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第41話 漆黒の悪魔

◇◇


 辺境領の貴族総会を控えた前夜祭の夜。

 煌びやかな光に包まれたヴァレンシュタイン邸の大広間は、例年とは比べものにならぬほどの熱気とざわめきに満ちていた。


「あの御方はいつご到着されるのだ?」

「ああ、待ちきれないですわ」


 今年の主役は、誰の目にも明らかだった。


 エリオス・リオンハート——。


 東の辺境領にも関わらず、遠方の貴族や、名目上は辺境領とは距離を置いている王族筋までもがこぞって参加を表明したのである。

 昨年の参加者数と比べれば実に五倍以上。

 出席者名簿に並ぶ名は壮観であり、これが一人の若き令息の存在によって引き寄せられた現実だと思うと、誰もが胸の内で驚嘆を禁じ得なかった。

 そんな中、ひときわ豪勢な馬車が、ヴァレンタイン邸の前に止まった。


「ずいぶんと田舎まで来たものね。でも、これも愛のため。ふふ、エリオス様、今夜こそは、そのハートを射止めてみせますわ!」


 姿を現したのは、ルクレール侯爵の長女――リーゼロッテだった。

 彼女は、深紅のドレスに身を包み、胸元を大胆に開いた装いで多くの視線をさらった。


「ふふ、わたくしったら、罪な女ね。こうやって大人しくしているのに、衆目を集めてしまうのだから」


 金糸で刺繍された裾が揺れるたびに、彼女の自信に満ちた笑みと共に場はざわめいた。自身の美貌と立場に絶対の自負を持つ彼女にとって、エリオスを手中に収めることは当然の帰結のように思われた。

 そんな中、ついにその時がきた。


「エリオス・リオンハート様がお越しになりました!!」


 全員の視線が一斉に扉に集まる。

 待ちに待った人物、エリオスが姿を現した。


「おお……」


 多くの人々の口から、感嘆が漏れる。

 凛とした立ち居振る舞い、戦場を幾度も渡り歩いた者だけが纏う揺るぎなき気配。

 一瞬の静寂の後、エリオスが小さく一礼すると、大広間は沸き立った。


「エリオス様!!」

「ちょっと押さないでくださる!?」


 若い娘たちが一斉に動き出す。誰もが彼に近づきたい、言葉を交わしたいと願った。

 しかし、彼の横に並び立つひとりの女性の存在が、その足を止めさせた。


「あら? 皆さま、ごめんあそばせ。エリオス様のお供は私ですの」


 ルチア・ヴァイス。

 気品にあふれる立ち居振る舞いと、美貌に映える漆黒のドレス。その姿を見た者は、彼女がかつて盗賊団の副団長であったなどとは夢にも思うまい。

 彼女がエリオスの隣に立つことで、二人はまるで最初から一対の存在であったかのような調和を見せ、周囲を寄せつけなかった。

 だが、それでも退かぬ者がひとりいた。


「ちょっと待ちなさいよ。このわたくしを差し置いて、偉そうに。何様なのかしら?」


 リーゼロッテである。

 彼女は裾を大きく翻し、ためらいもなくエリオスの前に進み出た。

 そして横に立つルチアを一顧だにせず、ずかずかと踏み込んで挑発する。


「エリオス様。その女など置き去りにして、私と夜を過ごしましょう」


 その露骨な誘いに場は一瞬、息をのんだ。

 しかし怯むどころか、ルチアはゆるやかに微笑を浮かべ、持ち前の鋭い舌で切り返した。


「ふふ。さすがはルクレール侯爵のご令嬢。殿方の御心も簡単に手に入ると思ってらっしゃるところを拝見するに、これまで欲しいものは何でも与えられてこられたのでしょうね。羨ましいですわ」


「なんですって!? あなた、このわたくしに向かって無礼ではなくて?」


「その古めかしい言葉遣いも、いかにも名家のご令嬢って感じで、素敵ですわ。でも、リーゼロッテ様。残念ながら、エリオス様は私の横から離れようとしていません。この状況を察するに、エリオス様は……これ以上は、慎みますね」


