第39話 遠征の終わり
「わあ……やっぱり王都ってにぎやかですね」
マリアはエリオスの隣を歩きながら、目を輝かせて周囲を見渡す。
一方のエリオスは、露店の並びをじっと観察しながら、真顔でつぶやいた。
「通りの配置が実に効率的だな。交易品が中心に集まるよう工夫されている……防衛面から見ても、これは理にかなっている」
「……」
マリアは思わず頬をふくらませた。
(まさか本当に視察をするつもりなの? ずっと街の防衛や物流のことばっかり……)
そんなマリアの小さな不満をよそに、エリオスは鍛冶屋の店先で足を止めた。
「この剣の刃紋……ふむ、王都ではこの規格が主流か。戦時には大量生産に向くだろう」
「……ねぇ、エリオス様。たまにはこう……“素敵な景色だな”とか“君のドレスが似合っている”とか……そういうのは言えないんですか?」
「ん? 景色か。確かに王都の建築様式は統一感がある。ドレスも……戦闘には向かないが、動きやすさは考慮されているな」
「ちがーうっ!」
マリアの声が通りに響き、周囲の人々がちらりと振り返る。
顔を赤らめた彼女は慌ててうつむき、小声で「もうっ……」と呟いた。
その少し離れた屋根の上。
「ふふふ……青春してますねぇ」
双眼鏡を覗きながら、リアナがにやにや笑う。
「あ、あの……、ほんとに僕が付き合わないとダメなのでしょうか……?」
隣で膝を抱えているのはカイル。
「当たり前でしょ! あんた、目がいいんだから。細かいとこまでちゃんと報告するの」
「ぼ、僕は別に覗き見なんてしたくないんだけどなぁ……」
「覗き見じゃなくて、主君の護衛でしょ! あんなに無防備なところを敵の刺客が襲ってきたら、どうするのよ!?」
「……エリオス様ならご自身でどうにでもできるかと……」
「あー、もう! つべこべ言わないの!」
カイルはため息をつきながらも、しぶしぶ視線を向けた。
「で? どう?」
「どうって……別に普通に街歩きしてるだけです。あ、今マリアさんがむくれてます」
「ふふっ、やっぱり。エリオス様は鈍感だからなぁ」
「もうこんな盗み見なんてやめましょうよ……」
「だまらっしゃい! ほら次、しっかり観察!」
リアナがぐいっと双眼鏡を押し付け、カイルは「うわっ」と顔をしかめたのだった。
◇◇
エリオスとマリアの”視察”は、マリアの思惑通りにはまったくならない状態で、終わりを迎えようとしていた。
(はあ……どうせこんなことだろうとは思ってたけど……)
マリアの顔が曇る。
(そうよね、私はただの侍女。変な期待なんてする方がバカなんだから!)
首を小さく振る彼女を、ちらっと見やったエリオス。その表情は、とても優しかった。
そして、夕暮れ時。
二人は王都の外れ、高台へとたどり着いた。眼下には赤く染まる屋根の群れが広がり、夕陽に照らされて輝いている。
「きれい……」
マリアがぽつりと呟く。
ここには街の喧騒もなければ、見るべき生活の営みもない。
つまり、マリアが望んだ、エリオスとふたりだけの世界だ。
彼女は、これまでの疲れやイライラが吹き飛んでいくのを感じていた。
エリオスはしばし沈黙し、やがて真っ直ぐ前を見つめたまま口を開いた。
「どんなに強靭な肉体を持つ戦士であろうと、どんな天才の軍師であろうと……休息をしっかり取らねば、その力を発揮できない。ゆえに安心して休める場所を持つことは、優れた将の条件といえよう」
マリアははっとして彼を見上げる。
「マリア――世界中どこで戦おうと、戻る場所におまえがいてくれるだけで、俺は安心して休息できる。本当に……ありがとう」
その言葉に、マリアの目から大粒の涙があふれた。彼女は慌てて目元をこすったが、止められるはずもない。
エリオスは彼女を振り向くことなく、無言でハンカチを差し出した。
