第43話 悪魔の単騎無双
◇◇
燃えるような夕陽を背に、エリオス軍は大地を裂く轟音とともに進んでいた。
その疾風怒濤の勢いは、見る者すべてに「暴風」と錯覚させるほどであり、風圧に押された草木が軋み、野を駆ける獣さえ道を空ける。
「エリオス様! 前方に軍勢!」
カイルの声が響く。
「どこの旗だ?」
「ヴァレンシュタイン家です!」
「そうか! 無礼を承知で通り過ぎるぞ!」
整然と陣を敷いたヴァレンシュタイン軍。甲冑に身を包んだセレナが馬上に立ち、進み来る軍勢を目にする。
しかしエリオスは彼女に一瞥すらくれず、まるでその存在さえ眼中にないかのように、ただ一直線に駆け抜けた。
風圧が彼女の外套をはためかせ、たてがみを持ち上げた。
「……エリオス」
セレナの呟いた声は、轟音に呑まれて誰の耳にも届かなかった。
「さらに軍勢!」
「どこのだ!?」
「グリフォード!!」
その名を聞いて、エリオスが鬼の形相に変わった。
「止まれ! エリオス・リオンハート!!」
鉄壁の陣を張るグリフォード軍が立ちはだかる。槍の穂先が一斉に空を突き、重厚な防壁のように軍勢が道を塞いでいた。
「王命が下るまでは待機せよ! このまま我が軍を突破すれば、貴殿は逆賊となりますぞ!」
だが、エリオスは一歩も退かず、白馬の首を高く振り上げた。
「逆賊は貴様の方だ、グリフォードォォォ!!」
天地を震わせるほどの咆哮が、戦場を駆け抜けた。
鬼神のごとき形相で迫るエリオスの姿に、兵たちの膝は震え、心臓を鷲掴みにされたように呼吸を忘れる。
「ひ、ひるむな! 構えを崩すな!」
後方からグリフォード伯爵の怒号が飛ぶ。だがその叱咤は、冷ややかな風にかき消されるばかりであった。
「ほ、本当に突っ込んできやがった!」
エリオス軍は、まるで濁流のように突っ込んだ。しかし槍衾に突き立つ寸前。
「に、逃げろぉぉ!」
「ひぃぃぃ!」
グリフォード軍は耐えきれず、次々と後退し、隊列は乱れ、やがて尻込みするように両側へと開かれた。
「馬鹿者ども! 逃げるな!」
伯爵の声はむなしく響き渡るが、兵たちは腰を抜かし、盾を取り落とし、ただ震えながら道を譲ることしかできなかった。
疾駆するエリオス軍の怒涛の奔流を、誰ひとり止めることはできなかった。
単騎であっても五日を要する行程。
それを、エリオス軍は三日で駆け抜けた。
馬は泡を吹き、兵は血の涙を流さんばかりに鞭を振るい、それでも誰ひとり落伍しようとはしなかった。
それはもはや「行軍」ではなく、命を賭した「突撃」であった。
だが、故郷にたどり着いたとき……。
その勢いはぴたりと止まった。
「……これは」
誰かの声が、絶望に呑まれて消えた。
クロースの地に広がっていたのは、筆舌に尽くしがたい惨状。
「ひどい……」
市街の建物は炎に呑まれ、黒煙を天へと吐き出していた。
焦げた木材の匂い、血と土の匂い、そして、あちこちに横たわる領民の無残な亡骸。
かつて豊かで賑わっていた町並みは、今や地獄の風景に変わり果てていた。
「……ラミレスの軍勢は?」
エリオスが低く問う。
「敵兵の姿はどこにもないようです」
アイザックが報せる。
市街戦を避けたのか、それとも撤収したのか。
いずれにせよ、残されたのは焼け跡と屍のみ。
だが見当たらないのは敵だけではなかった。
「民の姿もありません……」
エリオスは血眼になって駆けた。
彼が探していたのは、留守を預けていた者たち……。
燃え盛る瓦礫を蹴散らし、叫ぶ。
「誰かいないのか! いたら返事しろ!」
やがて彼の目に映ったのは、焼け崩れた屋敷の裏庭に残る井戸。
かつて有事のために自ら命じて掘らせた、地下室への隠し通路。本当に信頼の置ける一部の領民には、その存在を教えてある。
通路の奥の扉をこじ開けて中に飛び込んだ瞬間……暗闇の中に、ひとかたまりになって震える人影があった。
「エリオス様!」
群衆の中から立ち上がった若い女が、震える声で名を呼んだ。黒猫亭のサラだ。
彼女は目に涙をいっぱい溜め、次の瞬間、堰を切ったようにエリオスに抱きついた。
「街が……」
その声は安堵に震え、嗚咽に濡れていた。彼女の奥には、たまたま行商にきていたハルモニアの職人たちの姿もある。広い地下室には彼らの他にも多くの領民が潜んでいた。
