中編
「……和也の願い事をなんでも? なに言ってるんだ」
疲れた顔で帰宅した主人は、更に疲れたような顔をした。仕事から帰ってきた直後に、こんな馬鹿げた質問をされているのだから疲れて当然だと思う。彼は私の方にちらりと目をやってから、冷蔵庫へと向かった。二リットルの緑茶のペットボトルとコップを片手に、こちらへと戻ってくる。その様子を見ながら、私は首を振った。
「あの、……夢で見たのよ。和也や私のお願いならなんでも聞いてあげるけど、そしたら和也の病気はもう『治らない』って。もしそう言う幽霊が現れたら、あなたならどうする?」
「そうだな……」
こんなおかしな話をしても、この人は笑わない。それは決して疲れているからではなく、どんな話でも真面目に捉える性格のせいだ。主人はしばらく真剣に考えてから、
「和也に任せるだろうな」
「……言うと思った」
「俺たちがどちらかを望むのは、単なるエゴだろ。和也はまだ六歳だけど、それは和也自身の問題だ。だから、どちらの『奇跡』を選ぶのかは和也に任せる」
主人はそう言うと、コップに入れた緑茶を一気に飲み干した。
翌日、私は院内の庭にある桜の木を見ていた。見ていたというよりも、写真を撮るためにそこにいた。病室から出られない和也に、写真を撮ってくるよう頼まれたのだ。
去年も同じように写真を撮って見せた時、いつかこの桜を直接見たいなあ、と言っていたのをぼんやりと思い出す。それから、あの少年のことも。
この病院の桜は妙に早咲きで、一月下旬から二月の上旬に花が開く。少しだけ力強い、ピンク色の花だ。桜の木の下に植えられているプレートには、『カンヒザクラ』と書かれている。ただ、この病院の桜は、花が散ってからは一切葉を出さないという特徴もあった。
カンヒザクラという種類の桜は、葉を出さないの? 夏に病院を訪れた際、主人に尋ねると「こんな木は初めて見たよ。普通は葉っぱもある」と言って首を振った。それから、夏なのに寒々しい桜だよねと付け加えた。そのせいか木は、花の色に比べて少し弱々しいシルエットをしている。
「――こんにちは、おばさん」
背後から聞こえてくる、掠れた声。ぎょっとした私が振り返ると、そこにはやはり昨日の彼が立っていた。寒空の下のせいか、肌の白さが一段と目立つ。
「……そんなに構えないでください。『あの話』は、別に今すぐ答えを求めるような事じゃないですから」
彼はそう言って私のデジカメに目をやり、目を細めた。
「桜を撮っているんですか? だとしたら、おすすめは明後日です。今日よりも開花している花が多いし、散っている花だって一番少ないですから」
何故か彼はそう断言すると、風に舞う桜の花びらのようにふわふわと和也の部屋へ向かった。
「あー! きのうのおにいちゃんだ!」
嬉しそうな声をあげたのは和也で、それを見た彼は恭しく手を振った。和也は新しい友達が嬉しかったのか、しばらく『昨日教えた怪獣の名前当てクイズ』をやってから、私のデジカメを手に取った。彼にも画面を見せながら、そこに写るピンク色を覗きこむようにして眺める。
「きれーだねー。ね、おにーちゃんもこのさくら、すき?」
「うーん、そうだね……。僕はあんまり好きじゃないかな」
彼の答えに、和也は小さなショックを受けたようだ。
人間は時に、『同意を求める質問』をする。賛成の答えしか受け付けないし、正反対の答えが出ても自分を正当化しようとするのだ。和也の今の質問もきっとそれで、彼には「僕もだよ」と答えて欲しかったのだろう。和也はデジカメから顔をあげると、「なんで?」と訊いた。
「――早い時期に咲くこの桜の開花を楽しみにしている患者さんは、毎年沢山いるんだ。けれどこの桜は、ずっと咲いていられるわけじゃない。一年のうちの、ほんの少しの間しか咲いていられないんだ。どれだけ努力しても、望んでいたすべての人に花を見せられることはない。……皆の願いを叶えられるわけじゃないんだよ。だから、好きじゃない」
「ことしみれなかったら、らいねんみれば?」
きょとんとした和也の質問に、彼は寂しく笑う。そうしてゆっくりと口を開いた。
楽しみにしていた桜を見られなかったという意味を、和也は理解していない。そしてこの病院にいる患者が、――和也が、来年もこの桜を見られるとは限らない。和也は、
「――やめて!」
思った以上に大きな声が出てしまい、はっと我に返った。和也は驚いた顔を、彼は寂しげな顔を私に向ける。
「おかーさん、どうしたの」
「あ……」
「和也君」
私の言い訳を遮って、彼が声を出した。先ほどの名前当てクイズで登場した、悪者のフィギュアを手にとって動かす。その怪獣はレンジャーにとって一番の強敵であり、おどろおどろしいフォルムをしていた。
彼は笑う。
「和也君が病気と闘うことを諦めたらね、どんなお願いでも叶えてあげる。和也君も、仮面レンジャーになれるんだよ。どうする?」
彼は笑った。
けれどそれはフィギュアのものとは違う、ぞっとするほど冷たい笑みだった。
彼の言葉を聞いた和也はしばらくきょとんとしてから、レンジャーのフィギュアを動かした。「ファイアーパーンチ!」と叫び、彼の持っている悪者にレンジャーの拳をぶつけて宣言する。
「たたかうのをやめたら、それはレンジャーじゃない! レンジャーになれるなんてうそつき! ぼくはさいごまでたたかう!」
――和也に答えを言わせたんだ。直感的にそう思った。
彼は嬉しそうに、けれど眉をハの字にした情けない顔をしてみせた。
「……そう。和也君は強いなあ。まいったよ」
彼はそっとフィギュアを机に置くと、「じゃあ僕は退散するね」と手を振った。
「待って!」
私が呼びとめると彼は足を止め、首だけで振り返った。笑顔は、ない。
「あの、さっきは……」
「おばさんはあの桜、好きですか」
急に質問を振られ、私はしどろもどろになる。彼は邪気のない微笑みをみせた。
「先ほども言いましたが、僕はあの桜が好きではありません。けれど、嫌いだというわけでもないんです。物事は、見方次第でどうとでも取れます」
例えば僕も。少し考えてから、彼は続けた。
「例えば僕も、良く言えば『願い事を何でも叶えてくれるヒーロー』です。……が、見方を変えれば『甘い言葉で誘惑して人の命を奪う悪者』でしょう。僕の存在をどう取るか、どういう見方をするのかは、その人次第です」
和也君にとって僕は悪者だったかなあ、と彼は苦笑する。私は笑えない。笑って受け流すべきだとも思えなかった。
「――……おばさん。臭いことを言いますが、人は生きている限り希望があります。奇跡もね」
ただそれをどう捉えるか、どういう選択をするかは当人次第です。
彼はそう言い残すと、足音を立てずに先へと歩いていった。