運が悪いのは……
大学生の浅倉新は、ぼんやりしながら、ただ立っていた。それがどこかわからず、どうしてかも知らず、意識もぼんやりさせながら。
そして、何かを呼ぶことがして振り向くと、そこには狐面をかぶる子ども立っていた。
その子どもと話していくうちに、状況を理解し、焦りだす新。
そして、急いで「契約」を行う。
※神様、神使、神社などが出てきますが、この作品独自の神界設定です。現実の神道とは異なる表現もありますことをご了承ください。
……ここは、
……ここは、どこ、
……ここは、かわ?
……川? 湖? やっぱり、川、かな?
ん? なんで、ここに。いつから?
――「……さん」
ボート? やはり川?
――「……さん」
ん? 誰かいるのかな。
……動かない??
――「……さん」
ようやくその声のする方に体を向けることができた。
ふり返ったが、誰もいない?
いや、いた。子ども? 狐のお面?
「あさくらあらたさんですね」
「あさ、く、ら、あら、た」
それは……オレのこと?
あさくら……浅倉新――オレの名前だ。
「きみ、は?」
うまく声がだせない。
体もまだ思うように動かない。
「ようやく気付かれましたね。良かった。申し遅れましたが、神使の薄羽と申します」
「しん、し?」
「神の使いです。ジェントルマンではありません」
そう言って、その子は笑う。
うーん、ジョークだろうか?
まだ、頭がはっきりしないな。
何度か空咳をし、あー、と声を出してみる。
少し、良くなった、気がする。
視界もだんだんはっきりしてきた。
「えーと、神使のうす……」
「薄羽でございます」
「うすばさんね、すみません、まだぼーっとしていて」
「薄い羽と書きます。あなたは浅倉新さんでよろしいでしょうか」
「は、はい。浅倉、新、です」
相手の姿は子どもにしか見えないが、自然と丁寧な話し方になってしまうのは、どうしてだろう。かみの使いって、紙とか髪じゃないよね。神?
「あの、ここは、どこでしょうか」
「現世と幽世の狭間になりますね。もう少し進んでしまうと、もう引き返せなくなります。ここで見つけられて、よかったですよ」
うつしよ? かくりよ? 何だろう? 聞いたことがある気もするけど。
駄目だ、まだ頭がうまく回らない。
「といっても、あまり時間はなさそうなので、用件を済ませてしまいましょう」
「は、はい」
たぶん、間の抜けた顔をしているんだろうな。オレ、コミュ障だったっけ。
「新さんは、コンビニを出た後、何が起きたか覚えていますか」
「コンビニ……」
情けない、相手の言葉を繰り返しているだけだ。でも、そうしないと、言葉が頭に入ってこない。
コンビニ、コンビニ、何が、コンビニを出て――あっ、何かが迫ってきて……。
「はい、車に撥ねられたというか、挟まれました」
そうだ、あれは車だ。オレ、車に撥ねられて……つまり、死んだ?
「いえ、まだ亡くなってはおりません」
死んでない。本当に? ここって……。
「今は、まだ、というところです」
ん? オレ、言葉にしていないはずだけど……。
「ここは現世ではないので、肉体の制限がありません。時間短縮にもなるので、このまま進めますね」
「は、はい」
テレパシー?
