第59話 グランヴェル王国に、幸あれ
◇◇
かつてエリオスがアルベルトだった頃。
彼はその身を持って思い知ったことがある。
それは、『強者ほど、剣を抜かぬ』ということだ。
己の力が増すほど、その力を試し、誇示したくなる。しかし、むやみやたらに戦うのは、己の身を削ることにつながるり、やがては身を滅ぼすきっかけとなる。
必ずや、その剣を抜かねばならぬ時はくる。
その時まで、剣を研ぐ。
そして、戦わずして、立身を果たす。
そのしたたかな処世術こそ、王者に必要な、いわば胆力だと、彼は心がけている。
ベルクタールの決戦から十日。
薄曇りの朝、グリフォード領の旧館にエリオスが帰還したとき、出迎えに立っていたのは侍女のマリアだった。
顔をあげた途端、彼女の目には涙が浮かんでいる。無事に戻っただけで、どうしてこんなにも胸がいっぱいになるのかと自分でも驚いたように肩を震わせる。
エリオスはそんな彼女を軽く微笑んで見下ろし、こめかみへ一度だけ指をやってそっと合図した。
マリアは嗚咽を堪えて深呼吸をし、背筋を伸ばした。
「エリオス様……お戻りになられて本当に……」
「安心してくれ、こちらは戦闘にはならなかったから、全員無事だ」
そこへリアナがエリオスの背後から、ひょこりと顔を出して、にやりとからかった。
「毎回遠征で戻るたびに泣かれちゃ、エリオス様も大変ね。もういっそのこと、ずっとおそばにおいておいたらいかがです?」
マリアは無骨に涙をぬぐい、毅然とした調子で報告を始めた。
「リオンハート領、クロース領ともに、農地や商家にも大きな問題はありません」
細かな報告をていねいに述べるその声に、エリオスは頷きながら耳を傾けた。領民の安否を確認するようなまなざしは、疲労の陰りを帯びつつも、確かな安堵を含んでいた。
マリアの好きな表情だった。
だが、エリオスはすぐに表情を引き締めた。
「ところで……例の方は?」
その問いにマリアの表情が一瞬こわばる。少し戸惑ってから、彼女は躊躇いがちに言った。
「お越しになりました」
「それから?」
「仰せの通りにいたしました。しかし……」
エリオスは右手を軽く上げ、その先の言葉を制した。
マリアはかき消されそうな息を飲み込み、それ以上は何も触れなかった。
部屋で軽装に着替えた後、エリオスは執務室に控えていたルチアを伴い、地下牢へと足を運んだ。
湿り気を帯びた空気のなか、蝋燭の灯が小さく揺れている。
石の壁には、幾度も流れ落ちた水滴の跡が黒ずんでいた。
グリフォード領の地下牢は、戦時の捕虜を収めるにはやや狭く、しかしただの牢獄とは違う。かつて反逆者を幽閉したという古い歴史を持つその空間には、今なお人の気配と怨念が染みついているようだった。
鉄格子の奥にいるのは……。
ユリウス・グランヴェル。
みすぼらしい麻布をまとい、伸びた髪は乱れ、かつての威厳を感じさせるものは微塵もない。
それでも、血に刻まれた王族の誇りだけは捨てきれず、彼は格子に両手を掛け、近づいてくる足音を聞きながら歯ぎしりした。
「エリオス卿……どういうつもりだ……?」
ユリウスの声はかすれていた。怒りと焦燥とがないまぜになり、言葉の輪郭を濁らせる。
エリオスはその言葉に何の感情も示さなかった。
冷徹な表情のまま、鉄格子の前に立つと、隣のルチアが彼に代わって淡々と口を開いた。
「どうもこうもございません。
貴殿は今や国賊。
こうして牢につないでおくのが、この国の貴族としての義務と言えます」
その声音は、ひどく静かで、しかし揺るぎなかった。
「道理が通らぬ!」
ユリウスは叫んだ。
「私は王族だ! このような屈辱を受ける筋合いは……」
その言葉を遮るように、ルチアが鼻で笑った。
