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第51話 迫る選択

◇◇


 翌朝の王都は、まるで誰かが意図的に静けさを敷き詰めたかのようだった。

 広場の噴水の音がやけに大きく響き、行き交う人々の声は沈んでいた。

 それも当然のこと。昨夜、グリフォード伯爵が牢獄の中で首を吊って死んでいたという報せが、朝の鐘とほぼ同時に広まったのだ。


 人々の間ではすぐに噂が飛び交った。


「自分の罪を悔いたのだろう」

「あれだけのことをしておいて、耐えきれなかったんだ」


 どれも真実には遠く、どれももっともらしく響いた。


 王城の広間ですら、その話題で持ちきりだった。

 だが、昼下がりの柔らかな陽が射し込む、王城に隣接した貴族専用サロン。そこにいた一人の女性は、まるで世間の噂話など無縁のように、優雅に紅茶の香りを楽しんでいた。


 ルチア・ヴァイス。

 赤の狼団の元副団長にして、いまやエリオスの代理を務める主任外交官。

 彼女は窓際の席に腰かけ、淡い紅の正装をまとっていた。

 布地は上質で、光を受けるとわずかに透け、華美ではないのに視線を奪う美しさがあった。


 その向かいに座るのは、エリオス。

 白いシャツに黒の礼装をまとい、膝の上には一冊の書物。

 まるで世界の騒音など耳に入らぬといった風情で、静かにページをめくっている。


 ルチアは紅茶を一口飲み、ふぅとため息をついた。

 そして、テーブルの上の銀のスプーンを軽く指で弾きながら、ぽつりと呟く。


「グリフォードが、自分で命を絶つ? そんな度胸のある人じゃないわ」


 エリオスは視線を本から外さない。だが、ルチアにはわかっていた。

 彼は、必ず自分の話を聞いてくれている。

 だから彼女は続けた。


「だってそうでしょう? 彼はいつも強者の影に隠れ、権力者の後ろに立つことしかできない臆病者よ。あの人に“死を選ぶ勇気”なんてあるはずがないわ」


 言葉には、冷ややかさと同時に、確信が滲んでいた。

 彼女は紅茶のカップを軽く揺らし、その表面に揺れる光を見つめながら言葉を重ねた。


「それに、彼がエリオス様をはめようとした理由も……たぶん、“命令された”からでしょうね」


 エリオスの本をめくる手がぴたりと止まる。


「誰に、だと思う?」


 低い声。エリオスが本から視線を外さずに問うた。

 その声の重さに、ルチアの唇の端がかすかに上がる。


「さあ……でも、今はあんまり首を突っ込んでもいいことはない、と思いますわ」


「どういう意味だ?」


「ふふ。虎の寝床に、興味本位で近づけば、食われかねない、という意味です」


 そう言いながら、彼女は椅子の背にもたれ、わざと軽口をたたくように笑った。


「まあ、そんなことより、私の今日のドレス。ちょっと透けてるの、気づきました?」


 エリオスはちらりとだけ視線を向けた。

 その目には、呆れと、かすかな優しさが入り混じっている。


「話がそれている」


「やっとこっちを見てくれたのに、それ?」


 ルチアは頬をふくらませ、つまらなそうにスプーンをいじる。

 だが、テーブルに並べられた宮廷特製のケーキに目をやると、すぐに気を取り直したように笑った。


「まあいいわ。要するに、こういうことよ。グリフォードは“すり寄る相手”を変えたの。

そして、その新しい主に差し出した手土産こそ、あなたの失脚……そう考えるのが自然じゃない?」


 エリオスは何も答えない。

 けれど、わずかに眉間に皺が寄る。

 ルチアはそのわずかな動きを見逃さない。

 紅茶を飲み干し、静かに続けた。


「エリオス様が失脚すれば、一番打撃を受けるのは。レオポルド殿下でもユリウス殿下でもなく……」


 ルチアは空になったティーカップに目をやり、少し寂しげに言葉を続けた。


「セレナ様でしょうね」


 その名を口にすると、エリオスの指先が、閉じかけた書の上で止まる。

 ルチアは、ゆっくりと彼に視線を向けた。


「エリオス様も、もう気づいておられるのでは?」


