第42話 天国から地獄
◇◇
王都の大聖堂に、澄んだ鐘の音が三度響いた。
それが合図であったかのように、豪奢な絨毯の上を堂々と進みゆくのは、漆黒の礼装に身を包んだ一人の青年、エリオス・リオンハート。
その歩みは決して速くはなかった。だが一歩ごとに、これまでの戦場の日々、血のにおい、民の笑顔、仲間たちの声……。
そのすべてが背後に積み重なり、彼の足取りを重厚なものとしていた。
「エリオス・リオンハート様がお入りになります!」
高い天井から吊るされた無数のシャンデリアは、宝石のような光を放ち、祭壇前に設けられた玉座を照らす。
その中央に座すのは、銀の髭を湛えたグランディア王国の君主、アルフォンス三世である。
王の周囲を囲むのは重臣、王族、そして名だたる貴族たち。その視線は一斉にエリオスへと注がれていた。
「エリオス様……」
「ふふ、マリアちゃんったら、目がハートになってるよ」
「んなっ!? そ、そんなことありませんから!」
「しっ! マリアとルチア! 静かにせよ! 陛下の御前であるぞ!」
この式典には、特別に許しを得て、彼を支えてきた面々が列席していた。
鋼のごとき風貌で、威風堂々と立つロルフ。
その隣には、武骨な笑みを浮かべつつも背筋を伸ばすヴォルフ。
鋭い眼光で場を見渡すカイル。
どこか飄々とした空気を纏いながらも緊張の色を隠せないアイザック。
冷静沈着に立ち、帳簿のように一切の乱れを見せないハロルド。
気品を漂わせながら、余裕の笑みを浮かべるルチア。
堅実にその場を支え、主人の晴れ姿を見つめるマリア。
誇らしげに目を細め、兄の姿を見守るアラン。
どこか場違いのように、キョロキョロするフェリオ。
新設の研究所を背負う若き所長として参列を許されたクロエ。
そしてリオンハート家からは、騎士団副団長のリアナが持ち前の明るい笑みを浮かべながら晴れ舞台を見つめていた。
誰もが固唾を呑むなか、国王アルフォンス三世は玉座から立ち上がり、杖を軽く床に鳴らす。
「エリオス・リオンハートよ。汝の勇敢なる戦い、領の経営、そして忠義の心は、国にとって比類なき宝である。その功績により、我はここに、汝を男爵に叙する」
国王の言葉とともに、白銀の剣が祭壇に運ばれた。厳かな沈黙が広間を満たす。エリオスは片膝をつき、頭を垂れた。その肩に、国王自らが剣を軽く触れさせる。
「汝に爵位と領土を守る責務を授ける。誇り高く、そして正しくあれ」
その瞬間、堂内に万雷の拍手が巻き起こった。
王国の楽団が奏でる勇壮な音楽が響き渡り、天を仰ぐほどの高揚感が列席者を包む。
「ありがたき、幸せ。これからも粉骨砕身の覚悟を持って、国のため、民のために尽くします」
やがて立ち上がったエリオスに、国王は一歩近づき、静かに問いかけた。
「先に申しつけたこと、忘れてはおるまいな?」
エリオスは深く頭を下げ、真摯に答えた。
「セレナ・ヴァレンシュタイン卿を支えよとの御言葉、確かに胸に刻んでおります。ご安心ください、陛下」
その言葉を聞いた国王アルフォンス三世は、年老いた瞳に柔らかな光を宿し、混じりけのない笑みを浮かべた。そして、力強く、しかしどこか名残惜しげに、エリオスの手を握った。
「うむ……頼んだぞ」
まるで遺言のようにさえ響いたその声が、エリオスの心に深く刻まれた。
式典が終わると、荘厳な空気は余韻を残しながらも、次第に和やかなものへと変わっていった。
王城の一角の控えの間に集ったのは、戦場と日々を共にした気心知れた仲間たち。大きな円卓にはささやかな料理と酒が並べられ、重苦しい緊張から解き放たれた笑い声が広がった。
「ったく、遠いところにいっちまいやがって。飲んだくれのエリオスはどこへいっちゃったのやら」
フェリオが首をすくめる。そこにマリアが口を尖らせた。
「そういうあんたは相変わらずなんも変わってないのね! こういう晴れのときくらい、良い服着てきなさいよ」
「うっせえ、こっちは小さい妹と弟を5人も食わせなきゃいけないんだっつーの」
エリオスはいがみあう幼馴染ふたりからそっと離れる。すると今度は甘ったるい声が耳元でささやかれた。
「まあ、爵位くらい当然でしょうけどね。次は伯爵かしら?」
ルチアがにやりと笑い、からかうように言う。
「ルチア殿、そんなに浮かれてはなりませんぞ」
ハロルドが低い声で釘を刺しつつも、その眼差しには誇りがにじんでいた。
それぞれが杯を傾け、祝福と労いの言葉を交わす。
「ねえねえ、君聞いてよ。今、ボクが研究中なのは……」
「は、はあ。すごいね」
「ほんとにそう思ってるぅ? 怪しいなぁ」
クロエがカイルに絡み、リアナはヴォルフとの腕相撲で周囲を盛り上げている。
エリオスは微笑みながら、彼らの様子を眺めていた。
(こんなにも晴れやかなときは久々だな……)
そのときだった。
重厚な扉を叩く音。入ってきたのは伝令役の兵士。緊迫した表情に、場の空気が一瞬で張り詰める。
「急報! ラミレス公国軍、クロース領を急襲! ……お味方、苦戦。陥落、目前にて――」
凍りつく空気。誰一人として言葉を発せなかった。
エリオスの手にあったワイングラスが、次の瞬間、指の間から滑り落ちる。
