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Piano

作者: 一色春

 やまないと思っていた涙は駅に着くころには止んでいた。赤い傘を閉じて駅の構内に入る。緑色の制服のスカートの裾が雨で濡れている。

私と毎日一緒に寝ていたあの子はもういないの。私と毎日一緒にいたのに。寒い日も暑い日も、雨の日も晴れの日もいつも一緒だったのに。これからは私、一人ぼっちなのね。今日からは。寒い日も暑い日も、雨が降る日も降り止んでもいつも一緒にいたのに。それにどれだけ救われたことか。

 白と黒のモノクロのその箱から弾き出される旋律は、生命に満ち溢れた緑々(あおあお)とした色だった。朝の改札には似合わない黒のドレス。白く細い指からは想像できない力強い旋律が駅の構内に響き渡っていた。

 紺や黒のスーツを身にまとったサラリーマンは、見向きもせず足を止めない。あの人も、そこの人もみんな同じ顔でマトリョシカみたいに。駅の白い余白は紺色や黒で塗りつぶされていく。

力強いその旋律は改札の音にかき消され雑踏に踏み消された。無機質な足音はその旋律をかき消していることに気づかないのか、だれもレモンの匂いに気づかない。だって、黄色いレモンに紺色は似合わないから。

 朝は真っ赤なクランベリーの入ったシリアルで済ました。パンケーキなんか、こんな日は食べたくない。そういえば、涙は血液から赤い成分が抜けたものって聞いたことがある。本当かどうか知らないし、それが本当かどうか考えたことなんてなかったけど。何の話をしていたっけ。なんかどうでもいいことばっかり考えていて頭が日常に追いつかない。

 飼っていた猫が死んでしまった。

 毎日から欠けた一部は私にとっては大きな一部なのかな

 どんなに偉大な音楽であっても世界を変えることができない。どんなに素晴らしい音楽であっても人の一生を、一日を変えることさえもできないのかもしれない。都会の色に濁る足音を浄化する音色はこの世界にはまだ見えない。

相変わらず紺色のスーツを着た足音は止まることがない。そんな中で緑色の制服だけが足音を止めた。

 駅に着くと涙が止まっていることに気が付いた。よかった。電車の中でまで泣いていたらどうしようかと考えていたから。

 ピアノの音が聞こえた。改札に向かう途中でピアノを弾く女性がいた。その女性のピアノの音を聴いた。誰も興味がないその旋律はきれいな曲だった。私以外の誰一人としてまるで聞こえていないように、通り過ぎていく。

聴いている間また泣いていた。

 立ち止まった緑色の制服は、紺の足音なんてまるで見えていないみたいで、欠けた心の一部を補うように、透明な血を流してじっくりとピアノの音色に耳を傾けていた。

 4分16秒の間に足を止めることができたのは彼女ひとりだけだった。

 紺色の足音は一つとして止まることがなかった。緑の制服だっていつまでも止まっていられない。日常は欠けた心を待ってはくれない。止まることのないメリーゴーラウンドの中で、彼女は立ち止まることでまた歩き出すことができた。どこにも行けないことなんてない。彼女はこれからどこまでも行くことができる。

 気が付いたら改札を抜けホームで電車を待っていた。さっきまでピアノから流れていたあの音楽を聴きたくてイヤホンをしようとしたけどやめた。今はもう大丈夫。今はまだ大丈夫。

私は少し。

私は少しだけ大人に近づいた。

雨が降りやむまでは、と思っていた。なのに雨が降っていても前へ進めると気が付いた。

前へ進め前へ進めと私の中で響いた。


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