。葵はもう一つの包みを先生へと手渡す。
「私の分もあるのですか?」
「はい。先生にもお世話になりますから、せっかくですので、少し休憩してからにしませんか?」
葵達は修練場の隅で、腰を下ろし、クッキーを食べる。
「それにしても、記憶を無くすとは大変なことなのですね。魂の性質そのものが変わってしまったのか」
先生が袋を開け、中に入っているクッキーを食べた。
「この味、まさか……」
先生のクッキーを食べる手が止まる。
「お口に合いませんか? 一応自分で作ってみたのですよ。
メイドたちには怒られてしまいましたが、お世話になる方々にお返しするものくらい、自分で作ったものを渡したいじゃないですか?」
「おいしくないわけではないのです。ただ、懐かしい味がして……」
先生は葵の手を取る。
「プリンを今度作ってもらえませんか?」
「プリン?」
「はい、どうしても食べたいのです」
「分かりました。今度の放課後にお持ちします」
その後は先生に付き合ってもらって、練習したが、魔法を発動させることはできなった。
次の登校日、葵は一人魔法学校にいた。
どうやら、記憶を無くす前から一人で学校にいたらしく、こそこそと記憶を失った事について、噂されているようだ。
目の前には婚約者であるオスヴィンが、マリーを連れて訪れる。
「ふ、そんな下手な芝居をしても、誰も憐れんでなどくれんだろう?」
「オスヴィン様、言い過ぎですよ」
葵は先生から借りていた魔法の書から目を離す。
「ご心配いただいてありがとうございます。魔法はまだ使えませんが、皆さんに追いつけるよう勉学に励みます」
クラスにいた者たちが、少女の言葉に面食らっている中、オスヴィンは鼻で笑うと、自分の席へと着いた。
「では、魔法陣の授業から開始する」
教室には先生が来て、どうやら、新たな精霊と契約を交わす方法を学んでいるようだ。
基礎的な魔法陣の書き方すら、分からない葵にとっては、話がかなり難しい。
とりあえず、板書された内容を紙に書き込んで、書きとどめておく。
放課後、借りていた魔法の書を手に持ち、職員室に赴くが、先生は第15研究室にいるそうだ。
葵は、第15研究室へと移動する。
研究室につけば、そこには「転移陣サークル」という看板が掲げられており、少女はその扉を開けた。
「すみません」
部屋に入ってみれば、教室内は暗幕が下りており、魔法陣がテーブルの上で光っていた。ピカッと一度点滅すると、
教室内にざわめきが生まれる。
「成功か?」
暗幕があげられ、教室内が明るくなれば、テーブルの上にはペンが置いてある。
「成功だー!」
「先生、誰か入ってきていますよ」
眼鏡をかけた女子に声を掛けられた先生は、小走りに葵の手を取った。
「エルミーヌくん、成功したんだ! 転移陣が!」
「は、はあ」
「まだ、取り出せる空間はこの教室内のものだけど、これから改良を続ければ、もっと別の次元からものを取り出せて、追々は……」
「先生、困ってます」
眼鏡の女子が間に入ってくれて、先生は正気に戻った。
「ああ、ごめんね。ついつい嬉しくて! 今日は何のようだい?」
「あの……。先生のリクエストの物お作りしてきたのですが……」
先生は手をポンと打つと、散らかっているテーブルの上を片付け始めて、スペースを作った。
「プリン、プリン♪」
鼻歌交じりの先生に、眼鏡の女子が首を傾げる。
「先生プリンとは?」
「まあ、まあ。エルミーヌくん。プリンを下さい」
葵はカバンからプリンを2つ出す。
本当は自分の分と先生の分だったが、味見はしてきたので、眼鏡の女子にあげようと思ったのだ。
「それでは、いただきます」
「また、出ましたよ。先生の変な口癖」
「口癖?」
