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第48話 エルドナの戦い③

◇◇


 エリオスがかつて、アルベルトだった頃の記憶がふと脳裏をよぎる。

 まだ若く、理想と正義を信じていた時代。王族としての矜持と責任を、どこか純粋な信念のように胸に抱いていた頃。


 あの時、常に傍らにいたのは、白髪交じりの、寡黙な男。

 彼はエリオスの軍略の師であり、同時に、心の奥底まで見透かすような眼を持つ稀有な存在だった。


 ある夜、二人きりで地図を広げていた時のことだ。

 彼は静かに筆を置き、アルベルトを見つめた。


「殿下。もっとも美しい戦の勝ち方とは何と心得ますか?」


「余自ら先陣切って剣を振り、敵を完膚なきまで我が手で叩きのめすことではないのか?」


 若きアルベルトは問うた。

 軍師は、ひとつ微笑みを浮かべて言った。


「戦わずして勝つ。これこそが、真に王たる者の為すべきことです。戦場を制するとは、敵を殺すことではなく、敵の心を折ること。恐怖と畏敬を与え、刀を交える前に膝を屈させることこそが勝利です」


 その時は理解できなかった。

 だが、いまなら、分かる。

 あの言葉の真意が。


 エリオス・リオンハートとして生きるようになってから、彼は常に戦場の最前線に立った。

 敵に恐怖を植えつけるため、そして味方の士気を極限まで高めるために。

 己の武勇を見せつけ、敵の心を砕き、混乱の波を起こした上で、整然とした突撃を繰り出す――それが彼の戦い方だった。


 だが、今回ばかりは違った。

 敵は五万を超える大軍。

 たとえ自ら先陣を切っても、その影響は局地的にしか及ばぬ。

 しかも、敵将の中には冷静に状況を見極める者……そう、先の戦いで相対した、あの王弟テオのような男がいる。


 だから、エリオスは“出ない”という決断をした。

 彼自身が戦場の中心に立たずとも、戦いは動く。

 いや、彼がいないからこそ、敵は焦る。動揺する。

 それこそが、“戦わずして勝つ”ための布石だった。


 エルドナの戦いは、今のところその思惑どおりに進んでいる。

 敵の攻撃は単調で、無謀で、感情的だった。

 たった一つ、誤算があるとすれば、敵の総大将フェルディナンド・ラミレスが、あまりにも愚かだったこと。


 (まさか、自ら少数部隊を率いて裏を突こうとは……)


