深川の雪
檸檬絵郎様主催の、「アートの借景」企画への参加作品になります。
染吉はえんじ色の小袖に着替え、毘沙門亀甲模様の帯をまくと、蒔絵のついた手鏡を持ち、真剣に己の顔と向き合った。
二十歳の細面の女が、鏡の中から見返してくる。
白粉をたっぷり顔や首に塗り込み、注意深く眉墨を塗り、頬と眉尻にうっすらと紅をつける。
下唇にだけ、今年流行の笹色紅をさす。
仕上げに鼈甲のかんざしを互い違いに二本つけ、首を回して流し目で位置を確認する。
ようやく化粧が終わると、染吉は羽織をひっかけて着物の裾をはらい、廊下へと出た。
遊郭の廊下は片側が吹きさらしで、こういう寒い日には足裏から冷えが伝わってくる。
雪は昨晩から細く長く降り続き、中庭の大きな松の枝にもどっさりと雪が積もっていた。
実は、先ほど湯屋から帰るのも一苦労だった。
下駄もよく滑り、染吉の足指は湯屋帰りだというのに氷のように凍てついてしまった。
だが、どんな寒いときでさえ、素足で過ごすのが深川芸者の心意気だ。
染吉は廊下の冷たさに負けじと、早足で歩き始めた。
どこかから、かすかに三味線の音色が聞こえた。
遊郭の誰かが練習しているのだろう。
「ぶちを捕まえてよう、染姐さん!」
突然、子供の甲高い声で三味線がかき消された。
染吉の足の周りに、いつの間にか赤い首輪をつけた白黒の猫がぐるぐるとまとわりついていた。
遊郭の女将が飼っている猫だ。
板の廊下を、五、六歳の男の子がバタバタと走ってくる。
女将の息子の武丸だ。
染吉はまつわりつくぶちの頭を軽く撫でてやり、胴を捕まえると、持ち上げて武丸に渡した。
ありがとう、と子供は赤いほおを緩ませてたどたどしく礼を言う。
だが、ぶちは不服だったらしく、小さな腕からもがき出すと廊下を反対方向へ走っていった。
武丸は再び叫び声をあげ、ぶちを追って行ってしまった。
染吉が笑いをこらえて見守っていると、向かいの大部屋の襖が開いた。
黄蘗色の着物を身につけた遊女の顔が覗く。
「お染ちゃん、もう湯屋から帰ったの?」
大部屋の中で遊女たちが数人輪になって、火鉢を囲んでいた。
火鉢の上に置かれた鉄瓶が、しゅうしゅうと小気味好い音を立てている。
「今日は冷えるわねえ」
「あんたも、火鉢に当たんなさいよ」
遊女たちから次々にかかる言葉を、染吉はやんわりと断った。
こちらも三味線の稽古をしておこうと思ったからだ。
早足で大部屋から歩き去り、彼女は二階の隅にある小部屋の障子を開けた。
埃臭い臭いが漂う。
使っていない布団や建具、三味線や琴などが雑然と置かれている部屋だ。
誰もいないようだが、部屋の中央の火鉢にはきちんと炭が置かれていて、廊下より多少は暖かい。
と、後ろから、チチ、という小さな鳴き声が聞こえた。
見ると廊下の欄干に雀が二羽、縮こまってまあるくなっている。
雀も寒かろうと哀れに思い、染吉は思わず手を伸ばした。
染吉の手に驚いたのか、雀は再びチチ、と鳴いて飛び立った。
追うように外に差し出した染吉の腕に、白く小さな雪が落ちてきてはふわりと消えた。
そのときだ。
へへへ、と物置の隅から薄気味の悪い笑い声がした。
一人だと思っていた染吉は、ぎょっとして振り返り、部屋の隅を凝視した。
建具に挟まれた部屋の隅の暗がりで、女物のかい巻きを重ねた老人が、座って焼筆を取っていた。
「いつからそこにいたんだい?