「新さんは車に撥ねられ、今まさに死にかけています」
いや、実感はない。それに、「そうなのか」としか思わない。
感情も麻痺している、気がする。
うん、考えることは、できる。
「それでですね。新さんを現世に連れ戻すために、私がここに使わされました」
「それって?」
「生き返ると言うか、死なずに済むということです」
「そうなんですか」
あっ、頭の中のもやっとしていたものが晴れていく気がする。
「とはいえ、条件があります」
「条件?」
「一つは、新さん自身がまだ生きていたい、現世に戻りたいと思うことです」
意識がはっきりする。
「は、はい!」
食い気味に答えてしまった。
死なない。まだ、死にたくない。
「了解しました。では、二つ目ですが、現世に戻られた後、社に奉納を行ってください」
「奉納ですか。えーと、それは、何をすれば」
「難しく考える必要はありません。うちの社は小さいので、絵馬などありませんから、お賽銭でも食べ物を供えていただいてもかまいません。金額の多寡も気にされないで大丈夫です。今回は通例と異なり契約のようなものですが、本来は感謝の意を表すものですので、お気持ちでかまいませんよ」
「契約、ですか」
「そうですね。普通は日ごろから参拝祈願し、願い事の成就に対し感謝の意を表します。ですが、新さんの場合、うちの社に参拝したことのない方なので、本来はこのような情けを与えることはありません。先に御祭神の施しを受け、それに対し謝意を表す義務を負う感じですね」
「もし、その奉納しなければ、どうなりますか」
「現世では祟りなどありませんよ。御祭神もそこまで暇ではありません」
そう言って、狐面の子どもは笑ったように見える。
「とはいえ、あなたがこの次に亡くなった時、別に事故などがなく老衰の場合もですが、この場で朽ちるまでとどまり続けることになります」
「それは、どういう……」
「詳細は略しますが、肉体を失った魂はここにきて、先導される方へ進み、次の世界に進みます。ですが、神様との契りを反故にした者は、どの世界にも行けず、ただここで朽ちるのを待つことになります。地獄のような責め苦にあうわけではありませんが、ただ、ここに数百年ほどいるだけになります」
それは嫌だな。
「その、奉納は、いつまでに」
「時期は構いませんよ。新さんの場合、現世に戻られても病院のベッドの上ですし、すぐ退院できそうにはないでしょう」
「そんなに、ひどいのですか」
「ええ、なにせ死にかけているくらいですから」
驚いた。いや、初めて実感できた。自分は、まさに今、死にかけているのだ。
驚きが、恐怖に、焦りに変わっていく。
「普通ならご家族など代理の方でも構わないのですが、新さんの場合、例外扱いになるので、ご本人が来られないと、契約の不履行と判断されます」
「それは……」
のん気に会話している場合じゃないよ。
「契約します。お願いします。まだ死にたくありません」
「うん、わかった。こちらもそのつもりだったから、焦らなくていいよ」
「は、はい。ありがとうございます」
落ち着いた声色に、少し逸る思いが抑えられた。
うん、大丈夫。この子を信じよう。
……人?
「では、契約の印を授けるので、右手を出してもらえるかな」
言われた通り、右腕を上げる。
体も思うように動かせるようになった。
狐面の子ども――確か、『うすば』だっけ? 薄葉、薄羽、臼刃?
「薄い羽の薄羽だよ」
「あっ、ごめん。えーと、薄羽さんね」
さっきちゃんと教えられてたはずなのに、覚えてなかったのが、恥ずかしい。
薄羽さんはオレの右手首を覆うように両手をかざす。
何も感じないが、なんか手首に赤い線がある。
薄羽さんが両手を下したので、手首を回すと、細い二本の線が手首をぐるっと一周していた。
「それは契約の証なので、契約が終わるまで消えない。他の人間には見えないからね」
「時間が経つと痛み出したりするんですか」
「ないない。さっきも話したけど、現世ではなんの影響もないよ。まあこちら側のものには感じられるから、悪いものではないと思って大丈夫」
言っている意味がよくわからなかったが、なんとなく頷いておいた。
あれ、ため口になってる?
