第49話 逆転の査問委員会①
◇◇
王城の東翼。
重厚な黒檀の扉が並ぶ評議室には、いつになく多くの人々が詰めかけていた。
それもそのはず、今日という日は特別だった。
中断されていた「エリオス・リオンハート男爵に対する査問委員会」が、ついに再開され、その結審の場に、当の本人が出廷する、という知らせが流れたのだ。
城の廊下は黒山の人で埋まり、衛兵が幾重にも人垣を押し返している。
それほどまでに、彼の存在はこの国の人々にとって重い。
王国を救った英雄であり、同時に裁かれるべき“反逆者”とされた男。
その行く末を見届けようと、皆が息を潜めていた。
評議室の最前列には、第一王子レオポルドが座していた。
青を基調とした礼装の肩章には、王家の紋章が金糸で縫い取られている。
その隣には、側近中の側近、ファーブ・ルクレール侯爵。
彼の眼差しは鋭く、どの瞬間も気を抜かない。
反対側には第二王子ユリウスの姿。
白を基調とした正装に、陽だまりのような温かな横顔。しかしその目はわずかに冷たいものを携えている。
彼の背後には、老練なグッド・ヘルマン公爵が控えていた。
まるで、王位継承をめぐる緊張の糸が、そのまま一室の中に張られているかのようだった。
ただ一人、この場にいて然るべき人物の姿が見えない。
セレナ・ヴァレンシュタインだ。
戦後の復興を指揮し、リオンハート領を支え続けた辺境の女領主。
彼女は、別室に祈るような想いで控えているという。
その想いを代弁するように、評議室の隅で立つ男がいた。
ヴァレンシュタイン家の騎士団長、オルハン。
堂々たる体躯に、礼服の銀鎖が鈍く光る。
普段はどんな戦場でも動じぬ男だが、その表情には硬い影が差していた。
「お隣、いいかしら?」
隣から、涼やかな声。
オルハンがその声の主を見やる。
黒の正装に包まれた気品のある麗人。
「お主はリオンハート卿の……」
「ルチア・ヴァイスです。ルチアと呼んでくださる?」
彼女はドレスの裾を静かに整えながら言った。
彼女の頬を飾るわずかな紅が、評議室の冷たい光をやわらげる。
「あら? セレナ様はいらっしゃらないのですね」
「どうも人混みが嫌いのご様子で」
「ふふ、気になる殿方が責め立てられるのを見るのが辛い、というところかしら?」
「答えにくいことを言ってくれるな」
オルハンは低く笑い、しかしその目は正面の席から逸らせなかった。
その視線の先にはエリオス本人の姿はまだない。
本来であれば、とっくに席についていなくてはいけないところだ。
「……大丈夫か? リオンハート卿は」
ルチアはわずかに肩を揺らした。
「それはあなた様の言葉ですか? それとも、別室で祈っておられるセレナ様からの言葉かしら?」
オルハンは目を伏せ、苦笑とともに小さくため息をつく。
「……あまりからかうでない。」
「ふふ。面白い御方」
ルチアの微笑は、ほんの少しだけ柔らかかった。
視線を委員席へ向けると、その表情がきりりと引き締まる。
「大丈夫ですよ。エリオス様は、絶対に。」
その一言には、疑いの影もなかった。
彼女の声は静かに、しかし確かに、室内の空気を揺らす。
オルハンは驚き、彼女の横顔を見た。
冷たくも勇敢なその面差しの奥に、揺るぎない忠義と信頼が宿っていた。
「リオンハート卿も……ルチア殿も強いな」
オルハンの呟きに、ルチアはちらりと横目を向け、軽やかに言葉を返す。
「私に惚れても無駄ですよ。心に決めた御方がいますので」
わずかな冗談に、オルハンの頬が緩んだ。
その瞬間、張り詰めていた空気がほんの少し和らぐ。
だが……。
「一同、起立」
鋭い声が響いた。
すべての音が止まり、評議室の扉がゆっくりと開く。
重々しい足音とともに入室したのは、査問委員長バルド・エストレイン。
灰色の髭を整え、王国最高法官の徽章を胸に輝かせる。
その姿はまさに「秤の番人」と呼ばれるにふさわしかった。
彼が着席すると同時に、人々も静かに腰を下ろす。
沈黙の中、バルドが口を開いた。
「これより、エリオス・リオンハート男爵の罪状に関する審議を再開する」
その瞬間、空気が凍りつく。
重ねられた年月のすべてが、いまこの場で裁かれようとしていた。
だが、その静寂を破るように、扉の外から一つの声が響いた。
「遅れました」
低く、よく通る声。
すべての視線が一斉に扉へと向かう。
そこに立っていたのは……。
漆黒の軍服をまとい、真っすぐな瞳をもつ男。
