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キセキ  作者: うわの空
3/3

後編

 月日は流れていく。無情に、冷徹に。

 和也の病状はどんどん悪化していく。それでも和也は闘い続けていた。希望を、捨てなかった。

 希望を捨てていないというのであれば主人も同じで、あちこちの病院を調べ、和也の病気を治す方法を探していた。

 もちろん私だって、希望を持ち続けていた。奇跡を信じていた。それでも、それでも私だけが、『彼』の存在を忘れられずにいた。



「どうして人は、期待し続けるんでしょうね」


 六月、湿り気の強い風を頬に受けながら彼が呟いた。花は散り、一枚の葉も見せないカンヒザクラは、太陽の光を防いでくれない。木陰などというものからは程遠く、なんとも暑苦しいこの場所で、彼は何をしているんだろう。そう思いながら、木の下に佇んでいる彼に声をかけた。しばらく話しかけていなかったな、とも考えながら。

 何してるの、と訊いた答えがまたもや疑問文で、私は黙りこむ。そんな私を見た彼は、


「……なんてことを、考えてました」


 と、付け足した。


「期待するから裏切られるんです。期待しなければ、裏切られることも悲しい思いをすることもないのに」

「――……だけど人は、何かに期待しないと生きていけないんだと思う」

「はい」


 クリーム色の髪の毛をいじりつつ私を見上げ、彼は口の端をつり上げるようにして笑った。


「何にも期待しないのは楽ですが、……虚しいだけですから」


 さあっと風が吹き、けれども木は葉音をたてない。この木は、彼に似ているかもしれない。音もたてず、けれどずっとそこにいる。


「……前に、僕は『この病院の意識』だって言ってたよね。あれはどういう意味?」


 私の言葉に、彼はふっと小さく息を吐いた。


「病院というのは、希望と絶望が交差している場所です。この世界の中で、どこよりも。これでもかっていうくらいの希望と、これ以上ない絶望と。――患者さん達のそういった想いがぐちゃぐちゃに混ざって、丸まって、人の形になった。それが僕です」


 自分で聞いておいてなんだけど、やっぱり分からない。私が苦笑すると、「分からなくていいです」と彼も笑った。それからすうっと、木の幹に手を当て目を閉じた。


「――昔ね、産まれてからずっと、この病院で入院していた女の子がいたんです。彼女はこの桜の花が咲くのを、毎年楽しみにしていました。唯一の楽しみだと言ってもいいくらいに。けれどこの木はその当時、カンヒザクラにしては遅咲きだったんです。……二月の中旬に息を引き取ったその子に、最後の桜を見せてあげられませんでした。見せてあげたかったけれど、期待を裏切ったんです。この桜は、今でもそのことを後悔していて……。だから早く咲くんです」

「……けれどその女の子は死ぬ直前まで、桜の花を見るという希望が持てたはずじゃない。この桜の木は、何も悪くない」


 私が答えると、彼はいつも通りの情けない笑顔で「ありがとうございます」と呟いた。



 和也の病態が悪化したのは、それから数週間後だった。意識はなくなり、人工呼吸器をつけていないと呼吸もままならない。私は和也の手を握りながらひたすら名前を呼ぶか、仮面レンジャーの話をするか、――奇跡を祈ることしかできなかった。

 延命治療をしよう、と言ったのは主人だった。和也は最後まで闘うと言ったんだから、最後まで闘わせてやるのが親の義務なんじゃないか、と。

 反論はできなかった。主人の言葉に無言で頷き、けれど心の中に何かが引っ掛かっていた。


「……和也、つらいよね」


 私が話しかけても反応はない。日に日に、和也に奇跡が起こる確率は減っている。そんな風に感じてしまう。和也がここから回復して、意識を取り戻して、日常生活を送れるようになる奇跡。そんな奇跡。


 奇跡が起こる、確率。

 そんなこと考える私はきっと、最低な母親なんだろう。



 神様は不平等で残酷だ。だから世界は平然と回る。そして私は、この日を迎えた。


「先生!」

「エピネフリン――」


 看護師と医師が叫び、ばたばたと走り回る様子を、私は一人でただ呆然と眺めていた。遠い職場にいた主人は、到着までまだ時間がかかる。そんな私を気遣ってか、看護師が時折私に声をかけてくれていたが、何を言ってもらっているのかは理解できなかった。

