第57話 ベルクタール平原 ――決戦前夜
◇◇
グリフォード屋敷の客室。ここで一晩過ごすことになったルクレール侯爵は、
通信機の前に座った。淡く青白い光を放つ水晶装置が、静かに揺らめいている。
彼は、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、両手を装置の上にかざし、起動させた。
ぱちり、と。
青白い光が強まり、やがて一つの像が浮かび上がる。
そこに現れたのは、グランヴェル王国の新国王レオポルド。
鎧ではなく、質素な紺の軍服に身を包み、机上の地図を前にしたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「ルクレールか。どうだった?」
低く、落ち着いた声。
その声に、老侯爵の背筋がさらに伸びた。
「陛下、お察しの通り、ユリウス殿はエリオス卿のもとに姿を現されました」
「彼の言う通りになった、ということか」
レオポルドの眉がわずかに動く。
「はい。その目的もまたエリオス殿の読み通り……南部からの挟撃を要請するため」
レオポルドは黙って聞いていた。
その沈黙に、ルクレールは続けた。
「しかし、エリオス殿はそれを拒みました。
“正々堂々、雌雄を決するべき”と述べ、だまし討ちを嫌い、ユリウス殿下を大人しく帰された……すべてこの目で見て、この耳で聞いたことゆえ、間違いありませぬ」
通信機の向こうで、レオポルドの顔がわずかに陰った。
その表情は、怒りでも嘆きでもなく、深い疲労を帯びていた。
「……そうか」
小さく息を吐く。
「これでもう、弟と戦うしかないのか」
その一言に、ルクレールの胸が締めつけられた。
老侯爵は、長い沈黙ののちに、そっと目を伏せる。
彼は幼い日の二人を思い出していた。
庭園を駆け回る少年たち。
兄レオポルドが手を伸ばし、引きこもりがちな弟ユリウスの手を引いて外に出す。
時に叱り、時に励まし、そして二人で笑い転げていた。
あの笑顔を、ルクレールは何度も見てきた。
まるで陽の光と月の光が寄り添うような兄弟だった。
だがいま、その光は互いを焼き尽くそうとしている。
「陛下……」
ルクレールは低く言った。
「幼い頃のお二人を知る私にとって、これはあまりに忍びないことです。
レオポルド様も、ユリウス様も、共に真っ直ぐすぎる。
決して折れぬ強さと、他者を疑わぬ清廉さ。
どちらも、先王陛下に似ておられる」
「父上に、か」
レオポルドの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
「確かに、父上も頑固だった」
その笑みはすぐに消えた。
重い沈黙が、再び二人の間を流れる。
ルクレールは、言葉を探した。
何を言っても慰めにはならないと分かっていたが、それでも何かを口にしなければ、胸が張り裂けそうだった。
「これ以上……長引かせては、民の不満につながりましょう。そろそろご決断を……」
レオポルドは深く息を吸い込み、そして吐き出した。
「貴殿がこちらに戻り次第……兵を動かす」
その声は低く穏やかだったが、
そこに込められた覚悟は、冷たい鋼のように固かった。
ルクレールの目の奥に、痛みが走る。
彼は、長い人生で幾多の戦場を見てきたが、いまほど血の匂いを嫌悪したことはない。
戦えば、どちらかが死ぬ。
それが、兄弟であるという現実が、あまりにも残酷だった。