「では、行こうか」
そう言って、薄羽さんはオレの右手をつかみ歩き出す。オレも自然とそれについていく。
でも、握られているのに、全然感触がない。けれども、引っ張られているのはわかる。
「あっ、そうだ。えーと、社? ってどこですか」
「その印に触れれば、自然と頭に浮かぶはずだよ。話しても、どうせ忘れてしまうだろうから、今は気にせず、戻ることを優先しよう」
返事をしようとしたが、声が出なかった。頷いたつもりだけど、ちゃんと頷けただろうか。
だんだん眠くなってきた。自分が歩いているのかもわからなくなってきた。
「向こうに戻ったら体が痛いだろうが、頑張ってね」
何か聞こえた気もしたが、もうオレの意識は限りなく薄くなって……。
体が重い。
意識が浮かぶにつれ、まず重みを感じた。そして、痛み。
思わず顔をしかめる。
ざわざわした音が、声になって聞こえた気がしたので、目を開ける。
一人、二人、三人……何人かの誰か。
名前を呼ばれた気がしたので、「はい」と返事をした。
なんか喉の奥が詰まったようなかすれた声しか出せなかった。
「痛、い……」
顔をしかめていると人がまた動き出し、腕に、何かされたと思ったが、また眠った。
ICUから一般病棟に移り、その後はリハビリ専門の病院へ転院した。
入院中、加害者の方から手紙が、警察経由で届いた。
七十代の女性の方で、アクセルとブレーキの踏み間違いが原因らしい。
謝罪なども書かれていたが、正直、感情が動かなかった。
リハビリは辛いが、もう済んだこと、と思ってしまう自分がいる。
大学は休学することになったが、医者も驚くくらいの回復力らしい。
生死の境をさまよい、というかほとんど死にかけていたと聞いたが、自分では実感はない。
ただ、あの時のことは、狐面の誰かと、何かを約束したことを、ぼんやりとしか覚えていなかった。
ただし、右手首の赤い二本線は他の人には見えないらしい。
だが、その二本線をジッと見ていると神社の名前と場所が頭に浮かんでくる。
そんなところに行った記憶はない。ないが、わかる。
スマホの地図アプリで探したら、確かにその場所に神社があるらしい。
親にその話をするのは、なんとなく余計な心配をかけそうなので、二歳年下の妹にその話をしたら「アニメの見過ぎ」と笑われてしまった。
それでも実際に神社を見に行ってくれて、様子を報告してくれた。
なんでも、由来が不明だが、雑木林の中にひっそりと建てられた社らしい。きれいに清掃されていて、人が通れるくらいの小さな赤い鳥居もあって、狐の石像もあったとのこと。
撮ってきた写真も見せてもらったが、ちょっと車いすでは厳しそうだった。
結局、その神社に訪れたのは、事故から九か月過ぎた、三月の始めだった。
スーパーで稲荷ずしを買って、地図アプリを見ながら探すと、たしかに赤い鳥居があった。
へぇ、こんなところにあったんだ、とちょっと感動したけれど、とりあえずお参りしようと、砂利道を歩く。
ここって参道と呼んでいいのか悩みながら、鳥居をくぐる。
向かい合うように狐の石像が二体あった。
無意識に右手の石像に触れた。
そして霧に包まれた。
「やあ、新さん、こんにちは」
そこには狐面をかぶる子どもがいた。
思い出した。
いや、忘れたわけではないな、これは。思い出せなかっただけ。
「えーと、うす、ば、さんでしたっけ」
「はい、薄羽です」
狐のお面をかぶっていても、薄羽さんが笑っているのがわかる。
どうしてオレは敬語で話しているんだろうか。子どもみたいな相手なのに。
「回復されたのですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
いや、お礼を!
「あ、助けていただいて、ありがとうございました。おかげさまで、こうして今生きています」
「いえいえ、新さんは運が良かったんですよ」
「良かった? そうでしょうか」
「それはお約束の」
話がそらされた気もするけど、まずは渡すべきものを先に渡しておこう。
「はい、稲荷ずしです」
ビニール袋からパックに入った稲荷ずしを出し、薄羽さんに渡す。
「ありがとうございます。これで契約完了ですね」
「自分で買ってきて、なんなんですが、本当にこんなものでいいんですか」
「かまいませんよ。これは最後の欠片ですから。まあ、感謝の気持ちが強ければ、また何かそなえてください」
「最後の欠片、ですか?」
「そうですね。お話しておきましょうか。新さんを迎えにいった理由を」
薄羽さんは教えてくれた。
