「パンツ(総レース)を返してください」と土下座した深窓の令嬢は、ドS王太子に条件を出される
「どうか!パンツを返してください!!」
何を言っているんだと思われるだろう。
私だって自分の人生でこんなパワーワードを吐くことがあるなんて思わなかった。
しかも、王太子であるチャールズ殿下の前で土下座しながら。
しかも、ノーパンで。
時は遡ること三時間前。
学園の温室。
昼食を取った後の、日課にしている花たちへの水やり当番。
ホースを踏んでいるのを気が付かず、うっかり下半身びしょ濡れ。
幸いにも次はお昼休み。
このまま温室でスカートと下着を乾かせば午後の授業には間に合うはず。
間に合うはずだったのに、ランチで満たされたお腹に温室の暖かい空気。
下半身を隠すようにかけたブランケットの手触り。
睡魔を我慢するなという方が無理に決まっている。
予冷の鐘で慌てて起きた。ここまではまだ良かった。
下着を身に着ける時間がなく、ポケットに入れたまま教室に向かう途中の角で、王太子とぶつかってしまったのだ。
食パンを食べてるわけでもないのに、ポケットからするりと落ちる私のパンツ(総レース)。
慌てて立ち上がり、落ちたパンツを拾い上げ、足早に立ち去る。
ここまで来たら、もう予想はつくだろう。
いざ、女子トイレで履こうとポケットから出てきたのは、純白のパンツではなくハンカチ。
「まさか、『深窓の微笑令嬢』と言われる、アンジェラ公爵令嬢がこのようなものを身に着けてるとは。目を疑ったよ」
うるさい。そのあだ名も口にするな。
ムーンな本を読んでいて、ニヤけるのを我慢していたら、いつの間にかついていただけだ。
下着に関しては、えっ……ちな下着の方が可愛くて、私の好みだっただけ。
まさかこんな展開になるなんて、誰が予想できるというのか。
「……どうしても返していただけないですか?」
「そうだなぁ」
眉目秀麗で品行方正と噂される王太子なら、あっさりと返してくれると思っていたのに。
さすがの私も、心許ない下半身にモジモジしてしまう。
「週末の僕とデートしてもらおうかな」
「え?返してくれないんですか?」
「今日は返さないよ」
いや、返せよ。
良からぬことに使われたらたまったもんじゃない。
けれど、私のパンツ(総レース)は彼の手の内。
「デート……します……」
「殿下。今日は返していただけるんですよね」
私の視線は、彼の手にある小箱一点に釘付けだ。
あの、私の——いや、私の尊厳(総レース)が入っているはずの小箱。
「もちろん。今日こそ返す」
「今日こそって言いました?」
チャールズ殿下は、爽やかな笑顔で頷いた。
この顔が信用できないことを、私はすでに学んでいる。
「代わりに、頼みがある」
「嫌です」
「まだ言ってない」
「言わなくても嫌な予感しかしません」
庭園のベンチ。薔薇の香り。晴れた空。
背景だけは完璧なのに、私の心臓だけがやたら落ち着かない。
殿下がベンチの背にもたれて、指先で私の膝を軽く叩く。
「膝、貸して」
「……はい?」
「五分だけ。膝枕」
——膝枕。
それは、ムーンでよく見るやつだ。しかも『男が強引に』の定番だ。
「殿下、そういうのは……」
「君は嫌?」
「嫌というか、意味がわからないというか」
「意味はある。君が困る顔が見たい」
最低だ。
でも、その最低が、品行方正の仮面を外すときの目だけは、妙に真剣でずるい。
「……五分だけですよ」
「よし」
私はぎこちなく膝を差し出すと、殿下が躊躇なく頭を乗せた。
「……重いです」
「失礼だな。軽い方だ」
「軽いなら、なおさら下ろしてください」
「だめ」
「中身の話ですか?」
「辛辣だな」
だめ、って何。
言葉が短いほど、脳がバグる。
殿下は目を閉じたまま、気まぐれに言う。
「君の膝、あったかい」
「それ、感想なんですか」
「事実」
私の膝の上で、王太子があまりに無防備で。
腹立つはずなのに、心臓が落ち着かない。
「……殿下」
「うん」
「返して」
「今じゃない」
「今じゃない!?」
殿下は片目だけ開けて、笑った。
「五分が終わったら」
「今、何分ですか」
「一分」
長い。
世界一長い五分が始まってしまった。
——五分後。
殿下が起き上がり、小箱を手に取る。
「ほら」
「……やっと」
私は両手を伸ばした。
その瞬間、殿下は小箱を私の手の届かない位置にすっと引く。
「次は、耳元で名前を呼んで」
「は?」
「『殿下』じゃなくて。僕の名前」
ずるい。
返すと言いながら、次の条件が増えている。
「……チャールズ」
「もう一回」
「何で」
「可愛かったから」
くっ……!