「ぐぬぬ……」


 遠回しの皮肉と、正面からの揶揄。その両方を織り交ぜてリーゼロッテを追い詰める。結果、侯爵令嬢は歯ぎしりしながらも引き下がらざるを得なかった。

 周囲の者たちは、まるで舞台上の一幕のようにそのやり取りを見守り、心の中で勝敗を決した。

 エリオスはルチアに耳打ちした。


「……あまりやりすぎるなよ」


 すると彼女は肩をすくめて笑う。


「あら? 喧嘩をふっかけてきたのは向こうですわ。育ちが悪いものですから、売られた喧嘩は買わないと気が済まなくて。それともエリオス様は、リーゼロッテ様に興味がおありで?」


 彼女の唇が近づき、からかうように問いかける。

 エリオスは苦笑して首をすくめた。


「頼むから、俺までいじめないでくれ」


 やがて楽団が奏でる音楽が場を包み、前夜祭は華やかに幕を開けた。

 貴族たちの談笑、舞踏の響き、杯を交わす声。そのすべての中心に、エリオスはいた。

 だが、彼はふと隣のルチアに声をかける。


「少し席を外す。……金づるを物色するなら、好きにやるといい」


 ルチアは艶やかに微笑んで肩をすくめる。


「心得ておりますわ。獲物は逃しません」


 エリオスが向かったのは、広間の片隅に静かに佇むひとりの女性――セレナのもとだった。

 豪奢な場にありながら、彼女の周囲だけが不思議な静寂に包まれている。

 話し相手もなく、ただ周囲の喧噪を遠目に見ている姿は、ひときわ儚げに映った。


「セレナ様」


 エリオスは彼女の前に歩み寄り、礼儀正しく一礼して手を差し伸べる。


「一曲、踊ってはいただけませんか」


思いがけない誘いにセレナは一瞬、目を見開いた。視線をそっとオルハンへ向ける。傍らに控えていた彼は、重々しくも温かい眼差しでうなずいた。背中を押されたセレナは、意を決してその手を取った。


「リードは……任せましたよ」

「ええ」


 楽団が奏でる旋律に合わせ、二人は舞い始める。

 エリオスの確かなリードに身を預け、セレナは次第に表情を柔らげていく。

 頬を紅潮させ、夢見るようにうっとりと彼を見つめるその姿は、見る者の心を奪った。

 エリオスもまた微笑を浮かべ、気負うことなく彼女を導いていく。


 まるで絵画から抜け出したかのような光景。

 辺境の若き英雄と、気高き麗人。

 二人が織りなす舞は、やがて広間のざわめきを鎮め、すべての視線を引きつけた。

 楽団の奏でる旋律さえ、彼らを讃える伴奏にすぎぬかのように感じられた。


 ただ一人、その光景を冷ややかな目で見つめる者がいた。

 グリフォード伯爵である。

 杯を唇に運びながらも、瞳には憎悪と焦燥が宿っている。華やかに舞う二人の姿は、彼にとって脅威そのものであった。



◇◇


 総会本番の朝。

 広大な会議場には、出席者たちが続々と席に着き、低いざわめきが重厚な石造りの天井へと反響していた。

 昨年までの光景と比べれば、オズワルド侯とその息子エリオットの姿がないことが、唯一の違いだった。

 彼らの失脚によって、辺境領の権力図は大きく塗り替えられたが、そのおかげで緊張感は和らぎ、セレナにとってはだいぶ気楽な場となっていた。


「では、総会を始める」


 最初に発言したのはグリフォード伯爵だった。

 彼がエリオスを快く思っていないことは、セレナもよく知っている。近頃では、ルクレール侯爵とエリオスの距離が急速に縮まっているのは、貴族たちの間でも噂になっている。長年、ルクレール侯爵に取り入ろうとしていたグリフォード伯爵にしてみれば面白くないに違いない。

 だからこそ、セレナは身を引き締めた。


(もしエリオスを陥れるような理不尽な提案を持ち出してきたら……即刻却下だ)


 しかし、次の瞬間。場にいた者すべてが耳を疑った。


「わたしからの提案は二つ。ひとつめは、エリオス卿をクロース領の正式な領主として認め、さらに男爵位を国王陛下へ上奏すべきだ、ということです」


 ざわめきが広がった。

 敵意や皮肉めいた言葉が飛び出すと構えていたセレナも、思わず目を見開いた。


(なに……!?)


