第4話 エリオスVSザハード
◇◇
兵舎の大部屋は、鉄の匂いと汗の臭気に満ちていた。
その中で、桶を抱えた少年が先輩兵に蹴り飛ばされている。
――カイル・グレイ。
十七歳、貧民街の出身。兵士見習いという名ばかりの、使い走りの小間使いだ。
「おい、カイル! もたもたするんじゃねえ!」
手にしていた桶を床に叩きつけられ、背中を蹴られる。
「ひっ……す、すみません!」
謝る間もなく拳が飛び、唇から血がにじむ。
それを囲む兵たちは口々に笑った。
そこに、鎧の音と共に重々しい足音が近づいた。
現れたのは、リオンハート領に八人しかいない正式な騎士の一人、ザハード・ヴァイン。
場が一気に静まる。
ザハードはカイルを見下ろし、口端を吊り上げた。
「……暇そうだな、小僧。稽古をつけてやる。外へ出ろ」
命じられたカイルは逆らえず、土の訓練場へ引きずられる。
訓練という名のリンチがはじまった。
ザハードによる木剣の打ち込みが容赦なく、一方的に襲いかかる。
鈍い衝撃が全身を走り、カイルは何度も地に倒れた。
「ぐっ……!」
呻きながらも立ち上がる。
倒れては立ち、また倒れても立ち上がる。
その姿に兵たちは嘲笑を浴びせる。
「おい、見ろよ! まだ立ちやがった!」
「ザハード様の玩具だな!」
苛立つザハードは攻撃を激しくする。
だが、その最中――。
カイルの瞳がふいに鋭さを帯び、剣の軌道をかすかに外して避けた。
「……っ、このガキ!」
怒声と共に拳で殴り飛ばされ、カイルは再び地に沈む。
その騒ぎを聞きつけ、鎧の音が二つ響いた。
騎士団団長のガレス・フォードと、副団長のリアナ・クロフォードである。
リアナは眉をひそめ、毒づいた。
「またかよ、あの男……。新人いじめなんて、ほんっと趣味悪いわね」
訓練場中央では、カイルが血まみれの顔でなおも立とうとしている。
今にも意識を失いそうな姿に、リアナは思わず一歩踏み出した。
「団長、止めないと死にます!」
だが、ガレスは無言で彼女の腕を制した。
「……待て」
「なっ……どうして!?」
リアナは訝しげに団長を見上げる。
だがガレスの鋭い視線は、彼女ではなく訓練場の別の場所に注がれていた。
その先に立っていたのは。
血まみれのカイルをかばうように、すでに一人の青年がザハードと彼の間に割って入っていた。
エリオス・リオンハート。
その姿に、場の喧噪は凍りついた。
土の訓練場に、重苦しい沈黙が流れていた。
血に濡れたカイルの肩に手を置き、エリオスはゆっくりと顔を上げた。
「……稽古にしては、少し度が過ぎているのではないか」
柔らかな声でありながら、その目は鋭い。
対するザハードは、鼻で笑った。
「戦場でも同じことが言えますかね? 若様は戦の厳しさを知らないから、そんな生ぬるいことを言えるんですよ」
言葉巧みに取り繕い、余裕の笑みを浮かべる。
周囲の兵たちはそれに同調し、クスクスと笑った。
明らかにエリオスを小馬鹿にした笑いだ。
だが、エリオスは顔色ひとつ変えず、訓練場の端に立つガレスを見やった。
「……団長殿。赤の狼団の拠点を攻めるつもりだ。こちらから挑発すれば必ず動く。だから兵を、一人でいい。ついて来させろ」
訓練場がざわついた。
兵たちは目を丸くし、次いで冷笑を浮かべる。
「また始まったぞ、放蕩坊ちゃんの大言壮語だ」
「ひとりで賊の巣を攻める? 寝言も大概にしろ」
その冷たい反応を、エリオスは一顧だにせず、ため息をつきながら首を横に振った。
「……やはり駄目か。領内に八人しかいない騎士の一人がこの程度なら、他も推して知るべし。ここから兵を連れていくのは諦めよう」