マリアはそれを両手で受け取り、ぎゅっと目元に押し当てながら、震える声を絞り出した。
「……こちらこそ……ありがとう……ございます」
しばし、静寂。
夕陽は地平線に沈みかけ、街並みを金色に染め上げていく。
やがて、エリオスがふっと口を開いた。
「おまえら。そこにいるのは分かっている。もういい加減に出てこい」
「えっ!?」
マリアが驚いて振り返ると、茂みの陰からリアナとカイルがひょっこり顔を出した。
「さすがですねぇ、気づかれてましたか」
リアナが舌を出し、カイルは肩を落とした。
「だから言ったじゃないですかぁ……絶対にバレてますって」
マリアは顔を真っ赤にして両手で隠した。
「も、もうっ……!」
そんな様子を見ながら、エリオスは大きく笑った。
「たまには、みんなで酒場でも行くか」
「もちろん、エリオス様のおごりですよね?」
即座にリアナが食いつく。
「はははっ、いいだろう!」
エリオスの笑い声に、マリアも思わず涙交じりの笑みを浮かべた。
「せっかくなら、ハロルドさんたちも誘いましょうよ!」
「うむ、呼べるだけ呼んでこい!」
そうして四人は、笑い合いながら王都の街並みへと降りていった。
夕闇のなか、仲間たちの姿は人波に溶け込み、楽しげな声だけがいつまでも響いていた。
◇◇
翌日。
王都を出立する準備で屋敷中があわただしく動いていた。荷馬車に荷を積み込む使用人の声、馬具を点検する騎士たちの掛け声が交錯する中、エリオスのもとに「来客です」と告げが入った。
「……誰だ?」
エリオスが眉をひそめると、従者は小声で答えた。
「ルクレール侯爵閣下にございます」
「……なんだと?」
思わず立ち上がるエリオス。爵位は自分より数段も上の侯爵。しかもこんな慌ただしい朝に直々に訪れるなど、前代未聞だった。
慌てて玄関に出迎えたエリオスは深々と頭を下げた。
「侯爵閣下の突然のお越し、恐縮の至り。もてなしの用意もままならぬ非礼を、どうかお許しください」
すると、細身の服が良く似合う壮年の侯爵は、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「いや、こちらこそ事前の連絡もなしに押しかけた非礼を詫びたい。どうしても一言、卿に詫びを伝えたくてな」
その声音には敵意も驕りもなかった。むしろ率直な誠意がにじんでいた。
(いったい何を企んでいるのか……)
しかしもはや逃げも隠れもできない。そこでエリオスは、侯爵を人目のつかない屋敷のテラス席へと通した。
席に着くなり、ルクレールは杯に口をつけ、静かに言った。
「ダイナの戦いでの私の振る舞い……あれは礼を欠いていた。卿には不快な思いをさせたであろう。許してほしい」
エリオスはまっすぐに相手を見返し、口を開いた。
「いいえ、むしろ閣下の防衛軍が控えてくれていたからこそ、私は南砦の攻略に力を尽くすことができました。結果として“戦神マルクスの再来”などと称されるようになったのも、閣下の存在あってこそ。感謝こそすれ、恨みなど抱いてはおりません」
「……ふふ、そう言ってくれるか」
ルクレールの瞳にほのかな安堵の色が浮かんだ。
「やはり今日ここに押しかけたのは、間違いではなかったな」
エリオスはわずかに目を細める。
「……どういう意味でしょうか?」
侯爵は杯を置き、軽く手を叩いた。
奥の扉から現れたのは、真紅のドレスをまとった少女。艶やかな金髪を巻き上げ、気の強そうな瞳を輝かせながら、しとやかに一礼した。
「リーゼロッテ・ルクレールと申します。お目にかかれて光栄です、エリオス卿」
その凛とした声に、エリオスは思わず背筋を正す。
「……侯爵、この方は?」
「私の娘だ」
ルクレールは胸を張って言った。
「卿を一目見て以来、どうやら胸を射抜かれてしまったようでな」
「お父さまっ!」
