第5話 はじめての家臣
ザハードの変化にいち早く反応したのは、誰あろう団長ガレスだった。
「ザハード! やめろッ!」
必死の形相で飛び出す。
だがその進路に、ひらりと舞い降りるようにリアナが立ちはだかった。
「団長、決闘に手出しなんて、無粋ですよ」
弓を背に、快活な笑みを浮かべて。
ガレスは額に青筋を浮かべ、唸るように吐き捨てた。
「戯言を! 騎士が一般人相手に“ファイラ”を使うなど、もはや決闘ではない。たんなる処刑だ!」
エリオスの耳が、その言葉にぴくりと動いた。
(ファイラ?)
聞き覚えのない単語。だが今は意味を問う暇もない。
雄たけびと共に、ザハードが突進してきた。
その体は深紅のオーラに包まれ、まるで炎をまとった猛獣。
(速い!)
振り下ろされた剣を、辛うじて木剣で受け止める。
衝撃が腕を突き抜け、骨がきしんだ。思わず手の中の剣を落としそうになる。
(重い!)
さっきまでのザハードとはまるで別人だ。
「はははははッ!」
赤光を放ちながら、次々と繰り出される斬撃。
その速度と重さは、エリオスの体力を容赦なく削っていく。
受けるだけで精いっぱい、防戦一方。呼吸が荒くなり、胸が焼けつくように痛む。
たまらず後方へ跳ね退き、距離を取った。
ザハードは剣先を突きつけ、不気味な高笑いを上げる。
「がはははっ! 所詮は坊ちゃんよ! 騎士をなめるから痛い目にあうんだ、この世間知らずの放蕩貴族が!」
目は狂気に染まり、赤い光が揺らめく。
「その腐った根性を叩きなおして、二度となめた口を聞かせないようにしてやる!」
嘲笑と共にオーラが膨張し、訓練場の空気が震えた。
周囲の兵士たちが思わず息をのむ。
(このままでは持たない)
エリオスは荒い呼吸を整えようと必死になりながら、意識を深く、自分の内側へと沈めた。
……そこにあった。
熱を帯び、かすかに脈打つ、小さな光。
(確かに存在している。俺の中に)
そして気づいた。
おそらく、これを引き出せるのはほんのわずかな瞬間だけ。
エリオスの唇が、無意識に言葉をこぼす。
「……二発だけなら……いける」
「なにをぶつぶつ言ってやがる! 大人しく眠っとけェ!」
赤き光をまとい、大笑いしながら突進してくるザハード。
兵たちは興奮のるつぼに呑まれ、大歓声をあげる。
「やっちまえええ!!」
その喧騒の中で、エリオスはすっと目を開いた。
両手を前に突き出す。その動作に、誰もが一瞬首をかしげる。
「その手……へし折ってやるッ!」
ザハードが剣を振り上げ、唸りをあげて迫る。
しかし。
エリオスは一切意に介さず、静かな声で詠唱を紡いだ。
「炎を司る精霊よ、我が呼び声に応え、赤き裁きの牙をここに顕せ――《フレイムバースト》!」
その瞬間、彼の掌の前に小さな魔法陣が輝き、空気が焦げるように震えた。
次の瞬間――轟音と共に、紅蓮の火球が放たれた。
「な、なにィ――!?」
ザハードの顔が驚愕に染まる。
「くそぉぉおおッ!」
叫ぶより早く、火球が彼の胸に直撃した。
爆炎。
訓練場に黒煙がもくもくと立ちこめ、ザハードの体が吹き飛んだ。
一瞬の沈黙。
つい先ほどまで大歓声をあげていた兵たちが、凍りついたかのように声を失う。
口を開け、目を見開き、ただ煙の中を凝視していた。
「な、なんだ……今のは……?」
ガレスの声が、絞り出すように響く。
隣のリアナも、見開いた瞳をエリオスに注いでいた。
その反応を確認したエリオスは、心の中で呟く。
(……やはりか。この世界には“魔法”という概念がないのだな)
視線を煙の向こうへ戻す。
煙が収まり、地に転がるザハードの姿が現れた。
焼け焦げた鎧の隙間から荒い息を漏らし、剣を支えにどうにか立ち上がる。
「く、くそ……汚いぞ……」
唇を震わせ、呟く。
エリオスは冷ややかに笑んだ。
「汚い? それは面白いな。戦の厳しさを教えてくれるのではなかったのか?」
「そんな技があるなんて聞いてねえぞ!」
「ほざけ、下衆が。……真剣を持ったおまえが、木剣の俺を嬲るのは潔いのか?」
皮肉に、兵たちが息をのむ。
そして、エリオスは再び両手を突き出した。
小さな魔法陣が浮かび、赤光が瞬く。
「や、やめろ……!」
ザハードの顔が恐怖に引きつる。
「も、もう降参する! するから……!」
それでもエリオスは手を下ろさない。
ただ冷ややかに、問いかける。
「……おまえはどうだった?」
視線が倒れ伏す兵士のひとりへ向かう。
「ここに気絶している少年が、やめてくださいと懇願しても――その手を止めたか?」
ザハードの顔から血の気が引く。
「お、お願いだ……! やめてください……!」
泣きわめく声。
その哀れな姿を、兵たちは固唾を呑んで見守った。
唾を飲み込む音すら、訓練場の静寂を破るほどに響いていた。
「……もう勝負はつきました。ご令息殿の勝利です。だから――おやめください」