サラは涙をぐいと拭い、蒼白な顔で言葉を続けた。
「ギルバード様が……危ないの。リオンハート領に続く道の途中の砦に籠っていると……でも、このままでは……」
父の名を聞いた瞬間、エリオスの胸に燃えさかる炎が宿った。
彼は息を整える間もなく、ただ剣の柄を握りしめ、血を吐くような声で命じる。
「アイザック。俺が戻るまで、皆の安全を頼んだぞ!」
「はっ!」
炎に焼かれた故郷を背に、エリオス軍は再び進軍を開始した。
もはやその歩みは迷いも休息も許されぬ。
ただ一つ、父を、領を、そして未来を救うため――彼らはさらなる地獄へと駆けていった。
リオンハート城を目前にして、エリオス軍の足並みは自然と止まった。
視線の先に広がるのは、陥落寸前の城に群がる敵の大軍だった。
「くっ……」
これまで気丈に振舞っていたリアナが、悔しそうに唇を噛み、目から涙を落とす。
カイルは目を真っ赤に腫らしながも、自分の役割を果たそうと、前方に目を凝らした。
「エリオス様。敵の軍勢がいます。その数……五千ほど」
砦を背に、規律正しく布陣した五千の軍勢。大地を埋め尽くす鎧と槍の波が、夕陽を受けて鈍く光を放つ。その様は、まるで大地そのものが牙を剥き出しにしているかのようであった。
「かの者が、エリオスか。思ったより早かったな」
先陣に立つは、若き猛将にして国王の次男、テオ。
背丈はエリオスと変わらぬが、鋼鉄のように鍛え抜かれた体躯と、燃える瞳が放つ覇気は圧倒的である。
その両脇を固めるのは、ラミレスの双璧と恐れられた戦鬼ハビエルと俊将ルイス。
まさに選りすぐりの精鋭が立ち塞がっていた。
「ここへ来るまで、相当無理したのだろう。あっという間に蹴散らしてくれる」
一方のエリオス軍は、わずか二千足らず。
五日を三日で駆け抜けた無茶な強行軍の果てに、誰もが疲労困憊であった。
馬は息を荒げ、兵たちは血走った目を隠すこともできない。
だが、それ以上に心を苛むのは、燃え盛る故郷の惨状。
家を焼かれ、民を殺され、砦まで奪われた屈辱と怒りが、兵たちの胸に黒い靄のように渦巻いていた。
「勝つか、負けるかの戦いじゃねえ。必ず勝つんだ!」
誰ともなく漏れた声は、兵の心に闘争心を代弁していた。
しかし、五千対二千。地の利なく、奇襲もなく、ただ平原でぶつかり合うだけ。
常識で考えれば、勝ち目などあるはずがない。
だが、そのときカイルの双眸が、敵陣に突き立てられた「あるもの」を捕らえた。
「そんな……」
「どうした?」
エリオスの問いに、カイルはうつむきながら声を震わせた。
「砦の城壁前、一本の杭に、無惨にも切り落とされた一つの首が縛り付けられています」
エリオスの隣に並ぶリアナの顔が青くなる。
「……誰のものだ?」
「……ガレス様」
低く押し殺した声が、カイルの喉から絞り出された。
リオンハート騎士団長にして、忠義の士。
常に領主ギルバード子爵のそばに立っていた忠義の士。
その首が、敵に弄ばれるかのように晒されているというではないか。
「うああああああああ……!!」
怒りに顔を紅潮させたリアナが叫んだ。
エリオスもまた、怒りで視界が赤に染まる。
血が煮えたぎる。
理性を焼き尽くすような激情が、彼の胸を支配した。
「リアナ!!」
鋭く名を呼ぶと、彼女は一歩前に進み出た。
「ガレスの首を取り戻せ」
その命が発せられる前に、その場を飛び出したリアナ。
「このぉぉぉぉぉ!!」
矢が放たれる。
だが、彼女は動じなかった。
ひらりひらりとそれらを器用にかわしていく。
数本は鎧をかすめたが、それでも怯むことなく突き進み、杭をへし折ると、ガレスの首を、大事そうに抱えて戻ってきた。リアナの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「よく戻った……」
エリオスは、その首を両手で受け取ると、そっと目を閉じた。
「必ず報いる。……俺が、この命を懸けてでも」
そして、振り返った。
二千の兵たちが、鬼の形相で彼を見つめていた。
その目に宿るのは憤怒と激情。
エリオスは大声を張り上げた。
「聞け! まずは俺が行く。俺一人で敵の陣を切り裂く!」
どよめきが起こる。
底知れぬ興奮が兵たちの間を走った。
「俺が敵を怯ませる! その刹那、ロルフの号令とともに突撃せよ!
