後編
月日は流れていく。無情に、冷徹に。
和也の病状はどんどん悪化していく。それでも和也は闘い続けていた。希望を、捨てなかった。
希望を捨てていないというのであれば主人も同じで、あちこちの病院を調べ、和也の病気を治す方法を探していた。
もちろん私だって、希望を持ち続けていた。奇跡を信じていた。それでも、それでも私だけが、『彼』の存在を忘れられずにいた。
「どうして人は、期待し続けるんでしょうね」
六月、湿り気の強い風を頬に受けながら彼が呟いた。花は散り、一枚の葉も見せないカンヒザクラは、太陽の光を防いでくれない。木陰などというものからは程遠く、なんとも暑苦しいこの場所で、彼は何をしているんだろう。そう思いながら、木の下に佇んでいる彼に声をかけた。しばらく話しかけていなかったな、とも考えながら。
何してるの、と訊いた答えがまたもや疑問文で、私は黙りこむ。そんな私を見た彼は、
「……なんてことを、考えてました」
と、付け足した。
「期待するから裏切られるんです。期待しなければ、裏切られることも悲しい思いをすることもないのに」
「――……だけど人は、何かに期待しないと生きていけないんだと思う」
「はい」
クリーム色の髪の毛をいじりつつ私を見上げ、彼は口の端をつり上げるようにして笑った。
「何にも期待しないのは楽ですが、……虚しいだけですから」
さあっと風が吹き、けれども木は葉音をたてない。この木は、彼に似ているかもしれない。音もたてず、けれどずっとそこにいる。
「……前に、僕は『この病院の意識』だって言ってたよね。あれはどういう意味?」
私の言葉に、彼はふっと小さく息を吐いた。
「病院というのは、希望と絶望が交差している場所です。この世界の中で、どこよりも。これでもかっていうくらいの希望と、これ以上ない絶望と。――患者さん達のそういった想いがぐちゃぐちゃに混ざって、丸まって、人の形になった。それが僕です」
自分で聞いておいてなんだけど、やっぱり分からない。私が苦笑すると、「分からなくていいです」と彼も笑った。それからすうっと、木の幹に手を当て目を閉じた。
「――昔ね、産まれてからずっと、この病院で入院していた女の子がいたんです。彼女はこの桜の花が咲くのを、毎年楽しみにしていました。唯一の楽しみだと言ってもいいくらいに。けれどこの木はその当時、カンヒザクラにしては遅咲きだったんです。……二月の中旬に息を引き取ったその子に、最後の桜を見せてあげられませんでした。見せてあげたかったけれど、期待を裏切ったんです。この桜は、今でもそのことを後悔していて……。だから早く咲くんです」
「……けれどその女の子は死ぬ直前まで、桜の花を見るという希望が持てたはずじゃない。この桜の木は、何も悪くない」
私が答えると、彼はいつも通りの情けない笑顔で「ありがとうございます」と呟いた。
和也の病態が悪化したのは、それから数週間後だった。意識はなくなり、人工呼吸器をつけていないと呼吸もままならない。私は和也の手を握りながらひたすら名前を呼ぶか、仮面レンジャーの話をするか、――奇跡を祈ることしかできなかった。
延命治療をしよう、と言ったのは主人だった。和也は最後まで闘うと言ったんだから、最後まで闘わせてやるのが親の義務なんじゃないか、と。
反論はできなかった。主人の言葉に無言で頷き、けれど心の中に何かが引っ掛かっていた。
「……和也、つらいよね」
私が話しかけても反応はない。日に日に、和也に奇跡が起こる確率は減っている。そんな風に感じてしまう。和也がここから回復して、意識を取り戻して、日常生活を送れるようになる奇跡。そんな奇跡。
奇跡が起こる、確率。
そんなこと考える私はきっと、最低な母親なんだろう。
神様は不平等で残酷だ。だから世界は平然と回る。そして私は、この日を迎えた。
「先生!」
「エピネフリン――」
看護師と医師が叫び、ばたばたと走り回る様子を、私は一人でただ呆然と眺めていた。遠い職場にいた主人は、到着までまだ時間がかかる。そんな私を気遣ってか、看護師が時折私に声をかけてくれていたが、何を言ってもらっているのかは理解できなかった。
これ以上、頑張ってとか目を覚ましてなんて、言えない。そう思っているのに口を開けば叫んでしまいそうで、だから私は両手を口にあててしゃがみこんでいた。