脅かすんじゃないよ、旦那」
文句を言ってもこたえる様子もなく、彼はへへへと笑い続けた。
彼は絵描きでもあり、店の馴染み客である。
だが、まだ昼過ぎで店は開けていない。
なぜ彼がここにいるのかといえば、数日前、家の前に役人が張っているので帰れないと転がり込んできたからである。
それから幾日経っても、彼は出て行く気配を見せない。
皺だらけの顔に満面の笑みをたたえて、彼は染吉を見つめていた。
筋張った手は、半紙の上の筆を動かすのに忙しそうだ。
「人の顔を見てそんなに笑うんじゃないよ。
気味が悪いったらありゃしない」
染吉はつっけんどんに言い、部屋の中央に置かれていた小さい火鉢に手をかざした。
昼間とはいえ、この雪のちらつく天気で物置部屋の隅はかなり暗い。
よくそんな暗がりで絵が描けるものだと思うが、彼にはきちんと見えているらしい。
老人の手招きに応じて部屋に入ると、座らせた途端に、彼は半紙を取り替え、染吉をじっと見ながら再び新しい下絵を描き始めた。
これは長くかかりそうだ、と染吉は思った。
彼が筆を取れば最後、下絵が終わるまで離してもらえないのはいつものことだ。
「障子を閉めようか」
「いや、開けたままでいい。この光がいいんだ」
「勝手におし」
絵描きがにやにやと笑いながら、しわがれた声で言った。
「優しくしとくれよ、染吉。
うんと美人に描いてやるからさあ」
さらさらと走る筆の音を聞きながら、染吉はふんと鼻を鳴らした。
美人絵では有名だが、浮いた噂ばかり聞く爺様である。
しかも昔からの馴染み客なので、ついつい染吉のあたりも強くなる。
染吉がこの深川に来た頃から、この旦那はすでに、ともすれば他人の閨さえ覗きかねない図々しさであちこちの遊郭に出入りする絵師だった。
こちらも遠慮はいらないというわけだ。
「美人絵ばかり描いてるから、家にお役人が来るんだよ。
版元の蔦屋さんも、風紀を乱した罪で処罰されたじゃないか」
蔦屋は美人画の浮世絵で儲けていたが、取り締まりが酷くなり、数年前とうとう処分を受けた。
蔦屋の依頼をよく受けていたこの絵師も、当然お上から睨まれている。
しかし、この男は無頓着だ。
相変わらず遊郭に出入りしては、どこかから依頼された美人画の下絵を描いている。
ふむ、と生返事をして筆を忙しく動かす男に、染吉は眉をひそめた。
この旦那は絵を描くことしか考えていないらしい。
その結果がどんなことになるか、わからないわけではあるまいに。
「……旦那も危ないよ。
いっそ、お寺の襖絵でも描いたらどうなのさ。
それならお役人も文句は言わないよ」
「寺の襖に女を描いたら、坊主から文句が出るだろうよ」
俺ぁ女を描きてえんだ、と絵師は笑った。
「お上のご改革も困ったもんだ。
贅沢三昧の自分たちを棚に上げて、庶民に質素倹約を押し付けるばかりじゃ、景気もよくなりゃしねえよ。
おまけに今度は美人画を取り締るなんぞ、馬鹿なことを言い出したもんさ。
それに、危ねえのはおめえさんたちもだろう?」
確かにそうだ、と染吉はため息をついた。
お上のご改革でおとがめを受けるのは、何も彼ら絵師に限った話ではない。
「嫌な世の中になっちまったもんさね。
質素倹約と風紀の取締りのおかげで、あたしたちもおまんまの食い上げだよ。
このお店もね、近々閉めようって話が出てるんだよ。
開けけても儲からないんだから」
筆の音は淀みなく続いている。
染吉は、不意にもの寂しくなった。
お店がなくなるかもしれないという一大事を打ち明けたというのに、この男は素知らぬような顔をして筆を動かしている。
何年通っていたとしても、結局、深川の一遊郭だ。
この男にとっては宿が一つ消える程度にしか思っていないのだろう。
染吉は、退屈をしのぎがてら半身になって後ろを見た。
雪がやんでいる。
分厚い灰色の雪雲の隙間から、陽も差してきていた。
染吉は知らず知らずのうちに言った。
「雪も、明日には溶けちまうね」
「そうだろうよ」
「儚いねえ。雪も、この深川もさ」
「いいや、そうは思わねえ」
染吉は絵師の言葉の意味を計りかね、首を傾げた。
そんな彼女の心の声に答えるように、彼は下を向いたまま震えるような声で語り始めた。
「俺ぁ、随分前から『雪』を描きてえと思っていた。
『月』と『花』はもう出来てる。あとは雪だけだ。
『雪月花』ってえやつだよ」
「女ばかり描いている旦那にしちゃあ、風流なことを考えついたもんさね」
「風流じゃねえと、女は描けねえ」
染吉のなじるような言葉に、老人は夢見心地のような声で返した。
「最初に描いたのは月だった。もう十年以上も前だ。
品川の有名な遊郭でな、羽振りの良い商人の狂歌仲間に付きあって遊んだんだ。
まあるい月が空に昇って、海に映っていてよう。
綺麗だったが、なんとまあ、妖しいものだとつくづく思った。
そのときにな、気づいたんだ。
女も月も一緒だと。
美しいものは妖しくなくちゃあいかん。