「……チャールズ」
「よし」
やっと小箱が返ってくる——と思ったのに。
「返却は、次のデートで」
「返してないじゃないですか!!」
「約束は守ってる。返す『つもり』だ」
殿下は涼しい顔で言った。
最悪。
でも、腹が立つのに、頬が熱いのはもっと最悪だった。
「今日は返す。今度こそ」
「前回も『今度こそ』でした」
「学習が早いね」
また小箱。
また爽やかな笑顔。
また信用できない。
殿下は屋敷の応接間で、私の向かいに座ると、一本の菓子を差し出した。
「ポッキーゲーム」
「……何の話ですか」
「一本ずつ咥えて、先に噛んだ方が負け」
用意周到すぎる。いつから計画してたんだ。
そして、誰がこんな遊びを考えたんだ。
いや知ってる。ムーンだ。何度も読んだ。
「殿下、体面というものが」
「ここには僕と君しかいない」
「だから危険なんです」
殿下は当然のように、片側を口にくわえた。
真面目な顔で。王太子の顔で。
この人は何をしても様になるのが余計に腹立つ。
「深窓の微笑令嬢アンジェラ」
「……その名で呼ばないでください」
「条件は簡単だ。負けた方が、次のデートを断れない」
「勝ったら?」
「小箱を君に渡す」
勝てばいい。勝てば。
私は深呼吸して、反対側を咥えた。
——近い。
呼吸がぶつかる距離は、ムーンでしか見たことないのに、現実だと破壊力が違う。
殿下がじり、と前に詰める。
私は耐える。耐える。耐える。
……パキッ。
噛んだのは——殿下の方だった。
私は思わず口を離してしまい、顔を上げる。
「殿下!?」
「負けた」
堂々と言うな。
「じゃあ、私が勝ちですね。返して」
「いや。僕が負けたから、僕が『断れない』」
は?
殿下は笑って、私の耳元へ顔を寄せる。
「次のデート、僕は断れないからね。必ず来て」
「それ、ルールのねじ曲げです」
「王太子の特権」
ずるい。
しかし、ずるいと言い返すより先に、私は別のことに気づいてしまった。
——殿下、耳が赤い。
「……殿下、わざと負けました?」
「さあ」
「顔が勝利者の顔じゃないです」
「君が近いと、負けてしまうだけだよ」
その言い方が、反則だ。
「……返して」
「今日は渡す」
やっと、小箱が私の手に——
「だけだ」
「ほら来た」
「返すのは、次のデートの後」
私はその場で崩れ落ちそうになった。
「どうしてですか!」
「次の約束がないと、君が逃げるだろう?」
逃げる。
その言葉に、私は一瞬だけ詰まった。
……逃げたい。
でも、逃げきれない気もしている。
約束の当日。
殿下からの使者が来た。
『殿下、体調不良につき本日は中止』
私は手紙を読み、思わず息を止めた。
腹が立つ相手なのに、心配が先に来るのが悔しい。
——そして私は、気づけば王太子の私室の前にいた。
「……アンジェラ?」
「中止なら中止で、ちゃんと生きてるか確認くらいします」
「優しいね」
弱々しい声。
頬は少し赤い。
いつもの余裕がない。
……可哀想。いや、可哀想と思った私が負けだ。
「お医者様は?」
「来た。薬も飲んだ。あとは退屈で死ぬだけ」
「死なないでください」
私がベッド脇の椅子に腰掛けると、殿下がぼそっと言った。
「……あー」
「何ですか」
「ナースのアンジェラに看病してもらえたらなー」
その瞬間、私の中の『優しい心』が、音を立てて引っ込みかけた。
「病人が何言ってるんですか」
「熱で幻聴が聞こえる」
「あなたが喋ってます」
「熱で判断力がない」
「判断力がないのに要求だけ鮮明なの、すごいですね」
殿下は布団から手を出し、私の袖をつまむ。
「……お願い」
「その言い方、ずるい」
「知ってる」
この人、弱っててもドSなのか。
いや、弱ってるからこそ、甘え方が雑なのか。
「ナースは無理です。そんなもの持ってません」
「あるよ」
「……はい?」
殿下が枕元を指差す。
そこに置かれた小さな紙袋。
「用意しておいた」
「用意しておいた!?」
計画性のある病人、怖い。
私は紙袋を睨み、殿下を睨み、また紙袋を睨んだ。
「……殿下」
「うん」
「あなた、元気じゃないですか」
「元気じゃない。だからこそ必要なんだ」
「何が必要なんですか」
「ナース」
なんだ、ナースは世界を救うとでもいうのか?