リーゼロッテの頬がかっと赤く染まる。
「……そんな、恥ずかしい言い方をしないでください!」
「事実だろう?」
侯爵は楽しげに笑った。
エリオスは困惑の色を隠せず、軽く咳払いをした。
「……これは、その……」
リーゼロッテはきゅっと拳を握り、真っすぐ彼を見つめた。
「本当のことです。これまで、声をかける勇気がなくて……でも、今日こうして会えて、嬉しく思っています」
「……」
エリオスは言葉を失った。
侯爵は続けた。
「卿にはまだ将来を約束されたお方がいないと聞いた。ならばぜひ、うちの娘を、と。もちろん、いきなり返事を求めるつもりはない。今日はお見知りおきをいただければ、それでよい」
「……」
立ち上がったリーゼロッテは、気丈な声で告げた。
「エリオス卿。今日すぐにとは言いません。でも、私は諦めません。必ずあなたを振り向かせてみせます」
その瞳には強い炎が宿っていた。言い切ると、彼女は礼をして踵を返し、毅然と歩き去った。
残されたエリオスは唖然とするしかなかった。
ルクレールはゆっくりと立ち上がり、最後に杯を干した。
「……貴族や王族の社会は、実に汚いものだ。今日の味方が明日は敵になり、敵が翌日には友になる。セレナ殿にしても……例外ではない」
「……」
エリオスは眉を寄せる。
「だが、家族は違う。確実に味方でいてくれる。私は……卿の味方になりたい。リーゼロッテではないが、私自身も卿に惚れこんでしまったのだ」
「閣下……」
「婚約の件、前向きに考えてくれれば嬉しい。しかしもし断っても、私は卿を恨みはせん。安心なさい」
ルクレールはそれだけ言い残し、背を向けて歩き去った。
静まり返ったテラスに、エリオスの長いため息だけが響いた。
◇◇
昼過ぎ。出立のときを迎えた。
王都の空は晴れ渡り、遠征の緊張を忘れさせるほど清々しい青が広がっていた。
屋敷前の通りにはすでに荷をまとめた馬車が並び、兵たちは整列を始めている。
だがエリオスはその列を離れ、一人セレナの屋敷を訪れていた。
「エリオス殿、ようこそお越し下さった」
応接室に通されたエリオスを出迎えたのは、彼女ではなく、堂々たる体躯のオルハンだった。セレナは王城へ赴いており、留守だという。
「ヴァレンシュタイン卿がお留守とは残念です。ですが……オルハン殿にお会いできただけでも光栄です」
そう告げるエリオスに、オルハンは黙って近づき、分厚い大きな手を差し出した。その手は、戦場で幾度も剣を振るった痕跡を残しながらも、力強く温かい。
エリオスもまた迷いなくその手を握り返した。
「……あらためて礼を言わせてくれ」
オルハンの声は低く、しかし胸の底から響いてくるようだった。
「ありがとう。貴殿の働きなくして、私は今こうして立ってはいなかっただろう。貴殿は私の命の恩人だ」
エリオスはかすかに首を横に振った。
「いえ、それを言うなら私も同じです。オルハン殿が北砦を死守してくださったからこそ、私は南砦へ向かうことができました。あの時、どれほど勇気づけられたか……言葉に尽くせません」
二人はしばし見つめ合い、互いの眼差しの奥に、戦場を共に駆け抜けた者同士にしか分からない絆を感じ取った。
そしてオルハンは、深々と頭を垂れたのち、ためらいなくエリオスを抱きしめた。
鍛え上げられた巨躯に包まれる感覚に、エリオスは一瞬驚いたが、次の言葉が耳元に落とされた瞬間、心が鋭く研ぎ澄まされる。
「……セラフィアに気をつけろ」
エリオスの眉がかすかに動いた。セラフィア神聖国……。
かつて彼に魔法の嫌疑をかけ、ルシアンという騎士を差し向けてきた国。その名をここで聞くとは思わなかった。
「……承知しました」
抱擁からそっと離れると、エリオスは短く、しかし力強くうなずいた。
やがて出立の時が来る。