オレを撥ねた車を運転していたのが七十二歳になる鷲尾ゆいさんという人だ。そこまでは手紙をもらっていたので知っていたが、鷲尾ゆいという女性は、子どもの頃はこの神社の近所に住んでいて、地元の人と結婚し、現在は車で三十分ほどのところに住んでいるらしい。この神社は子どもの頃からの遊び場になっていて、受験の時も、入社試験もここでお祈りし、結婚・出産も報告をしていたらしい。ゆいさんにとって、この神社は人生の道標になっていたそうだ。
あの事故の日も、買い物のついでにこの神社にお参りしようとしていたらしい。供え物は家から手作りして持ってきていたが、運転中にいつもより暑い日だったので飲み物も供えようと思いつき、コンビニに寄ろうとして事故を起こした。
駐車場が広めのコンビニだったため、あまり減速しないで車道から入ったが、急に何か動物のような影が車の前を通り過ぎたため、慌ててブレーキを踏んだつもりが、誤ってアクセルペダルを踏んでしまった。五十年以上無事故無違反だったにも関わらず。
「この神社もだんだん人から忘れられているんですよ。ですから、ゆいさんはこの神社にとって大切な参拝者なんです。事故そのものをなかったことにはできませんが、これまで長くお参りしてくださった分に報いることになりました」
話を聞いていても、最近の報道でも多い高齢者の運転ミスのこととしか思えなかった。被害者になっても、回復したせいかもう怒りもないし、どこか他人事に感じてしまう。
「人間の決めた法や決まりに興味はないのですが、被害者の方が亡くなってしまうより、生きていた方がゆいさんの気も少しは楽になるかと思うんです。なので新さんを狭間から引き戻そうと頑張りましたよ。そこまでの分は、ゆいさんの長年この社と結んできた御縁からいただきましたので、新さんからいただくのは最後の分だけで十分なのです」
正直、神の論理は理解できなかった。でも、わかったことがある。
「そうすると、もし運転していたのが、その方でなく、他の人間の起こした事故だったら、オレは助からなかったということですか」
「そういうことになりますね。だから、新さんは運が良かったんですよ」
そう言われても納得しにくいが、それを狐面のこの神使に抗議しても無意味なのはわかった。やはり人とは考え方が違うのだろう。
オレが微妙な顔をしていても、薄羽さんの微笑むような雰囲気は変わらない。
うん、何も言わないでおこう。助けられた事実は変わらないのだから。
オレも大人になったな。それとも死にかけて、人生観が変わったかな。
「では、契約も完了したので、この印は消しますね」
薄羽さんは懐から榊を取り出し、オレの手首を撫でる。
すると手品のように、赤い線が消えてしまった。
オレはまじまじと自分の右手首を見てしまった。
「お疲れさまでした。近くにお越しの際は、是非お立ち寄りください」
「はい。色々ありがとうございました」
呆気なさ過ぎて拍子抜けしていた。
薄羽さんに背を向け、鳥居を潜ると、そこは日常の色を取りもどした世界だった。
思わず振り向いてしまったが、薄羽さんの姿はなく、ただ小さな社と狐の石像が見えるだけだった。
夢でも見たような気分とはこういうものなんだろうか。
首をひねりながら、その場から遠ざかる。
走る車の音が遠くから聞こえてくる。
どこかで昼飯でも食べていこうかと考えながら、ひとまず駅に向かって歩き始めた。
「あの人が社にまた来るか、賭けます?」
番の薄音が姿を現す。
もう人影は見えない。
「来ることはなさそうですね」
「賭けにならないじゃん」
笑って答える。
「主様に報告をしておくよ」
「それなら、ウチはゆいの様子をみてくるね」
「ああ、任せるよ」
子どもの頃のゆいさんは僕らが見える人間だったが、子どもを産んでからは、感じることはできても見ることができなくなった。彼女の御縁を使ってあの男の魂を探したので、もう僕らを感じることもできなくなっている。
この近所に田んぼもなくなって久しい。
手元にある稲荷ずしをほおばる。
現代の画一的な濃い味は確かに美味しいが、昔の素朴な味を懐かしいと思う。
四月に入り、大学に復学したが、同級生たちは四年生に進級し、就活真っ最中。弱小サークルに入っていたので、多少同学年になった顔見知りの後輩もいるが、休学中の幽霊部員では友達とまではいえない関係のままだ。
アルバイトも辞めざるを得なかったため、復学しても、大学と自宅の往復をするくらいしか予定がない。
自覚はなかったが、よく躓くようになった。転びはしないが、危ないときも数回。
