第58話 ベルクタール平原の戦い
◇◇
三〇二年十一月二日——。
夜が明ける直前。
東の空が薄く白みはじめた。
霧が平原を覆い、視界の先は霞んでいる。
王国軍も、公国軍も、互いの姿を確認できぬまま、静かに整列した。
誰もが息を殺し、馬の鼻息だけが、白く空に溶けていく。
「ついにこの日がきたか……」
レオポルドは馬上で、遠くを見つめていた。
「兄上……」
ユリウスもまた、同じように馬上で、霧の向こうを見ていた。
その間に、かつての兄弟の思い出が流れる。
――森の中で、手を取り合って笑っていた日。
――父の剣をこっそり抜き、叱られて並んで正座した夜。
――母の墓前で、互いに「国を守る」と誓い合った朝。
だが今、彼らは剣を交えようとしている。
ドロテアが小さく右手をあげると、どこからともなく旗が揚がる。
「進め」
彼女の小さな声。
第一陣、進軍開始――。
兄と弟。
愛と忠義。
理想と現実。
それらが渦を巻く中で、運命の歯車は、ゆっくりと、確実に回りはじめた。
◇◇
初夏のベルクタールは、どこか不気味な静けさに包まれていた。
夜の名残を留める白霧が、朝陽を呑み込みながら地を這う。遠くで鶯の声がしたが、それもやがて風に攫われ、消えた。
ユリウス・グランヴェルは、天幕の中で一人、地図の上に置かれた駒を見つめていた。
彼の指先はかすかに震えていたが、それは恐れではない。
思考を極限まで張り詰めている証だった。
──剣よりも、学問を愛した。
それが彼の若き日を象徴する言葉である。
兄が騎士として戦場を駆けた頃、彼は書庫に籠り、文献と地図の海に沈んでいた。
文学、数学、政治、地理学──学ぶほどに、世界の広がりと人の愚かさを知った。
ベルクタール平原の地形も、その特性も、彼の記憶には刻まれている。
初夏のこの時期、朝霧が発生しやすく、時に視界は十歩先も見えぬほどに閉ざされる。
それは、弱者にとっての僅かな救い。大軍の視界を奪う“天の帳”だった。
ユリウスは地図を睨みながら、静かに呟いた。
「……勝機は、霧の中にある」
戦いの朝。
彼の読みは完璧に的中した。
夜明けとともに白い霧が立ち込め、やがて平原全体を覆いつくした。
視界はまったくきかず、敵も味方も、旗を見失えばどちらがどちらか判別できぬ。
「行軍を開始せよ」
ユリウスの号令が、静寂を切り裂く。
音もなく動き出す兵たち。鎧の擦れる音だけが、霧の中に響く。
彼らは中央を避け、ゆっくりと左へ、左へと進路を変えた。
狙うは、レオポルド軍の右翼──ゾヨラ子爵の部隊。
「右翼への迂回、進行順調。指揮官ヘルマン公爵、突撃準備完了!」
「ドロテア殿、中央への布陣を完了!」
報告が入る。ユリウスは短くうなずいた。
「……よし、霧が晴れる前に叩く。叔父上とドロテアに伝えよ、号令の刻だ」
霧の奥で、角笛が低く鳴り響いた。
それが合図となり、地を揺らすほどの突撃が始まった。
ユリウスの胸が高鳴る。勝利を信じて疑わなかった。
だが……。
いくら待っても、吉報は届かない……。
時間だけが、無情に過ぎていく。
霧は薄れ、陽光が徐々に平原を照らし始める。
嫌な予感が、首筋を這い上がる。
「おかしい。報告が遅すぎる」
その時だった。
天幕の外から、荒々しい足音とともに、伝令が転げ込んできた。
「ほ、本陣に報告! お味方、苦戦中!」
ユリウスは顔を上げた。
「苦戦? ドロテア? ヘルマン? どっちだ!?」
「ヘルマン公爵の方です! ライナルトの精鋭部隊の奇襲にあい、瓦解寸前とのこと!」
「なにっ……!」
ユリウスの顔色が変わった。
彼は即座に通信機を手に取り、ドロテアを呼び出した。
「ドロテア! そっちはどうなってる!?」
雑音の中から、途切れ途切れに聞こえてくる声。
「敵大将が自ら大軍を率いてきました!」
「なっ……!? 兄上が!」
「くっ、数が……数が違いすぎます! と、とにかく、もう持ちません! いったん退きます!」
