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第56話 密談と約束

◇◇


 神聖歴三〇二年十月末。

 重厚な扉が閉ざされると、そこには外界から切り離されたような静寂が訪れた。

 エレーナ王国の評議室。それはもとは北方辺境の一城館にすぎなかったが、

 今やユリウスを新たな王として擁立するための政治と軍略の中心であった。


 秋の風が、窓の隙間を叩く。

 長卓の上には広げられた地図と、無数の軍駒。

 そのひとつひとつが、命の重みを持つ現実の兵であることを、誰もが理解していた。


 卓の上座には、王弟ヘルマン公爵が座していた。

 齢六十に近いが、その眼光はいまだ鋭く、老獪さを隠さぬ。

 その左右には、ユリウスを支持する貴族と軍人たち。

 血統、立場、忠義、それぞれ異なる思惑を胸に秘めた者たちが並んでいた。


「諸君」


 ヘルマン公爵の低く通る声が、静寂を破った。


「まずは現状の報告から始めよう」


 地図の前に立ったのは、一人の女性。

 長身に銀灰色の鎧を纏い、黒鉄のような瞳を光らせていた。

 その名をドロテア・ヴァイスハルト。

 かつてグランヴェル王国四剣の一人として名を馳せ、【不壊の剣壁】の異名で恐れられた女剣士だ。

 その腕一本で戦況を覆したこともあるという伝説の戦士が、今はユリウス軍の柱としてここに立つ。


「では私から」


 ドロテアは地図の上に手をかざし、静かに口を開いた。


「我が軍の総勢は、六万。そのうち、正規兵として訓練を受けた兵は三万。

残る三万は、傭兵や徴兵された平民兵で構成」


彼女の声は冷静で、数字を告げるその響きには一片の情もなかった。

戦場を知る者の声だった。


「一方、レオポルド軍は八万。

正規兵は同じく三万。しかし、王都の商人たちが資金を投じ、雑兵にまで武具と食料を供給していると聞く。士気は高く、兵の質は一様ではないにせよ、物資の潤沢さでは我が軍を凌駕している」


 地図上に描かれた赤と青の線が、王国の穀倉地帯となっているベルクタール平原を挟んで向かい合う。そこが戦場になるのは、誰の目からも明らかだ。

 その距離、わずか三日の行軍。


「つまり、兵の質も数も劣勢ということか」


 誰かがぼそりとつぶやくと、部屋の空気がわずかに重くなった。

 だが、ドロテアは首を横に振った。


「必ずしも、そうとは限らない」


 その声音には確信があった。


「正規兵の数が同じであれば、勝敗を決するのは用兵の巧拙。

そして、戦場を読む目。

敵方の司令官は、王国第二位の名将ライナルト・シュタインベルク。

確かに彼は“鉄の槍陣”を持つと謳われた稀代の戦略家。

だが彼の戦は、常に防御から始まる。

つまり、我らが初動で主導権を握れば、勝機は必ずある」


 それでも、重苦しい沈黙が続いた。

 勝機があると言われても、それは薄氷の上の話だからだ。


「つまり機先を制し、一気に蹴りをつけるしかない、ということだな」


 ヘルマン公爵が呟くと、室内の全員が小さくうなずいた。

 ユリウスは黙ってそのやり取りを聞いていた。

 彼の瞳は暗く、深い湖のように揺れている。

 この会議室の誰よりも冷静に見えるその姿の裏には、血のように熱い焦燥が渦巻いていた。


(……兄上を倒す。それ以外に道はない)