 エリオスは何も言わない。

 沈黙の中で、彼の瞳の奥にわずかな揺らぎが生まれ、そして消えた。


 その反応を見て、ルチアは苛立ちを隠さなかった。

 声が少し強くなる。


「そろそろはっきりさせるべきです。この後もセレナ様と共に歩むのか。

それとも、誰も信じず、自分だけの道を切り開いていくのか」


 彼女の言葉は、叱責というより祈りのようだった。

 けれどエリオスは何も言わず、静かに本を閉じる。


 ぱたん。


 その小さな音が、二人の間に落ちた緊張を切り裂いた。


「今回はよく頑張ったな、ルチア」


 低い声でそう言いながら、エリオスは穏やかに彼女を見つめた。


「お前の功をねぎらって、このサロンに連れてきたんだ。

今日くらいは難しいことを忘れて、ただ楽しめ」


 ルチアは数秒、じっとその顔を見つめた。

 そして、肩をすくめて小さく笑う。


「……そうね。じゃあ、お茶じゃなくて最高級のお酒をいただこうかしら」


「ほどほどにしておけよ。悪酔いでもされたらたまったものじゃないからな」


「ふふ、そのときはお姫様抱っこしてくださる?」


 ルチアは給仕を呼び、一番高価な酒を注文した。

 グラスが運ばれてくると、ゆっくりとそれを傾け、淡い紅を帯びた唇でひと口飲んだ。

 そして、静かに、しかしまっすぐにエリオスを見据えた。


「正直に言うとね、私はどっちでもいいの。

たとえあなたが地獄を選んでも、誰も信じなくても、私はずっと、あなたのそばにいるって決めたから」


 その言葉には一片の迷いもなかった。

 挑むような笑みの奥に、誰よりも深い情が宿っていた。

 エリオスは少しだけ口元を緩め、静かに言った。


「勝手にすればいい」


「ええ、言われなくても」


 二人の間に漂う空気が、ふっと和らぐ。

 窓から差し込む午後の光が、二人の影をゆるやかに重ねていた。


 互いに視線を外しながらも、どちらの口元にも同じ微笑が浮かんでいた――

 それは、信頼とも、諦めともつかない、

 けれど確かに“絆”と呼べる微笑だった。


◇◇


 たった二年。だが、 セレナの名声は高まる一方であった。

 アルフォンス三世からの信頼は厚く、彼はことあるごとにセレナを王都に呼び寄せ、重要な案件を委ねるようになった。

 民衆も彼女を「東方の守護女神」と呼び、賛美した。

 比例するようにヴァレンシュタイン辺境領も豊かに、そして強くなっていった。

 

 だがいいことばかりではなかった。

 この二年の間に、辺境の地を治める五人の領主のうち、三人が命を落としたのだ。

 オズワルド男爵、リオンハート子爵、そしてグリフォード伯爵。

 それぞれ理由はバラバラだ。しかし、その三人の死の中心にいたのは、たった一人の人物——エリオス・リオンハートだった。

 そして、彼は誰かがこの世を去るたびに、力をつけ、地位を上げていった。

 二年前までは、嫡男にもかかわらず後継者の座さえ危ぶまれていた放蕩子息に過ぎなかった彼が、今では国王すら信頼の置く子爵である。


 彼の影響は国内にとどまらない。

 ラミレス公国の全面降伏、属国化は表向き、王国全体の勝利とされた。

 しかし実際は、エリオスひとりの力によってもたらされたものだった。


 クロースとリオンハートで彼直属の軍勢は、いまや六千を超える。

 その数は、二人の王子、ヘルマン公爵、ルクレール侯爵、セレナに次いで多い。つまり国王を除けば、実質的にはこの国で六番目の実力者ということだ。


(彼はいったい何を目指しているのか……)


 そう思うたび、胸の奥で別の声が囁いた。


「それでも、彼がいなければ、この国は今ごろ敵の侵攻を許していたかもしれない」


 グランヴェル王国の侵攻を虎視眈々と狙っているのはラミレス公国だけではない。

 和解したばかりのカルヴァン共和国にしても、いつ不可侵条約を破棄してくるか分からないし、何よりも南の大国、エストリア帝国は周辺の小国を次々と滅ぼし、世界の覇権を握ろうと、次の進軍先としてグランヴェル王国へいつ矛先を向けてもおかしくない状況だ。