その言葉に、兵たちは一斉に顔を紅潮させ、腰の剣に手をかける者までいた。
「なにぃ! 騎士団を侮辱する気か!」
「黙って聞いていれば――」
「黙れ!」
轟くような一喝が、ガレスの喉から放たれた。
その声に、ざわめいていた兵たちが凍りつく。
ガレスはゆっくりと前に進み、鋭い眼光をエリオスへと向けた。
「それはよかったです。こちらも訓練に精を出さねばならぬゆえ、兵を連れて行かぬというのなら、むしろ好都合です」
そして団長は兵たちに振り返り、低く命じた。
「全員、持ち場へ戻れ。今すぐだ」
兵たちがしぶしぶ背を向けようとしたその時、
エリオスの冷ややかな声が響いた。
「待て」
その一言に、足を止めざるを得なかった兵たちがざわつく。
エリオスは一歩前へ出て、低く、しかし透き通った声を放った。
「主たるもの、信賞必罰を是とせねば、士気は地に堕ちる。ここでひとつ、見過ごせぬ罪を犯した者を問いただしたい」
沈黙と困惑の中、彼はまっすぐに指を伸ばす。
「……おまえ、名をなんという?」
指先が捉えたのはザハード。
一瞬だけ顔を引きつらせたが、すぐに薄ら笑いを浮かべて名を名乗った。
「ザハード・ブラント」
エリオスは無表情のまま、わずかに頷いた。
「そうか。では、剣を取れ。真剣でかまわん」
思わず兵たちが息を呑む。
ザハードはけげんそうに眉をひそめながらも、言われるがままに腰の剣を抜いた。
その間も、エリオスの声は淡々と続く。
「昨日、街の広場での一件は皆も知っていよう。罪なき領民が、心なき赤の狼団の賊どもに一方的に暴行を受けた」
兵たちはざわつくが、誰一人として口を開けなかった。
エリオスは言葉を重ねる。
「その場に居合わせた俺が割って入り、聴衆たちに問うた。だが誰もが狼団を恐れ、沈黙した。――そこにいたおまえもだ、ザハード」
ザハードの顔がかすかに引きつる。
だがエリオスは視線を動かし、別の一点を指さした。
「ようやく真実を語ったのは……そこにいる貴様だったな」
リアナ。
彼女はいたずらっぽく笑い、軽く手を振って見せた。
エリオスはその反応を一顧だにせず、無感情に言葉を続けた。
「騎士たるもの、領民を守るのが責務。それを放棄し、さらに主の子息たる俺に虚偽を述べた。その罪をたださずして、周囲に示しがつこうか」
静まり返る訓練場。
ザハードはなおも余裕を崩さず、にやにやと笑みを浮かべた。
「で? どんな風に償わせるおつもりで? まさか尻に百叩きとか?」
周囲の兵たちがドッと笑い声を上げた。
だが、その笑いを切り裂くように、エリオスの声が落ちる。
「……それもよかろう」
凍りつく空気。
エリオスは淡々と告げた。
「だが、その前に、申し開きを聞いてやる。騎士は騎士らしく、その剣で語るがよい」
彼はカイルが落とした木剣を拾い上げ、静かに構えた。
その瞳は氷のように冷たい。
「貴様、俺に戦の厳しさを知らぬと言ったな。本当にその通りか、身を持って知るがいい」
「へっ。大人しくしてりゃ、つけあがりやがって。怪我しても知りませんよ」
「さあ……かかってこい」
挑発ではなかった。
それは命じる声。主の声だった。
ザハードは引きつった笑みを浮かべていたが、やがてそれをニタリと不気味な笑みに変えた。
「分かりました。その代わり、私からも一つ、提案がございます」
エリオスの視線が、鋭く射抜くように向けられる。
「申してみよ」
ザハードは胸を張り、わざと周囲に響く声で言った。
「決闘方式でお願いします」
その瞬間、訓練場の空気が凍りつく。