その後は我が領土に一兵たりとも敵兵を残すな。逃げれば追え、我が領を奴らの墓場とせよ! 容赦するな! 敵を殲滅せよ!」
その言葉に、兵たちの胸が震えた。
疲れは消えぬ。恐怖も消えぬ。
だが、眼前の男だけは、揺るぎなく、絶対だった。
「いくぞ!!」
エリオスは馬の首を叩き、愛馬を駆け出させた。
たった一騎で、五千の大軍へと向かう。
夕陽が長い影を引き、白馬が風を切る。
兵たちは息を呑んだ。
誰もが、その姿に言葉を失った。
悪魔の単騎無双——。
後世にそう呼ばれる伝説の戦いは、今まさに幕を開けたのであった。
「ひひぃぃぃぃん!!」
白馬の嘶きが、戦場の空気を裂いた。
ただ一騎、ただ一人。
エリオスは大軍のど真ん中へと突き進む。
「敵はただ一人!! うて、うて、うてぇぇぇい!!」
矢の雨が降り注ぐ。
だが、振るわれる双剣は嵐のように舞い、飛来する矢をことごとく叩き落とした。
「死ねぇぇぇ!!」
咆哮一閃。
敵兵の首が宙を舞った。
剣閃が走るたび、鮮血が大地を濡らし、肉と鉄が悲鳴を上げる。
「ひ、ひとりだぞ! 囲め!」
叫ぶ声。押し寄せる兵。
だが、彼らの槍は届く前に断ち割られ、鎧は紙のように切り裂かれる。
「うおおおおおお!!」
エリオスの剣はただ斬るだけではなかった。
突き刺すような鋭い視線が、敵兵の心を凍りつかせる。
怯む隙をついて、刃は疾風となり、肉を裂き、骨を砕き、血飛沫を撒き散らす。
「ぐはっ!」
その光景は、剣士の戦いではない。
まるで地獄の魔神が舞っているかのようだった。
「止めろ! 誰か止めろ!」
兵たちは叫び、次々と屍を晒した。
「みなのもの、下がれ!!」
やがて、進み出る影があった。
鋭い双眸を光らせる若き猛将は、周囲の兵を振り払い、ただ一人、エリオスの前に立ちはだかった。
「我が名はラミレス公国の王弟テオ・ラミレスだ。貴様が……エリオスか」
「そうだ」
「覚悟しろ!」
言葉は短く、次の瞬間には剣と剣が激突した。
火花が散り、空気が震える。
テオの一撃は雷鳴のごとく重く鋭い。
だがエリオスの剣は嵐そのもの。
何度も弾き、受け、打ち合い、両者の剣戟は凄まじい轟音を響かせた。
「おおおおおおッ!」
テオが吠え、全身全霊の一撃を放つ。
エリオスは受け止めた。足元の大地が砕け、土煙が舞う。
しかし次の瞬間、返す刃が閃き、テオの肩口を裂いた。
「ぐっ……!」
鮮血が飛び散り、テオはよろめく。
「殿下!」
駆け寄った側近のルイスが叫び、彼を抱え込むように後退させた。
怒りに燃えた勇将のハビエルが代わりに前へ出る。
「小僧ォォォ! 貴様をここで斬る!」
獣のように突進するハビエル。
振り下ろされる巨大な戦斧。
受け止めるエリオスの顔が、一瞬だけ歪む。
ハビエルがにやりと口角を上げ、次の一撃にそなえる。
だが……。
「死ね」
エリオスの剣が稲妻のごとく閃き、ハビエルの巨体は両断された。
声を上げる暇もなく、上半身と下半身が別れ、大地を叩いた。
「な……」
沈黙。
そして恐怖の悲鳴。
しかし、頬を張るような鋭い声が拡声器を通じて響き渡った。
「ラミレスの勇敢な戦士たちよ! 陣形を整えよ! 相手はたかが一人、されど魔王のごとき無双の一人だ! 一万の大軍を相手していると心得よ! 個で戦うな! 隊で戦え!!」