駅で定期を落としたときは、すぐに後ろの人に拾ってもらえて無事だったが、財布を落としたのはショックだった。キャッシュレス決済をメインにしていたので、財布には小銭くらいしか入っていなかったが、大学入学を機に、財布と定期入れなどを同じブランドで揃えて購入したものだったので、悲しさと情けなさに泣きそうになった。
六月に入り、内定をもらった友人と飲みに行ったときのことだ。テナントビルの三階の居酒屋で飲んでいたのだが、帰りにエレベーターが混んでいたため、階段で帰ることにしたとき、足を踏み外した。危うく転げ落ちそうになったのを、友人に腕を引かれて事なきを得たが、その時は「飲みすぎたのかも」と笑い話で終わらせた。だが、その時初めて、カラスのような黒い鳥を見た。
それが三日前の出来事。
今朝、大学に行くために駅まで商店街を歩いていた時、突風が吹いた。目の端に黒い鳥が映った瞬間、咄嗟に、前に走り出した。
すぐにオレのいた場所に何かが飛んできた。壊れたビニール傘だった。
それが腰の高さに飛んできて、大きな音を立て脇の店の壁に傷をつけて落ちた。
なぜその瞬間、動けたのかわからない。いや、黒い鳥に気づかなければ立ち止まったまま傘の直撃を受けただろう。
周りを見回しても、黒い鳥は見当たらない。
あれはオレを助けたわけではない。その逆だ。
そう確信する。
怖い。
オレは足早にその場を逃げ出した。
駅には向かわず、路地を曲がり、結果的に遠回りをして、なんとか神社にたどり着いた。
鳥居を潜り、社に向かうが、供え物を買っていないことに気づいて、あわてて鞄の中を漁る。
授業の合間に食べるつもりだった菓子パンを取り出し、社に供えて手を合わせる。
「どうか助けてください。お願いします」
黒い鳥のようなものを見かけたことや、先ほどの出来事、これまでの出来事などできるだけ思い起こし、心の中で語っていく。
妄想ともいえるようなことをさんざんまくし立てていくうちに、少しずつ冷静になっていった。
自分でも、ありえないと思えるし、黒い鳥だって勘違いだった気にもなってきた。
少し落ち着いて目を開けると、周りがやたら静かになっていることに眉をひそめる。
振り返ると、狐面をかぶった子どもが二人、立っていた。
お面も衣装もそっくりな子ども。
左側の子どもが話しかけてきた。
「やあ浅倉新さん、お久しぶりです」
「えーと、薄羽さんですよね。そちらの方は」
「私の同僚の薄音です。兄妹みたいなものですね」
右手にいる薄音さんが頭をさげたので、オレも頭を下げる。
「それで、新さんのご用件についてですが」
「そ、そうなんです、実は――」
「大丈夫ですよ。わかっています。ちゃんと聞こえてましたよ」
怖いとは思わなかった。それが当たり前と受け入れてしまう自分がいる。
「それで、あれはなんですか」
「異国から来た妖のようなもので、かなり強い穢れをまとっています」
「異国? えっ、海外の妖なんですか」
「今は多いですね、異国からのものは」
妖と言われても、信じがたいのに、それが海外の妖など、どうなっているんだろう。
「昔は、異国の妖といっても大陸……中国やインドくらいでしたが、今は、西洋だけでなく南米やアフリカあたりからも来ていますね」
「日本は大丈夫なんですか」
「まあ日本の妖も世界中に散らばっているので、お互い様と言えるでしょう」
まだ海外旅行にさえ自分は行ったことがないのに、すでに妖が世界に進出……なんだろう、負けた気がしてきた。
「それで新さんのことですが」
「あっ、はい」
「先に話しておこうかな。新さんが死にかけた事故の事だけど、鷲尾ゆいさんの話をしたのは覚えてますか」
「はい、おばあさんですよね」
「そう、君からすると、そうですね」
薄羽さんだけでなく、薄音さんの雰囲気が少し厳しくなった。薄音さんは一言も話していないが、じっとオレの事を見つめているのが面越しでもわかる。ちょっと怖い。
「ゆいさんが車の操作を誤る直前、動物のようなものが車の前を通り過ぎたって話しましたよね」
それが何か関係するのかと思ったが、ふいにあの黒い鳥が思い浮かぶ。
「えっ、それって――」
「そうだと思いますよ」
「それなら、あいつはおばあさんを狙って――」
「それは違うでしょう。狙われていたのは新さんです。ゆいさんは、それに巻き込まれたと考えるのがいいかと」
言葉が出なかった。あの鳥は、その頃からオレをどうにかしようとしていたなんて。
「事故を起こしたのはゆいさんで間違いないけれど、その要因になったのはその場にいた人間、つまり新さんだから事故が起きたのだと考えられます」
息が詰まりそうだった。
