第55話 決断の晩餐なき夜
◇◇
神聖歴三〇二年九月。
辺境領ヴァレンシュタイン城。
夜の帳が静かに降りていた。
いつもなら、年に一度の領主総会の前夜祭が盛大に催され、
音楽と酒、灯火と笑い声が廊下に満ちるはずの夜。
だが、この夜ばかりは違った。
祭も宴もない。
蝋燭の炎がゆらめくのみの、冷え切った評議室。石壁に囲まれた密室に、四つの影が集っていた。
議長席に座るのは、セレナ・ヴァレンシュタイン辺境伯。淡い銀の髪をまとめ、正装の黒衣の上に深紅のマントを羽織っている。
その姿は、凛とした美しさの中に、緊張と責務の重さを漂わせていた。
彼女の正面には、三人の男。
一人は、細身で神経質そうな顔立ちのアルトゥル・ハロルド子爵。かつては権力者オズワルド・クロースの取り巻きであり、その失脚と共に擦り寄る相手をグリフォード伯爵に変えたが、その彼も失脚した。
近頃は「次は自分かも……」と、いらぬ心配に胸を痛め、屋敷にこもっているという。
その目は絶えず落ち着かず、指先が卓をトントンと叩くたびに、その心の内が透けて見えるようだった。
もう一人は、柔和な表情をした青年王、テオ・ラミレス国王。
若くして公国を治める彼は、穏やかな声に似合わず、情勢を俯瞰する鋭い目を持つ。
そして、長卓の右手に控えるのは、
セレナの右腕とも呼ばれる男、エリオス・リオンハート伯爵。その姿は落ち着いており、鋭くも静かな瞳が、議場全体を射抜くように見据えている。
蝋燭の炎が微かに揺れ、机上の地図の上で、光と影が国境線を撫でた。
誰も口を開かぬ沈黙が、空気を重く支配していた。
最初にそれを破ったのは、ハロルド子爵だった。
「レオポルド様を支持すべきですな」
その声は、思いのほか大きかった。
まるで沈黙の重圧に耐えきれなかったかのように。
「理由を聞こう」
セレナの低い声が響いた。
ハロルドは息を整え、胸を張って言った。
「今やレオポルド様こそが、正統なる我が国の国王陛下です。
それに、ユリウス様は己の野心を抑えきれず、自領を勝手に“公国”と称した反逆者にございます。
我らがそのような者に与する理由は、どこにもございませぬ!」
彼の額にはうっすらと汗がにじんでいた。
セレナは静かに彼を見つめながら、表情を崩さぬまま聞いていた。
ハロルドは続けた。
「それに……わが領は辺境領の南西部にございます。
レオポルド様の軍勢と国境を接しており、もしユリウス様側につけば、殿下は我らを裏切り者として討つに違いありません。
この地を戦火に巻き込むなど、愚の骨頂。
ゆえに、レオポルド様に忠誠を誓うのが、最も穏当かと存じます」
一通りの弁を終えた彼は、胸を張ってセレナを見た。
しかしその視線には、確信よりも恐怖が滲んでいた。
セレナは短くうなずいた。
「……他の意見を」
沈黙が落ちた。
ややあって、テオ・ラミレスが静かに口を開いた。
「では、私から」
若き王の声は穏やかだったが、
その響きには明確な芯があった。
「まず、ユリウス殿のやり方には、確かに無理がある。
彼は民の支持を得ぬまま、自ら王を名乗り、しかもノルデン王国と手を結ぶという愚を犯した。
あれでは、国を二つに裂くどころか、
他国に攻め入る口実を与えるようなものです」
蝋燭の光が、テオの瞳に反射する。
その瞳には、どこか静かな怒りが宿っていた。
「大義の面でいえば、レオポルド陛下こそ、筋を通した継承者でありましょう。
もし筋の通らぬ方が王座に就けば、
エストリア帝国もカルヴァン共和国も“正義”を掲げて攻め込むでしょう。
それはこの王国にとって、致命的な結果を招きます」
一拍置いて、彼はセレナをまっすぐ見つめた。
「ゆえに、もしどちらかを選ばねばならぬのなら、レオポルド陛下を支持するのが、ヴァレンシュタイン卿ご自身のためにもなりましょう」
その言葉に、セレナは再び小さく頷いた。
そして、最後にセレナはエリオスの方へ視線を向けた。
「……エリオス卿はどう見る?」
評議室の空気が一瞬、緊張した。
ハロルドとテオは、エリオスもレオポルド支持を訴えるだろうと予想していた。