エリオス・リオンハート、その人だった。
彼の足取りは揺るぎなく、歩み一つひとつが、静かな威厳を纏っていた。
原告席のグリフォード伯爵が、歯を食いしばって睨みつける。
「大事なときに遅刻とは何事だ! 謝罪しろ! 謝罪!」
だがエリオスはその罵声を無視し、何の言葉もなく被告席に腰を下ろした。
その姿は、まるで嵐の只中に立つ塔のように、微動だにしなかった。
そして、バルドが低く言った。
「……よろしい。審議を始めよう」
こうして、王国史に刻まれることとなる運命の結審が、静かに幕を開けた。
静寂が満ちていた。
その沈黙を破ったのは、重厚な声で一言「原告側、最終弁論を」と促した査問委員長バルドであった。
椅子の軋む音を響かせながら、グリフォード伯爵がゆるりと立ち上がる。
紫の上着の襟元を正し、堂々たる態度で前に進む。
その横顔には、自らの正義に絶対の確信を宿した者の傲慢さがあった。
「まず第一に」
伯爵の低く張った声が、評議室の石壁に反響する。
「敵国との国境警備を怠り、領地を蹂躙されるとは、怠惰を通り越し、もはや国賊と呼ぶほかありますまい」
ざわり、と小さな波紋が広がる。
伯爵は意に介さず、続けた。
「さらに、敵国の侵攻という国の一大事を前にして、王命を待つという真っ当な判断をしたのは、我が盟友ヴァレンシュタイン辺境伯その人。
彼女ですら王命を仰いだのです。
にもかかわらず、あろうことか、彼女の配下であるエリオス・リオンハートは、独断で軍を動かし、我が軍に突撃するという暴挙に出た!」
彼の声は次第に熱を帯び、拳が卓を叩く音が響いた。
「その軍は、これまで私が我が子のように目をかけ、育て上げた兵たち。
その彼らを容赦なく蹴散らしたしたのです! 恐怖のあまり、もう剣を握れない若者もいます。彼らの輝かしい未来を奪ったのです!
これが蛮行でなくて何でありましょう!」
伯爵は一呼吸置き、顔を上げた。
「英雄であろうと、罪は罪。信賞必罰こそが王国を支える柱。それを捻じ曲げれば、この国はやがて腐り落ちる!
私は断固として、リオンハート男爵の爵位をはく奪し、仮釈放なしの十年の投獄を求めます!」
言い終えると、評議室には一瞬の沈黙が訪れた。
それは、言葉が完璧に響ききった後の沈黙――反論の余地を与えぬ、完結した静けさであった。
委員たちは互いに顔を見合わせ、やがて小さくうなずき合う。
「確かに……理はある。」
「エリオス殿の行動は軽率だった。」
そんな囁きが漏れた。
ただ一人、バルド委員長だけが、表情をまったく動かさなかった。
やがて、低く厳かな声で言う。
「被告側、最終弁論を」
エリオス・リオンハートが静かに立ち上がった。
その一動作に、会場全体の空気が変わった。
彼が発した最初の一言で、場の重心が完全に彼の側に傾くのを、誰もが肌で感じた。
「こたびの審議、私に言わせれば、児戯に等しい滑稽な場としか言えません」
ざわめき。
誰もが息を呑む。
挑発的な響きでありながら、その声には一点の怒りもない。
むしろ凍てつくほどの静けさがあった。
「そもそも、今回の侵略で最も被害をこうむったのは、他ならぬ我がリオンハート家です」
淡々と語る声が、鋼のように響く。
「ここで私事を申すのは忍びない。
ですが、あえて申しましょう。私は、最愛の父を失い、親愛なる騎士団長を失いました。
家族も同然の領民たちが無残に殺され、焼かれ、辱められました」
重苦しい空気が広がる。
エリオスは一歩前へ出る。
「防備の薄いところを敵国から攻められれば、そのような惨劇を想像できぬほど、私は愚かではありません。ここにいる高名な貴族の皆様方も同じでしょう。にも関わらず、王命を待つだと? わき目も振らず領に戻らぬなど、愚かの極み。
親も、民も、国も守れぬ者が、この国を導けるはずがない」
その目が、まっすぐグリフォード伯爵を射抜く。
「もし、私が王命を待って親を見殺しにしていたら、後世の笑い者になるのは、私だけではない。
国王陛下も、ここに座する皆様方も、同じく『臆病者の時代』を築いたと語り継がれるでしょう」
会場の空気がひりついた。
「そのような見識すら持たず、行く手を阻み、正義を貫こうとした兵たちを貶める――かような人の言葉に耳を傾け、罪なき者を糾弾する審議を、児戯と呼ばずして、何と言いましょうか」
グリフォード伯爵の顔が見る見る赤く染まっていく。