「ほんと、ご自身の立場すら理解できないのですね。王族?……それが今も通用するとでも?」
「ルチア、やめろ」
エリオスが軽く彼女をたしなめた。その声に込められた冷静さは、逆に場の緊張を一層張りつめさせた。
ユリウスは何も返さず、うなだれる。だが沈黙の奥には、かえって狂おしいほどの悔恨と焦燥が渦巻いていた。
「……分かった。もうよい」
ユリウスは搾り出すように言った。
「では質問を変えよう。私はいつ、ここから出られる?」
「あと三日もすれば」
エリオスの即答。まるで事前に用意していたかのような確信に満ちた声音だった。
ユリウスの表情がわずかに緩む。
「では、三日我慢すれば、妻や子供に会えるのだな?」
エリオスは、答えなかった。
わずかに目を伏せ、沈黙で返した。
「答えよ!」
ユリウスが怒声を放った。
その叫びが石壁に反響し、牢全体を震わせた。
ルチアが一歩前へ出た。先ほどまでの皮肉な笑みは消え、代わりに冷たく、凛とした声音が牢内に響いた。
「グリフォード伯爵およびその家族を死に追いやったのは……ユリウス様、あなたですね」
沈黙。
その瞬間、空気が凍りついた。
「……何を言う」
ユリウスの顔から血の気が引いた。
「私と彼に、何の関係があるというのだ?」
ルチアは一切の情を見せぬまま、淡々と続けた。
「グリフォード伯爵は、自死を選べるような御方ではありません。気が弱く、優柔不断で、誰かの影に隠れて生きてきた人。そんな人間が、自ら命を絶つ? ありえません」
「……」
「ましてや、ラミレス公国を動かし、リオンハート家を攻めさせるだけの壮大な謀略を張り巡らせる胆力があったとも思えません。
ですが、クロース領が焼かれ、ギルバード様とガレス殿が命を落としたのは、まぎれもなく彼の差し金。ならば、その背後で糸を引いていた者がいたと考えるのが自然でしょう」
「それが私だと言うのか?」
ユリウスの声には、かすかな震えがあった。
「ええ」
ルチアは即答した。
「もとよりグリフォード伯爵はルクレール侯爵にすり寄っていました。
ご存じの通り、侯爵はレオポルド陛下派の筆頭。そして彼は、カルヴァン共和国との一戦以来、エリオス様を取り込もうとしている。
レオポルド陛下とエリオス様の結びつきが強まれば、自然とヴァレンシュタイン卿と陛下の関係も固まる。そうなれば、あなたの立場は脆くなる。そこで、あなたはヴァレンシュタイン卿を味方につけようと試みた。しかし、彼女は靡かなかった」
ユリウスが苦々しい表情を浮かべる。
その反応を見て、ルチアの言葉はさらに鋭さを増した。
「こうなれば、陛下とヴァレンシュタイン卿の二人をなんとしても近づかせてはいけないと考えた。
ならば、その二人をつなぐ人物を排除すればいい――すなわちエリオス様を排除すること。
あなたの脳裏に浮かんだ邪心は日を追うごとに大きくなっていったのでしょう。
そんな折に、グリフォードが近づいてきたのです」
ユリウスの顔が青ざめていく。
その変化を確かめるように、ルチアがゆっくりと口を開いた。
「エリオス様……いえ、リオンハート家を潰す絶好の機会、そうお考えになった」
わずかに間を置いて、言葉を切る。
その続きをエリオスが継いだ。
「……我が父と忠臣を亡き者にする、という点では成功しましたね。しかし、私はこうして無事。もっと言えば、リオンハート家は結束をさらに固くし、兵力も増強した」
ルチアが小さく息をのみ、そして頭を下げた。
「エリオス様、その通りです。
そして、その失敗の責を、あなたはすべてグリフォードに押しつけた。しかも何の罪もない彼の家族を巻き添えにして」
「嘘だ……!」
ユリウスが叫ぶ。
「そんなことがあるものか! 証拠を出せ! 証拠を!」
