黒髪の姫君――姫様を助けてくれるなら誰でもいい――
この険しい山道を姫様に走らせなければいけないとかお労しすぎる。
大体にしてこの革命自体がおかしいんだ。
年端のいかない姫様まで手に掛けようとは藤の家は何を考えているんだ?
この国の繁栄は白の一族なくてはあり得ないことだというのに。
「姫様? もうしばらくの辛抱です」
真っ黒な髪を汗で額に貼り付け苦しそうに肩で息をする齢僅か十ばかりの少女の姿は哀れとしか言い表せない。
お助けしたときに家族との絆だと持ち出された鈴を大事そうに握り締め、真っ直ぐに前を見据えて歩き、紫水晶の澄んだ瞳に迷いはなにも見えない彼女はこの国の姫なのだと実感する。
「私は大丈夫です。鬼灯もその怪我……」
こんな俺に気遣いなど無用というのに、姫様は……
「ここを抜ければ追っ手からは逃れられます。さあ」
平穏だったこのヒノモトの国になんの不満を持ったのか革命と名ばかりの謀反が起き、王は処刑された。
この国を我が物顔で荒らしたと、根拠のない話を持ち上げ、王のご家族である白の一族にまでその凶刃は向かい、俺はこの末の姫様だけしかお助けすることが出来なかった。
どんなに悔やんでも悔やみきれない。
なにが宮廷棋士だ!
王をお助けするどころか、姫様にこんな道とも言えぬ道を走らせて……
この革命に俺の一族も一枚噛んでいるらしい。
馬鹿じゃないのか? 白の一族には大恩があっても恨みなどないはずなのに。
今は亡き前当主の爺様が口を酸っぱくして話しておられた事なのに。
俺は恩を仇で返す我が一族が恥ずかしい。
許せないが、百歩譲って王を断罪するのは致し方ないとしても白の一族を皆殺しにしようとはどういう了見なんだ?
それこそ俺には理解が出来ない。
力不足の為、苦行にも近い逃避行をさせてしまっている俺に姫様は笑いかけてくれるんだ。
辛いであろうにこんな俺にまで情けを掛けてくださるお優しい方をどうして……
姫様をお助けしてからどのくらいの月日が過ぎたのだろうか?
子供だったそのお姿はすっかり娘らしくなり、麓の村に降りれば若者達の視線を集めるようになられた。
それもそのはずだ。
幼き頃から美しくうねりのない真っ直ぐな黒髪はその艶やかさを増し、山の中で隠れるように暮らしているにも関わらず、白くなめらかな肌は宮中のどの女御にも負けまい。
紫水晶の大きな瞳は今も昔もなんの迷いもなく常に澄んでいる。
この山の中での生活に親しまれている姿を見ると、姫であったことなどご自身が忘れているのではないだろうかと心配になるが、忘れ去ってしまった方がいいのかもしれないと思うこともあるんだ。
生き抜くためにと指南した剣術もご自身を守る確かな術となっているし、このままお忍びでの生活を続けさせるのもいかがなものだろうか?
都に戻ることは出来なくてもどこかの若者と幸せになる事を考えてもいいのではないかと頭を過ぎる。
姫様を追う手の者が全くないということも女としての幸せを願う要因の一つになっていた。
白の一族の生き残りとしてこの国を治めて頂きたいとの思いもあるが、その過程にある危険に姫様を巻き込みたくない。
俺は一体どうしたいんだろうな……
この数年穏やかな時間が過ぎていた。
夕食を終え夜の帳もすっかり下りきった頃、掘っ立て小屋ともいえる家の外に嫌な気配が漂う。
山の中での生活だ。獣がこの家を囲むこともあったが、それとは明らかに違う。
気配の中に悪意が混じっている。
姫様も感じ取っているのか、いつもの穏やかな表情が険しい。
――油断していた。
俺は穏やかなこの月日の中に姫様である事をすっかり失念していたのではないだろうか?