団長ガレスの顔色がさっと変わった。
彼は一歩踏み出そうとしたが、それを副団長リアナが手で制した。
「待って、団長。……ふふ、面白そうじゃない」
快活な笑みを浮かべ、軽やかに跳ねるような足取りで二人の間に近づくリアナ。
彼女の登場に、周囲の兵たちが再びざわめいた。
ザハードが続ける。
「もし私が勝ったら……その腰に差した剣をいただきたい」
エリオスの腰に佩かれた剣に兵たちの視線が集まる。
その品がどれほど高価で、名を持つ武具であるかは、一目で明らかだった。
どよめきが広がる中、エリオスは一切の迷いを見せず答えた。
「いいだろう。その代わり、俺が勝ったら、それなりの代償は払ってもらうぞ」
その言葉に、ザハードは勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「ええ、結構ですよ」
リアナは目を細め、二人の間に立つ。
「では、私が審判を務めるわ。勝敗はどちらか一方が降参するか、気絶するまで。……その他のルールはなし」
その快活で明瞭な声が響くと同時に、兵たちは訓練場をぐるりと囲み、緊張と興奮に息をのむ。
リアナは手を上げ、声を張り上げた。
「はじめ!」
その瞬間、決闘が幕を開けた。
エリオスは己の身体を冷静に分析していた。
剣技も体術も、この身には確かに刻まれている。刃をどう振るえば敵の体勢を崩せるか、どう足を運べば死地を踏まずに済むか――体が覚えている。
だが筋力も体力も、この体はエリオスのまま。
ひ弱で、剣を振るうにも持久力はなく、わずか数合で息が切れるのは目に見えていた。
短期決戦しかない。
そんな算段を立てている間も、ザハードは余裕の笑みを浮かべ、手招きしていた。
「先手はお譲りしましょう、坊ちゃん。どうぞご自由に」
挑発するように片眉を上げたその態度に、エリオスは淡々と返す。
「では、遠慮なく」
瞬間、彼の体が弾かれたように前へ飛んだ。
――速い。
ザハードの瞳に一瞬、焦りの色が走った。
受け止めた木剣の衝撃は、想像以上に重い。手首に響く振動に、思わず顔が引き締まる。
「……っ!」
木剣と木剣がぶつかり合い、乾いた音が訓練場に響いた。
力ではなく、角度と体重の乗せ方――エリオスは完全に剣の理を理解していた。
さらに追撃。
エリオスの剣筋は直線的ではない。突き出したかと思えば斜め下からすり上げ、踏み込みざまに体ごと回転しながら刃を叩きつける。
――《影返し》。
かつてアルバイトの身で習得した、変則的な剣技。予測不能の軌道で、相手の防御をことごとく裏切る。
「なっ……!?」
ザハードの目が驚愕に見開かれた。
肩へ一撃。続けざまに腹へ。さらに足へ。
「ぐあっ!」
激痛に悲鳴をあげ、ザハードの膝が地面に沈む。
観衆の息が止まった。
木剣を構えたまま、エリオスは無表情に告げる。
「もしこの剣が真剣ならば……貴様は八つ裂きになっていただろう」
誰もが理解した。
勝負はついた、と。
敗者の口から「降参」の二文字が発せられるのを待つだけだと。
しかし。
ゆっくりと、ザハードが立ち上がった。
肩を震わせ、呻き声をあげながら。
その目が、異様な赤に輝いていた。
同時に、全身を包むように赤黒い光が立ちのぼる。
空気が揺らぎ、兵たちが思わず後ずさる。
「……はは……坊ちゃん……面白いじゃないですか」
血のように赤いオーラが、炎のようにザハードを包んでいく。
先ほどまでの無様な敗者の姿はそこになかった。
まるで人ならざるものが、今まさに目の前に姿を現そうとしているかのようだった。