 エリオスは苦笑すら浮かべた。

 勝つための策を巡らすどころか、己の功名心を満たすことしか考えていない。

 これでは戦略どころか、戦術ですら成立しない。


 彼はすぐに通信機を手に取った。


「ロルフ、聞こえるか」

「はっ、エリオス様。グラディア砦前にて待機中です」

「動け。敵の総大将が少数を率いて我が背後を狙っている。追撃せよ」

「御意。カイルを伴い、すぐに進軍いたします」


 通信が切れる。

 丘の上から戦場を見下ろすエリオスの視線の先で、黒煙がうねるように立ち上る。

 その向こうで、ロルフ率いるクロース騎士団が動き出していた。


 彼らは漆黒の甲冑に身を包み、音もなく丘を駆け下りる。

 影が走るように、地を裂くように。

 そして、丘の斜面を登ってくるフェルディナンドの小隊の背後を突いた。


「な、何だ!? 後ろから……!?」


 フェルディナンドの叫びが虚空に響く。

 背後から降り注ぐ矢、突き立つ槍、舞う血煙。

 ほんの数分で、彼の率いる小隊は半壊した。


「ぐ……誰か、誰か援軍をっ!」


 通信機を掴み、彼は必死に叫ぶ。


「テオ! テオ、応答せよ! 我が背を突かれた、急ぎ来いッ!」


 だが、応答はすぐには返らなかった。

 ようやく聞こえた声は、疲弊しきったものだった。


「兄上……! 命じられた通り、こちらは正面から攻めかかっております。されどまだ麓の半ばで苦戦中です」


「そっちはもういいから、早く俺を助けに来い!!」


 テオは愕然とした。

 同時に、想像通りの展開になったと、ある種の納得を得た。

 よって冷静だった。


 「みんな、ここは退くぞ! 陛下の救援に向かう!!」


 動き出しは素早く。一気に斜面を駆けおり、ロルフ隊の側面を突いた。


「兄上ぇぇぇぇ!!」


 突如の攻撃に、クロース騎士団は一時的に後退する。

 黒い鎧の列がわずかに揺らぎ、エリオスの陣からも煙が上がった。


「どうだ!」


 フェルディナンドが高笑いした。


「我が軍の強さ、思い知ったか!!」


 彼は誇らしげに剣を掲げ、踵を返した。


「よし、テオ! このまま敵を押し返し、再び丘を登るぞ! 敵本陣を突き崩せ!」


「兄上、やめてください!」


 テオは叫ぶ。


「これ以上は無駄死にです! いま退けばまだ立て直せます、頼む、聞いてください!」


 しかし、フェルディナンドの耳には届かない。

 彼は戦場の興奮と恐怖の狭間で、すでに常軌を逸していた。


「うるさい! うるさい! うるさぁぁぁい!! 何がなんでも勝つのだ!!」


 その言葉に、テオは顔を歪めた。

 もう、何を言っても無駄だ。


 そして。


「敵は退いた! 今だ! 一気に本陣を突け!!」


 突撃の号令と共に、フェルディナンドが馬を駆けた。

 丘の上に向かって一直線に突き進む。

 彼の背を追うように、疲弊した兵たちが吠えながら続いた。


 だがその瞬間、戦場の空気が変わった。

 風が逆巻き、黒い影が走る。


 疾風。


 まるで夜そのものが形を持って現れたかのように、漆黒の軍勢が丘の影から現れた。

 旗印は漆黒の狼。

 鋭い角を模した兜、闇に溶ける鎧。


 その先頭にいたのは……エリオス・リオンハート——。


◇◇


 アルベルトの戦略の師は、「戦わずして勝つ」の心得を説いた後、最後にこう付け加えた。


「だがもし……その戦が”弔い合戦”なら。最後の仕上げだけは、陛下。あなた自身でおこなうとよいでしょう。兵たちの忠誠は鉄のように固くなり、あなたの姿は吟遊詩人たちによって伝説となって民の心を打ちましょう。そして、何よりもあなた自身の心が晴れますから」


 その言葉を脳裏に浮かべながら、エリオスは剣を抜いた。

 音はなかった。

 ただ、空気が裂け、時間が凍りつくような冷たさが走った。


「漆黒の悪魔だ!」


 誰かが叫んだ。

 そして、地獄が開いた。


「父上、ガレス、それに多くの同胞たちの仇。今こそ晴らしてくれよう。行くぞ! 俺に続け!!」


 黒い軍勢が嵐のようにフェルディナンド軍の正面を突く。

 あっという間に最前列が崩れ、逃げ場を失った兵たちは次々に地に伏した。

 エリオスは一歩も止まらない。

 剣を振るうたびに、血飛沫が闇に溶け、炎が風に流れる。


 その姿はまさに、戦場に舞い降りた死神。


 少し離れたところから様子をうかがっていたテオは、凍りついたようにその光景を見つめていた。

 兄の影が、黒い波に呑まれていく。


 「兄上ッ!」


 その叫びも、爆風と金属音にかき消された。

 そして、エリオスの瞳が一瞬だけこちらを向いた。

 冷たい光。

 まるで、運命そのものに見据えられたような、そんな眼だった。

 彼の手には、一つの首。

 それはフェルディナンドであることは明らかだった。


「兄上ぇぇぇぇ!!」


 テオの心臓が、強く脈打つ。

 だが不思議と、兄の無念を晴らすべく、決死の突撃を敢行しようという気は起きなかった。


(すべて、最初からエリオス・リオンハートの掌の上だったのだ……)


「逃げねばならぬ。生き延びねばならぬ!」


 それ以外の思考は、テオの頭からすっかり抜け落ちていた。

 遥か遠くにのぞむ王城の方へ、馬の首を向ける。


「退け! 退け! 命あっての物種だ!!」


 焼け焦げた草の匂いが肺を刺し、土煙が喉を締めつける。

 エリオスの本陣から一気に離れたが、風の向こうから、まだ戦場の残響が聞こえる。剣戟の音、悲鳴、そして、あの漆黒の軍勢の咆哮。


(追ってくる……!)


