第36話 交渉の末に
◇◇
カルヴァン共和国遠征軍の本陣。
夕闇が幕を下ろしつつあるテントの中、一本のランプの灯が薄暗い帳を破り、地図と戦況表を照らしていた。
その中心に佇むのは、若き総大将、レオニード中佐。
彼は椅子にも腰を下ろさず、腕を組んだまま、じっと地図を見つめている。
「……なぜだ」
誰に向けるでもない呟きが、乾いた空気に消えた。
若くして「国一番の神算鬼謀」と呼ばれた稀代の才子。
出自は平民。だが、学問と剣を両立させ、共和国士官アカデミーを首席で卒業。
数々の師範、教官が口をそろえて「百年に一人の天才」と評し、共和国議会も異例の抜擢を行った。
その期待に違わず、レオニードはここまで勝ち続けてきた。
機を見るに敏な戦術で、敵を欺き、裏をかくことにかけては誰もが舌を巻いた。
実際、グランヴェル王国の領土をここまで蹂躙し、南北の砦を同時に圧迫したのは、彼の手腕あってこそだった。
だが……。
「なぜ……敗れた」
彼の声には、苛立ちよりも困惑が強かった。
戦術にはミスがなかった。
むしろ周到に準備されていた。
敵が南砦に注意を引き付けた隙に、北砦を寡兵で急襲する――その情報も掴んでいた。しかも、その情報がもたらされたのは、敵の貴族だったのだから、筋は確かだ。
罠は完全だった。
(なのに、なぜ?)
答えは一つしかない。
「……エリオス・リオンハート」
彼の脳裏に浮かぶのは、漆黒の甲冑に身を包んだ一人の戦士の姿。
あの瞬間を思い出す。
わずか数合、刃を交えただけだった。
だがその数合で、レオニードの自負は砕かれた。
(あの男がすべてを台無しにしたのだ……)
力でもない。
技でもない。
むしろ細身で、線の細い青年にしか見えなかった。
だが、剣を合わせた刹那。
全身が総毛立った。
(あれはなんだったのだ?)
ただの兵士ではない。
ただの指揮官でもない。
刃がぶつかり合ったその瞬間、己の存在そのものを呑み込まれるような感覚。
恐怖。
畏怖。
そして、それ以上に……奇妙な昂ぶり。
「……それになぜ、あの男は私を殺さなかった」
思い返す。
馬上から叩き落とされ、地に伏したあのとき。
エリオスは冷たい眼差しを向けたにもかかわらず、とどめを刺さなかった。
無視するように、ただ戦場の先へと駆け抜けていった。
敗北者を顧みないあの無関心。
だが、その背中に、なぜか抗いがたい畏怖を覚えた。
「……理解できぬ」
レオニードは目を閉じ、己の胸に広がる感情を押し殺そうとした。
それは屈辱か、それとも陶酔か。
自分でも判別がつかない。
(とにかく……今は今後の策を練らねば……)
南北ともに砦は敵の手中に落とされた。
侵攻は後退したどころか、相手の出方によっては、奪われた領地を取り戻される恐れがある。
もっと言えば、このまま、あの悪魔のような男が先陣を切ってくるならば、数年かけて守り通してきた国境をおびやかされかねない。
(考えろ。何か策があるはずだ)
ゆっくりと深呼吸をしたその時。
「失礼いたします! 伝令です!」
幕が開けられ、駆け込んできた兵が息を切らせて告げた。
「グランヴェル王国より……使者が参っております!」
レオニードは眉をひそめた。
「使者……だと?」
低く呟き、深くため息をついた。
少しだけ戦況が有利になったとみて、どうせこちらがとても呑めない要求を吹っかけてくるに違いない。
ていよく追い返そう。
「……まあよい。中に通せ」
めんどくさそうに手を振った。
しかし……。
幕が開かれた瞬間、レオニードの時が止まった。
「なっ……」
現れたのは、白馬のごとき気品をまとった青年。黒髪が風に揺れ、凛とした眼差しがまっすぐにレオニードを射抜く。