家を囲まれている事がその証だ。
なんとしても姫様を守らなくては!
刀を後ろ手に出入り口を開ける。
黒装束の男達が松明を手に
「ここに白の姫君が匿われていると聞いた。件の者はこの国を荒らす悪しき者だ」
なにが国を荒らすだ。
国を荒らしているのは革命を扇動した藤の家であろうに。
革命前と革命後、民の生活なにが変わったというのだ。
変わったのは貴族院と言われる五つの家が国を治め、貴族達の権威が増したということくらいじゃないか。
「白の姫君ですか? それは革命の日に死んだのではないのですか?」
姫様は、王族だった白の一族は革命によって処刑されたということになっていたはずだ。
年端のいかない子供まで手に掛けたと一時期革命に対する避難を向けられていたはずだ。
俺が助けられたのは姫様だけだった。
助けられるなら白の方達を助けたかった。
「惚けるな。ここに白の姫君がいることは明らかなんだ」
今までなんの音沙汰もなかったくせにどうして今更……だからといって姫様を渡すわけもない。
裏から逃げられるようにここで気を惹かなくては……
「惚けるもなにも、何のことをおっしゃっているのかわかりません、ね」
目の前にいる男を斬り伏せ、家の周りを囲む連中をこちらに引き寄せる為に火球を爆ぜさせる。
山火事にならぬよう音だけは立派な爆発……上手くいった。
何人いるんだ? 向かってくる黒装束の数に驚かずにはいられないが、姫様を守るために何人でも斬り伏せるだけ。
横から斬り掛かってくる奴を払い斬り、正面から向かってくる男を袈裟懸けに、背後の男には刀を突き刺す。
真上からって、屋根の上にもいたのか。
この場所が見つかった以上ここで暮らすことはもうない。
家に火を放ち、屋根の上にいる黒装束をから一掃する。
向こうから鍔競り合う音が聞こえる。
姫様が見つかった?
俺は敵の足止めも出来ないのか、情けない。
このまま姫様を一人にする意味もなく、俺は助けに向かう。
こんな手の届くような距離で姫様に追っ手がつくとは……本当に俺は平和ボケしていた。
姫様は束ねている黒髪を揺らし、鈴の音を囃子に刀を振るう姿は舞のようだ。
周りに飛び散る血飛沫さえ彼女を彩り、生死のやりとりをしていることさえ忘れてしまいそうだ。
「姫様!」
俺の呼びかけに姫様はこちらに視線を向け、斬り掛かってくる黒装束を凍らせた。
「鬼灯、無事でよかった」
こんな俺になんともったいない言葉だろうか。
姫様の棋士として役に立っていないこの状況において俺の心配をしてくれるとは本当にお優しい方だ。
「もうここには居られません。姫様には苦労をかけて」
飛んでくる氷を炎で解かす。
「申し訳ありませんが、ご辛抱の程をお願いします」
姫様はなんでもないと微笑まれこの俺をねぎらってくださる。
「さあ、その白の姫をこちらに」
誰がおまえらの言葉を聞くか。
俺の仕えるべき方は今はもう姫様だけ。
火球を投げ返事とし、この包囲網を抜けるために走り出し、立ち塞がる敵を斬り倒して、魔術により足止めする。
姫様の刀捌きは見事なもので敵の追随を許さない。
本当に俺が姫様に指南したのだろうか?
ここまでの使い手になっているとは思わなかった。
敵の太刀が命を奪おうと向かってくるなか、姫様は決して弱音を涙を見せる素振りすらない。
女らしくなったとはいえまだ少女ともいえるご年齢であり、大人の庇護の元に暮らしていたっておかしくないご年齢だ。
こんな命のやりとりをする必要などないはずであったお立場であるのに……革命などなければ宮の奥で大切にされていたはず。
「姫様!?」
姫様の攻撃を潜り抜け、捕らえる者がいた。
なんと無礼な奴だ!