それは総大将テオの声だった。負傷して後方へ退いたが、かえって冷静さを取り戻したようだ。
彼の命令で理性を取り戻した兵たちは、陣形を整える。
「ちっ」
エリオスは舌打ちをした。
(これまで通りにはいかないな)
盾を前面に押し出し、槍を突き出しながら、じりじりと四方から距離を詰めるラミレス軍。
そのとき、エリオスの瞳に狂気の光が宿る。
「……いいだろう」
低く呟いたその声は、戦場全体を震わせた。
「地獄を見せてくれる」
エリオスの足元に、黒い魔法陣が刻まれる。
「我が願いに応じ、その姿を地上にあらわしたまえ――」
地が裂け、空が悲鳴を上げる。
やがて、轟音とともに出現したのは――漆黒の巨龍。
「深淵の龍神バハムートよ、敵を焼き尽くせ……!」
地獄の黒龍は咆哮し、その口から灼熱の黒炎を吐き出した。
瞬間、数百の兵が炎に包まれ、断末魔の叫びを上げながら黒焦げとなって崩れ落ちる。
鉄も肉も魂すらも焼き尽くす、絶望の炎。
「絶望にひれ伏せ!」
さらにエリオス自身も、黒き炎を纏った。
近づく兵は、その熱だけで皮膚を焼かれ、剣を振るう間もなく燃え上がる。
エリオスは歩くだけで、敵を焼き殺していった。
「キャオオオオオ!!」
黒龍が翼を広げて暴れ、大地を爪で切り裂き、敵兵を叩き潰す。
エリオスはその傍らで剣を振るい、逃げ惑う者を容赦なく斬り伏せる。
返り血に染まり、目は紅蓮の炎のように輝き、彼の姿はもはや人ではなかった。
「魔王だ……あれは……魔王だ!」
つい先ほど整列したばかりのラミレス兵たちだったが、狂乱し、互いに押し合い、潰し合いながら逃げ惑った。
「助けてくれ! 俺は戦いたくない!」
敵兵が錯乱し、逃げ場を失ってエリオス軍の前へ転がり込む。
だが、最前線に出ていたロルフは冷酷に剣を振り下ろした。
「我らに救いを求める資格など、貴様らにはない」
敵兵は絶叫を残して斬り伏せられた。
その間も、エリオスはひとり、またひとりと兵を屠っていく。
剣が骨を砕き、黒炎が肉を焼き、血が雨のように降り注ぐ。
彼の進む道は、死骸で埋め尽くされていった。
やがて、深く敵陣を抉り進むエリオスの姿に、堪えきれなくなった者がいた。
「はっはっは……! もう我慢できん!」
狂笑を上げたのはヴォルフだった。
彼は愛馬を蹴り、雄叫びを上げて単騎で突撃する。
その勢いに釣られるように、兵たちも次々と剣を掲げて続いた。
そしてついに、ロルフの咆哮が響いた。
「全軍、突撃せよ!」
怒涛の奔流が生まれた。
二千の兵が一斉に駆け出す。
悪魔の如きエリオスを先頭に、ヴォルフが吠え、ロルフが剣を振るい、兵たちの鬨の声が戦場を揺るがした。
その中でも、とくに多くの敵兵を屠ったのは、復讐に真っ赤に燃える一輪の花——リアナだった。
「おまえらは絶対に許さん!!」
上官でもあり、兄のような存在でもあった騎士団長のガレスを失った哀しみと怒りは、彼女の弓を引く力に変っていた。
「ひけ! ひけぇぇぇ!!」
さしものテオも退却を命じるより他なかった。
こうして、ラミレス軍は崩壊した。
五千の軍勢は、黒炎と狂気に呑まれ、ただ潰走の一途をたどるしかなかった。
だが彼らにとって、これは地獄の入り口にすぎないのだった。