その顔立ちは容姿端麗にして、どこか冷ややかな神性すら帯びていた。
「はじめまして」
よく通る声がテントに響く。
「グランヴェル王国、リオンハート子爵家の嫡男――エリオス・リオンハートです」
レオニードは息を呑んだ。
あの戦場で見た、漆黒の戦士。
自らを地に叩き落とした存在が、今、目の前で穏やかに一礼している。
心臓が、不規則に高鳴った。
これが。
自分を敗北に追いやった、男。
「……!」
言葉にならない感情が、レオニードの胸を満たしていった。
「こちらに腰をかけてもよろしいかな?」
エリオスは流れるような所作で、レオニードに向かい合うように置かれた椅子に手をかけた。
はっと我に返ったレオニードは、小さく頭を下げた。
「礼節を欠いたお迎えをしてしまい、大変失礼しました。どうぞおかけください」
それから外の警備兵に、お茶を出すように声をかける。
「どうぞお構いなく。用が済めば、すぐにたちますから」
お茶が出されるまでの間、テントの空気は、張りつめた弦のように静まり返っていた。
ランプの灯が二人の顔を照らし出す。
一方は漆黒の戦場を駆け抜けた若き戦士、エリオス・リオンハート。
もう一方は、共和国が誇る神算鬼謀、レオニード・アルヴァレス中佐。
互いに言葉を発する前から、目と目の間に見えぬ火花が散っていた。
そのただならぬ空気を察した警備兵は、震える手つきでお茶を差し出した。彼がいなくなったところで、沈黙が破られた。
「まずは、お会いできたことを光栄に存じます」
エリオスは恭しく一礼し、落ち着いた声で言った。
「私は、セレナ・ヴァレンシュタイン殿下の名代として参りました。本日は両国にとって新たな道を切り開くべく、和平の条件を提示させていただきます」
レオニードは薄く笑みを浮かべ、手を組んだまま応じる。
「……和平、とな。驚きました。てっきり降伏勧告かと思っておりましたが」
「そうお考えになるのは自然でしょう。ですが、我が国の意志は違います」
エリオスの声音は一切揺らがなかった。
「我らは勝利を望んでいるのではなく、未来を望んでいます。ですから……」
エリオスはぐっと前のめりになる。その姿に、レオニードの胸の奥で何かがざわめいた。
「南北の砦から兵を引きます」
レオニードの目が見開かれた。
命を賭して奪い返した要衝を手放すなんて、考えもつかなかったからだ。
エリオスは彼の反応を確認するように、顔をのぞき込みながら続けた。
「こちらの要求は二つ。
一つは、捕虜は互いにすべて解放すること。
そしてもう一つは、貴国が侵攻して得た領土の半分は返還、残りの半分はカルヴァン共和国に譲渡いたします。
南北の砦周辺に緩衝地帯を設け、双方とも軍を置かないこと」
エリオスの瞳が、ランプの光を映してきらめいた。
「南北の砦を和平の象徴とする――これが、我らの提案する和平の条件です」
一言一言が、鋼のように鋭い。
レオニードはその場に釘付けになった。
彼は低く呟いた。
「もし拒否すれば?」
「次の砦を落として、同じ交渉をするまでです」
エリオスは即答した。
「ただし、これだけは申し上げておきます。我らの刃は、貴国の血を流すためにあるのではありません。貴国と我が国の未来を切り開くためにある、ということです」
レオニードは喉の奥で笑った。
その笑いは軽蔑ではなく、奇妙な愉悦に近かった。
「……なるほど、未来を切り開く刃ですか。そう言われれば、確かに貴殿は戦場で私を討ち取らず、未来に進んでいきましたね」
「無益な血は流したくなかったのと、稀に見る逸材の未来を、つまらぬ戦で失くしたくありませんでしたので」
エリオスの声は静かだった。
