第61話 【第一部 完】別離の雨と新たな夜明け
◇◇
論功行賞の儀が終わると、王宮の奥で控えていた貴族の家族たちも次々と呼び入れられ、荘厳だった大広間はたちまち華やぎの色に満たされた。
天井からは無数の燭が光を放ち、壁面には金糸のタペストリーが揺れる。
オーケストラの奏でる旋律は軽やかで、けれどどこか物悲しい調べを孕んでいた。
「おお、ヴァレンシュタイン公爵ではありませんか! どうぞお見知りおきを!」
「お美しい! まるで女神様のようだ!」
新たに「公爵」となったセレナ・ヴァレンシュタインの周囲には、彼女に取り入ろうとする貴族や軍人たちが群がっていた。
男たちはその美貌と威厳に酔い、女たちは嫉妬と羨望を胸に忍ばせて、誰もが彼女に一言でも名を覚えてもらおうと必死だった。
「ありがとう、そなたは……」
セレナは穏やかな微笑みを崩さず、相手の名を確かめ、礼を述べ、杯を軽く合わせる。
だがその眼差しの奥は、どこか遠くを見つめていた。
何とも言えない、喪失感が彼女の中でくすぶっている。
(ほんとうに、これで良かったのか……)
時折、彼女はちらりと横目を動かす。
その視線の先には、エリオスの姿があった。
彼の周囲にも人の輪ができている。
若い騎士、将校、そして華やかなドレスを纏った令嬢たち……。
中でもルクレール宰相の娘、リーゼロッテが彼に寄り添い、なにやら楽しげに言葉を交わしていた。
セレナの胸に、言葉にできない小さなざわめきが広がる。
(今日からは領主と配下の関係ではないのだから、彼がどこで誰と話していようとも、関係ないじゃないか)
そう理性は告げる。
けれど心は、勝手に疼く。
一言でいい、ほんの一瞬でもいいから、言葉を交わしたかった。
かつてのように、気軽に呼び寄せることはもうできない。
あの距離には、もはや王の意志と宰相の策略が横たわっている。
セレナは胸の奥にそっと息を潜めた。
(これでいい……。これしかないのだから……)
間断なく訪れる挨拶の列に遮られ、エリオスのもとへ一歩も近づくことができないまま、気づけば彼の姿は、いつの間にか大広間から消えていた。
追いたい――。
けれど、追えば周囲に不審を招く。
公爵としての威厳を失うことは、セレナ自身の破滅を意味する。
あの時の言葉。
——たとえ運命が私たちを引き裂こうとしても、私の心は必ず、セレナ様のそばを離れません。
あれを、もう一度聞きたかった。
それが偽りでないと知ることができたなら、この先どれほど孤独な道でも、歩き続ける力が得られる……そう思えた。
オーケストラが終曲を奏で、夜は静かに更けていった。
そして翌朝。
王都の空は灰色に沈み、しとしとと雨が降っていた。
重たい雲の下、セレナは厚手の外套を羽織り、騎士オルハンを伴ってリオンハート邸を訪れた。
名目は王都を発つ前に別れの挨拶を交わすためだ。
突如の王族の来訪に、侍女のマリアが青ざめた顔で飛び出してくる。
「お、お待ちくださいませ! お部屋の用意を!」
「気遣いは無用です。長居をするつもりはありませんから」
セレナは穏やかに言い、外套に降り積もった雨粒を軽く払った。
応接間に通され、静かな時が流れる。
窓を叩く雨音だけが、遠くで響いていた。
やがて、入室してきたのはルチアだった。
彼女は優雅に一礼し、言葉を慎重に選びながら口を開いた。
「セレナ公爵。まずはご昇進、心よりお祝い申し上げます」
セレナは微かにうなずいた。
「ええ、ありがとう」
その声音に、かすかな焦燥が混じっていることにルチアは気づいていた。
そうしてセレナがもっとも気にしていることを問われる前に告げた。
「エリオス様は、今朝一番に、王都を発たれました」
ルチアの言葉は、まるで冷えた刃のように静かだった。
セレナの唇がわずかに震える。
「そうか……リオンハート卿も領地替えもあって忙しい身。仕方あるまい」
