第35話 エリオスVSヴォルフ
◇◇
兵たちが戦勝に沸き立つキャンプの片隅で、ひときわ場違いな雰囲気を放つ若者がいた。
「ちっ、面白くねえ」
ヴォルフ・ハーゲン。まだ二十代半ば、しかしその顔に走る大きな傷跡と、少年のように粗末な黒髪の短髪は、彼の歳を測る手がかりを曖昧にしていた。
鍛え上げられた肉体を、布切れ同然の軽装で隠す。まるで街角の浮浪児がそのまま大人になったかのような姿だが、腰に吊るされた二本の刃――双剣が、彼の只者ではなさを物語っていた。
戦場から戦場へ。
護衛の依頼を受けては破棄し、また別の主の下へ渡り歩く。
彼には忠誠も、家柄もなかった。ただ一つあるのは、「強者と斬り結びたい」という、渇きに似た欲望だけだった。
だが、その欲望は常に満たされるわけではない。今回もそうだった。
精鋭軍に参加した理由はただ一つ。偉大な貴族たちに、自分の武威を見せつけるためだった。
「ヴォルフ・ハーゲンの双剣は無敵だ!」
そう讃えられる瞬間を、彼は心待ちにしていた。
だが現実は違った。
名声をさらったのは、細身の優男――エリオス・リオンハート。
彼はまるで戦神マルクスの再来のように持ち上げられ、王国二位の戦士ライナルトからまでそう称賛された。
さらに大将セレナからは直々に、王家の家紋が刻まれたクリスタル製の短剣まで与えられたのだ。
ヴォルフはその光景を、群衆の中から見ていた。
(ふざけるな……!)
拳を握り、唇を噛む。自分ならば、もっと鮮烈に、もっと鮮やかに戦場を染められた。
「チャンスさえあれば、俺だって……」
その言葉は呪詛のように、彼の胸を占めていた。
その憤怒と嫉妬の炎に、ゆっくりと油を注ぐ者がいた。
グリフォード伯爵。
肥えてたるんだ頬に不気味な笑みを浮かべた貴族は、いつの間にかヴォルフの隣に腰を下ろしていた。
「納得がいかない顔をしているな、ヴォルフ・ハーゲン卿」
「……卿なんて呼ばれる柄じゃねえ」
「だが、その実力は誰よりも本物だ。なのに……あの若造が称賛を独り占めとは、見るに堪えんな」
ヴォルフの肩がぴくりと揺れた。伯爵の声音は甘く、だがどこか蛇の舌のように湿っている。
「エリオス・リオンハート。お前の目の前で、あれほどの栄誉を与えられた。腹の底では憎んでいるのだろう?」
「……っ」
図星を突かれ、ヴォルフは視線を逸らす。
グリフォードは微笑みを深め、さらに言葉を重ねた。
「お前に、彼を直接討つ機会をやろう」
「……どういう意味だ」
「エリオスは、カルヴァン共和国との交渉の使者に選ばれた。そこへ護衛として同行するお前が、一騎打ちを申し出ればいい。そしてその場で首を落とすのだ」
伯爵の目が妖しく光った。
「その首を共和国に届けよ。やつは彼らにとっても多くの仲間を殺した仇敵だ。お前は一夜にして英雄と称えられるだろう」
ヴォルフの瞳が揺れ動く。想像するだけで、胸が高鳴った。
伯爵はさらに畳みかける。
「理由は簡単だ。『エリオスが共和国に寝返ろうとしたのを止めただけ』とでも言えばよい。私もお前の肩を持とう」
「……本当か?」
「それだけではない」
侯爵は杯を傾け、声を潜めた。
「見事成し得た暁には、あなたが待ち望んでいた、国王陛下の親友にして唯一彼が認めた騎士――アーヴィング・クラウゼルとの闘技場での一騎打ちを、国をあげて実現することを、ルクレール卿を通じて陛下へ上奏しようではないか」
「……っ!!」
ヴォルフの顔がぱっと輝いた。
王国第一位にして、国王陛下が側にいることを許した唯一の騎士――名を知らぬ者は王国はおろか周辺国にすらいない、絶対的な剣の化身。
王と同じ学び舎にあった旧友。
誇り高き剣士でありながら、普段は寡黙で人前に姿を見せないため「王の影」と呼ばれる。
その男との一騎打ちは、彼がずっと夢に見てきた瞬間だった。
「想像してみろ……」
伯爵は蛇のように舌なめずりをしながら、甘く囁く。
「王国の民が皆、観衆として見守る中、お前とアーヴィングが闘技場で斬り結ぶ姿を」
「……っく、くはは……!」
ヴォルフの喉から笑いが漏れた。
嫉妬は、今や歓喜へと姿を変えていた。