「それが、戦場を駆け抜ける者の務めだと信じています」
その言葉が胸を刺した。
レオニードは視線を外し、深く息を吐く。
「……貴殿の申し入れ、委細承知いたしました。しかし、我が国はご存じの通り、すべてを合議で決めております。
よって、私の独断でお答えするわけにはいきません」
声は冷静だったが、心臓は速く脈打っていた。
「返答には時間を要します。……それで構いませんか?」
エリオスはうなずいた。
「もちろんです。大事なことですから」
二人はゆっくりと立ち上がった。
互いに手を伸ばす。
握手。
レオニードの掌に伝わる熱。
エリオスの視線に宿る光。
それは剣を交わした時に感じた畏怖と、同時に抗いがたい吸引力を再び呼び覚ますものだった。
「妙なものですね」
レオニードは口の端を上げた。
「貴殿と話していると、まるで幼い頃からの知り合いのような、心地良さを感じます。つい昨日までは、互いの命を奪い合う間でしたのに、不思議なものですね」
エリオスもまた、淡い笑みを返した。
「それは私も同じです、中佐」
視線が絡む。
まるで固い絆で結ばれた友のような空気が、二人を包んでいたのだった。
◇◇
エリオスとリアナが本陣を後にしたのは、夜も更けた頃だった。
馬上でリアナが小声で尋ねる。
「どうでした? 共和国の智将は」
エリオスは一瞬、言葉を選んだ。
そして前を見据えたまま答える。
「手に入れたいものが見つかった……とでも言っておこうか」
その声は静かで、それでいて熱を帯びていた。
リアナは怪訝そうに首をかしげたが、それ以上は何も問わなかった。
その頃、レオニードはまだ本陣のテントに一人立ち尽くしていた。
震えるほどの昂ぶりが胸を満たしている。
冷静を装ってはいたが、内心は昂然と燃え上がる何かに支配されていた。
「……エリオス・リオンハート」
その名を口の中で転がしながら、彼は自嘲の笑みを浮かべる。
「次会うときは、戦場か……それとも……」
テントのランプの炎がゆらめき、二人の余韻を暗闇へと染めていった。
◇◇
グランヴェル王国軍の本陣。
幕舎の中は重苦しい空気に満ちていた。
セレナは椅子に腰掛け、白い手を膝の上で固く握りしめている。
離れたところにルクレール侯爵。その脇には、グリフォード伯爵が控え、いかにも「侯爵の支えとなる忠臣」といった風を装っていた。
「必ずや朗報が届きましょうぞ、ヴァレンシュタイン卿」
ルクレールが静かに言葉をかける。
グリフォードは口角を上げた。
(侯爵殿と私にとっての朗報だがな!)
セレナは背筋を伸ばし、ただ一点を見つめている。
ルクレールはグリフォードに、そっと耳打ちした。
「万事うまくいっているのだろうな?」
「ええ、もちろんです」
二人の貴族は勝ち誇った視線を交わす。
そのとき――幕が大きく揺れ、外の風が流れ込んだ。
「……!」
セレナが顔を上げ、ルクレールとグリフォードも驚愕の声を飲み込む。
「エリオス!」
入ってきたのは、黒髪を風に揺らす若き英雄エリオス・リオンハート。その隣に、巨躯の戦士ヴォルフ・ハーゲンを従えているではないか。
「ば、馬鹿な……」
グリフォードが声を失い、ルクレールの顔色も蒼白になった。
エリオスは落ち着いた足取りでセレナの前まで進み出た。
「ただいま戻りました、殿下。ご心配をおかけしました」
セレナの瞳が揺れる。
信じられぬ光景を前に、言葉が出ない。
だがさらに衝撃が続いた。
ヴォルフが無造作に投げ出した袋から、血の匂いと共に三つの首が転がり出る。
「こ、これは……!」
グリフォードが椅子を蹴立てるようにして立ち上がった。
ヴォルフは豪快に鼻を鳴らし、肩を揺らす。