だから、描きがいがあるってもんだとな。
それを一緒に飲んでいた旦那に言ったら、ぜひ『雪月花』を三部作で描いてくれと頼まれた」
いつとは頼まれなかったから『雪』は随分待たせちまってるがな、と悪びれもなく言う絵師を見て、染吉は少々呆れた。
人気絵師とはいえ、大店の旦那を十年も待たせるとは。
待っている方も待っている方で、気の長いお方には違いないが。
染吉の呆れ顔に気づいたらしく、絵師は弁解するように続けた。
「花だって、すぐに描けた。
花見に行く吉原の花魁道中を見たとき、これだと思った。
世の中、あんなに桜が似合う華やかなものはねえ」
染吉は少々気を悪くして、口をへの字に曲げた。
深川で吉原の話を持ち出すなど、気遣いのかけらもない男だ。
あちらはお上公認、こちらは所詮私設の岡場所である。
「そんならとっとと、高慢ちきな吉原の花魁のところへ行っちまいな。
あそこは、お上のご改革だって関係ないんだろうからさ」
老人はまたへへへ、と笑った。
「俺はもう爺さんだからな。
若い頃は遊んだもんだが、あそこはもう、俺には眩しすぎらあ」
「また、そんなこと言って」
町に出れば、彼が吉原の花魁を何人も描いているのくらい、すぐに分かる。
染吉はまだ機嫌を悪くしたままだったが、絵師は真面目な顔をして続けた。
「だが『雪』だけがなかなか描けねえ。
冬になったら描こうと思っちゃ、何度も筆をとったが、どうもうまくねえんで捨てちまったよ。
華やかな女と、白い雪は相性が合わねえんだ。
雪を主に描けばどこか寂しい。
女を主に描けば華やかすぎる。
三部作は、描けねえかもしれねえ。
今の今まで、そう思ってたさ」
と、彼の顔に、また満面の笑みが戻ってきた。
「それがなぁ、染吉。
今、『雪』がはっきりと見えたんだ。
この深川もご改革以来、ばたばた店が潰れて随分寒々しくなった。
だがなぁ、染吉、お前は凛としたままだ。
真冬だってえのに裸足で歩くし、ご禁制だと知っているのに鼈甲の櫛で髪を飾る。
俺が描きてえのは雪の白さでも、儚さでもなかったんだ。
その冷たさと佇まいで、見る者の背がしゃきっと伸びる。
そんな絵が、今なら描けるかもしれねえ」
静かに言う老人の手は、よどむことなく動いている。
染吉は、不思議なものを見てしまったような気がして、目をまたたかせた。
この絵師の爺さんは、ここ何年も見てきた馴染みの客だ。
どうしようもない好色爺いでもあり、美人画を描かせれば当代きっての絵師でもある。
だが染吉は今初めて、この男の描く美人画の奥にある、美しさよりももっと崇高な何かを垣間見た気がした。
しばらくして、老人が筆を置いた。
雀を追うように手を伸ばした染吉の姿が、単純な、迷いのない線で描かれている。
「俺ぁ、しばらく江戸から出るぜ」
老人が、出し抜けに切り出した。
「しばらくって、どれくらいだい?」
「……しばらく、としか言えねえなぁ。
とびっきり贅沢なご禁制の美人画だ、役人がうろうろしている江戸じゃあ描きにくい。
日光にお参りがてら、狂歌仲間の旦那の家で『雪』を描いてくらぁ。
完成させるまで、帰ってこれねえな」
「……そうかい」
どうして、そこまでしてご禁制の美人画を描くのか。
染吉は聞かなかった。聞かなくても、わかった気がした。
きっと同じなのだ。
深川の女たちが、どんな寒い日でも絶対に足袋を履かないことと。
染吉は思わず膝をつめ、頼むように言った。
「忘れないでおくれよ、旦那。
あたしたちのことを、深川のことを。
もしあんたが戻ってきて、このお店が無くなっていたとしても、忘れないでおくれよ」
へへへ、と絵師がまた気味の悪い笑いを漏らした。
「なあに、俺が描くさ。
染吉のことも、皆のことも、一度見たら忘れられないような立派なものを描いてやる」
「うんと粋に描いとくれ。
品川の田舎娘や、吉原のすました花魁行列より、大きい絵にしておくれよ!」
老人はふと空中に目線を漂わせ、考えこむように言った。
「そりゃ、どうだろう。
他の絵よりも大きいとなると、とんでもねえ大きさになっちまうなあ……」
染吉は、きっと目を釣り上げた。
「ふん、旦那なんか、さっさとお縄にかかっちまいな!」
わかった、わかったと、絵師は苦笑いをして頭をかいた。
「つくづく、雪みてえに冷てえ女だなあ」
その後。
喜多川歌麿が栃木の豪商の元で描いた『深川の雪』は、縦2メートル、横3.5メートルと、先に製作された『品川の月』『吉原の花』よりもさらに大きいものだった。
巨大な画面いっぱいに、在りし日の深川の辰巳芸者や遊女達が生き生きと描かれたさまは、歌麿の最大にして最高傑作の肉筆画である。
そして『深川の雪』は今もなお、粋でいなせな深川の様子を後世に伝え続けている。
出典 喜多川歌麿『深川の雪』(所蔵:日本・岡田美術館)
『品川の月』(所蔵:米国・フリーア美術館)
『吉原の花』(所蔵:米国・ワズワース・アセーニアム美術館)