「いいだろう! やってやる! エリオス・リオンハートの首、必ず俺が取ってやる!」
その姿は、勝利に飢えた子供が菓子をねだるようにも見えた。
だが伯爵の目には、それが何より好都合に映った。
「うむ。実に頼もしい」
グリフォードの唇に浮かんだ笑みは、月明かりの中で、獲物を捕らえた獣のように鋭く光っていた。
◇◇
南砦と北砦の両方の占拠に成功してから、まだ三日しか経っていなかった。
その朝、セレナ・ヴァレンシュタインの名代として、エリオス・リオンハートは和平の使者として本陣を後にした。
「では、いってまいります」
並び立つ白馬と、荘厳な見送り――。
彼が進み出た瞬間、陣幕の前に広がる兵の列が、どよめきとともに整然と槍を掲げた。
戦の英雄が、自ら交渉の使者に赴く。それは王国全軍にとって誇りそのものだった。
「気をつけるのだぞ」
見送りの列にはセレナをはじめ、ルクレール侯爵とグリフォード伯爵の姿もある。
アイザックはまだ肩に包帯を巻いており、彼を支えるカイルが横に立っていた。
エリオスは小さく微笑みを向け、軽く顎を引いた。
隣にはリアナが馬を並べ、静かに彼を守るように進み出た。
彼らを先導するのは、ヴォルフ・ハーゲンを含む四人の猛者。
いずれも王国内では名の知れた剣士であり、勇名を馳せていた。
だが、エリオスは知らない。そのうち三人もまた、グリフォード伯爵の金と甘言に転んでいることを。
カルヴァン共和国の本陣までは二日。
一行は粛々と進軍を続け、初日の夜を迎えた。
焚き火の灯がゆらめく。
リアナは剣を膝に置き、落ち着きなく周囲をうかがっていた。
「エリオス様……どうも胸騒ぎがします。彼らの視線、どこか不自然です」
エリオスは静かに笑い、火を見つめたまま言った。
「平静を装え、リアナ。疑心を表に出せば、彼らの思うつぼだ」
「しかし――」
「心配するな。夜襲を仕掛けるような小賢しいヤツではないさ。もっと堂々とした正直者だ」
リアナは眉をひそめ、しかしそれ以上は口を閉ざした。
翌朝。
陽が高く昇り、一行が深い森を抜けて道を進んでいた時だった。
「……待て」
ヴォルフ・ハーゲンが突然、馬の手綱を引いた。
蹄の音が止まり、列が不自然に静まり返る。
「どうした?」
エリオスが振り返る。
ヴォルフはさらりと答えた。
「決闘をしよう」
「……は?」
リアナが思わず声を漏らす。
だがヴォルフは真剣そのもの、黒髪を振り払い、剣の柄に手を置いていた。
同時に、先導していた猛者三人が、ギィ、と鞘から刃を抜いた。
リアナは剣を構えようとしたが、エリオスが手で制した。
「寝込みを襲わずに、正面から決闘とはな。変わっているな、おまえは」
ヴォルフは肩をすくめ、大きな傷跡の残る顔に子供じみた笑みを浮かべた。
「汚ねえ真似して勝っても自慢にならねえだろ?」
エリオスはその言葉に、大笑いした。
「ははは! 面白いぞ。気に入った!」
ヴォルフの目がぎらぎらと輝く。
「俺と勝負しろ。もしおまえが勝ったら……俺は何でも言うことを聞いてやる」
「……その命を差し出せ、と言ったら?」
「当然だ。それが真の男というものだ!」
「ふむ……」
エリオスは笑いながらも、鋭い眼差しで相手を射抜いた。
「だが、なぜ俺がおまえと決闘せねばならん? 名分があるまい」
その言葉に、ヴォルフは唇をつり上げた。
「名分ならある」
「ほう。なんだ?」
「グリフォード卿が言ったんだ」
ヴォルフはあっさりと、子供が秘密をばらすように口にした。
「おまえが裏切ったことにしろってな。それに、あの方は約束してくれた。おまえの首があれば敵との交渉はうまくいく。俺は英雄になって、アーヴィングと決闘できるんだって!」
「……!」
リアナは息を呑み、猛者三人も思わず口を開けたまま、信じられぬといった様子でヴォルフを凝視した。
まるで、愚かさの塊を目の当たりにしたかのように。
しかし当のエリオスは、腹の底から大笑いした。
「ははははははっ! やはり俺の見立て通りの男だ!」
「な、何がおかしい!」
「いや……おまえはいい。単純で、清々しい。よい、決闘を受けてやろう」
「エリオス様! おやめください!」