屋敷の門をくぐろうとしたその時、背後からオルハンの朗々たる声が響いた。
「――敬礼!」
その瞬間、ヴァレンシュタインの兵たちが一斉に姿勢を正し、エリオスへと敬礼を捧げた。
鎧の音が一斉に重なり合い、王都の朝空に鋭い響きが走る。
エリオスもまた歩みを止め、振り返り、堂々と右手を掲げて敬礼を返した。
静寂の中に確かな絆が刻まれる。
やがて馬に乗り、隊列へ戻るエリオスの姿は、兵士たちにとって紛れもない英雄の背に映った。
こうして遠征は終わりを告げた。
命の危機を幾度もくぐり抜け、仲間の幾人かを失う痛みも味わった。
しかしそれ以上に、彼は多くを得た。
新たな仲間クロエとの出会い、リアナやカイル、マリアとの絆の深まり。そして国王をはじめ、セレナ、ルクレールといった有力者たちとの確かな関係。
名声は「英雄」の名に恥じぬほど大きく広がり、その存在は王都のみならず王国全土に鳴り響いている。
エリオスは胸を張り、真っすぐに前を見据えた。
遠征の果てに、彼の心はさらなる高みを目指して、堂々と帰路へと進み始めたのだった。
◇◇
一方そのころ、王都の喧騒から少し離れた場所にあるグリフォード伯爵邸。
厚いカーテンが引かれた執務室の中で、伯爵はひとり書類を机に叩きつけた。赤らんだ顔を怒りで歪ませ、ぎり、と奥歯を噛みしめる音が静かな部屋に響く。
「ルクレールめ……!」
その声は押し殺されていたが、底知れぬ憤怒を帯びていた。
「エリオスに娘を差し出すだと? 婚約を持ちかけただと?」
長らく、彼はルクレール侯爵にすり寄り、少しでも自分の地位を高めようと立ち回ってきた。
だがその侯爵がよりにもよって、同じ東の辺境領の領主であるリオンハート家を取り込もうとしているのだ。
伯爵は頭を抱える。
「もし両者が手を結べば……私は用済みになる。いや、確実にそうだ」
想像しただけで胸が焼けるような思いがした。
ルクレールがグリフォードに目をかけているのは、ひとえに東の辺境領の盟主セレナ・ヴァレンタインの動向を抑えるためだ。もしその役目をエリオス・リオンハートが担うなら、グリフォード伯の存在など影も形もなくなる。
最悪の場合、辺境の田舎で一生を終えるかもしれない。
「それだけは……それだけは絶対に避けねばならん!」
伯爵は机の角に拳を打ちつけた。だが現実は厳しい。
ヴォルフですら敵わぬ無双の戦士。戦の度に功績を挙げ、戦略眼も持ち合わせ、民衆の心をつかんでいる。そんな存在に、いまや容易に手出しはできない。
思い返すのは、オズワルドが蜂起したあの戦いだった。
「もしあの時……!」
あの時、はっきりと態度を決めてオズワルド側につけば、今ごろエリオスなど無惨に打ち倒され、英雄などと呼ばれることもなかっただろう。
己は功を焦り、中途半端に動いた。だからこのざまだ。
しかし後悔を繰り返しても意味はない。肝心なのは未来だ。
「どうにかして……あの若造を失脚させねばならん」
伯爵の目がぎらりと光った。その瞬間、ふとひとつの策が脳裏をよぎる。
「……ラミレス公国」
声に出すと、部屋の空気が一層冷たくなるように感じられた。
クロース領と接する敵国……。もし彼らに大きな隙を見せることができれば、彼らは軍を動かすはずだ。そしてクロース領が陥落すれば、リオンハート領も火の海になるだろう。
「これしかない……!」
伯爵は立ち上がり、窓際へと歩み寄った。
カーテンを払い、王都の屋根並みを見下ろしながら、彼の口元にはゆがんだ笑みが浮かぶ。
「英雄だの新星だのと……笑わせるな。いくら剣が強かろうと、民衆に人気があろうと……領地を失えば何もできん。必ずや窮地に追い込んでみせる」
その目は猛禽のように鋭く、己の策に酔いしれる光を宿していた。
グリフォード伯爵は、勝利を確信したかのように不敵に笑い続けるのだった。