 心臓が破裂しそうだった。

 いつ、あの“悪魔”が背後から現れて、自分の背を一刀で切り裂くか分からない。

 あの男、エリオス・リオンハート。

 彼の剣を、彼の目を、一度でも見た者は分かる。あれは人間ではない。


 ただひたすら走った。

 馬を駆り、森を抜け、ぬかるんだ斜面を滑り降り、血で濡れた草を踏みつける。

 すれ違う部隊の隊長たちが狼狽した顔で立ち尽くすのを見て、テオは叫んだ。


「退け! 全軍退却だ! 持ち場を捨て、王城に集結せよ!」


 その声は震えていたが、命令の響きだけは確かだった。

 恐怖で引きつった喉から搾り出された声。

 兵たちは混乱しながらも、その声に従って散り始めた。


 周囲を高い木々に囲まれた細い道に差しかかる。

 そこには、うつ伏せに倒れた兵士たちの屍が散乱していた。

 ひときわ立派な鎧が目に入る。


「あれは……」


 その首のない亡骸が、無残に転がっていた。


(……ルイス……)


 口を開こうとしたが、声が出なかった。

 彼の死を悼む余裕すら、今のテオにはなかった。

 感情が、すべて恐怖に呑まれている。


(逃げねば……!)


 頭の奥で警鐘が鳴る。

 もしここで足を止めれば、あの悪魔が来る。

 それが本能で分かっていた。


 細い道を抜ける。

 ようやく視界が開け、エルドナの端にたどり着く。

 そこには、焦げ跡と瓦礫だけが残っていた。

 それでも、まだ生きている。まだ間に合う。


(王城に入って籠城すれば……)


 そうだ。

 籠城戦に持ち込めば、まだ望みはある。

 エリオスの軍勢も補給線は長い。時間が経てば、いずれ疲弊する。

 その隙に、講和を持ちかければ……。


 心にわずかな理性が戻る。

 だがそれは、戦略ではなかった。

 ただの“延命”――死の恐怖から逃げるための妄想にすぎない。


(和平……そうだ、和平を……)


 思考が震える。

 もう勝つ気などない。

 彼の中の戦意は、とっくに死んでいた。


(だが俺は死ぬわけにはいかない。ルイスとの約束を果たすまでは)


 エリオスと正面から戦って勝てる者など、この大陸には存在しないのではないか。

 前の戦いで、彼が作った地獄の光景を、テオはこの目で見ている。

 彼の強さは、理屈を超えていた。

 人が人を殺す“戦”ではなく、“魔王が人を裁く”光景。

 その時から、テオの心には消えぬ恐怖が焼きついていた。


(もし周囲に人がいなければ、泣いていただろう……)


 その自覚が、痛いほどに胸に刺さる。

 だが、泣くわけにはいかない。

 自分は王弟。ラミレス家の名を背負う者だ。

 兵たちの前では、決して取り乱してはならない。

 それが唯一、彼の“誇り”の残滓だった。


 息を整え、馬を走らせる。

 やがて、石造りの王城の姿が間近に迫ってきた。

 白亜の城壁、尖塔、旗竿、いつもなら心が安らぐ光景のはずだった。


 だが。


「……な……?」


 視界に映った旗を見て、テオは愕然とした。


 王城の城壁に翻っているのは、リオンハート家を示す黒地に銀獅子の旗が並んでいた。


「そんな……馬鹿な……」


 言葉がこぼれる。

 ありえない。

 エリオスの本隊は、今まさに丘の向こうで戦っているはずだった。

 それなのに、どうして。


(……まさか……!)


 脳裏に、ひとつの戦術が閃く。

 敵主力を正面で釘付けにし、他の丘に布陣した別動隊で本丸を叩く。

 古典的だが、極めて有効な包囲の一手。

 そしてそれを可能にするには、徹底した戦場掌握と時間の支配が必要だ。


(……全部、読まれていたのか……!)


 思わず、歯ぎしりした。

 いつの間にか止まっていた投石。

 それが城攻めに転用された証拠に、城壁のあちこちが崩れている。

 大きな損傷跡、黒煙、瓦礫。

 戦場にいた間に、すでにすべてが決まっていた。


 完全なる敗北。


 テオは空を仰いだ。

 見上げる空は、不思議なほどに青く澄んでいた。

 白い雲が流れ、風が頬を撫でる。


 その瞬間、胸の奥に奇妙な清々しさが生まれた。


「ああ、終わったのだ……戦も、誇りも、恐怖も、すべて……」


 テオはただ、呆然と空を見上げたまま、馬上で動けなかった。

 敗北という言葉では足りない。

 これは、“支配”だった。

 心の奥底まで、すべてを見透かされ、導かれ、壊される……。

 そんな戦いだった。

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