第34話 戦神マルクスの再来
◇◇
北砦の土塵がまだ靴底に白くこびりついている。隊列はゆっくりと、しかし確実に一歩ずつ戻ってきた。
どの顔にも泥と血と疲労が刻まれている。
だが、その疲労の奥には、達成した者だけが知る充実感——生き延びた、任務を果たした、という静かな高揚が漂っていた。
「北砦の急襲隊が戻ってまいりました!!」
本拠キャンプ地に響く伝令の声。
英雄たちの帰還をひと目見ようと、待機していた将兵が一斉にテントから外に出てきた。
「おおおおっ!!」
自然と雄叫びと拍手が巻き起こる。
そんな中を悠々とヴァレンシュタインとリオンハートの連合隊が歩を進める。
先頭でも後方でもない、ちょうど列の中央寄りにひときわ目立つ白の鎧があった。
太陽が差すたびに銀色に反射して鋭く光るその姿を見て、セレナの胸は小さく跳ねた。
「オルハン!!」
彼は駆け寄ってきたセレナを見て、驚く間もなく膝を折り、規矩正しく敬礼した。
戦場の泥が白い膝当てに汚れを残している。
「セレナ様、任を果たし、ただいま戻ってまいりました」
オルハンの声は疲れているが、沈着だった。
「よくぞ、よくぞ戻った……!」
セレナは言葉にならない安堵と不安の狭間で、ただ立ち尽くす。
喉の奥がざわつき、言葉が出てこない。
胸の中で何度も、いや、いけない、という分別が小さく囁く。
公の立場として、真っ先に一人の若者の安否をただ聞くわけにはいかない。そんな卑しい振る舞いは許されない。
その自制が、今の彼女を律していた。
「セレナ様、報告いたします」
オルハンは彼女の心情を見抜いていた。
長年、彼女のそばで仕え、成長を見守ってきた男の目は、ほんの僅かな表情の揺らぎを逃さない。静かに、しかし容赦なく、彼は報告を続けた。
「帰還いたしましたが、全員が無事とは申せません。預かりし六百五十の兵のうち、戦死者十名、負傷者十五名でございます。重傷も含まれますが、ここから少し離れた水辺のテントで、医療班が手当てを進めております」
セレナは肩を落とした。
数としては受け入れうる損耗かもしれない。
だがそれでも、一人一人の顔が浮かぶ。
あの笑い声、あの喚声、あの背中……血の匂いが鼻腔を満たすようで、胸がぎゅっと痛む。
「そうか……」
オルハンは続けた。
「最後にエリオス・リオンハート卿について、になります」
その言葉は、轟音のように彼女の周囲を震わせた。
セレナの心臓は一拍で跳ね、全身に血が逆流する。言葉を紡ぐ前に、口の中で何かが渇いた。
「エリオス卿の発案で、我々は敵の包囲を解くために、奇襲をかけました。
敵が怯んだ隙に、彼が少数を率いて敵陣を突破。
その姿は、戦いの神マルクスを彷彿とさせるものだったと、味方の誰もが申しております」
オルハンの声は淡々としている。
だが言葉の輪郭が震え、男の胸中に去来した恐れと敬服と安堵が混じったのが、セレナにははっきりと伝わった。
「マルクス、か……」
セレナは小さく呟いた。
戦神の名が口をついて出る。
馬の皮のにおいと焚き火の匂い、そして硝煙の残り香が彼女の記憶を揺さぶる。エリオスの姿が瞼の裏で大きく揺れた──黒い鎧、剣を振るう片手、止まらぬ前進。彼が無事であってほしいと願う気持ちは、理性を超えて熱を帯びる。
「して、その後は?」
とセレナは問いかける。
声が震えないように努めたが、その指先はほんの僅かに震えていた。
「はい」
オルハンはさらに細部を語る。
「敵本隊の主力を分断し、南砦の側面を突く際、エリオス卿が先陣を切り、白刃の中をご自身で切り開かれたとのことです。
重傷を負われても、倒れることなく、最後は砦の門を開け放つまで戦われた。
泥と血にまみれ、呼吸は浅かったが、戦いの合間に兵たちを鼓舞し続けていたと証言が揃っております」
「命に……命に別条はないのか?」
「……おそらくは……」
セレナの胸は締めつけられた。
言葉にならない思いが洪水のように押し寄せる。
だが彼女はなおも理性を保とうとする。国王に任された軍勢を率いる者として。
だからこそ、今だけは個人的な感情に流されるわけにはいかない。だが、言葉の端から零れ落ちる感情を止めることはできなかった。
「彼は、どこに?」
オルハンは微かに息を吐いた。