私は深く、深く息を吸った。
「深窓の微笑令嬢アンジェラ……」
「……五分だけです。そして、その名で呼ばないでください」
「やった」
やった、じゃない。
——数分後。
私は紙袋から出てきたそれを見て、言葉を失った。
水色のワンピース。白いエプロン。帽子。リボン。
良かった。こっちのデザインか。白い方じゃなかった。
それなのに、なぜこんなに妙に『それっぽい』のか。
「……何に使う予定だったんですか」
「君が来る予定に使う」
「最低」
「最高の褒め言葉」
私は渋々、エプロンだけをつけた。
帽子は拒否した。そこは譲れない。
殿下が、ふっと目を細める。
「可愛い」
「今言うと、腹が立つのに効くのでやめてください」
「効くんだ」
「殿下……!」
殿下は咳き込み、少し苦しそうに眉を寄せた。
私は反射で背中をさする。
すると殿下が、私の手首をそっと掴んだ。
「あのさ」
「……何ですか」
「今日は、返すつもりだった」
え。
その声が、いつもより静かで、嘘っぽくなくて。
「……つもり、はいいです」
「でも、君が来たから」
「……来たから?」
「返したくなくなった」
私の胸が、嫌な音を立てる。
嫌じゃない音だ。もっと嫌だ。
「……殿下」
「うん」
「その言い方、ムーンっぽいです」
「君が好きなやつ?」
「そういう意味ではなくて」
殿下は少し笑って、目を閉じる。
「君、次は逃げる?」
「……わかりません」
「僕は、逃がしたくない」
病人が言う台詞じゃない。
きっと熱のせいに違いない。
なのに、私は言い返せない。
そのとき、殿下が箱を枕元から取り出した。
「……ほら」
「……本当に?」
「今日は、渡す」
私は手を伸ばす。
殿下は一瞬だけ、躊躇って——それでも小箱を私の手のひらに置いた。
「……返してくれるんですね」
「うん」
熱のせいか、殿下の声が少しだけ震えて聞こえた。
「でも、鍵は渡せない」
「鍵!?」
箱を確認すると、金色の錠前がキラリと輝く。
私は小箱をぎゅっと握りしめたまま、言った。
「じゃあ……私はもう、こんなふしだらな関係は終わりにします」
「……え?」
「あなた、私をからかってるだけでしょう」
「からかってない」
「脅してるだけです」
殿下の顔から血の気が引く。
あの余裕が、初めて崩れた。
「アンジェラ、待って」
温室は、昼休みの陽だまりを抱えていた。
ガラス越しの光と、湿った土の匂い。
私はホースの蛇口を締め、いつも通りに当番を終えようとして——背後の気配に、肩が跳ねた。
「深窓の微笑令嬢アンジェラ」
聞き慣れた声。
聞き慣れた、腹立たしいほど落ち着いた呼び方。
振り返ると、チャールズ殿下が立っていた。
制服姿の王太子は、病室で見た弱々しさの痕跡を、上手に消している。
……消している、はずなのに。
目だけが、焦っている。
「体調は、もう大丈夫なんですか」
「君が『あれ』を持って帰ってから、死ぬほど元気になった」
言い方。
私は表情を変えずに、じょうろを棚へ戻した。
「用件は何ですか」
「——返して」
鍵はちゃっかり持っておいて、何を言っているのか。
私が返してほしいのは、鍵だけじゃない。もっと別のものだ。
けれど、殿下が言う『返して』は、たぶん私が持っている小箱の話。
「返してほしいのは、私の方です」
「もう返しただろう」
「鍵は返してもらっていません。そして、『関係』も返してもらっていません」
殿下の眉がわずかに動く。
「昨日、言った。終わりにするって」
「言いました」
「本気?」
「本気です」
私は自分でも驚くほど、淡々としていた。
病室では胸がうるさかったのに、今は静かだ。冷たいくらいに。
「……ふしだら、なんて言葉、君の口から聞きたくない」
「では、私の口に言わせないでください」
殿下が一歩詰める。
温室の狭さが、距離を誤魔化してくれない。
「僕は、噂にする気はない」
「噂にしないなら、返してください。全部。私の時間も、私の平穏も」
「……君の『可愛い下着』も?」
そこで、私の中の最後の糸が、ぷつんと切れた。
私は笑ってしまう。
温室の明るさが、皮肉みたいに綺麗だった。
「殿下」
「なに」
「それ、脅しのつもりですか」
殿下が、言葉に詰まる。
「脅しじゃない。……ただ」
「ただ、何ですか」
「君が離れるのが嫌だった」
その本音が、昨日よりずっと生々しくて。
だからこそ、私は首を振った。
「それは、私の望む形じゃないです」