私はきっと、この日を心のどこかで覚悟していた。奇跡なんて信じていなかった。だから――
「おばさん」
背後から声が降りかかってきて、私は振り仰ぐ。いつものように眉をハの字にした彼が、そこにいた。
初めて会った時は不気味に感じた彼の空気が、今は酷く優しい。気遣っているわけでもないのに安心できるような、古くからそこにある木のような安心感。彼の纏っているそれに触れて、思わず泣きそうになる。
おばさん、と彼はもう一度私に話しかけた。
「前にも言いましたよね。人は生きてる限り希望があります。奇跡も、起こり得ます」
そう言って、和也の方を見る。医師が何かを叫ぶ。看護師が器具を準備する。
残り時間は…………。そんなことをぽつりと呟き、彼は私へと視線を戻した。
「おばさん。和也君はまだ生きています」
希望と絶望を混ぜた色で、彼は囁く。ゆっくりと。
「まだ……間に合いますよ」
まだ間に合う、の意味。彼が言っていたこと。
『僕は、和也君や「おばさんのお願い」を聞いてあげられます。けれど、寿命を延ばすことも病気を治すこともできない。もしもおばさん達が、僕に奇跡を起こすよう頼んだら。その時おばさん達には、『もう一つの奇跡』を放棄してもらう必要があります』
まだ間に合う。
『人は生きている限り希望があります。奇跡も、起こり得ます』
まだ、――間に合う。
「和也は……頑張った、から」
答えない和也に、遠くから私は話しかける。堪え切れなかった涙が一粒、落ちた。
「頑張ったから。もう十分、闘ったから。きっと仮面レンジャーも褒めてくれるから。だから、……もう、いいよ」
私が彼に『それ』を頼めば、和也の意向を無視することになる。きっと最低な母親だ。私は、自分のエゴを押し付けることになる。これは私の独断で、和也の意志ではない。けれど、もう。
「――和也が」
俯き、彼に話しかける。彼が、和也から私へと視線を移す気配がした。
「和也が今から意識を取り戻すという奇跡も、病気が治るという奇跡も、捨てるから。だから……最後に幸せな夢を見せてあげて。そうして苦しまずに、――…………死、」
私が言葉を言いきる前に、彼の人差し指がそっと私の唇に触れた。もう言わなくていい、という合図。
「……はい」
それは賛成でも反対でもない、ただの応答だった。なのに、私の中で何かが弾けた。
急に泣き叫び始めた私に驚き、看護師が寄ってくる。その間を縫うようにして、彼は和也の元へと近づいた。他の看護師や医師には、彼の姿が見えていないようだった。
「――どうか、楽しい夢を」
ほんの少し、彼は和也の額に手をかざした。それだけなのに、和也の心電図も呼吸も表情も落ち着き始める。久しぶりに見る、苦しみを知らない寝顔だった。
またもや和也の元へと寄っていく看護師の間を、彼は音もなくすり抜けた。
「おばさん」
私にしか聞こえなくなった声で、彼は囁く。泣きじゃくる私の隣まで来ると、そっと膝をついた。
「おばさん。……奇跡というのも見方次第です」
先ほど和也にかざした手を、私の頭に置く。そうして少しだけ、撫でてくれた。
「僕とおばさん達が出会えたことも、今日のこの結末も。見方を変えれば、奇跡なんですよ」
彼は微笑むと、音もなく立ち上がり歩き始めた。廊下に溶けるように、ゆっくりと。
さよなら、という掠れた声だけが、はっきりと聞こえた。
「……こんにちは。久しぶり」
私が挨拶をしても、彼は何も言ってくれない。構わず、私は続けた。
「あなた、だったんでしょう? 和也と遊んでくれたのも、私の願いを叶えてくれたのも、――和也のベッドに、綺麗な花びらを残してくれたのも」
あの日。彼と別れてから数十分後に、和也は息を引き取った。
微笑んでいるように見える、安らかな顔で。
「……あ」
和也の頭を撫でている時、枕元に落ちているそれに気付いた。
季節外れの桜の花びら。桜にしては、力強いピンク色。
私は、その色を知っていた。半年後に咲くはずの、その色を。
去年と同じデジカメで、去年と同じように写真を撮る。細く弱く、けれど力強いカンヒザクラ。――明後日が見頃ですよ。そう教えてくれた『彼』はもう、私の前には現れない。けれど確かに今、私の目の前にいる。
「……今年も、綺麗な花をありがとう」
私が微笑みかけると、カンヒザクラも優しく静かに、笑った。