――カシャンッ。
甲高い破裂音を立てて、床に砕け散った。深紅の葡萄酒が石畳に広がり、その色は血潮のように濃く、重かった。
「とにかく通信機のところへ!」
どんなときでも冷静なアイザックに促され、一同は通信機のある別室へなだれ込む。
エリオスは一瞬だけ目を閉じ、そして鋭い光を宿した眼を開いた。
そして通信機に向かって、怒号をぶつけるように問いただした。
「グラディア砦はどうした!」
グラディア砦とはラミレス公国との国境沿いにある難攻不落の砦のことだ。
しばしの沈黙の後、震えるような声が返ってくる。
「……敵軍、五千の大軍にて押し寄せ……かなわぬと見て、すぐに撤退いたしました」
「なにを言っている!」
机に置かれたグラスが跳ね、ロルフの拳が固く握られた。
長きにわたり砦の守備兵長を務めてきた男の怒りと絶望が、その低い唸り声に滲んでいた。
「渓谷を背にしたあの砦だぞ。十倍の兵であろうと正面から攻めれば押し返せる。たとえ数刻であろうと、あそこを抜かれることなどありえぬはずだ!」
その言葉に、エリオスの胸に冷たい稲妻が走る。
彼ははっと顔を上げ、血走った眼で通信機を睨みつけた。
「砦の守備、今月の担当は……」
「グリフォード伯爵!」
リアナの声が憤怒で震えていた。
「あの野郎ぉぉ! またやりやがったか!!」
ヴォルフの咆哮が空気を震わせる。
その瞬間、エリオスの表情はまるで魔王そのもの。普段は鋼のように冷徹な瞳に、燃え盛る業火のごとき激情が宿った。
「ロルフ! ヴォルフ!」
一喝とともに振り返り、二人に命じる。
「全兵士に告げろ。支度を終えた者から俺について来い! ついてこられぬ者は二度と我が領の地を踏めぬと思え!」
稲妻のごとき命令に、兵たちの胸に稲光が走った。
その剣幕は恐怖すら超え、誰もが体の奥底から突き動かされる。普段は飄々とした物腰のリアナでさえ、口元をきりりと引き締め、ただ黙ってエリオスの後を追った。
夕陽は地平を血のように染め上げていた。
白馬に跨がったエリオスの漆黒の外套が風にたなびき、その姿は疾風そのもの。彼が馬腹を蹴るや否や、大地を裂く雷鳴のような蹄音が轟いた。
それに遅れまいと、次々に騎兵たちが続く。黒い鎧に包まれた二千の軍勢が、赤き空を背に一斉に駆け出す光景は、誰の目にも畏怖と絶望を刻み込むものだった。
「頼む……間に合ってくれ」
風に消え入るほどの小さな声で呟きながら、エリオスはただ前を見据え、馬の腹に鞭を打ち続けた。
一方その頃。
クロース領の危機は、瞬く間にヴァレンシュタイン領にも届いていた。
報を聞くや否や、領主セレナは自ら甲冑を纏い、純白の兜を脇に抱えて馬に跨った。
その背には騎士団長オルハン、そしておよそ千の兵が従う。
「一刻も早く援軍を!」
その叫びとともに、領都の門が開き、ヴァレンシュタイン軍は力強く進軍を開始した。
だが、数刻も行かぬうちに、彼女らの前に立ちはだかったのは、想像すらしていなかった光景であった。
「……なに?」
セレナの瞳が見開かれる。
彼女らの行く手を塞ぐように、整然と布陣する二千の軍勢。
鎧は重く、槍は林のように並び、まるでこの瞬間を待ち構えていたかのごとく鉄壁の陣形を敷いていた。
その旗印は――グリフォード伯爵のもの。
「ここを通しなさい!」
セレナは拡声器を手に声を張り上げる。その声は鋼のように鋭く、大地を震わせた。
だが、軍勢の奥深くから響いた答えは冷ややかだった。
「……ラミレス公国の軍勢は五千。寡兵で挑めば全滅は免れぬ。セレナ卿の命さえ危うかろう。もし人質にでもなれば、それこそ王国の危機である」
「なんだと……?」
「ゆえに、陛下の御名において招集された連合軍が到着するまでは、此処を通すわけにはいかぬ!」
拡声器越しに響いたグリフォードの声は、あたかも正義を語る聖者のごとき響きを纏っていた。
その名分は……。
(完璧。まるでこうなることを予想していたかのように……)
セレナは歯を食いしばり、唇を噛んだ。
「おのれ……。リオンハート卿は貴殿にとっても家族同然ではないか……」
「だからこそです。私にとっては、領内の皆が家族。だからこそ、無駄な犠牲を払うわけにはいかないのです!」
直接グリフォードの顔を見ることはかなわない。しかし、不気味な笑みを浮かべているであろうことは、冷静な物言いで容易に想像ができる。
(どうにかできないのか……?)
兵の練度では自軍が勝る。突破しようと思えばできる。
だが、グランヴェル王国では明確な王命なき戦闘、ましてや貴族同士の軍勢の衝突は固く禁じられている。
(こちらに名分はない)
むしろ、グリフォードの掲げる理屈はあまりにも正しく、美しいほどに響いていた。
「私は……無力だ……」
騎士団長オルハンが静かに手綱を握り、彼女を見やる。
セレナは拳を固く握りしめ、兜の内で奥歯を鳴らした。
(すまない)
胸の奥でそう謝るしかなかった。
進むべき道は閉ざされ、クロース領は孤立無援のまま、敵軍の侵攻を受けている。
(エリオス……。おまえなら、こんなときどうする?)
燃える夕陽の下、セレナの心は、砕けるほどの無念と怒りに満ちていた。