 レオポルドの名を思うたび、胸の奥に古い傷が疼いた。

 あの夜、酒を酌み交わしながら笑っていた兄の顔。

 そして、その口からこぼれた言葉――「お前の子を養子に」。

 あの一言が、すべてを壊した。


「これ以上時を待っても好転はしない。よって早々に決戦の地ベルクタール平原を目指す」


 ユリウスの静かな声が、室内に響いた。

 もはや王国は二つに裂け、剣を交えることは避けられない。

 ならば、進むしかないのだ。


 会議が終わり、諸将が席を立ち始める中、ユリウスは密かに椅子から立ち上がった。

 外はすでに夜。

 降りしきる雨が冷たく頬を濡らす。


 彼は数名の近衛だけを連れ、密かに馬を出した。

 行き先を知る者は、ヘルマン公爵を除いて誰もいない。


 その馬の頭を向けたのは……南西。

 辺境の要塞都市ヴァレンシュタインのさらに奥、エリオス・リオンハートの領地である。


「……彼しかいない」


 呟いた声は、夜風に溶けて消えた。

 レオポルドとライナルトに対抗しうる唯一の切り札。

 その男を味方につけねば、王座は遠のく。

 一方で、その男がどれほど危険で、どれほど底知れぬ存在であるかを、ユリウスは知っていた。


 それでも、行くしかない。


「兄上が理をもって国を治めるというなら……私は闇を背負ってでも、この国を取り戻す」


 黒馬が嘶き、夜の帳の中を駆け抜ける。

 その蹄音が水たまりを打ち、やがて遠ざかっていく。


 ユリウスが南へ向かったその夜、グランヴェルの運命は、静かに次の転換点を迎えようとしていた。


◇◇


 ヴァレンシュタイン辺境領の西南部。

 そこは、かつてグリフォード伯爵の支配下にあり、穏やかな風が大地を渡る肥沃な穀倉地帯であった。

 金色の麦畑は風に揺れ、遠くには緑の丘が連なり、鳥のさえずりさえもゆったりと響く。

 しかし今、その静寂の只中に、ひときわ異質な建造物が聳えていた。


 白亜の外壁に深紅の屋根。

 見上げるほどの尖塔を備えた壮麗な館は、まるでこの地の質素な景色に挑むかのように建っている。

 それが、今エリオス・リオンハートが駐留地として滞在している屋敷だった。

 南方国境へ進軍するための中継拠点として選ばれたこの地に、彼は数日の逗留を決めていた。


 夜気はまだ冷たく、窓辺に置かれた燭台の炎が細く揺れる。

 その静謐を破るように、厩舎の方から馬の嘶きが響いた。

 伝令でもない。予定されていた使者でもない。


「あなた様は……!」


 訪れたのは、ユリウス王子その人だった。


「ど、どうしましょう? おもてなしの支度なんてできていませんよ!」

「マリア、ひとまず落ち着くのじゃ。と、とりあえずエリオス様を呼んできなさい」


 迎え入れた執事長のハロルドと侍女長のマリアをはじめ、誰もが息を呑んだ。

 戦乱の最中において、王弟自らが馬を駆り、敵地に近い辺境までやって来るなど常識では考えられぬ。

 護衛も最小限、随行者はわずか五名。

 命を賭した訪問であることは、誰の目にも明らかだった。


 そこにエリオスがやってきた。

 まるで来訪を予感していたかのように、驚きもせず、余裕の表情で一礼した。


「本来ならば、最高の礼を尽くして迎えるべきでしょうが、いかんせん時が時ですから……ご容赦ください」


 何より、ユリウス自身がそれを望んではいなかった。


「余計な儀礼など求めていない。それよりもこたびの件は内密に願いたい」


「ではこちらへ」


 すべてを察したエリオスは、人目を避け、彼を屋敷の裏手にある小さな別邸へと通した。

 そこは将官たちの宿舎として使われている簡素な建物で、窓には厚い布が掛けられ、外から光が漏れることもない。


 部屋には既に一人の女性が控えていた。

 長い栗色の髪を後ろで束ね、鋭い眼差しを持つ騎士、リアナ・クロフォード。

 リオンハート領の兵を束ねる騎士団長であり、エリオスの片腕でもある。

 彼女を見たユリウスの顔に警戒の色が浮かぶ。


「失礼ながら……二人きりの会談は避けさせていただきました」


 エリオスが穏やかに口を開いた。


「この戦の最中に密談などと聞かれれば、兵たちにあらぬ疑念を持たれかねません。彼女の同席を、お許しください」


 ユリウスはわずかに頷いた。


「構わない」


 椅子に腰を下ろすなり、彼は一切の前置きを捨てて切り出した。


「頼みがある」


 その声音は、静かでありながら凍るように鋭かった。


「南の国境に布陣されたのち、そのまま北へ転じ、レオポルド軍の背後を突いてほしい。そして、王都を急襲し、奪還するのだ」


 エリオスは、表情を変えなかった。