リアナの声が響いた。軽薄な笑みも影を潜め、真剣な表情でエリオスを見つめている。
だが、エリオスは彼女に一瞥すらくれなかった。
「まだこやつは……代償を払っていない」
冷ややかに告げると、再び詠唱を紡ぎはじめる。
「風を司る精霊よ、鋭き牙を携え、罪を裂け。――《ウィンドカッター》!」
緑の魔法陣が宙に描かれた瞬間、空気が鋭く震えた。
そして、風の刃が唸りをあげ、容赦なくザハードの左腕を切り裂く。
「ぐあああああああっ!!!」
悲痛な絶叫が訓練場に響きわたる。
鮮血が大地を濡らし、兵たちは思わず息を呑んだ。
エリオスは静かに歩み寄り、近くのかがり火からたいまつを取り上げた。
そして、その炎をザハードの断面へ押し当てる。
「ぎゃああああああああああああ!!!」
焼ける肉の臭い。狂おしいほどの悲鳴。
やがてザハードは白目をむき、激痛に耐えきれず気絶した。
その瞬間、訓練場全体に重苦しい沈黙が訪れる。
エリオスは気絶したザハードを見下ろし、背を向けると、鋭い声を放った。
「見ての通りだ!」
兵たちが一斉に顔を上げる。
その瞳は恐怖と畏怖に揺れていた。
「俺に盾突く者、虚偽の報告をする者……たとえ身内であろうと容赦はせぬ! 本来ならば、その首をはねていたところだ!」
振り返り、ザハードの血まみれの姿を指差す。
「だが、こやつは見せしめとして生かしてやる。決して逃がすな! そしてこの醜態を目に焼きつけろ!」
声が空気を震わせ、兵たちは固唾を呑んで立ち尽くす。
「俺に逆らえば、こうなる。嫌なら強くなれ! 強くなって、俺を倒してみせろ!」
言葉が雷鳴のごとく轟いた。
もはや兵たちの間に嘲笑は一つもない。
代わりに宿ったのは――圧倒的な畏怖。
「そのときは喜んで、この場で膝をつこう。……いつでも挑戦を待つ」
その眼光は冷たくも燃えるように鋭く、兵たちの心を縫い止める。
絶望に似た沈黙の中に、それでも抗えぬ高揚が広がっていた。
誰もが理解した。いま目の前にいるのは、もはや「放蕩貴族」ではない。
――支配者の風格を備えた男。
エリオスは気絶したままのカイルを抱き上げ、静かに告げる。
「こいつは俺が預かる」
ガレスに一言だけ残し、ゆっくりと背を向けた。
その足取りは重くなく、むしろ堂々としたものだった。
兵たちの視線が、一斉にその背中を追う。
誰も声を上げることができない。
ただ、その姿が消えるまで、恐れと敬意をないまぜにした眼差しを注ぎ続けていた。
◇◇
(柔らかい)
カイルは、ふとまぶたを持ち上げた。
身体を包み込むような心地よい感触。だがそれは、彼の知るものではない。
本来の寝床は、馬の糞尿の臭いがしみついた固い地面の上。
不意に違和感が脳裏をよぎり、ガバっと身を起こした。
「ここは!?」
目の前に広がるのは、信じがたい光景だった。
白い壁、磨き上げられた家具、窓から差し込む穏やかな陽光――清潔で整った一室。
「お目覚めですか?」
背後から、澄んだ声がした。
振り向いたカイルの視線が吸い寄せられる。そこに立っていたのは、整った侍女の装いを纏った美女だった。
「はじめまして。私はマリア。あなたは――」
「カイル、です!」
反射的に名を名乗ると、マリアは小さく目を丸くし、すぐに柔らかく微笑んだ。
しかしカイルはハッと我に返り、慌ててベッドから飛び降りようとした。
「ご、ごめんなさい! 僕のような者がこんな……!」
だが一歩動こうとした途端、全身に激痛が走る。
「ぐっ……!」
崩れ落ちそうになる彼を見て、マリアはすぐに手を伸ばし、優しく制した。
「無理しないでください。今日はこのベッドでお休みを」
「い、いけません……! 僕の身分では、このような立派なベッドなど……」
その言葉をさえぎったのは、別の声だった。
「分不相応ということか?」
低く落ち着いた声。
カイルが振り返ると、そこに立っていたのは青年――自分が意識を失う直前、訓練場で救ってくれた人物。
「あ、あの時の……!」
カイルの目が大きく見開かれる。しかし彼には、この青年の正体を知る由もなかった。
「俺はエリオス。リオンハート子爵家の嫡男だ」
「……っ!」
次の瞬間、カイルの顔から血の気が引いた。
「こ、子爵家の……!? し、失礼しました! も、申し訳ございません……!」
飛び起きそうになって、再び痛みに悶えるカイル。その慌てぶりに、エリオスはふっと目を細め、わずかに微笑んだ。
それを見たマリアが小さく鼻を鳴らす。
「……そんな顔もできるんですね」
皮肉を混ぜた声音。
エリオスは肩をすくめ、「たまにはな」と短く返す。
そしてカイルに視線を戻し、真っ直ぐに告げた。
「明後日――俺は赤の狼団を討つ」
カイルの呼吸が止まる。
「おまえは、俺の家臣としてそれを手伝え」
その言葉は重く、拒否を許さぬ響きを持っていた。
まるで運命がカイルの前に道を敷いたかのように。