「望む形って?」
「ちゃんと、誘ってください。ちゃんと断らせてください。——そういう『普通』が、私には必要です」
殿下の唇が開く。閉じる。
一度、飲み込む。
「……普通に誘ったら、来てくれるのか」
「いいえ」
即答できた自分に、少しだけ救われる。
私はまだ、流されきっていない。
殿下の目が揺れる。
「アンジェラ。君、本当に終わりにするの?」
「はい」
二人の間に、沈黙が流れる。
「……じゃあ」
殿下は、少しだけ声を低くした。
「いいの? あの下着のこと、バラしても」
——来た。最後の手札。
私は息を吸って、吐き、そして笑ったまま、言う。
「どうぞお好きに」
殿下の顔が、凍る。
「……え?」
「私、ずっと考えてました。噂になったら確かに恥ずかしい。……でも、死にはしません」
「死には……」
「むしろ、困るのは殿下の方ですよね」
殿下の喉が動く。
「品行方正とされる王太子が、公爵令嬢の下着を保管して、条件をつけて——って。事実の方が、スキャンダルです」
「……っ」
殿下の手が、何かを掴もうとして空を切る。
余裕の仮面が、ついに剥がれ落ちる。
「待って。待って、アンジェラ」
「何をですか」
「……僕、そんなつもりじゃ」
「そんなつもりじゃないなら、最初から返してください」
冷たい言葉のはずなのに、私は不思議と泣きそうにならなかった。
泣くのは、もう少し後でいい。
殿下が、苦しそうに眉を寄せる。
「……返したら、君が消えると思った」
「消えません。学園にいます」
「そうじゃない」
殿下は一歩、下がった。
下がることでしか、息ができないみたいに。
「僕の前から、君が『僕にだけ向ける顔』をやめると思った」
——告白だ。
でも、まだ足りない。
私は小箱を取り出し、軽く持ち上げた。
「殿下」
「……」
「告白を受けるのは、パンツ(総レース)を返してもらってからです」
殿下が、目を見開く。
その次に、信じられないものを見る顔をして——最後に、笑った。
「……君、ほんとに」
「ほんとに、何ですか」
「強いね」
「強いんじゃなくて。普通を守りたいだけです」
私は小箱を胸に抱えたまま、踵を返す。
背中に、殿下の声が追いすがった。
「アンジェラ! 僕は——」
振り返らない。
振り返ったら、終わらせられなくなる気がしたから。
「続きは」
私は一度だけ立ち止まって、言う。
「ちゃんと返してから、聞きます」
翌日。
朝のホームルームが終わる直前、教室の扉が二回ノックされた。
入ってきたのは、王太子付きの侍従——昨日の『使者』だ。
「アンジェラ・ド・ヴァルモン公爵令嬢。殿下より」
机の上に、封蝋のされた小さな封筒が置かれた。
王家の紋章。見慣れないはずなのに、視界の中心を奪う圧だけは見慣れている。
開けるべきじゃない。
開けたら、また流される。
……と思いながら、私は指で封を割った。
『本日放課後、温室へ。
君に返すものがある。
——チャールズ』
たったそれだけ。
脅しも、条件も、甘ったるい言い訳もない。
……普通だ。
昨日、私が欲しいと言ったやつだ。
「……」
私は便箋を折り直し、胸ポケットにしまった。
放課後の温室。
昨日と同じ匂い。
昨日と同じ光。
違うのは、私の心臓の速度だけだ。
ガラス戸を押すと、奥のベンチの前にチャールズ殿下が立っていた。
制服姿。手袋なし。
そして——金色の鍵を持っている。
逃げない。逃がさない。
昨日みたいな追いかけっこはしない。
そういう顔を、殿下はしていた。
「来てくれて、ありがとう」
最初の言葉が、いつもと違う。
からかうための声じゃない。
「……用件は」
「返す」
殿下は鍵を、すっと差し出した。
昨日までみたいに引っ込めたりしない。
本当に、渡してきた。
私は受け取らないまま、言った。
「確認していいですか」
「もちろん」
「途中で『次のデートで』とか言いませんか」
「言わない」
言い切った。
妙に真面目に。
私はようやく鍵を受け取って、手に持つ箱を開けた。
——純白の総レース。
見慣れた私の尊厳(総レース)が、そこにあった。
息が抜ける。
同時に、肩の力も抜けてしまう。
「……よかった」
「よかった?」
殿下が、少しだけ困ったように眉を寄せる。
「僕、そこまで信用なかった?」
「はい」
「……だよね」
反省してる声色が、逆に新鮮で腹が立つ。
私は蓋を閉めて、小箱を胸に抱えた。
「これで、終わりです」
「うん」
……あれ?