なぜなら、近頃、レオポルドの側近であるルクレール侯爵と彼は急接近しているのを、知っているからだ。
そして、その意向が示されれば、諸侯の意見が一致することになり、セレナも「レオポルド支持」を表明することを想定していた。
だが、エリオスはゆっくりと立ち上がり、地図の上に視線を落としたまま、静かに言った。
「どちらにも、つくべきではありません」
その瞬間、ハロルドが椅子をきしませた。
「な、何を……!?」
エリオスは動じず、淡々と続けた。
「もはや、レオポルド殿下とユリウス殿下の衝突は避けられません。
我らがどちらかに肩入れすれば、他方は他国の兵を引き入れるでしょう。
それこそ、この国を滅ぼす火種となる」
静寂が広がった。
彼の声は穏やかで、しかしその一言一言が、重く胸に落ちていく。
「ゆえに、我らはこれまで通り、中立を守るのが上策です。
この戦が長引けば、兵は傷つき、国は疲弊する。
しかし、それは病巣を切り取るための痛み。
後々、国が立ち直るための“治療”と考えるべきでしょう」
セレナは、ゆっくりと息を吐いた。
「……つまり、我らは何もせず、ただ見ているだけだと?」
エリオスは静かに首を振った。
「違います。我らの務めは“護る”ことです。
すなわち、西と南の国境を固める。
帝国も、共和国も、そしてノルデン王国も、この内乱の隙を突いて、虎視眈々と侵攻を狙っているはず。それを防ぐのが、我らの役割です」
その言葉に、テオがゆっくりと頷いた。
セレナも、短く「……なるほど」と呟いた。
ハロルドは一人だけ、青い顔をして「私は自分の領だけを守るからな」と、ぶつぶつ呟いている。
こうして、方針は決まった。
セレナはそれを高らかに領民に告げた。
「我々は中立を守り、外敵から王国を守る盾となる!」
この決断は、レオポルド、ユリウスの双方の耳にもすぐに届いた。
しかし意外にも、彼らの反応は前向きなものだった。
双方ともに「もし相手方に味方されたら……」と、内心は気が気でなかったからだ。
◇◇
王国北側。肥沃な大地の中心にそびえる、難攻不落とうたわれた古城——ユリウスが立国を宣言し、王城として利用している。
その執務室に、灯るのは一本の燭台のみだった。
厚いカーテンが外の月光を遮り、部屋の中はわずかな橙の光だけに照らされている。
机の上には山のように積まれた書簡と地図。だがユリウスは、そのどれにも手を伸ばすことなく、ただ沈黙の中で椅子にもたれていた。
長い指が、無意識のうちに机の木目をなぞる。
「……いつからだろうな」
彼は小さく呟いた。
何が、いつから狂い始めたのか。
それを思い出そうとして、ふと幼い日々の情景が脳裏に浮かんだ。
遠い昔。
まだあの王都の白い塔が眩しく見えた頃。
ユリウスは孤独な少年だった。
王宮の庭を走り回っても、誰も笑ってくれなかった。
父である国王は常に政務に追われ、
母は産後の病で北部の別荘に移されてから、ほとんど会うことがなかった。
月に数度だけ、侍女に付き添われて会う母は、いつも薄い笑みを浮かべ、息子を抱く腕にすら力がなかった。
それでも、あのぬくもりが恋しかった。
だがそのぬくもりは、すぐに遠ざかった。
母が息を引き取ったとき、ユリウスはまだ十にも満たなかった。
その日、王宮の誰もが沈黙していたが、少年の心には、悲しみよりも先に、空洞のような感情が残った。
誰も彼を抱きしめてくれなかった。
誰も、泣いてくれなかった。
だから、彼は時折いたずらをした。
庭園の噴水に花を投げ込み、来客の椅子に蛙を忍ばせ、王妃付きの侍女のドレスに墨を垂らした。
叱られたかった。
怒鳴ってほしかった。
ほんの少しでもいい、自分を「見て」ほしかった。
だが、誰も本気で怒らなかった。「王子に逆らえば職を失う」……その恐れが、大人たちの目を濁らせていた。
結果として、ユリウスはますます孤独を深めていった。
ただ一人。
兄のレオポルドだけが違った。
彼は本気で怒った。