 これ以上、頑張ってとか目を覚ましてなんて、言えない。そう思っているのに口を開けば叫んでしまいそうで、だから私は両手を口にあててしゃがみこんでいた。

 私はきっと、この日を心のどこかで覚悟していた。奇跡なんて信じていなかった。だから――


「おばさん」


 背後から声が降りかかってきて、私は振り仰ぐ。いつものように眉をハの字にした彼が、そこにいた。

 初めて会った時は不気味に感じた彼の空気が、今は酷く優しい。気遣っているわけでもないのに安心できるような、古くからそこにある木のような安心感。彼の纏っているそれに触れて、思わず泣きそうになる。

 おばさん、と彼はもう一度私に話しかけた。


「前にも言いましたよね。人は生きてる限り希望があります。奇跡も、起こり得ます」


 そう言って、和也の方を見る。医師が何かを叫ぶ。看護師が器具を準備する。

 残り時間は…………。そんなことをぽつりと呟き、彼は私へと視線を戻した。


「おばさん。和也君はまだ生きています」


 希望と絶望を混ぜた色で、彼は囁く。ゆっくりと。



「まだ……間に合いますよ」



 まだ間に合う、の意味。彼が言っていたこと。


『僕は、和也君や「おばさんのお願い」を聞いてあげられます。けれど、寿命を延ばすことも病気を治すこともできない。もしもおばさん達が、僕に奇跡を起こすよう頼んだら。その時おばさん達には、『もう一つの奇跡』を放棄してもらう必要があります』


 まだ間に合う。


『人は生きている限り希望があります。奇跡も、起こり得ます』



 まだ、――間に合う。



「和也は……頑張った、から」


 答えない和也に、遠くから私は話しかける。堪え切れなかった涙が一粒、落ちた。


「頑張ったから。もう十分、闘ったから。きっと仮面レンジャーも褒めてくれるから。だから、……もう、いいよ」


 私が彼に『それ』を頼めば、和也の意向を無視することになる。きっと最低な母親だ。私は、自分のエゴを押し付けることになる。これは私の独断で、和也の意志ではない。けれど、もう。


「――和也が」


 俯き、彼に話しかける。彼が、和也から私へと視線を移す気配がした。


「和也が今から意識を取り戻すという奇跡も、病気が治るという奇跡も、捨てるから。だから……最後に幸せな夢を見せてあげて。そうして苦しまずに、――…………死、」


 私が言葉を言いきる前に、彼の人差し指がそっと私の唇に触れた。もう言わなくていい、という合図。


「……はい」


 それは賛成でも反対でもない、ただの応答だった。なのに、私の中で何かが弾けた。

 急に泣き叫び始めた私に驚き、看護師が寄ってくる。その間を縫うようにして、彼は和也の元へと近づいた。他の看護師や医師には、彼の姿が見えていないようだった。


「――どうか、楽しい夢を」


 ほんの少し、彼は和也の額に手をかざした。それだけなのに、和也の心電図も呼吸も表情も落ち着き始める。久しぶりに見る、苦しみを知らない寝顔だった。

 またもや和也の元へと寄っていく看護師の間を、彼は音もなくすり抜けた。


「おばさん」


 私にしか聞こえなくなった声で、彼は囁く。泣きじゃくる私の隣まで来ると、そっと膝をついた。


「おばさん。……奇跡というのも見方次第です」


 先ほど和也にかざした手を、私の頭に置く。そうして少しだけ、撫でてくれた。


「僕とおばさん達が出会えたことも、今日のこの結末も。見方を変えれば、奇跡なんですよ」


 彼は微笑むと、音もなく立ち上がり歩き始めた。廊下に溶けるように、ゆっくりと。

 さよなら、という掠れた声だけが、はっきりと聞こえた。




「……こんにちは。久しぶり」


 私が挨拶をしても、彼は何も言ってくれない。構わず、私は続けた。


「あなた、だったんでしょう? 和也と遊んでくれたのも、私の願いを叶えてくれたのも、――和也のベッドに、綺麗な花びらを残してくれたのも」



 あの日。彼と別れてから数十分後に、和也は息を引き取った。

 微笑んでいるように見える、安らかな顔で。


「……あ」


 和也の頭を撫でている時、枕元に落ちているそれに気付いた。

 季節外れの桜の花びら。桜にしては、力強いピンク色。

 私は、その色を知っていた。半年後に咲くはずの、その色を。



 去年と同じデジカメで、去年と同じように写真を撮る。細く弱く、けれど力強いカンヒザクラ。――明後日が見頃ですよ。そう教えてくれた『彼』はもう、私の前には現れない。けれど確かに今、私の目の前にいる。


「……今年も、綺麗な花をありがとう」


 私が微笑みかけると、カンヒザクラも優しく静かに、笑った。



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