しばらくの沈黙のあと、通信機の向こうから、ぽつりと声が漏れた。
「……ありがとう」
ルクレールは一瞬、息を呑んだ。
「陛下……?」
レオポルドは淡く笑った。
「これまで、俺のために、色々と手を尽くしてくれたこと。感謝している」
ルクレールの喉が震えた。
老侯爵は、しばし言葉を失い、やがてゆっくりと口を開いた。
「陛下は……私の大切な義理の息子なのですぞ」
「義理の……そうだったな」
レオポルドが少し驚いたように笑う。
「ええ」
ルクレールも微笑んだ。
「大切な息子を助けぬ不義理な男には、なりたくなかっただけです」
短い沈黙の後、通信機の向こうで、レオポルドの小さな笑い声が響いた。
「……ありがとう、父上」
その声音には、かすかな安堵が混じっていた。
「もう切る。明日、朝一番にそこを発つのだ。よいな」
そこで通信はふっと光を失い、静かに途絶えた。
広間に残されたのは、老侯爵ただ一人。
ゆっくりと椅子に腰を下ろし、天を仰いだ。
「……歳をとりすぎたせいかもしれぬな」
目頭の熱を手の甲でぬぐい、自嘲気味に笑う。
外では、夜風が木々を揺らし、遠くの空には雷光が一閃した。
戦の幕が、いよいよ上がろうとしていた。
ルクレール侯爵は立ち上がり、出立のための身支度を、ひとつひとつ整え始めた。
その背に、老いてなお燃える忠義の炎が、静かに灯っていた。
◇◇
神聖歴三〇二年十一月一日。
風が生ぬるい夜だった。
晩秋、星々が薄雲の合間から覗くベルクタール平原。
一面に伸びる金色の草原が、夜風に波のように揺れている。
その中央を境に、二つの軍勢が遠く向かい合っていた。
南にはレオポルド軍。
北にはユリウス軍。
互いの焚き火が、夜の帳の中でゆらゆらと明滅している。
風に乗って届くのは、火薬の匂いと、鍛冶場の鉄の香り。
近づく戦の足音に、誰もが息を潜めていた。
◇◇
【王国軍本陣】
王国旗のはためく天幕の中。
レオポルドは机上の地図に目を落としていた。
髪は少し乱れ、鎧の留め金には、無数の擦れ跡。
だがその背筋はまっすぐで、目は曇りなく澄んでいた。
天幕の外では、兵たちの鎧がこすれる音、槍を立てる音が微かに響く。
重苦しい空気の中、ただひとり、グリフォード領から戻ったばかりのルクレール侯爵が静かに立っていた。
旅塵をぬぐうこともなく、戦装束のまま。
王の傍らに控えるその姿は、老いてなお威厳を失わない。
「全軍、配置につきました」
副官が報告を終えると、レオポルドは短くうなずいた。
「よい。合図があるまで動かすな」
声は落ち着いていた。
だが、その指先がわずかに震えているのを、ルクレールは見逃さなかった。
「陛下。少し外の空気でも吸いますかな?」
レオポルドはふっと肩の力を抜き、「ああ、そうしよう」と、ルクレールとともに幕の外に出て、外の夜空を見上げた。
「静かな夜だな。」
「ええ、嵐の前にはよくある静けさです」
ルクレールの声は穏やかだった。
「ユリウスも、同じ星を見ているだろうか」
レオポルドはぽつりと呟いた。
胸の奥に疼くものがある。
思い出の断片――まだ少年だった頃、兄弟でこの平原を駆けた日の記憶。
父王の狩りに随行したとき、レオポルドは木剣を振るい、ユリウスは小鹿を追って転んだ。
そのたびに兄が手を差し伸べ、弟は照れくさそうに笑った。
――兄上! 私も兄上のように強くなりたいです!
――あはは! お前ならなれるさ!