 グリフォードは続けた。


「ふたつめは、クロース領が担っている国境警備の重責を軽減するため、ラミレス公国との国境防備にあたる兵を、辺境領の各領主が持ち回りで一部負担すべきだと思うのです。今やエリオス卿は辺境の英雄にとどまらず、国全体の宝。その領地経営を助けることは、我ら辺境のみならず王国全体の益につながると、私は確信しております」


 あまりに意外な言葉に、場内はしばし沈黙した。やがてグリフォード伯爵に近いハロルド子爵が賛同の意を表すと、エリオスの父ギルバード子爵からも同意の声が上がった。


(いったいどうなっている?)


 セレナは眉根を寄せ、なおも伯爵の真意を測りかねていたが、少なくとも今回の提案自体に不利益は見当たらない。

 むしろクロース領にとっては望外の厚遇であった。


「その案、ともに可決としよう」


 その言葉と共に、場内には拍手が鳴り響いた。

 こうしてエリオスの領主としての地位は正式に認められ、そのうえ爵位の上奏が決定したのだった。


 会議の後、セレナはグリフォードに促され、その場で上奏の書状をしたためた。内容は「エリオス・リオンハートをクロース領主と正式に認め、あわせて男爵の爵位を賜るべきである」という推薦文。彼女はそれを信頼できる自家の使者に託し、即座に王都へと送り出した。



 そして、わずか十日後。

 王都からの返答が届いた。


「ルクレール侯爵の強い推薦もあり、エリオス・リオンハートに男爵位を授けることが決定した」


 さらに、国王自らが爵位を授与する式典を行うことが通達された。

 神聖歴302年の新年行事を終えた後、盛大に執り行われるという。


 知らせを受けたクロース領は歓喜に包まれた。領民たちにとって、エリオスは既に領主であり英雄であったが、今度は王国においても正式に認められるのだ。その誇りは彼らの胸を熱くした。


 エリオスは騎士団を率い、王都に入ることが決まった。クロース領から王都まで、馬を走らせても五日の道程。しかし軍勢を率いての行軍ともなれば、途中ヴァレンシュタイン城で休養を取りつつ進む必要があり、実に十日を要する長旅となる。


 彼が留守の間、クロース領の領主代行は父ギルバードが務めることとなった。ギルバードは快くそれを引き受け、エリオスは心置きなく王都への準備を始める。


 こうして、若き辺境の英雄が初めて「正式な貴族」として国王に謁見する日が、刻一刻と近づいていったのであった。


◇◇


 漆黒の波が動いた──エリオスの指揮する兵たちが、一斉に武具を改め、同じ型の漆黒の鎧で統一されたとき、辺境領の街道はまるで夜そのものを行軍させたかのような重い黒に覆われた。

 数は二千。

 黒い馬に跨る者、歩兵の甲冑が太陽を吸い込むように光を奪う。旗は黒ではなく、白い家紋がひときわ鮮烈に浮かび上がるだけだ――その静謐な力感が、人々の胸を震わせた。


 貴族の筆頭格と目されるルクレール侯爵でさえ、専属の正規兵は五千程度というこの国において、爵位を得る前から二千を動かせるという事実は、単なる人数以上の意味を持っていた。