「なんとこの味……。やっぱりだ! エルミーヌくん、僕のうちの家政婦にならないかい? いや、家政婦じゃ失礼だから妻にならないかい?」
葵は首を傾げるが、プリンの感想で流れてしまった。急にプロポーズを受けてしまったのだ。
プリンを食べていた眼鏡少女も、プリンの味にうっとりとしていたにも関わらず、プロポーズの言葉に、咽ている。
「先生、生徒にプロポーズってなんですか?」
「ん。僕は昔、後悔したことがあるから。まあ、冗談だけどね。確信があるわけじゃないし……」
「先生、はしゃぎすぎですよ」
「いやー、転移陣がうまくいったから、テンション上がっちゃって!」
葵はくすっと笑うと、食べ終えたプリンのカップを回収して、研究室を去ろうとした。
「去ろうと、しているところ悪いんだけど、エルミーヌくんはまだサークル入ってなかったよね?」
「サークル?」
「同じクラスだけどサークル入っているって話は聞いておりません」
眼鏡の女子はどうやらあのクラスの中にいたらしい。
「まだどこにも所属していないならば、転移陣サークルに入ってね。この紙に名前を書くだけ! そして、週に一度は差し入れを持ってきて!」
葵はクスクスと笑うと、エルミーヌと名前を書き、先生に提出した。
「先生は私のお菓子が気に入ったのですね」
「本当だよ。私ハイディよろしくね」
こうして、葵は初めてのサークルと友達を得たのであった。
葵は、ハイディとともに行動するようになり、少しずつクラスメイトたちとも触れ合うようになっていった。
「エルミーヌ、笑うようになったよな」
「無表情の時は、怖かったし、いろいろ噂もあったけど……。俺ダンスパーティー誘おうかな」
「所詮、魔法も使えない女だぞ」
オスヴィンは否定的な意見をしつつも、少しずつマリーから気持ちは離れていき、葵の記憶しかない状態のエルミーヌに、興味がで始めるのであった。
オスヴィンは葵の前に立つと、片膝をつく。
「エルミーヌ、此度のダンスパーティー私と踊らないか? 一応、私の婚約者だろう?」
周囲がざわつく中、葵はハイディにダンスパーティーとは何か確認する。
どうやら、魔法使いのほとんどが貴族のため社交性を学ぶために、年1回ダンスパーティーが行われているようだ。そして、男子から意中の女性に誘うのが、定例となっているらしい。
葵は片膝をつく、オスヴィンに耳打ちする。
「私に気を使わなくていいのです。マリーさんと踊ってください。私は当日雰囲気だけ楽しめれば、それでいいのです」
そういうと、葵は教室を出た。呆気にとられたオスヴィンは、膝をついたまま固まっていたのであった。
放課後の研究室では、その話を聞いた先生が、上機嫌で鼻歌を歌いながら、何か魔法陣を書いている。
「エルミーヌもったいないわ。性格は少し横暴な奴だけど、顔だけはいいのに……。婚約者特権で踊ってもらえばよかったのよ」
「んー。私記憶を無くして踊れないし、今から練習しても迷惑かけるだけだろうから、当日は会場の様子を見ているわ」
どうやら、ハイディもダンスのお相手がいるらしい。先生は上機嫌のまま少女に魔法陣を書いた紙を渡す。葵は首を傾げる。
「この魔法陣は新しい精霊と、契約を交わすときに使われるものさ。ここに自分の血を垂らしてみて……」
葵はナイフで指に刃を立て、一滴血を垂らした。
すると、魔法陣から煙が出てきて、教室内は冷気で包まれて、身が凍えるほどの寒さだ。
「汝、我と契約する者か? 面白い魂をしている……。雷帝も、もう一度、契約し直せばいいものを……。女よ。血をもう一滴垂らせ」
言われるがままに、血をたらせば、もう一体精霊が出てきた。
「一つの魔法陣から、2体の精霊が出てくるなんて……。しかも氷帝ヴィルフィルミーラと雷帝アウクスティだと……」
「では、そなたの名を教えろ」
「エルミーヌ・シャレット」
『本当の名は?』