 ただ、静かに彼の言葉を受け止めるように目を伏せた。

 ユリウスは続けた。


「王都を取り戻した暁には、貴殿に侯爵位を授けよう。ヘルマン公爵に次ぐ地位を約束する。さらに、セレナ・ヴァレンシュタイン卿の領土と地位も安泰を保証する」


 そして、椅子を離れると、深く頭を下げた。


「貴殿の助力があれば、この戦は無駄な血を流さずに終えられる。民も、兵も、国も救われる。どうか、力を貸してほしい」


 燭台の光が、ユリウスの背を照らした。

 その姿は、誇り高い王子のものではなく、一人の人間の哀願だった。


 沈黙。


 やがて、エリオスがゆっくりと立ち上がった。


「どうか……頭をお上げください」


 その声は柔らかく、どこまでも静かだった。


「ユリウス様が民を想うお気持ちは、痛いほど伝わりました」


 ユリウスの顔がぱっと明るくなる。


「……では、助けてくれるのだな?」


 だが、エリオスは首を縦にも横にも振らなかった。

 ただ、微笑のようなものを浮かべて、静かに言った。


「もし私が、だまし討ちのような策で勝利を得たとして……果たして、誰がその勝利を心から祝福するでしょうか」


 ユリウスの表情が曇る。

 その声は続く。


「正々堂々、雌雄を決する――その先にこそ、領民の信頼があり、真の王の威光が宿るのではありませんか」


「……正直言おう。勝てぬかもしれぬ」


 ユリウスの声が震える。


「もはや頼みの綱は貴殿しかいない! 分かってくれ!」


 エリオスは小さくうなずいた。


「承知しております。だからこそ、殿下がここまで危険を冒して来られたことも理解しております」


 彼は一歩、ユリウスに近づいた。

 その眼差しには、一片の嘘もなかった。


「それでも……今は、正道を選ぶべきです。もし殿下が敗れたとしても、その名は民の記憶に残るでしょう。

そのときは、どうぞ私を頼ってください。

英気を養い、再び立ち上がればよいのです」


 ユリウスは唇を噛み、目を伏せた。


「……再起、か」


「ええ」


 エリオスの声は柔らかく響いた。


「不屈の魂にこそ、神は微笑み、民は憧れを抱く。ユリウス様の悲願は、その先にこそ待っているはずです。」


 しばらくの沈黙のあと、ユリウスは小さく頭を下げた。


「夜分遅くにすまなかった。次は、白昼堂々とこの屋敷の正門から入ってこよう」


 エリオスは穏やかに微笑んだ。


「ええ。その際は、できる限りのもてなしをさせていただきます」


 ユリウスはその言葉にわずかに笑みを返し、決意を固めたように踵を返した。

 その背中が闇に消えるまで、エリオスは一言も発さなかった。

 やがて、リアナが口を開く。


「行かせて、よろしかったのですか」


 エリオスは答えず、窓の外の灯りを見つめていた。

 その背後から、低い声が響いた。


「本当に、行かせてしまうとはな」


 姿を現したのは……ルクレール侯爵だった。

 

 ――ユリウス様がこちらへ向かっている。


 偵察のフェリオの報せを受け、エリオスが急ぎ呼び寄せていたのである。

 つまり、この密談は、場所や内容も含めて、すべてエリオスの思惑通りに進んだのだった。


「……私は、だまし討ちというものが嫌いなのです」


 ルクレール侯爵は深いため息をつく。


「ふむ……だが、貴殿が我々をだまし討ちしないという確信を持てただけでも、収穫だな」


 ルクレールの皮肉とも取れる口調に、エリオスは肩をすくめて笑った。


「だから申し上げたではありませんか。“安心してください”と」


 その言葉に、ルクレールはにやりと口角を上げた。


「すべてが片付いたその時は、我が娘リーゼロッテとの婚約の話を進めたいものだ」


 エリオスは静かに微笑み、答えなかった。

 代わりに、声を低くして言う。


「私のことより、セレナ・ヴァレンシュタイン卿の処遇の件、お約束を。必ずお守りください」


 ルクレール侯爵の顔から笑みが消えた。


「ああ、もちろんだとも」


 そして、厳かに言葉を続けた。


「すべてが片付いた暁には、セレナ殿に王家の証たる公爵位を授与し、レオポルド陛下に正式な嫡子が立つまでの間、王位継承権第一位として遇する――それが陛下の御前で交わした約定だ。安心なさい」


 エリオスは目を細め、わずかにうなずいた。

 その頃には、ユリウス一行の姿はすでに闇の中へと消え、蹄音も風に溶けて聞こえなくなっていた。


 そして、静けさだけが、夜の屋敷に残った。

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