そのやりとりを、風が運んで消していった。
いま、その平原で、彼らは剣を交えようとしている。
「陛下」
ルクレールの声が現実へと引き戻した。
「本当に、やるのですな」
レオポルドは、深く息を吸い込んだ。
「ああ、この国のためだ」
その一言に、ルクレールは目を伏せた。
若き日の父王、アルフォンス三世と同じ声色だった。
◇◇
【ユリウス軍陣営】
夜の闇が深まり、ベルクタール平原の北端に築かれた公国連合軍の陣営には、数えきれぬほどの篝火が灯っていた。
戦の前夜にしては不気味なほど静かだった。誰もが息を潜め、やがて訪れる運命の刻を待っている。
本陣の大天幕では、上級将校たちが一堂に会していた。
広げられた地図の上には、駒や赤い線が散らばり、明日の戦の流れを示している。
ユリウスはその前に立ち、無言で平原の地形を見つめていた。
「レオポルド軍の中央には、ライナルト・シュタインベルク。右翼にはゾヨラ卿。左翼を支えるのは恐らくローデン卿でしょう。いずれも精鋭で知られた軍勢です」
ドロテア・ヴァイスハルトが、淡々と報告した。
「我々が正面から挑めば、苦戦は免れません」
その声に、ユリウスはゆっくりと顔を上げた。
「この地方では、初夏のこの時期、朝方に濃い霧が発生する」
ドロテアはわずかに息を呑んだが、ぐっと声を落とした。
「陛下。それはまことですか?」
そのとき、ユリウスの背後から落ち着いた低音が響いた。
「なるほど、霧を利用する、ということか」
声の主は、亡きアルフォンス三世の弟君ヘルマン公爵であった。
六十を超えてなお堂々たる体躯を保ち、白髪の混じる口髭が威厳を際立たせている。
ドロテアは椅子から立ち上がり、地図の上に手を置いた。
「右翼のゾヨラ卿の軍は、長きに渡るカルヴァン共和国との戦いもあって、まだ万全とは言えません」
ユリウスは黙したまま、その言葉を聞いていた。
ヘルマンはその横顔をじっと見つめ、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「霧を利用し、相手に気づかれないように右翼に回り込み、急襲する」
天幕の中に、ひとときの静寂が満ちた。
その沈黙を破るように、ユリウスは低くつぶやいた。
「やはり正々堂々では、私は兄上にかなわない、ということだな」
ヘルマンの瞳に、悲しみが宿る。
「それは陛下が兄よりも劣っている、ということでは決してございますまい」
「ああ、分かっているさ。すまぬ、少し意地を張ってみただけだ」
ユリウスはきっぱりと答えた。
「奇策でも何でもよい。とにかく勝つ。勝って王国に平和と安定をもたらすのだ」
ヘルマンはゆっくりとうなずき、肩の力を抜いた。
「ええ、わしも陛下の盾となって働こう。たとえこの身が朽ちても、陛下の道を切り拓くために」
その声には、静かな炎のような決意が宿っていた。
ドロテアが一歩進み出て、地図上に新たな駒を置いた。
「第一陣は私が率い、中央を突撃。敵を引き付けます。その間に、ヘルマン殿率いる主力隊は回り込み、敵右翼を急襲。中央のライナルトが右翼の加勢に回ったところで、陛下が自ら軍を率いて、中央を突破。敵本陣を突く、という作戦です」
ユリウスは小さく頷き、手袋をはめ直した。
「いいだろう」
その声が響いた瞬間、天幕の外で見張りの兵たちが姿勢を正した。
緊張が、静かに陣全体を包み込む。
ヘルマンは天幕を出る前に、ユリウスの肩に手を置いた。
「陛下は、アルフォンスの血を継ぐ者じゃ。だが、それだけではない。
陛下には、先王にも持ち得なかった“優しさ”がある。その優しさが、いつかこの国を救うと信じておりますぞ」
ユリウスは何も言わなかった。ただその手を一瞬だけ握り返した。
夜風が幕を揺らし、篝火の火の粉が舞う。
天を見上げると、雲に隠れた月がかすかに光を放っていた。
ヘルマンはその光に向かって、静かに祈るように呟いた。
「兄上……。どうか見守り給え。
ユリウス様が、国を滅ぼす者ではなく、国を救う王となるように」
彼の声は風に溶け、夜空の闇に消えていった。
そして、黎明の鐘が鳴る前、ユリウス軍の陣営に出陣の号令が響き渡るのだった。