声は、悲鳴に近かった。
さらに別の伝令が駆け込む。
「右手から敵! こちらに向かってきます!」
「なにっ!?」
ユリウスは絶句した。
血の気が引き、指先が冷たくなっていく。
(霧を利用したのは自分だけじゃなかった……)
すなわち、右翼にあえて隙を作り、こちらが回り込んでくるように仕向けた。そして、ひっそりと精鋭のライナルトの部隊を右翼のさらに外側に回り込ませ、こちらが攻めてきたところで、右翼の部隊と挟撃した、ということだ。
さらに戦況が有利と見るや、今度は左翼の部隊で本陣を突いてきたのだろう。
「……私も行く」
ユリウスがそう言って槍を手に取り、外へ出ようとしたその瞬間。
前線から戻ってきた一人の男が、彼の前に立ちはだかった。
ヘルマン公爵である。
鎧は破れ、顔には血が伝い、肩口には深い傷。
それでもその目は、炎のように燃えていた。
「叔父上!!」
「陛下……」
掠れた声で、ヘルマンは言った。
「ここは、わしにお任せを。どうか、お逃げください」
「なにを言うのだ! あなたを見捨てて逃げられるはずが……!」
「黙りなさい!」
ヘルマンの叱責が、雷のように響いた。
その声には、老いた将としての覚悟と、父のような情が宿っていた。
「生きてさえおられれば、再び立ち上がることができる! そのことを知らぬほど、我が主君は愚かではあるまい!!」
「だが、私は──!」
「聞け、ユリウス!」
ヘルマンは血まみれの手で、ユリウスの肩を掴んだ。
その手は熱く、震えていた。
「万が一に備え、陛下の奥方とお子たちは、すでにセレナ・ヴァレンシュタイン卿の庇護下にあるではないか。
彼女は中立を貫く高潔な人。誰よりも、陛下のご家族を守ってくれるはず。
だから陛下は……どうか東へ。エリオス・リオンハート殿を頼りなさい。
彼なら、陛下を悪いようにはなさらぬ」
ユリウスの頬に、涙が伝った。
「叔父上……私は……」
「最後に、一つだけ無礼をお許しあれ」
ヘルマンは深く頭を下げた。
「陛下は、子のない私にとって、我が子も同然でした。
だからどうか、生き延びてください。
それが、わしの……最後の願いです」
彼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
その刹那、天幕の外から怒号が響く。敵の足音がすぐそこまで迫っていた。
もう時間はなかった。
ヘルマンは近くにいた兵から馬を奪い、ユリウスを鞍に乗せた。
「行け!」
そして、馬の尻を思い切り叩いた。
驚いた馬が嘶き、霧の中へと駆け出していく。
ユリウスは叫んだ。
「叔父上! 叔父上ぇぇぇぇ!」
だが、風がその声をかき消した。
ヘルマンはその背を見送り、ゆっくりと振り返った。
その目に迷いはなかった。
深く息を吸い込み、胸を張って叫ぶ。
「我こそは、グッド・ヘルマンなり! 討てる者があるなら来い!」
その咆哮とともに、彼はたった一人で敵陣へと駆け込んだ。
剣が閃き、血が舞う。
その姿は、老いを忘れた獅子のようだった。
やがて、遠くから聞こえてきた。
「敵将、グッド・ヘルマン、討ち取ったり!」
ユリウスは振り返らなかった。
背中で、風の中に消えるその声を聞きながら、ただ馬を走らせた。
霧が晴れた平原には、倒れ伏す味方の兵たち。
焼け焦げた旗。
そして、静寂だけが残っていた。
◇◇
エストリア帝国の帝都。
巨大な城塞都市の中心に、黒曜石のごとき艶を放つ皇城がそびえていた。
厚い石壁に囲まれたその内部は、外界の喧噪とは無縁の静謐に包まれている。だが、その静けさの中にひそむのは、常に牙を研ぐ獣の息遣い。
その奥深く、誰も立ち入ることを許されぬ謁見の間で、皇帝マクシミリアンは椅子の背にもたれ、細長い指で玉座の肘掛けを軽く叩いていた。
低く響く音が、広大な石造りの間に乾いた残響を落とす。