リアナは必死に止めに入る。
「おやめください! 殿下は怪我をされているのですよ! それに相手は……」
「リアナ」
エリオスは静かに言った。
「男と男の真剣勝負だ。口を出すな」
その言葉が終わるより早く……。
金属が弾けるような高い音が森に響き渡った。
エリオスとヴォルフの剣が、火花を散らしてぶつかり合った。
「ほう……優男の割には、なかなかやるじゃねえか」
「なめてかかると痛い目にあうぞ。最初から本気でこい」
「てめええ!! なめた口ききやがって!!」
刃と刃が交わる音が、森の静寂を打ち砕いていた。
エリオスの剣がヴォルフの双剣を受け止めるたび、鋭い火花が散り、辺りの空気は熱を帯びてゆく。
だがその瞬間、エリオスの意識は遠い過去へと沈んでいた。
アルベルトと呼ばれていた頃。
まだ若く、力に任せて剣を振るっていた彼の前に、老練の師が立っていた。
「いかなる武器の達人を相手にしても、負けぬ道がある」
焚き火の赤に照らされ、師は静かに言った。
「それは、敵と己を隔てるなということだ。
敵は万物の一つ。
己もまた万物の一つ。
ならば両者は一体である」
「一体……?」
アルベルトは眉をひそめた。
「そうだ。万物と己は一つ。
川と流れがそうであるように、海と波がそうであるように。
己が万物であり、万物が己だと身体が悟ったとき――剣の腕など不要だ。
相手の流れを掴み、その源を突けば、勝敗は決する」
師は足元の砂をすくい上げ、指先でさらさらと零した。
「見よ、砂は流れる。風に舞い、川に落ち、また土に還る。
流れ続けるのだ。
人もまた同じ。
心も、体も、流れ続けている」
「では、どうすれば……」
「まずは感じよ。流れを。
あらがうな。
流れに逆らえば、己を失う。
だが流れの源を見出したとき、その一撃で全ては止まる」
師は空気を裂くように木刀を振った。
静かに、しかし確かに、その一閃は世界を断ち切るように見えた。
「これを無流の型という。
己もまた流れの一部。
だからこそ、流れに消えることも、流れを絶つこともできる」
その言葉は、深くアルベルトの胸に刻まれた。
――そして今。
エリオスの剣は、流れに溶け込んでいた。
ヴォルフの双剣が矢継ぎ早に襲いかかる。
左右から、上段から、下段から、まるで獣が爪を振るうような猛攻。
「はあああっ!」
ヴォルフの咆哮が森を震わせる。
その刃はエリオスの頬をかすめ、赤い線を刻んだ。
次の一閃は太腿を裂き、血飛沫が草葉を濡らす。
「エリオス様!」
他の刺客をあっさり制圧したリアナが、小さく悲鳴をあげ、思わず駆け出しかける。
だが、彼女の目に映ったのは、負傷してなお笑みを崩さぬ男の姿だった。
「どうした? その程度か?」
挑発するような声に、ヴォルフは苛立ちを募らせた。
(おかしい……)
これほどの猛攻を浴びせ続けているというのに、まったく手応えがない。
剣がぶつかる音は確かに響いている。
しかし衝撃が腕に返ってこない。
まるで水面を切り裂いているかのような、虚ろな感覚――。
「くそっ……なめやがって!」
ヴォルフの目がぎらりと光った。
次の瞬間、双剣が交差し、独特の構えに入る。
「喰らえ――《裂空双牙》ッ!」
両腕がしなり、刃が獣の牙のように鋭く迫る。
二本の剣が交差しながら織りなす斬撃は、風すら裂いて奔流と化した。
一度捕らえれば、肉を抉られ、骨を砕かれる必殺の連撃。
リアナは顔を覆った。
「いやっ!」
だが……。
「流れの源……見出したぞ」
低く呟いた瞬間、エリオスの剣がひときわ鋭く光った。
わずかな踏み込み。
そして流れの源を突く、一閃。
ガァンッ!!
衝撃が走り、ヴォルフの手から双剣が同時に弾き飛んだ。
刃は宙を舞い、乾いた音を立てて地に突き刺さる。
「なっ……!」
ヴォルフが茫然とするその喉元に、冷たく輝く鋼が突きつけられた。
エリオスの剣だった。
「……勝負はついた」
森を吹き抜ける風が、静寂を運んできた。
火花の残り香だけが漂う中、エリオスの眼光は揺るがぬまま、ヴォルフを射抜いていた。
こうして、一方的に攻め立てていたはずの戦いは、たった一閃で決着したのであった。




