第47話 エルドナの戦い②
焦げた草の匂いが風に乗って流れてくる。
爆裂した投石の破片がいまだに空を舞い、焼け焦げた鎧の残骸が煙を上げていた。あたりは、まさに地獄のようだった。
ラミレス公国軍の兵たちの士気は地の底に落ち、彼らの顔は一様に真っ青になっている。
そんな中、フェルディナンド王の怒声が、拡声器を通じて全軍に響き渡った。
「敵の目くらましなどに怯むな! 突撃せよ! 敵を蹴散らせ! 退くことは許さん!」
声は激しく震え、どこか焦燥を帯びていた。
その声が戦場に響くたび、兵たちは恐怖と義務の狭間で顔を歪め、それでも前へと足を運ぶ。
「……兄上……」
馬上からその様子を見つめるテオは、深く息を吐いた。
(ここは一度、態勢を立て直すべきなのに……)
無謀。
それ以外の言葉が見つからなかった。
丘の上から再び放たれる轟音。
次の瞬間、地面が揺れた。
爆風で巻き上げられた土煙が空を覆い、視界は茶色に染まる。
「もう少しで前線が崩壊します!」
副官が叫ぶ。
「わかっている!」
テオは歯を食いしばり、額の汗を拭った。
(どうすればいい?)
隣のルイスが、冷静な声で言った。
「たった一つでも、敵のいる丘を制することができれば、おのずと士気は戻りましょう。まだ諦めるのは早いというものですぞ」
テオは苦笑を漏らした。
「そうだな、まだ戦はこれからだもんな」
ルイスは静かに槍を構えた。
だが、その覚悟が、報われるとは思えなかった。
しかし、そうせざるを得ない、という、悲壮な使命感だけが、主従を突き動かした。
比較的手薄な丘を選び、一気に駆け上がる。
もうすぐ頂上というところで、エリオス軍が立ちはだかった。
「突き進め!! この丘を制するぞ!!」
テオは先陣を切って、漆黒の鎧をまとい、巨大な盾をかまえるエリオスの兵に攻めかかる。
だが……。
——カァァァン!
テオの槍は甲高い音を上げて、盾にはじかれた。
「硬い……!」
明らかに普通の鉄ではない硬さだ。
まるで見えない壁に阻まれているような感覚……。
「また魔晶石か!?」
テオの推測の通りだった。
エリオスの兵『漆黒の悪魔』の鎧と盾には、鉄鋼の強度を飛躍的に高める魔晶石が埋め込まれており、騎士たちのファイラに反応するようになっている。
これもまた、爆発する投石とともにクロエが開発したものだった。
そんなことも知らず、無駄な突撃を何度も繰り返すテオの小隊。
攻め疲れたところで、今度は、その完璧な防御の中から、槍が、牙のように飛び出した。
「くそっ……押し返されるな!」
テオは歯噛みした。
率いる味方は、見るからに苦戦している。
大軍ではあっても、半数は徴兵された農民。槍の持ち方すらおぼつかない者も多い。
武器は農具を改造しただけの粗末なもの、鎧は革製。
その足元には、すでに爆発で吹き飛ばされた仲間の遺体が転がっていた。
「頼む……せめて、この丘の一つでも……」
テオは祈るように呟いた。とその時だった。
「進めぇぇぇ!!」
麓の下から猛烈な勢いでやってきたのは、ルイス率いる騎馬隊だった。
これ以上、歩兵で攻めても埒が明かないと踏んだ彼は、騎馬隊を引き連れて戻ってきたのだ。
(これならいける!)