ルチアは、ゆっくりと口角を上げた。
「では、お望みの通りにいたしましょう」
そう言って、牢の奥へ声をかけた。
「こちらへお越しください」
足音が二つ、階段を降りてくる。
現れたのは、ルクレール侯爵と、もう一人……みすぼらしい小太りの青年。
無精ひげに汚れた衣服、しかし目だけは鋭く光っている。
「名を申せ」
エリオスの声に、青年はにらみ返しながら答えた。
「……ダリウス・グリフォード。ボフミル・グリフォードは俺の伯父だ」
ユリウスが、息をのむ。
「馬鹿な……そんなはずは……」
ルチアがにやりと笑う。
「あら? “ヤツの家族は皆殺しにしたはず”――って顔ね?」
ユリウスの表情が凍りつく。
ダリウスがしゃがれた声で言った。
「伯父上は慎重な人だった。自分の試みが失敗したと悟って、家族と自分の命に危険が及ぶと感じたんだろう。路上で乞食同然に生きてた俺に、これを託した」
そう言って差し出したのは、一枚の紙切れ。
薄汚れているが、封印の印章は確かにグリフォード家のものだ。
エリオスが静かに言った。
「私の家臣フェリオが、ずっと彼の行動を監視しておりましてね。いつか役に立つと思っていたのです。まさか、こんな形でとは思いませんでしたが」
ダリウスが低く笑い、言い放った。
「約束は守ってもらうぞ。こいつと金貨十枚を引き換えだ」
エリオスは軽くうなずき、ルチアが金貨の袋を彼の足元へ放った。
チャリン、と響く音がやけに鮮明だった。
ダリウスが袋に目をやった隙に、ルクレール侯爵が紙片を取り上げ、封を破る。
そして、重い声で読み上げた。
そこには、ユリウスが黒幕であることを示す記述。
そして署名。偽造ではあり得ぬ筆跡。すべてが、動かぬ証拠だった。
ユリウスは呆然と立ち尽くす。
エリオスが一歩、彼に近づいた。
「最愛の父を死に追いやった黒幕を、生かしておくほど、俺は甘くない。悪く思うな」
その言葉に、ユリウスの目が見開かれる。
「……では、私に“再起を促した”のは、嘘だったのか……?」
エリオスは静かに首を横に振った。
「いいえ、嘘ではありません。再起をかけるのはあなたではなく、あなたの家族です」
その瞬間、ユリウスの肩が震えた。
怒りでも絶望でもない、何かを失った者の、静かな涙が頬を伝う。
「あなたの妻と子の安全は、ここにいるルクレール卿と彼らを保護しているヴァレンシュタイン卿が保証してくださいます」
エリオスの声は変わらぬ冷静さを保っていた。
だが、その奥には、確かに父と家を奪われた者の怒りと悲哀が宿っていた。
ユリウスは嗚咽をこらえきれず、鉄格子にすがりついた。
その涙は、悔しさよりも――安堵に近かった。
◇◇
三〇二年十一月二十二日
それは、鈍い鐘の音とともに始まった。
王都グランヴェル全域に鳴り響くその音は、いつもの祝祭の合図ではない。
罪人の最期を告げる、重く沈んだ鐘の音であった。
十日前。形式だけの裁判が開かれた。
罪状の読み上げ、証拠の提示、弁明の機会。
それらはすべて、儀式にすぎなかった。結論は、最初から決まっていた。
――反逆罪および王家転覆の謀。
第二王子ユリウス・グランヴェル、その名に連なる王族の誇りも、この日をもって地に落ちた。
その朝、牢獄の扉が開かれた。
鉄の軋む音に振り向いたユリウスの姿は、もはやかつての王子の面影をとどめてはいなかった。
穴の空いた囚人服。
伸び放題の髭。
乱れた金髪の間に覗く灰色の瞳は、深い虚無を湛えている。
手足は太い鎖でつながれ、首には重たい鉄の枷が嵌められていた。
看守が無言で鎖を引くと、ユリウスは抵抗もせず立ち上がった。
裸足のまま、冷たい石畳を踏みしめる。
その足裏に伝わるのは、過去の栄華を嘲笑うような、乾いた砂と塵の感触だった。