早くも席を立とうとするセレナに、ルチアが小さく首を横に振り、静かに続けた。
「エリオス様より、セレナ様がお見えになった場合の伝言を預かっております。
もしお越しになられなければ、私が代わって伺うようにとのご命でした」
セレナのまなざしが、彼女に吸い寄せられる。
ルチアは、懐から丁寧に折られた羊皮紙を取り出した。
そして、穏やかに、それでいて力強い口調で、その中に書かれた内容を読み上げた。
「挨拶もせず王都を発つ非礼をお許しください。
陛下と宰相殿の目が光る今、我らが密かに会うことは、セレナ様に謀叛の嫌疑を及ぼす危険がございます。
貴公の健勝と新たな領地の発展を心よりお祈り申し上げます。
また顔を合わせる機会もございましょう。その時は、これまでと変わらず気軽にお声かけくださると幸いです」
読み終えた後、ルチアは懐から小さな小箱を取り出した。
そっと蓋を開けると、赤い宝石をあしらった小指用の指輪がきらめいた。
「これは……?」
セレナが不思議そうに首をかしげると、
ルチアはわずかに頬をふくらませながら答えた。
「エリオス様から、セレナ様への贈り物です。
当家の研究室長クロエが開発した“超小型通信機”。
この指輪は、ペアの相手としか通信ができません。
あらゆる妨害も受けません。
つまりこれは、特別な相手にお贈りするペアリングです」
その言葉に、セレナの頬が淡く染まる。
胸の奥に、あたたかなものが広がっていく。
ルチアは微笑みを浮かべながら、最後の伝言を口にした。
「あの時の言葉に、偽りはありません、だそうです。よかったですね、セレナ様」
その瞬間、セレナは目を伏せ、両手で小さな指輪を胸に抱きしめた。
赤い宝石が、まるで心臓の鼓動のように微かに光を返している。
そして、セレナは顔を上げた。
その瞳はまっすぐで、深く、まるで曇天の彼方にある光を見つめているようだった。
「ルチア殿」
「はい」
「エリオス卿に、伝えてほしいことがある」
セレナは、微笑んだ。
それは女神の慈愛にも似た、穏やかで、しかし決意に満ちた微笑みだった。
「私は夢を、現実にしてみせる。そう伝えてほしい」
ルチアは静かに頭を垂れた。
その瞬間、外の雨音がぴたりと止む。
見上げれば、分厚い雲の隙間から光が差し、雨上がりの庭の草花が一斉に輝きはじめていた。
まるで、天もまた、その誓いを祝福するかのように――。
◇◇
王都を発って十日余り。
幾重にも折り重なる山脈を越え、深い渓谷を抜けた先に、エリオスの新たな領地、
「ウェスト・フロンティア」はあった。
果てしなく続く荒野。
遠くには、黒ずんだ岩肌を見せる山々が並び、その地中深くには魔晶石の鉱脈が眠ると伝えられていた。
「なんだか活気がいまいちですね」
エリオスの隣に馬を並べたリアナの言葉の通り、その地は疲弊しきっていた。
「長年にわたりカルヴァン共和国との小競り合いが絶えませんでしたからね」
ルチアがその理由を言う。
「まだ荒廃した村や農地は、あちこちにあるぜ」
先に偵察にきていたフェリオが報せた。
「先をいくぞ」
エリオスの言葉で、再び前進がはじまる。
風に乗って運ばれてくるのは、草木の香りではなく、焦土の残り香と、土に染みついた鉄錆の匂い。
それでも……。
その地に降り立ったエリオスの眼差しは、決して暗くなかった。
むしろ、その瞳の奥には確かな光が宿っていた。
「また一つずつ積み上げていけばいい。お父上のようにな」
そのひと言が、彼の側にいた者たちの胸を打つ。
「はい、エリオス様。どこまでもお供いたします」
侍女マリアが袖で涙をぬぐう。
「坊ちゃま。わたくしも老骨に鞭うって頑張らさせていただきますぞ」
執事長であり政務官のハロルドは、眼鏡の奥の目を細めて深くうなずいた。
「いやぁ、ここら辺にはたっくさん優良な素材が眠ってそうで、ボクは嬉しいけどなぁ」