ユリウスが侍従を泣かせたときは頬を打ち、王妃の肖像画を壊したときには、黙って肩を掴み、「人を傷つけてはならぬ」と叱った。
その声音には、恐怖も打算もなかった。
ただ兄として、弟を想う心だけがあった。
そして、ユリウスが一人書庫にこもり、誰にも話しかけられずに本ばかり読んでいたとき、レオポルドはいつも、彼の腕を引いた。
「たまには外へ出て、風を感じろ。俺が連れていってやるから」
二人で野を駆け、馬を走らせ、
剣を交え、汗を流した日々。
あの時間だけが、ユリウスの少年時代の中で、唯一“幸福”と呼べる記憶だった。
兄は、光だった。
そして、自分もそんな光になりたい、と無邪気に願うようになった。
その頃からだ。
ユリウスが今のユリウスになったのは。
すなわち、誰に対しても温厚で、その心を掴んでしまう『カリスマ』へと変化した。
ユリウスがアカデミーに通い始める頃には、彼の周囲には、常に人がいた。
そのほとんどが、打算と野心に満ちた者たちだったに違いない。
貴族の子息、王族の遠縁、そして名家の娘たち。
親友と呼べる者はいなかった。
誰にも本心を明かせなかった。
だが、それでも、誰からも見向きもされなかった孤独な少年にとって、その仮初の関係でさえ、幸福に思えた。
「……あの頃の私は、まだ……人を信じたかった」
ユリウスは静かに呟き、手元の杯を傾けた。
赤い酒が揺れ、炎の光を受けて鈍く光る。
アカデミーを卒業したのち、王族としての彼の地位は急速に高まった。
かつて見向きもしなかった貴族たちが、次々と彼に近づき、媚び、献上品を差し出した。
その滑稽な光景にうんざりしながらも、心のどこかでは、それを受け入れていた。
そんな彼に転機が訪れたのは、王弟ヘルマン公爵の末娘を妻に迎え、家庭を持ったときのことだ。
初めて生まれた我が子を抱いたとき、胸の奥に溢れ出した感情は、言葉にならないほど温かかった。
ようやく、愛されることを知った。
そして、愛することの意味を知った。
その幸福は、彼の生を変えた。
彼はもはや孤独ではなかった。
家族があり、未来があった。
だからこそ、恐れた。
「この幸せを、誰にも奪わせたくない……」
その執念が芽生えたのは、その頃だった。
そして、運命の日が訪れる。
兄、レオポルドに子ができぬという知らせ。
それは、王都中を密やかに駆け巡り、やがてユリウスの耳にも届いた。
同じ日、ユリウスの妻が第二子を身ごもっていると知らされた。
その夜、久々に兄弟は杯を交わした。
火の前で語らい、昔話に花を咲かせ、笑い合った。まるで、少年の頃に戻ったように。
だが、あの一言がすべてを変えた。
「なあ、ユリウス」
レオポルドはほろ酔いの笑みを浮かべながら、ふと、杯を机に置いた。
「……俺には跡継ぎができぬ。
だから、お前の次の子を、養子にもらう相談をさせてはくれないか」
その瞬間、ユリウスの心は凍りついた。
笑顔のまま、兄を見つめていたが、胸の奥で何かが音を立てて崩れていった。
「兄上、それは冗談ですよね?」
そう尋ねた声が、震えていたのを覚えている。
だがレオポルドは、悪びれもせず微笑んだ。
「ははは。まあ、冗談とも言い切れないな。
お前の子なら、必ず優秀だろうし。そのうえ、俺がおまえに足りない馬術や武術を教えら
れば、世界中どこを見渡しても最高の王になれるはずだ!」
その笑みが、かつて自分を救った兄の顔と重ならなかった。
そこにあったのは、“弟の幸せを奪おうとする王”の顔。
あの瞬間、兄は家族ではなくなった。
排除すべき敵となった。
ユリウスはゆっくりと目を閉じた。
蝋燭の炎が、わずかに揺らめく。
彼の中には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、冷たい決意だけが残っていた。
「俺から奪おうとする者は……誰であれ、赦さぬ」
炎がふっと揺れ、机上に置かれた地図の上で、グランヴェル王国の中央――“王都”のあたりに、影が落ちた。
それはまるで、燃え広がる火種のように、静かに、確かに、彼の運命の始まりを告げていた。




