その1(全3回) 敵は100万の大軍だ
「卒を分かちて之に従い、之に寡を示す。」
(軍隊の一部をわけて敵に対抗することで、兵力が少ないように見せかける。)
『孫臏兵法』「擒龐涓」篇より
シン帝国の北部は「北部辺境地域」と呼ばれているが、帝国でも有数の穀倉地帯だ。
春には大麦の若葉が緑の絨毯のように広がり、収穫の秋には一面が黄金色に染まる。
そして、今は冬――。
見わたすかぎりの平原は、うっすらと雪化粧だ。寒冷で低湿な高気圧の影響で、降雪量は少ない。
からっ風が吹きわたり、雪煙が舞いあがる。
まばらに見える農家からは暖炉の煙がたちのぼり、昼間から静寂が支配する……。
はずだったが、平原には真っ赤な軍旗があたり一面にいくつもはためいている。そこは今や、連邦軍の一大野営地となっていた。
とどろく砲声に銃声、将兵らの喚声、軍馬の嘶き。とにかく騒がしい。
連邦は、正式名称を「ハン連邦」と言い、シン帝国の西に位置する大国だ。
「基本的人権をないがしろにしている封建主義国家――シン帝国を討伐して人民を解放し、自由で平等で友愛に満ちた世界をつくりあげる」
そんな大義名分を掲げ、シン帝国に遠征してきた。「世界革命」を標榜するハン連邦の勝手な言い分だ。
「総兵力100万の大軍である」
連邦軍は、そう号している。
「実際のところは、70万人前後といったところでしょうな--」
そう言ったのは、ヤマキ・ロクザだ。帝国軍の中将で、北部辺境守備軍の副司令官の任にある。戦闘経験の豊富な老将で、年齢の割に体格もがっちりとしており、猛将として有名だった。
北部の要衝でもある城塞都市・エンガルの城壁の上に立ち、遠く連邦軍の野営地を見下ろしている。
「――それに大軍を維持するため、補給部隊の人数も多くなっているはずです。それを考えますと、戦闘部隊の兵数はもっと少なくなるでしょう」
「目の前にいる連邦軍の戦力は、連邦が豪語するほとではないわけか。--まあ、それでも大軍であることには変わりないけどね」
ヤマキ中将の隣に立つ長身の青年がおだやかに言った。端正な顔つきで、スマートに軍服を着こなしている。
しばらく籠城戦を戦っているので軍服は汚れていたが、それでも気品にあふれていた。名をアシノハラ・フミトと言い、シン帝国の皇太子で、北部辺境守備軍の司令官だ。
北部辺境守備軍は北部の軍事と行政を担当しており、その司令官ともなれば有事には実際に戦うことになる。そうした役割を皇太子に担わせることは珍しい。
もし敗戦ともなれば、司令官は責任を取らされる。命はない。つまり、帝国の後継者がいなくなるということだ。だから、ふつうなら皇太子を辺境守備軍の司令官に就けるなんてことはしない。
それにもかかわらず皇太子が司令官になっているということは、中央になにか政治的な思わく、権力闘争のようなものがあるのだろう。そう考えざるをえない。
「わが軍はかき集めても3万人ちょい……。圧倒的に劣勢だね」
言ってフミト皇太子は苦笑いした。
「しかしながら、殿下が早い段階で戦線を縮小し、ここエンガルに全軍を撤収したことは正解でありました」
現在、北部に散らばって住んでいた住民は、北部辺境守備軍の命令で全員が城塞都市・エンガルに避難していた。エンガルは深い堀と堅固な城壁に囲まれており、守りやすくて攻められにくいので、たてこもるには最適だったからだ。
エンガルにはもともと12万人ほどが居住していたが、その人たちは連邦軍が攻めてくると大半がエンガルを出て南のほうに避難していった。だから、よそから住民が大挙してエンガルに避難してきても、受け入れる余地は十分にあった。
エンガルの南側に広がる丘陵地帯を抜け、その先に広がる「大平原」を南下して行くと、そこにはシン帝国の帝都・ヒラニプルがある。
「とにかくエンガルより後はないわけだからね。ここを死守できなければ、帝国の存亡に関わってくる」
「さようですな。だからこそ、わが将兵はだれもが必死になっているわけであります。追いつめられたネズミはネコにかみつくとの言葉どおり、われらは劣勢でも火事場のバカ力を発揮することで必ずや敵を撃退できるでしょう」
「さすがは歴戦の猛者だけあって、苦境にあっても前向きだね――」
おだやかな笑顔で言いながら、フミト皇太子は懐中時計をチラ見する。
「――さてと、そろそろ時間だ。行くか」
言ってフミト皇太子が踵をかえすと、ヤマキ中将は「はっ」と応えて一緒に階段を下っていった。
2人は騎馬にまたがり、市街地を南北に貫いている大通りを抜け、エンガルの中心部にある煉瓦造りの建物に入った。北部辺境守備軍の司令部だ。
その作戦室には、すでに守備軍の幹部たち数名が集まっていた。
将校クラスが集まっているので、本来なら軍服もきらびやかであり、まさに絵になる光景となっているはずだ。
しかし、いずれの軍服も汚れている。ほころびや破れが見られる者もいる。泥臭いし、汗臭いし、血なまぐさい。まあ、籠城戦が続けば、こうなるのも仕方がない。
「包囲網もあいかわらずで、突破口もなかなか開けないか――」
フミト皇太子は、テーブルに広げられた地図を見ながら言った。
「――敵よりも圧倒的に少ない兵力ながら、これだけ持ちこたえている。わが軍の将兵の善戦健闘ぶりは、称賛に値するな」
フミト皇太子は、みなに笑顔を向けた。
しかし、ヤマキ中将をのぞき、その場にいた将校たちは表情が暗い。
「お言葉ですが殿下、わが軍の武器弾薬も、食料も、燃料も、もって一週間です」
主計将校が元気なく言った。
「その件なら、心配はいらん――」
ヤマキ中将が、はりのきいた声で言う。
「――中央より援軍を出したとの知らせを聞いただろう。今しばらくの辛抱だ」
「しかし、ヤマキ副司令官閣下、その報告がきて、もう一か月になります」
情報将校がおずおずと言った。
「これだけの時間が経っても、影も形も見えません。現状を問いあわせても、進軍中であるとの答えだけ。あやしいと思われませんか?」
「どういう意味か?」
ヤマキ中将は、情報将校をにらんだ。すごい威圧感だ。ひるむ情報将校。
「つ、つまり、われわれは見捨てられるのではないかと。中央の思わくもいろいろあるでしょうから……」
「なにを言うか! 貴様っ!」
激怒したヤマキ中将は、情報将校になぐりかかろうとする。
フミト皇太子は、さりげなくヤマキ中将と情報将校の間に入り、ヤマキ中将におだやかな表情を向けた。
ヤマキ中将は拳をおろす。
「みなが不安になるのは分かる。わたしも不安になる――」
フミト皇太子は、あいかわらずの笑顔で、ゆるやかに語る。
「――しかし、冷静に考えてみてほしい。ここが陥落すれば、帝国の存亡にかかわってくる。見捨てることはない。見殺しになどできない。だから、あとひとふんばりだ。みなで団結して、がんばろう」
フミト皇太子は、みなに笑顔を見せた。
「「「はっ!」」」
その場にいた将校たちは、改めてフミト皇太子に敬礼して答えた。
「ありがとう。では、現状の報告に続いて、今後の作戦を検討しよう」