クロエが心底嬉しそうに両手を上げる。
エリオスもまた口の端を上げた。
「では、始めるか」
最初の命令は単純だった。
“住まうための地を整えること”。
「ここらは安全です」
周辺を探索したアイザックの言葉に従って、焼け落ちた屋敷跡の横に仮設の天幕を張り、エリオス自らも鎧を脱いで土を運んだ。
彼は高貴な貴族である前に、領主であり、人であることを忘れなかった。
日が沈み、焚き火がともる頃になると、人々は彼の周りに集まってきた。
「ガハハハッ! 今日は俺様が狩ったイノシシで鍋を作るぞ! 皆の者、手伝え!」
「おおっ!!」
ヴォルフの豪快な料理を囲み、疲れた笑みを交わす地元の民たちの顔に、久しぶりに“希望”という名の灯りがともりはじめていた。
そんな中、リオンハート領とクロース領から移住を希望する者たちがやってきた。中にはハルモニアの職人もいる。
鍛冶師、木工職人、石工、そして織物職人。
かつて彼らはエリオスのもとで城壁や橋梁を築いた仲間たちである。
彼らの先頭に立っていたのは、『黒猫亭』の女主人、サラだった。
マリアが彼女らを出迎える・
「やっぱり来たわね、サラ」
「幼馴染なんだから当たり前でしょ! それにみんなには“黒猫亭”が必要だと思ってるし」
サラが腰に手を当てて笑う。
彼女の店「黒猫亭」は、戦から帰った兵士たちの憩いの場であり、時に密談が行われ、時に恋が芽生える場所でもあった。
「おいおい、ここでも“黒猫亭”を開くつもりか?」
もう一人の幼馴染フェリオが驚きの声を上げる。
サラはにやりと笑った。
「ふふ、あなただって嬉しいくせに」
「んなっ!? ふ、ふざけるな。俺は別に……」
エリオスも笑みをこぼす。
「みんなにとって“黒猫亭”はなくてはならないものだってことだな」
それからの日々は、嵐のようだった。
職人たちは仮設の家々を建て、クロエの率いる研究班が、魔晶石の鉱脈を調査した。
クロエは、建設中の研究棟の前で胸を張りながら言った。
「魔晶石の安定精製に成功すれば、この辺境は王国一のエネルギー供給地になるんだよ!」
エリオスは小さくうなずいた。
右手の小指に輝く、赤い宝石の指輪をそっと撫でる。
――あの時の言葉に偽りはありません。
その想いを胸に、彼はひたすら前を向いた。
初めての冬。
飢えと寒さで倒れる者も出たが、エリオスは彼らの傍らに立ち、自ら毛布をかけ、温かなスープを配った。
マリアは疲れた子供を抱き、歌を歌った。
ハロルドは灯火の下で行政文書を整え、次の春に向けた税の軽減策を立てた。
人々は次第に「リオンハート卿」と呼ぶ声に、心からの敬意を込めるようになっていった。
三〇三年三月。
春が訪れたある日、新しく建てられた街の中央広場で、エリオスは人々を前に立った。
背後には再建途中の館、その頂にたなびく紋章旗――銀の獅子が紅の空を背に咆哮していた。
「今日から、この地の名を“ブランフォード”とする」
エリオスの声が風に響く。
「戦に焼かれ、希望を失ったこの地を、再び誇りある場所へ戻そう。
我らの手で、ここに“未来”を築くのだ」
その言葉に、民衆の中から小さな歓声が上がった。
涙ぐむ者、拳を握りしめる者、笑いながら拍手を送る者。
その光景を見て、マリアはそっとつぶやいた。
「やっぱり、エリオス様は奇跡を起こすお人だわ」
ハロルドは隣で静かに頷きながら、低く答えた。
「奇跡ではない。信念と努力が、実を結ぶのだよ」
その瞬間、遠くの空がわずかに晴れた。
薄雲の切れ間から一筋の光が差し、それはまるで、遥か南の大地にいる誰かへと伸びていくようだった。
そして、指輪の宝石が微かに光を返す。
まるで、彼方からの応答のように。
彼と彼女の距離を隔てるものが、いかに広大な荒野であろうとも。
その心だけは、ひとつに繋がっていた。
【第一部 完】