「医療テントです。医療班が手を尽くしております。ですが、意識は戻られていません。出血も多く、しばらくは安静が必要かと存じます」
セレナは問答無用で走り出した。
自分でも驚くほどの速さで、足が地面を蹴る。
陣の奥へ、医療幕舎へと向かう道を、彼女はまるで風に乗るかのように駆け抜けた。
従者や兵が道を譲る。誰もが、その顔色変化の理由を理解している。
彼女の周囲にできた空気の流れが、塞がれていた何かをこじ開けたようだった。
(今の私は……許されるのだろうか)
走りながら、セレナの内面は矛盾と緊張でいっぱいだった。
すべきこと、すべきでないこと。
彼女は自分が負う責務を思い出した。国の命運を左右しかねない決断を下す立場。だが今、足を止めて祈ることしかできなかったあの若者──彼の胸に寄り添うことは、公の務めとは別の、人としての義務ではないか。
「セレナ様!?」
目的のテントの入口脇で、リオンハート家騎士団の副団長リアナが起立していた。
彼女もまた激闘から帰還したばかりで、疲労困憊のはずだ。
しかしまるで大切な誰かを守るように眼光鋭く、周囲を警戒している。
セレナが歩み寄ってくると、彼女は小さく頭を下げながら言葉を添えた。
「殿下。兵たちのお見舞いにいらしてくださったのですか?」
その問いに、チクリと胸が痛む。
「あ、ああ」
リアナの顔がパッと明るくなる。
「ありがとうございます! 皆も喜びます」
「うむ。あなたもよく頑張ったな」
短い労いを告げた後、テントの幕を上げる。
その背にリアナの声がかけられた。
「どうかエリオス様にも、ねぎらいのお言葉をかけてあげてください。さすれば卿の命を賭した働きもむくわれましょう」
セレナは短く頷いた。
幕の布を払って中に入ると、灯りに浮かぶ人影と、布にまみれた匂い、そして忙しげに動く治療の手が目に入った。
包帯を巻く手、薬を嗅ぐ鼻、冷静に処置を指示する声。負傷者たちは呻き、呼吸を整えるのに精一杯だ。
それでも総大将のセレナが自ら見舞いにきたことに、全員が喜びをあらわにした。
「セレナ様がいらしてくださったぞ!」
「セレナ様! ありがとうございます!」
セレナの頭の中から、この時ばかりは一人の青年の姿が、ふっと消えた。
「よく頑張ったな」
ひとりひとりの前でひざまずき、笑顔で声をかける。
「あとのことは気にせず、ゆっくり休むといい」
緊張がほぐれ、中には涙する兵もいた。
さらにセレナは、兵たちを看病する軍医や看護士たちもねぎらった。
「ありがとう。あなたたちの尽力のおかげで、戦場から帰ってきた皆が安心して傷を癒せるのだ」
そうして一歩、また一歩とテントの奥へ足を踏み入れていく。
その一番奥、薄暗がりの中で横たわる者が一人。汚れた白い包帯が頭部を巻き、鎧は脱がされ肩には血の染みが広がる。顔は紙のように青白く、唇には血の滲みがある。
だが、その眉の形、その鼻の線、かすかに開いた口元——セレナは一目で、彼だと分かった。
「エリオス……」
彼は眠っている、あるいは深い意識の淵に沈んでいる。胸の上下は浅く、呼吸音は規則的だが弱い。手は力なく伸び、指先は泥を残したままだった。
傷は生々しく、険しい戦いの証が全身に刻まれている。
「よくぞ……よくぞ帰ってきてくれた」
セレナはそっと膝をつき、彼の額に触れた。
包帯の冷たさが、彼が生きているという現実をつきつける。
胸が締めつけられるように熱くなり、目頭が熱を帯びた。
「戦神マルクスのようだったそうだな……」
言葉は囁きになり、それでも彼女の口から溢れた。
「その勇姿、この目で見てみたかったぞ。……そばにいられなくて、すまなかった」
遅れてテントにやってきたオルハンは、彼女の視界に入らないように、リアナとともに静かに見守る。
「とにかく今はゆっくり休むのだ」
セレナはしばらくそのまま、彼の呼吸を見つめた。鼓動は弱いが、確かに脈はある。
生きている——。
その事実だけが、今の彼女を支える全てだった。
「私は誰よりも強くなくてはいけないのに……情けないな」
涙が一粒、包帯に落ちた。
◇◇
白布のテントの中は、夜の冷気を遮りながらも薬草の匂いと血の鉄臭さで満ちていた。
静寂の中に、時折、負傷兵のうめき声や治療班の低い指示の声が混じる。
セレナは、いつの間にか椅子に身を沈め、伏した額を両手にあずけていた。