テオの顔が明るくなった。
だが……。
それも一瞬だった。
「一同、踏み鳴らせ!!」
その号令とともに、エリオスの兵たちが地面を踏む。
地鳴りとともに、騎馬隊を襲ったのは、電撃だった。
「ぬぐっ!?」
ルイスが目を細める。
「もう一度!!」
次の瞬間、再び地鳴りとともに電光が走った。
突進してきた騎馬が悲鳴をあげ、足を取られて転倒する。
馬のたてがみから火花が散り、鉄の匂いが焦げつく。
「なに……っ!?」
テオは思わず息を呑んだ。
それは地面に埋め込まれた、雷の魔晶石。
地面を踏み鳴らすと発動する仕掛けになっている。
威力は致命的ではない。だが、馬を怯えさせるには十分だった。
「くっ、落ち着け!」
手綱を引くが、馬は制御を失い、横へ跳ねた。
「隊を立て直せ!」
叫ぶテオの声も虚しく、騎馬隊は混乱に陥った。
そこへ、エリオス軍の槍兵が雪崩れ込む。
「突けぇぇぇぇっ!」
鋭い槍先が閃き、兵を貫く。
血が飛び散り、馬が崩れ落ち、兵たちは次々と地に倒れた。
「退け! 一度退け!」
テオの声に、残存兵たちはどうにか後退を始めた。
その顔には恐怖が刻まれ、誰もが次の突撃を望んでいない。
そして、遠くの丘からはなおも投石機の轟音が響く。
爆発するたびに、空気が震え、大地がうねる。
疲労の色が、兵たちの顔に濃く浮かんでいた。
何度突撃しても跳ね返される。
敵はびくともしない。
もはや戦意は削がれ、散り散りになって逃げ出す者も出ていた。
テオは息を荒げながら、通信機を握りしめた。
「兄上、お願いだ……! 一度退いて、陣形を立て直すべきです! このままでは、兵が全滅します!」
しかし、返ってきたのは――怒声だった。
「黙れ! 貴様の臆病風にはもう飽きた!」
「しかし、兄上! もはや打つ手がありません!」
「そこまで言うなら、よいか、テオ! おまえの提案を受け入れてやる! 敵大将の本陣だけを狙え!!」
何を今さら……。
そう言いかけたところで、
「狙うは敵の大将!! 全軍、突撃!!」
耳をつんざく金切り声が拡声器を通じて戦場全体に響く。
その瞬間、テオの中で何かが音を立てて崩れた。
胸の奥が冷たくなり、指先の感覚が遠のく。
(……終わったな)
視界の向こう、黒々とした丘の上で、エリオス軍の旗がはためいている。
その旗の下に、すべてを見通すような、冷たい光を宿した瞳がある気がした。
テオは静かに目を閉じ、息を吐いた。
「……ルイス、すまない。たぶん、俺たちは」
「わかっています」
ルイスの声は、どこか穏やかだった。
風が、二人の頬を撫でる。
その風の中に、焦げた草と、血と、鉄の匂いが溶けていた。
そして、彼らの目の前で、ラミレス軍の最後の突撃が始まった。
丘陵の谷間を縫う細い道に、ラミレス公国軍の兵たちが濁流のように押し寄せていた。
泥と血と硝煙が混じり合い、空気は息苦しいほど重く淀んでいる。
「うおおおおおお!!」
兵たちの目は疲れと恐怖に濁り、それでも前へ進む。
目指すはただ一つ、最奥にそびえる丘。
その頂に掲げられた二つの旗、グランヴェル王国とリオンハート家の紋章。
そこにこそ、この地獄の指揮を執る男、エリオス・リオンハートがいる。
「止まった?」
テオが顔を上げた。
それまで続いていた投石機の轟音が、ぴたりと止んでいた。
重苦しい静寂。
テオは少し高いところに登り、周囲を見回した。
ラミレス公国の軍が縦一列に伸びきっている。
次の瞬間――。
「しまったぁぁ!! 皆の者、防御だ!!」
テオの絶叫が終わる間もなく、丘の斜面を黒い影が滑り落ちてくる。
漆黒の鎧を纏った兵たちは斜面を駆け下りながら、まるで落石のような勢いでラミレス軍の列に突っ込む。
鉄と肉がぶつかり、骨が砕ける鈍い音。血しぶきが霧のように舞う。
「くそっ、押し返せ、押し返せええっ!」
叫びは虚しく、前列は瞬く間に押し崩された。
ラミレス公国軍の五万のうち、すでに半分は戦闘不能。
「こうなったら後ろは振り返らない!」
テオは己に言い聞かせるように、拳を握った。
「敵本陣まで、何も考えずに突撃!!」
泥と血にまみれた顔を上げ、馬腹を蹴った。
ルイスもまた、無言でその背に並ぶ。
「行くぞ、ルイス!」
「はっ!」
そのときだった。
――ガサリ。
茂みの中から、異様な気配が走った。
次の瞬間、木々を弾き飛ばして現れたのは、巨躯の男だった。
「……止まれッ!」
テオの声に、兵たちが足を止める。
その男は鋼鉄のような体を持ち、肩から黒い狼の毛皮を垂らしていた。
腰には二振りの剣。瞳は獣のように鋭く、血に飢えている。
「我はクロース騎士団副団長、ヴォルフ・ハーゲン!」
重々しい声が響き渡る。