監獄からコロシアムまでの道のり。
それは、王都を横断する「恥辱の行進」として、民衆に見せしめられた。
行く先々で群衆が押し寄せ、怒号と罵声が飛ぶ。
「裏切り者!」
「王家の恥!」
石が飛び、泥水が降りかかる。
かつての王子を慕った者たちも、いまやその顔を伏せるしかなかった。
しかし、すべての民が憎しみを向けていたわけではない。
中には、沈黙のまま唇を噛み、涙をこらえる者もいた。
かつて、民を慕い、学を愛した優しき第二王子の姿を、心のどこかで覚えていたからだ。
コロシアム。
王都最大の競技場。いまは祭りの歓声ではなく、裁きのために開かれていた。
周囲の観覧席には、ぎっしりと人々が詰めかけている。
処刑の場とは思えぬほどの熱気だった。
中央の壇上に、ユリウスが引き出された。
鎖が引きずられる音が、静まり返った場内に響く。
「ひざまずけ!」
膝を折らされ、背を押されても、ユリウスは俯かなかった。
ただ、遠くの空を見上げる。
秋の陽は淡く、しかし澄んでいた。
まるで彼を見下ろす神が、最後の慈悲を与えているかのように。
やがて、金色の装束に身を包んだ男が姿を現した。
新たに戴冠した国王……レオポルド・グランヴェル。第一王子として生まれ、ついに王座に就いた男。
威厳に満ちたその立ち姿に、場内がどよめき、やがて歓声が巻き起こる。
「陛下万歳!」
「新たな時代に栄光を!」
レオポルドは手を挙げて、それらを制した。
次の瞬間、広大なコロシアムは、水を打ったように静まり返る。
彼は壇上の中央に立つ弟を見下ろした。
その眼差しに、怒りも哀れみもなかった。
あるのは王としての冷徹な責務のみ。
「ユリウス・グランヴェル。
この国を裏切り、王家の威を損ね、民を混乱に陥れた罪、万死に値する。
――最後に、言い残すことはあるか」
その声はよく通った。
群衆の息が止まり、ユリウスの返答を待つ。
ユリウスは、しばし沈黙していた。
虚ろな瞳で、ゆっくりと観衆を見渡す。
怒りに満ちた顔、涙を浮かべる顔、そして怯える子供たち。
そのすべてを見つめ、静かに息を吐いた。
その瞬間、視線の先に、ひとりの女が立っていた。
セレナ・ヴァレンシュタイン。
金色の髪を風に揺らし、厳しい面持ちで彼を見つめている。
そして、その脇に――。
妻と、二人の幼い子供。
男の子は父をまっすぐに見上げ、少女は母の裾を握っていた。
ユリウスの心臓が、ひときわ強く脈打った。
「ああ……」
唇が震え、声にならぬ言葉が漏れる。
セレナと目が合った。
彼女は、何も言わず、ただ小さく頷いた。
その一瞬に込められたのは……。
“後のことは、私が引き受けます”
そう告げる沈黙の誓いだった。
ユリウスは、ふっと微笑んだ。
初めて、穏やかな顔だった。
その表情を見た民の中に、思わず胸を詰まらせる者もいた。
「グランヴェル王国に、幸あれ!」
声は高く、力強く響いた。
誰もがその言葉に驚いた。
裏切り者の最期の言葉が、祖国への祈りだったからだ。
刃が振り下ろされたのは、ほんの刹那のこと。
風が止まり、音が消える。
次の瞬間、鮮血が弧を描いて宙を舞い、陽光に照らされてきらめいた。
首が地に落ち、体が崩れ落ちる。
その顔には、苦悶の影はなかった。
むしろ解放の笑みが浮かんでいた。
観衆の誰もが、声を発することができなかった。
処刑の歓声はなく、ただ風が通り抜ける音だけが響いた。
その静寂のなかで、レオポルドは立ち尽くしていた。
弟の亡骸に視線を落とし、わずかに唇を結ぶ。
「……せめて安らかに眠れ」
そう呟いた言葉は、誰にも届かなかった。
ただ、澄み渡る秋空の下で、ひとりの王と、ひとりの王子の物語が、静かに幕を閉じた。