「そうか、短期で決したか」
通信機の向こうから伝わる報告を聞き終えた皇帝は、わずかに眉をひそめた。
その声音には、落胆と倦怠が入り混じっている。
「つまらんな。もう少し、長引けばあるいは、と考えていたが……天運はいまだこの老いぼれを嫌っているらしい」
その言葉に、玉座の周囲に控えていた四人の将たちは誰ひとり笑わなかった。
彼らこそが『エストリア四天王』。帝国における最高の武と智を兼ね備えた精鋭たち。
全員が皇帝に忠誠を誓い、そのためにのみ剣を取る者たちだった。
筆頭のマティアス・ヴォルクナーは、冷酷無比の勇将で、その姿を見ただけで敵は震え上がるという男。
彼の隣には、知略家ルドルフ・ゲルナー。
対外工作を担う影の女王クラウディア・ローレン。
そして、唯一その場にいないのが、最年少にして、『空の覇者』とうたわれる戦乙女アンネリーゼ・ハーゼン。
彼女は今、帝国北端の国境地帯に展開していた。グランヴェル王国との境を守る、『竜騎士軍団ヴァイス・ドラグーン』の総指揮官として。
玉座脇の水晶球に光が灯った。
澄んだ女性の声が、静寂を破る。
「閣下、竜騎士軍団ヴァイス・ドラグーンは、いつでも出撃可能であります。敵の守備隊は千。今この機に撃破すれば、要衝リヴモン城の占拠は確実。後の侵攻にも大いなる利をもたらします。どうか出撃の許可を!」
その声には若さゆえの熱がこもっていた。
皇帝は口の端にわずかな笑みを浮かべ、視線を隣に送る。
マティアスは静かに首を縦に振り、通信機に向かって低く問う。
「敵の旗の紋様は、何と記されている?」
「黒地に、銀の獅子」
わずかな沈黙。
マティアスの表情が、険しくなった。
「やはりな……それは『リオンハート家』の旗印だ。
守備隊を率いているのは……エリオス・リオンハート」
通信機の向こうで、アンネリーゼの息が止まった。
その名を聞いた瞬間、彼女の中で冷たいものが背を走る。
エリオスの名とその実力は、軍事大国の名将たちの耳にも届いている証だった。
だが彼女は、すぐにその緊張を打ち消すように声を張り上げた。
「師匠……いえ、マティアス殿! いかに漆黒の悪魔と呼ばれようと、我らヴァイス・ドラグーンが後れを取るはずがありません! この翼の速さと竜槍の鋭さをもってすれば、敵陣を瞬く間に焼き払えます!」
熱を帯びたその声に、マティアスはため息をひとつ洩らした。
「アンネリーゼ、よく聞け」
その声には、師としての厳しさと、どこかに滲む優しさがあった。
「万が一……たとえわずかでも、おまえたちが敗れたとすればどうなる?
グランヴェルの守備兵は勢いを得、国境を越えて我が領内に侵入しよう。そうなれば、我らの防衛線は崩壊する。
おまえが狙っている『先手』は、あやうく『自滅』に変わるのかもしれんのだぞ」
「……っ、しかし!」
「焦るな。こちらから仕掛ける戦は、必ず勝てるという確信のあるものでなくてはならない」
その言葉に、アンネリーゼは沈黙した。
通信の向こうで、彼女が唇を噛む音が微かに響いた。
長い間、空気を切り裂くような沈黙が流れ……やがて、皇帝マクシミリアンがゆっくりと身を起こした。
「若き英雄アンネリーゼよ」
その声は低く、だが不思議な威光を帯びていた。
通信機越しでさえ、彼の覇気はまるで霧のように広がり、周囲の空気を支配してゆく。
「焦るでない。おまえと、その誇り高き飛竜部隊が、グランヴェルの空を征く日は必ず訪れる。
余が約束しよう。
その時こそ、帝国の新たな歴史の始まりだ」
マクシミリアンの眼差しは、遠く南方の地平を見据えていた。
その視線の先には、まだ知らぬ英雄の影。
彼との戦いの炎が、やがてエストリアの野にも燃え広がることを、彼だけは確信していた。
そして皇帝は、低く笑った。
「次こそは天運を振り向かせてみせよう」
その笑い声が、静まり返った謁見の間に長く、長く反響していた。