 そんな周辺国にも、エリオスと彼の率いる『漆黒の悪魔』の名は轟き、進軍を阻む壁となっているのは間違いない。


(このまま彼を信じていいものなのだろうか……)


 矛盾する感情が、セレナの心を日々蝕んでいった。

 夜ごと、彼の名を口にすることを避けながら、政務官たちの報告書を読み、判を押す。

 冷静を装っていても、胸の奥がざわめく。

 グリフォードの制止を聞かず馬を飛ばしたあのときの彼の、見る者に戦慄を覚えさせるような悪魔のような横顔。

 その一方で、総会の前夜祭で見せた太陽のような優しい微笑み。

 その二つの顔が、どうしても頭から離れない。

 

 そして、もう一つ。

 彼女を悩ませていたのは、理屈ではなく感情。


「くっ……」


 エリオスのことを考えるたびに、胸の動悸が止まらず、体温が急激に上がる。

 決して抱いてはいけない、認めてはいけない感情が、彼女を容赦なく襲った。


(いけない。決して……)


 そんな折、王都での公務のために滞在していた彼女のもとを、思いもよらぬ人物が訪ねてきた。

 執務室にノックの音が響き、秘書官が小声で告げた。


「リオンハート卿が、お会いしたいと」


 その名を聞いた瞬間、セレナの心臓がわずかに跳ねた。


(まさか!)


 王都に彼が来ているとは聞いていなかった。とっさに言葉が出ない彼女を秘書官がいぶかしむ。


「ご主人様?」


 セレナは、その声にはっとなって顔を上げた。


「そ、そうか。なら通せ」

「はい、かしこまりました」


 扉が開く。

 差し込む午後の光の中にエリオスが立っていた。

 黒の礼装を纏い、わずかに口元に笑みを浮かべている。


「久しいですね、セレナ様」


「何用だ? 貴殿の方からたずねてくるなんて、珍しいではないか」


 声は努めて平静を装っていたが、指先が微かに震えていた。

 エリオスはその様子を見て、ふっと目を細める。


「驚かせてしまいましたか。ですが、約束を果たしに来ただけですよ」


「約束?」


「ええ。あの日のことを、お忘れですか? 王都を案内してくれると、あなたが言った」


 その瞬間、セレナの頬に熱が集まった。


「あ、あれか。まさか覚えているとは」


「もちろん。私は約束を破らない主義ですから」


 さらりとした口調。

 だが、その声音の奥に、ほんの少しだけ柔らかさが混じっていた。


(私は……どうしてあんなことを言ってしまったの?)

 

 セレナは息を呑み、机の端をそっと掴んだ。

 心の中では、警鐘と戸惑いと、かすかな喜びが入り混じる。


(とにかく冷静に。いつも通りに)


 けれど、彼女の理性が言葉を選ぶより早く、頬の紅潮は広がっていた。


「そうか」


「善は急げです。今からいきましょう」


「今から? そ、それは困る」


「そうですか? 先ほど秘書の方から、今日は予定がない、と聞いてましたので」


「しかし見ての通り、書類の山は残っている。これを片付けねば」


「いいではありませんか。たまには休息も必要です。今日くらい、『辺境伯』の殻を脱ぎ捨てて、何も考えずに息抜きしましょう」


 その言葉に、彼女の胸の奥が小さく疼いた。

 エリオスの瞳は、どこまでも静かで、まるで彼女の心の奥を映し出しているようだった。

 ここでも理性より先に感情が動く。

 彼女は無言のまま、小さくうなずいた。

 それを見たエリオスは軽く微笑んで、手を差し出した。


「では、行きましょう。約束の散策へ」


 セレナは一瞬、迷った。

 辺境伯としての自分が「拒むべき」と叫んでいた。

 けれど、胸の奥の“セレナ”が、ゆっくりと囁いた。


(今日一日くらい、何も考えずに息抜きしても、罰は当たらないと思うの)


 静寂の中、彼女はそっと立ち上がり、その手に触れた。

 王都の窓の外では春の風が柔らかく吹いていた。


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