「こいつら、俺に同行してた護衛だ。だがエリオス様の命を売り渡すような真似をした。だからリアナ殿が始末した。
……それと、もう一つ言わなきゃなんねえことがある」
彼はゆっくりとセレナを見やると、土下座して深々と頭を下げた。
「ヴァレンシュタイン卿に謝罪いたします! ここにおられるグリフォード伯爵の命令とはいえ、あろうことかエリオス・リオンハート卿に一騎打ちを仕掛けてしまいました!」
幕舎の空気が凍り付いた。
セレナの視線が、氷のように冷たくグリフォードへ突き刺さる。
「……な、なにをほざいている。証拠はあるのか?」
グリフォードは唇を引き結び、必死に平静を装った。
「証拠もなく、ただの言いがかりではないか」
「証拠なんざねえ」
ヴォルフはにやりと笑った。
「けどな、俺はウソをつかねえ。お天道様と……おっかあに誓ってな」
グリフォードの顔に汗がにじむ。
そこで、エリオスが口を開いた。
「まあ、もうよいではありませんか」
声は穏やかだが、その響きは鋭い剣先のように幕舎の空気を断ち切った。
「ここに並んだ首が、謀略の責任を取った――それで充分でしょう。この件は“今のところ”は、我らの間だけの秘密としておきましょう」
セレナが驚きに目を見張る。
しかしエリオスは小さくうなずいて、彼女に安心を促す。
「それよりも、交渉は無事にまとまりそうです。当初の目標であった三分の一の領土奪還よりも、はるかに良い条件で。国王陛下も、さぞかしお喜びになられるでしょう」
そして、ゆっくりと二人の貴族に視線を移す。
「これもひとえに、総大将であるヴァレンシュタイン卿のお手柄――そうですよね? ルクレール侯、グリフォード伯」
ギラリと鋭い眼光が突き刺さった。
二人は息を呑み、引きつった笑みを浮かべる。
「も、もちろんだ」
ルクレールがうなずく。
「ヴァレンシュタイン卿の采配あっての勝利だ」
「そ、そうだ! 我らの総大将の功績だとも!」
グリフォードも慌てて言葉を重ねる。
エリオスは満足げに微笑んだ。
「では、陛下の御前でヴァレンシュタイン卿を直々に讃えてください。……できますよね?」
二人の顔が一瞬こわばる。
第一王子レオポルド派にどう映るか――その重圧が頭をよぎったからだ。
「ふざけるな!」
グリフォードが声を荒げた。
「そんなことをすれば、我らは――」
だがその前に、ヴォルフが一歩前へ出る。
巨体が影を落とし、眼光がギラつく。
「おっさん。俺の主人に文句あんのか? ああん?」
その威圧に、グリフォードは言葉を失い、顔を真っ赤にして拳を握った。
「……やめよ、二人とも」
ルクレールが間に入り、苦笑を浮かべる。
「エリオス殿の言いつけなど、たやすい御用。
ついでに……今回の戦の第一戦功はエリオス・リオンハート卿にこそあり、その雄姿は戦神マルクスの再来と誰もが認める――そう陛下に申し上げておこう」
エリオスは軽く頭を下げた。
「恐縮です。それでは、私はこれで」
そう言って幕舎を出ていくエリオス。その後ろ姿に、セレナは言葉を失ったまま見入っていた。
間を置かず、ルクレールとグリフォードも幕舎を後にしたのだった。
◇◇
二人はルクレールの私室のテントへ入るなり、グリフォードが机を叩いた。
「くそっ! あの小僧、よくも恥をかかせてくれたな!!」
だが、ルクレールは椅子に腰を下ろし、深いため息を吐くばかりだった。
「エリオス。なかなか面白いではないか。世間知らずの小娘の手元に置いておくには、実に惜しい。是が非でも、我が手に欲しくなったぞ」
その瞳には、悔しさと同時に冷徹な計算が宿っていた。
そのわずか三日後、エリオスが滞在するキャンプに、彼の要求をすべてのむ、という旨の結果が伝えられたのだった。