姫様に手を触れるなど……
俺は姫様に気を取られていた。
背中を走る鋭い痛みに膝をつく。
「鬼灯!」
姫様の悲鳴とも取れる呼びかけが聞こえるも、次々に斬り付けられる痛みに動きを制限される。
ダメだ。今ここで俺が倒れてしまえば姫様が無事では済まない!
立て! 俺は姫様を守らなくては! こんなところで尽きいいはずがない!
吐き出した血に比例するように寒気が襲う。
寒い……
斬り付けられた箇所の痛みは麻痺したのかもう何も感じない。
その変わりにもの凄く寒い。
寒さなんて気にしている場合か? 今は姫様をここから逃し、生きて貰わなくては!
誰でもいい。
今この状況を打破する力を、手を貸してはくれないだろうか?
ここに居るのは敵ばかり……
「助けてやろうか?」
誰だ? 姫様を助けてくれるなら誰でもいい。
「悪魔でも?」
悪魔? そんなものが実在するならそれでも構わない。
姫様さえ生きてくれたら……俺はどうなろうとも、姫様を守らなくてはいけないんだ。
国への、今は亡き王への忠誠だけではない。
姫様だから生きて欲しいんだ。
この国など、どうでもいい。
「この娘が生きればいいんだな?」
そうだ。今この場を逃げ切り、未来を生きて欲しい。
「わかった。あたしは色欲の悪魔」
目の前が霞む。
「お前の願い聞き届けよう。おまえの魂はこれであたしのものだ」
悪魔の声を信じてもいいのだろうか?
今姫様の首を落とそうとしていた男の首が消えた。
目が霞むせいで首が消えたように見えたのだろうか?
男はそのまま倒れ、姫様を拘束する男の首も消え、力なく崩れる。
誰もが呆然とする中、悪魔の声だけが姫様に語りかける。
「その男がお前の生を願った」
姫様が俯いていた顔を上げる。
「鬼灯が……?」
姫様の視線は悪魔を探して彷徨い、悪魔の声は心底楽しそうだ。
「鬼灯を助けて」
姫様、なんともったいない言葉を……
「無理だな。死んだ者は生き返らない」
姫様は俯き刀を握り締め、斬り払うも虚空をなぞるだけだ。
「こいつの願いはおまえの生だ。おまえはどうしたい?」
姫様を助けてくれるのではなかったのか?
約束が違う!
「……鬼灯も願ってくれた」
俺の為に泣いてくださるのか?
「私は死にたくない。姫として産まれたそれだけでどうして殺されなくてはいけないの?」
姫様は顔を上げ、紫水晶の澄んだ瞳に迷いはなにも見えない。
「不死を願うか?」
姫様の声が遠のいてく。
「違う! この世に生を受けた誇りを胸に、精一杯生きた己の選択の先に死があるなら受け入れる」
姫様に斬り掛かろうと、命を狙い魔術を向ける者は悪魔に首を消される。
「では、復讐か?」
悪魔の声に戸惑いが混じる。
「違う。そもそも悪魔に請う願いなどない。私の生は鬼灯が願った。復讐など誰が望むか。悪魔などに用はない」
姫様はお強い。
悪魔の誘惑に縋るしかなかった俺とは比べものにならない位お強い方だ。
「じゃあ、あたしはどうしたらいいんだよ? あははっ、ムカつくな……」
悪魔の声まで遠くなって、なにを話しているんだ?
「あたしは色欲の悪魔アシュメダイ。悪魔を必要としないおまえに呪いを授けよう」
姫様を呪うなど、ふざけるな!
姫様の体が光に包まれ、どうすることも出来ない俺は見ているしか出来ない。
「おまえの生を願ったこの男の思い以上におまえが愛し、愛されるそのときまでその体はあたしのものだ」
光が止み、姫様の美しかった黒髪は真っ白に……それが俺の見た姫様の最後の姿だ。