『アオイ』
「フフフ。気に入った雷帝よ。戻るぞ」
精霊2体が去れば、先生もハイディも唖然としていた。
「私、これで魔法が使えるようになったのかしら?」
「ああ、とんでもない高出力な魔法も使えるようになった……」
何やら考えこみ始めた先生をおいて、二人で帰路に着いたのであった。
魔法の書を読み進め、補講も受けながら、少女は気が付けば学園で有名な魔法使いとなっていた。
最高位の2体の精霊を同時に召喚し、従えるのは前代未聞の出来事だったからである。
いつぞやの悪役令嬢の噂も吹っ飛び、孤立から今では引く手数多の存在となっていた。
ダンスパーディーの申し込みが後を絶たず、すべて断っていた。
ダンスパーティー当日も、葵は一人で、楽しく踊る人々を飲み物を片手に、見物していた。
1回目のダンスが終わると、様々な男から声を掛けられはじめ、葵は一人、庭園へと避難してきた。
そこへ、オスヴィンが一人でやってくる。
「婚約は解消した。聞いているだろう?」
「はい、父から聞きました。マリーさんは?」
「ほかの男と踊っている」
口に手をあてて驚くが、オスヴィンは首を横に振った。
「マリーは、私を手に入れたから、もう用はないそうだ」
「なんで?」
「公爵家の人間たちに、陰でどうやら私の悪口を言っていたらしい。今では私も前のお前と同じ状態だ」
どうやら、マリーは男を落とすゲーム感覚で、オスヴィンに近づいたらしい。
「それは、お気の毒に……」
「エルミーヌ。私の元に戻ってきてほしい。私の魔法の属性は知っての通り水だ。お前の魔法を強化できるだろう? 魔法の相性もいい……」
「しかし、オスヴィン様、私たちは婚約を解消したのでしょう?」
「父に頼めば、また婚約などできる」
歩み寄るオスヴィンに対して、葵は後ずさりをする。他の女がだめだからと自分を求められているのが、嫌だったからだ。
そこへ先生が駆けつける。
「オスヴィン君。女性を誘うならもっとスマートに誘わなきゃダメでしょ」
葵の肩を支える。オスヴィンは激怒して、先生を押し倒した。その時にフードが外れる。
異国の色の髪や顔立ちをもつ青年がそこにはいた。
「カステル家の養子が僕に立てつく気か?」
「養子だけど、僕の方が、力が上なことを分かっているよね?」
オスヴィンと違い、先生の契約している精霊は、水帝である。
魔法を発動しようとしていたオスヴィンは、舌打ちをすると、その場を後にした。
「大丈夫かい? エルミーヌくん?」
尻をついたままの先生に言われ、思わず笑ってしまったが、先生に手を伸ばす。
「先生こそ、大丈夫?」
「ああ」
先生が立ち上がり、二人で笑いあっていると、突然先生が葵を自分の胸へと引き寄せた。
「お前、子豚だろう?」
葵の髪に口づけし、呟いた。
「こぶた?」
葵が聞き返せば、青年は何でもないと夜の庭園を去っていった。
残された葵は緊張から解放され、地べたに座り込んだ。
「るい?」
この少女として意識が戻る前に、最後にそばにいた少年の名前が、思わず出た。
それから、葵は放課後にサークルに立ち寄らなくなった。放課後は家に帰り、貴族としての作法を学んでいたのだ。
婚約者は空白のまま月日が過ぎる。
ある休日、家に来訪者が来た。
「こんにちは」
使用人によって部屋に通されたのは、先生だ。
「すまない。休日に押しかけて……。最近サークルに顔を出さなくなって、心配になってな」
「いえ、記憶を失っているので、貴族の礼儀作法を一から学んでいたのです。ハイディには言っていたんですが……」
「あいつ……」
先生が右を向いたため、左の首元が見えた。葵に見覚えのある黒子がそこにあった。
葵は先生の顔をじっと見る。成長してはいるが、面影が残っている。そして、涙を目にためながら、頬から首筋に手をなぞる。