自分のせいで、無関係の人が加害者にさせられたなど、考えもしなかった。
自分は死ぬ思いをした。だけど、加害者となってしまったおばあさんの謝罪の手紙を読んで、「もう気にしていない」などと嘯いた自分に怒りが込み上がる。謝罪しなければいけないのは、オレの方だったのに。
「あー、自分を責めないでください。新さんが悪いわけではなくて、悪いのはあの妖ですから」
「ごめん、なさい……」
自然と言葉が出て、涙が流れる。そして、涙と嗚咽が止まらなくなった。
どれくらい泣いただろう。
「落ち着きましたか」
「はい……すいませんでした」
「かまいません。聞かされてもどうしようもないことですし、本当はお伝えしたくなかったんですが。ただ、これから話すことに少し関係しますので、新さんにも理解しておいてください」
「教えていただき、ありがとうございます」
薄羽さんに頭を下げる。おばあさん――鷲尾ゆいさんに、深く頭を下げた。
「新さんは、あの妖をどうにかしてほしいと思って、うちに来られたんですよね」
「はい」
「御祭神に願いを叶えてもらうには、それに見合うだけのご奉仕が必要になります。新さんの喫緊の願いを叶えるために、かなり重い奉仕が求められるのは、なんとなくでもわかりますか」
頷くしかない。
「流石に、一度祈願して、菓子パン一個では、つりあわないんですよ」
耳まで赤くなるほど恥ずかしかった。何も考えていないのは、言い訳にならないと唇を噛みしめる。
「あー、金額の多寡ではないんですよ。御祭神は、人間に信仰されるほど力がつくんです。例えばですが、一回の奉納で百万円を捧げられるより、一回に一万円ずつ百回奉納された方が、御祭神にとっては嬉しいし、それが祈願の成就する力になるんです」
以前に聞いた話も含めて知らないことばかりで、顔が引きつってくる。
「狭間から新さんを呼び戻すことができたのは、ゆいさんの御縁が社に結ばれていたからです。そういう意味では、新さんはついていたんですよ。運転していたのがゆいさんでなければ、新さんを現世に連れ戻すことはできなかったし、場合によっては持ちこたえることも難しかったかもしれません。あなたは運が良かったんですよ」
前には納得できなかった言葉が、きちんと胸に落ちる。感謝の涙が零れ落ちた。
「それですね、普通ならこのような案件に対応するのは難しいのですが、新さんは初めてではありませんから、条件が満たせるのであれば対応するよう御祭神様よりお言葉をいただいております」
「御祭神、様?」
「私共は神使です。こういう難しい案件はきちんと御祭神様にご判断いただくのが習わしです」
「あ、ありがとうございます」
「はい。それで条件ですが、これより千回、こちらの社に奉納してください。物でも金銭でも舞でもかまいません。大切なのは、心と回数です」
「千回ですか?」
「ええ。一日一回として、三年ほどですかね。本当なら、三千回くらいでもおかしくないのですが、前回の続きともとらえることができますし、こちらとしてもあの穢れを放置するのは、腹に据えかねますから」
薄音さんが何度も頷いている。薄羽さんの語調も少し荒くなった気がする。
「あの妖は二度と新さんに近づけないようにします。ですが、他の妖や普通に病気になることを防ぐわけではありません」
「それだけでも十分です」
「ご理解いただき、ありがとうございます。新さんがなんらかの理由で、契約不履行になった場合、前と同様、現世での祟りなどはございませんが、狭間で魂が朽ちるまであり続けることをご承知ください」
「はい、わかりました」
「今回の契約は薄音と二名で行いますので、両腕を上げていただけますか」
両腕を二人の胸の高さまで上げる。
薄羽さんが左手首、薄音さんが右手首を、両掌で覆いながら、聞き慣れない古めかしい詞を唱え始めた。これが祝詞なのだろう。
手首には左右それぞれに三本の線がねじれるような文様となる。
熱も痛みもないが、安心感で肩の力が抜けていった。
「では、契約成立となります」
「ありがとうございます」
ていねいに頭を下げる。
「毎日来られるのは現実的ではないでしょうが、三、四日に一度なら十年、週に一度なら二十年はかかりますね。長いお付き合いになりそうですが、宜しくお願いします」
あれ? 千回だと毎日なら三年、週一なら……やばい簡単な算数も怪しくなっていたみたいだ。
いや、ありがたいんだよ。助かるのは確かだけど……。
狐面の二名の神使との長い付き合いが、この日始まった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