 資金、補給網、職人の手配、そして民心の掌握。すべてをまとめあげる経済力と統率力。通りすがりの者たちは、声にならない畏れと尊崇を混ぜた言葉を漏らす。


「まるで漆黒の悪魔だ……」


 誰かが囁いた。

 そうしてほどなくして、噂は形を取り始める。

 やがて外地の旅人や噂話に敏い商人の口から伝播して、あの軍は『漆黒の悪魔』と呼ばれるだろう──その名が世界に届く日は、すでに刻まれたかのようだった。


「エリオス様!」

「エリオス様、万歳!!」


 ヴァレンシュタイン領への行軍は、沿道の歓迎の波に包まれた。

 旗を振り、子どもたちは花びらを撒き、老若男女が列をつくって通りを詰める。エリオスは馬上で静かに頭を下げ、通りの片隅で見上げる民の顔を一つひとつ噛み締めるように見ていった。

 やがて城門を潜り、セレナのもとへ謁見する時が来る。


「よく来たな。今宵はゆっくり兵馬を休めるといい」

「はっ。ありがたきお言葉」


 短いやり取りのうちに交わされた礼は形式的なものに過ぎなかったが、互いの目が合った瞬間の熱量はそうではなかった。

 二人の間に、主と従の枠を超えた緊張と信頼が、言葉にならないところで結ばれていることを、側で見ていたルチアは薄く笑ってからかった。


「人前では主従でも、顔を合わせればずいぶんと甘い空気が流れてるじゃないですか。嫉妬しちゃうわ」


 ルチアのからかいに、エリオスは穏やかに微笑んで答えた。


「からかうな。公務の一環だ」


 彼の声は軽く、だが確固たる芯があった。


「あら? なら、まだ私にもチャンスがあると考えてもいいのかしら?」


 ルチアの視線はどこか嬉しげに細まり、からかいはその場の空気を和ませただけで終わった。


 翌朝、ヴァレンシュタイン領を後にした大軍は、道中の討議や行程を滞りなくこなし、七日目に王都の城門をくぐった。

 王都の石畳は、そこかしこで祝賀と警護の人垣に埋められ、彼らの到着は都の注目を一身に集めた。式典を翌日に控え、エリオスは早々に床に就いた。

 静かな夜室の窓から差す月光に、彼は目を閉じながらこの数か月を反芻した。


 絶対王アルベルトだった前世。血と火にまみれた年月。権謀術数と策略、勝利の代償として数多の仲間を失った日々。だがそのときに得たものもまた、彼の骨肉となっている。

 今の自分はエリオスという器。だが中身は変わらない。勝利を掴むために野を駆け、時に人を欺き、時に見切りをつけて仲間を送り出すことを厭わなかったあの自分だ。


「ようやくここまで来たか……」


 彼はしみじみと思った。

 男爵位、領地、そして二千の兵力。

 だが、それらは、今の彼にとって、自分の身と地位を守るための、いわば鎧に過ぎない。


「まだ足りない」


 足元を固め、足腰を鍛えることは、高く飛翔するための土台となる。

 今の状況では、その土台は、まだ心もとないと感じていた。

 なぜなら、飛翔の末に手を届かせたい『世界征服』は、とてもなく高いところにあるからだ。


「あとは、背中を任せられる人さえいれば……」


 目をつむると、ふと一人の人物が脳裏に浮かび上がる。


 セレナ・ヴァレンシュタイン——。


「だめだ……。彼女を巻き込むわけにはいかない」


 かつてアルベルトだった頃は、使えるものは、家族だろうが親友だろうが、なんでも使っていた。

 そんな彼が、まだ知り合ってから時が立っていない一人の女性を踏み台に使うことをためらっている……。


 なぜか?


 その理由を深く考えたくない。

 だから彼は、静かに眠りについたのだった。



 ちょうどその頃、遠く離れたラミレス公国の首都では、大鼓が鳴り、号令が響いた。


「全軍! 進め!! 目標はグランヴェル!!」


 五千の兵が整列し、軍旗が翻る。

 出立の命を受けた大軍は、グランヴェル王国へと向かうために動き出した。

 誰もまだ知らない。これから訪れる、より大きな嵐の気配を。静かな王都の夜の裏側で、馬車のように重い車輪音が遠ざかっていったのだった。


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