エリオスは止まらなかった。
「家族と領民を愛し、その生活と安全を第一とする心こそ、我が国を豊かにし、強くする。
私はその信念のもとに行動した。それだけのことです。それを罪と言うならば、私の他にも裁きを受けねばならぬ英雄たちは、この中にもおりましょう」
鋭く息を吐き、間をおいて続ける。
「ですが……。いいでしょう。グリフォード卿の言い分も筋が通っていないとは言えますまい。ならば、ここに事実を申しておきましょう」
バルドの表情がぴくりと動く。
エリオスは彼の瞳を真っすぐにとらえながら続けた。
「そもそも、国境警備の持ち回り制を提案したのは、あなた、グリフォード伯爵です。そのことは、この議場にいる……そう、ハロルド子爵はご存じです。ですよね? 子爵殿」
急に話を振られ、困惑するハロルド。
グリフォードが殺気を帯びた視線で彼を睨みつける。
ハロルドはひたいに汗をかきながら、その視線から目をそらした。
「……はい。その通りです……」
「ハロルド、貴様……っ! 私から受けた恩を忘れたか!!」
伯爵が椅子から半ば立ち上がる。
バルドが「グリフォード卿、お静かに」と、制した。
そして「リオンハート卿、続けてください」と冷静な声で促した。
エリオスは小さくうなずくと、すらすらと続きを述べた。
「そして、あの日、守備を担当していたのもグリフォード卿の軍勢。
だが彼らは臆病にも、敵軍を前にして真っ先に逃げ出した。砦を空にし、国境を明け渡したのです。
もし、彼らがほんのわずかでも勇気を持って踏みとどまっていれば、難攻不落の砦は数日は持ちこたえたでしょう。
その間に、クロース領と隣接しているあなたが、援軍を送っていれば、多くの命が救われたはずです」
エリオスの声は凍てつくほど冷たい。
「しかし、あなたは援軍を送らなかった。
むしろ、はかったかのように、ヴァレンシュタイン領周辺に兵を出し、駆けつけようとしたセレナ様の軍を足止めした。
……それが事実です。」
グリフォード伯爵はわなわなと震える。
「貴様、それではまるで私が悪いみたいではないか!」
彼は金切り声尾で叫んだが、エリオスは一歩も引かずに言い放つ。
「ご自身でもよくお分かりのようで」
「なんだとぉ!!」
バルドが木槌をドンと叩く。
「双方、挑発的な言動は避けるように」
エリオスは深々と頭を下げた。
「これは大変失礼しました。
いずれにしましても、どちらが国賊に相応しいか。良識ある査問委員の皆さまなら、もうお分かりでしょう」
重い沈黙。
その空気を切り裂くように、バルドが口を開いた。
「リオンハート卿。これでおしまいですか?」
エリオスは、その言葉を待っていたかのように、首を横に振ると、さらに言葉を重ねた。
「委員長、私は新たな証人の出廷を求めます。」
「な、何だと!? 最終弁論の後に証人など!」
グリフォード伯爵が怒声を上げる。
「認められるはずがない!」
しかし、委員長バルドは眉一つ動かさずに言った。
「いいでしょう」
ざわめきが広がる。
「ただし、リオンハート卿。
その証人が新しい証言も証拠ももたらさぬ場合、無駄に結審を引き延ばした罪は、あなたに重くのしかかりますよ」
「ええ」
エリオスは静かにうなずいた。
そして、視線を扉の方へと向ける。
「証人を」
扉が開いた。
光の差し込む廊下の向こうから、甲冑の金属音が響く。
その音に、室内の空気が凍りついた。
現れたのは、異国の紋章を刻んだ黒い外套の青年。
金の髪、深い灰色の瞳。
「名を名乗ってください」
バルドの言葉に、青年は凛とした声で告げた。
「ラミレス公国王弟、テオ・ラミレス」
誰もが息を呑んだ。
敵国の王族が、王都の裁きの場に立つなど、前代未聞のことだった。
エリオスは、わずかに口元を引き締めて言った。
「証人、テオ・ラミレス殿。
あなたに、国境砦で起きた“真実”を語っていただきましょう」
評議室の空気が、爆ぜるように張りつめた。
まるで誰かが、この国の歴史の頁を一気にめくったかのようだった。
「ま、待ってくれ! 休廷を! 休廷を望む!!」
グリフォードが必死の形相でバルドに詰め寄った。
バルドはここでも表情ひとつ変えない。
そして、時計にチラリと目をやる。針は正午を指していた。
彼はひと呼吸置いた後、静かに言った。
「よいでしょう。では、いったん休廷とし、午後に再開します」
彼が木槌を叩き、いったん解散となった。