「名のある敵将とお見受けする。いざ尋常に、勝負いたせッ!」
そして彼は、言葉より先に剣を抜いた。
双剣が閃き、雷光のようにテオへ迫る。
「くっ!」
咄嗟に馬を引こうとしたその瞬間、鋼と鋼がぶつかる音が鳴り響いた。
テオの前に立ちはだかり、その剣を受け止めたのは、ルイスだった。
「ルイス!」
「先をお急ぎあれ!!」
ルイスは鋭く叫ぶと、ヴォルフをにらみつけた。
「ルイス・エインズワース、推して参る!」
「ふん、名は覚えた。死ぬ覚悟があるならば――来いッ!」
その瞬間、二人の剣戟が火花を散らした。
ヴォルフ率いる精鋭部隊が、ルイスの小隊に突っ込む。
泥が跳ね、血が飛び、地面が震える。
テオは歯を食いしばった。
「ルイス、やめろ! 一緒に行くぞ、ここを抜けねば――!」
「いいえ!」
ルイスは振り返らずに叫んだ。
「約束! お忘れなきよう!!」
その言葉に、テオは息を呑んだ。
彼の瞳に宿る決意が、死をも恐れぬ覚悟が、痛いほど伝わってくる。
「……すまない、ルイス」
テオはそれだけを呟き、兵を率いてその場をあとにした。
背後で金属のぶつかり合う音が続き、やがて悲鳴と怒号が遠ざかっていく。
丘が、近い。
だがそこから降り注いだのは、雨ではなかった。
「……矢だ!」
無数の弓矢が空を覆う。
太陽を隠すほどの黒い雨。
テオは咄嗟に剣を振り、飛来した矢を弾き返した。
次の瞬間。
爆音。
矢が空中で破裂した。
「なっ……!?」
爆風に吹き飛ばされ、土煙が舞い上がる。
テオはとっさに身を伏せた。兜と鎧が衝撃を吸収し、致命傷は免れた。
しかし周囲の兵たちは違う。
爆発の直撃を受けた者たちは肉片となって散り、叫びも上げぬまま消えていった。
「これも……魔晶石か……」
テオは息を呑む。
投石も、盾も、弓矢までもが、魔晶石によって強化されている。
それは、かつて見たどんな兵器よりも洗練され、恐ろしく、効率的だった。
(……あのオズワルドが“最新”と称して売ってきた武具など、比べ物にならない)
つまりこの武具は、エリオス・リオンハートが独自に開発させたもの。
彼の軍には優れた研究者がいて、莫大な資金が注ぎ込まれているのだ。
兵を鍛え、知を集め、戦の技術を磨き上げる。
その徹底ぶりは、もはや狂気に近い。
(もし……我が国の君主が、エリオスだったなら)
そんな思いが、テオの胸をよぎる。
兵を無為に死なせることはなかった。
戦略を誤って、国を疲弊させることもなかった。
胸の奥が熱くなり、唇が震える。
「……惜しい。悔しい……」
その呟きが血に濡れた風に消えたとき、通信機がノイズを発した。
「テオ! 聞こえるか!」
兄フェルディナンドの甲高い声だった。
「まもなく敵のいる丘の麓です。しかし状況は――」
「言わずとも分かっている! 俺は精鋭を率いて、やつの裏手に回る! お前はこのまま正面から攻めろ! 挟み撃ちにしてやるのだ、ははははっ!」
その笑い声を聞いた瞬間、テオの背筋に氷の刃が走った。
(――まさか)
兄は、ほんとうに裏手に回るつもりなのか。
わずかな兵を連れて、最前線へ。
そんなことをすれば、敵の迎撃を受けて命を落とすのは必至だ。
「兄上、それは無謀です! すぐにお戻りを!」
通信機に叫ぶ。しかし、返ってきたのは笑い声だけだった。
「心配無用だ、テオ。敵は見当たらない! 勝利の女神は我らに微笑んでいる!」
ノイズが混じり、通信は途切れた。
テオは馬上でしばらく動けなかった。
喉が焼けるように痛い。胸の奥が、何か黒いものに締め付けられる。
(兄上が……死ねば、この無意味な戦は終わるのか?)
その考えが、頭をかすめた瞬間。
テオは自分の中で何かが崩れる音を聞いた。
「いけない……そんなことを……!」
思わず声に出して否定する。だが、心の奥では別の声が囁いていた。
(もう、誰かが止めねばならない。この狂気を、終わらせるために)
テオは拳を握り締めた。
血が滲むほど強く。
(兄上……どうか、無事でいてくれ。だがもし、あなたが……)
その続きを、彼は心の中でも言えなかった。
ただ、冷たい風が吹き抜け、彼のマントをはためかせた。
丘の上では、黒い旗が静かに揺れている。
その下に立つであろうエリオス・リオンハートの姿を思い浮かべたとき、テオは戦慄した。
あの男は、ただの将ではない。
智と覇気と、そして非情を併せ持つ“王”そのものだ。
(……エリオス・リオンハート。あなたが敵であることが、これほどまでに恐ろしいとは)
テオの胸中に、敗北の予感と、奇妙な敬意がないまぜになった。
そして、遠く丘の頂で、黒き旗が、まるで勝利を確信するかのように風を裂いていた。