「……あっさりですね」
「君が望む『普通』は、まず君の選択を尊重することだろう?」
「……昨日、ちゃんと反省したんですか」
「昨日の君が怖かった」
怖かった、って。
私、王太子を怖がらせるようなこと言ったっけ。
至極まっとうなことしか言っていなかったと思うけど。
殿下は一拍置いて、息を吸った。
「もう一通、渡したいものがある」
殿下が懐から、もう一つ封筒を出した。
今度は、紋章なし。普通の紙。普通の封。
「これは『王太子』じゃなくて、『チャールズ』から」
私は、受け取った。
昨日言った通り、『普通に誘う』なら、受け取るって決めていたから。
封を切る。
『アンジェラ。
君をからかっていたわけじゃない。
最初は、君の困る顔が見たかった。
でも途中から、君が笑うのも怒るのも、僕に向ける全部が欲しくなった。
——君と、正式に付き合いたい。
放課後、温室の外。
嫌なら、来なくていい』
読み終えた瞬間、私は紙を握りつぶしそうになった。
卑怯だ。ちゃんと『断れる』形にしてくるのが、卑怯。
顔を上げると、殿下が私を見ていた。
昨日の余裕の笑みじゃない。
逃げ道を作ったのに、逃げてほしくない顔。
「……君が昨日言ったこと、全部正しい」
殿下は言った。
「僕は、君の普通を踏み越えた」
私は小箱を抱え直して、ひとつだけ確認する。
「脅しは、もうしませんか」
「しない」
「ムーンの真似事も?」
「君が許した時だけ」
するんかい。
でも……ちゃんと言えるじゃないか。
最初からそうしろ。
「じゃあ」
私は便箋を折り畳んで、殿下に返した。
返事の代わりに。
「告白を受けるのは、パンツ(総レース)を返してもらってからです」
殿下が、目を見開く。
一拍遅れて、口元が崩れる。
「……返したよ」
「はい。返してもらいました」
「じゃあ」
「じゃあ——」
私は熱くなる頬を誤魔化すために、わざと真面目な声を作った。
「だから、もう一度、ちゃんと誘ってください」
「今誘ってる」
「デートの内容も、ちゃんと事前に言ってください」
「それは……努力する」
「条件をつけないでください」
「……努力する」
努力。努力って何。
王太子が努力するって言うの、面白い。
私は小さく息を吐いて、最後の条件を付け足した。
「あと」
「うん」
「『深窓の微笑令嬢』って呼んだら、今度こそ終わりです」
「それは痛い」
「じゃあやめてください」
殿下は、少しだけ首を傾けた。
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
「……アンジェラで」
「うん。アンジェラ」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
ああ、これが『普通』なのかもしれない。
「アンジェラ。僕と——」
殿下が言いかけたところで、私は小箱を持ち上げて遮った。
「先に言っておきますけど」
「なに」
「今後、パンツ(総レース)は二度と渡しません」
殿下は一秒固まり、次の瞬間、笑い声を噛み殺すように肩を震わせた。
「……了解」
「了解、じゃないです」
「じゃあ、代わりに」
殿下は一歩だけ近づいて、手を差し出す。
「手袋越しに手をつなぐ、から始めよう」
私は、その手を見た。
昨日までみたいに、逃げられない形の手じゃない。
断れる手。
だから、私は『自分で』選んで、その手を取る。
「……それなら」
「うん」
「許可します」
殿下の指先が、少しだけ震えた。
その震えが、何より本音に見えて——私は、もう笑うしかなかった。
パンツ(総レース)は返ったが、私の平穏は返ってこなかった。
こうして、アホな短編がまた一つ、どこかで生まれた音がした。
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