琉生の黒子は左の口元に一か所、そして同じく首の左側に一か所あるのだ。
先生はそのなぞる手を握りしめる。
「俺の名前はルイ。エルミーヌこの名前は憶えている?」
「ええ。琉生くん。葵っていう名前に心当たりはある?」
「ああ」
二人は再会の喜びに抱き合うと、部屋の扉が開くと、父が顔を出す。二人はパッと離れると、父がニヤニヤしながら話しかけてくる。
「エルミーヌ。君も知っていると思うが、ルイ・カステル君だ。カステル卿より打診があってな……。今日から君の婚約者だ」
「へ?」
父の突然の言葉に、葵は目を丸くする。その様子を見て父は笑う。
「カステル卿の話では、どうしてもと息子が初めて求めたものが、君だったそうだぞ?」
「シャレット公爵それは……」
先生は顔を真っ赤にさせている。
父が部屋から出れば、部屋に二人きりとなった。
「琉生くん。これは……」
「君のプリンを食べてから、どうしても気になって、ただ、葵と話したかっただけなのに、父がその……。勘違いして先走ってしまったんだ」
「琉生くんが婚約者とか……。ていうか、琉生くんはなんで見た目が変わってないの? 大人になっているみたいだけど」
「それはこっちのセリフ。外人みたいな見た目になりやがって……。来ているなら来ているって早く言えよ。転移陣の研究にどのくらいの時間を使ったと思っているんだ?」
「へ?」
ルイは葵を抱きしめる。大人になったルイに、がっちりと抱きしめられたせいか、葵の心臓の脈は速い。
「葵、そばにいるって言った癖に嘘つき。俺ずっと一人ぼっちだった」
葵はルイの頭に手を伸ばして、トントンと撫でてあげる。
「ごめんね」
二人で涙を流し合う。
「んっ……」
葵は急に頭痛がして、生まれてから魔法を受けるまでの記憶が一気にフラッシュバックしてきた。
「大丈夫か? 葵?」
「ルイ先生……」
「葵?」
葵が頭を抱えて、ルイの肩を強く掴む。
「大丈夫……。今までの記憶が戻っただけ。どうやら、15年間の記憶を忘れていたみたい」
「そっか。俺は生きてこっちに来たけど、葵は……」
「そう、一度たぶんあの時に死んでいるんだと思う」
悲しく微笑むと、ルイから離れ、背を向けた。
「私はただ葵の記憶を持つだけで、別人なのよ。琉生。あなたとは違うの」
「何を言っているんだ?」
「婚約の件は、私がお父様にお断りのお話をしておくから……」
後ろからルイに抱きつかれた。
「それでもいい。俺はまたお前に……。いや、お前の作ったプリンを食べるために、何年も転移陣の研究してきたんだぜ?」
「プリンのために?」
「ああ、変な話か?」
「そこは私に会うためとかのほうが嬉しかったよ。琉生くん」
すると、背後から葵の顎に手が伸び、葵の顔が後ろに向けられる。
「いつまでも、くん付けはないだろ? 今は俺のほうが年上」
ルイは優しく葵の唇を優しく包み込む。
「る、琉生くん?」
「くん付け直すまでやめない」
ルイは何度も口づけをすると、葵は必死に身を離した。
「琉生、分かったから」
「もう、しょうがないな」
ルイは葵の顎から手を離すと、葵の首元に抱き着く。
「葵がそばにいると思うと、安心するな」
「私は安心できない。心臓がバクバクいう」
琉生はクスクスと笑う。
「なあ、葵。今度こそずっとそばにいて、また飯作ってよ。野菜抜きで……」
「琉生はまだお野菜食べられないの? そんな大きくなって!」
葵もクスクスと笑いだす。
「しょうがないな。毎日野菜入りのハンバーグ作ってあげる」
「やめろって……」
「プリンつけてあげるから……」
「だから、いつまでも子供じゃないんだよ」
葵の体の正面に琉生は動くと、またキスをした。
「もう、大人です」
「キー!」
これは決して恋ではない。運命によって結ばれた二人のお話。