差し出された椅子に腰掛けたのは、ほんのひと時のつもりだった。だが長い緊張と疲労が、彼女の瞼を容赦なく閉ざしていたのだ。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
「……殿下」
かすれた声が、耳元に触れた。
「……っ」
はっと目を開ける。
瞬きの先に、ベッドに横たわる青年の瞳があった。
エリオスが、穏やかな表情でこちらを見つめている。
「目を覚ましたのか!」
短く、驚きと喜びの声が漏れる。セレナは椅子をきしませて立ち上がり、反射的にその手を取った。冷たいが、確かに温もりがある。
「よかった……」
エリオスはわずかに口角を上げ、
「ご心配には及びません」
と、弱いながらも落ち着いた声で告げる。
ゆっくりと上体を起こそうとする彼を、セレナは慌てて制した。
「だめだ、無理をするな」
その制止の言葉の通り、エリオスは額に手を当てて軽くめまいを訴える。
ぐらりと揺れた彼の身体が、自然とセレナの肩に預けられた。
「だ、大丈夫か?」
セレナは心臓の音が跳ね上がるのを必死に抑えながら、その背を支える。
だが次の瞬間、耳元に熱を帯びた低い声が忍び込んだ。
「殿下……私をカルヴァン共和国に遣わしてください」
「……!」
セレナの目が大きく見開かれた。慌てて彼から身体を離し、凝視する。
「な、何を言っているのだ。まだ傷が癒えてもいないのに!」
「いずれも軽傷です。体力さえ戻れば、問題ありません」
セレナはぐっと語気を強めた。
「今回の戦で、もっとも多くの敵を斃したのは貴殿だ。そんな者を再び敵中に送り込むなど、誰が見ても正気の沙汰ではない!」
エリオスは首を横に振り、静かに、しかし強く言い切った。
「だからこそ、です」
「……どういう意味です?」
「今回の一件は、殿下もお気づきの通り、陣営内の誰かの策略です。
しかし我々には相手の尻尾を掴む余裕がなかった……。
だからこそ、もう一度つけ入る隙を与える必要があるのです」
セレナは息を呑み、言葉を失った。
その瞳を正面から受け止めながら、エリオスは続ける。
「殿下は、私が自ら使者に名乗りをあげたことを高らかに宣伝してください。
恐らく相手はこう考えるでしょう。
『戦神マルクスの再来』などとおだてられて調子に乗った若造が、傷を抱えたまま敵国へと赴くならば、途中で“何か”が起きても、それを敵の責任に押しつけられる……と」
セレナの胸が苦しくなる。
睫毛の影から、彼を真っすぐに見つめる。
その表情は迷いがなく、むしろ静謐な決意に満ちていた。
「相手は念を入れるでしょう。たとえば……王国第四位の剣士ヴォルフ殿を、刺客に加えるかもしれません」
「ヴォルフだと……!」
セレナの声は震えた。
ヴォルフ・ハーゲン。狂気に似た戦いぶりで名を轟かせる猛将。その双剣は嵐のごとく、立ち塞がった者を屍に変えてきた男だ。
「そんな者を差し向けられては、お主が……」
「殿下」
エリオスの瞳が強く光る。
「大丈夫です。必ずや、殿下を貶めようとする輩の悪事を暴き、敵国に奪われた領土を取り戻したうえで、殿下のもとへ戻ってまいります」
その言葉に、セレナの胸はさらに締めつけられた。溢れるものを堪えきれず、彼女はゆっくりと小指を差し出す。
「……約束だぞ」
一瞬、エリオスは目を瞬いた。
だがすぐに表情を和らげ、その小指に自分の指をからませる。
「ええ、必ず」
セレナは大きく息を吸い込み、頬に熱を感じながら、小声で付け加えた。
「……では、約束を果たしたら、特別に、私の王都散策に同行を許す」
「……え?」
エリオスの目がぱちくりと瞬く。
その隙に、セレナは彼の小指をぱっと解き放ち、顔をそむけると、陣幕の外に向かって大きな声で宣言した。
「これよりカルヴァン共和国との交渉に入る! その使者は、リオンハート家嫡男、エリオス・リオンハート卿とする!」
テントの外でざわめきが広がる。兵士たちの声が重なり合い、次第に大きなうねりとなる。
セレナは横目で、ベッドに半身を起こしたまま呆然とするエリオスを見やった。
頬の赤みは引かないまま、しかし唇にはかすかな笑みが浮かんでいた。
「信じているぞ」
彼女の心は揺れていたが、その瞳には確かな光が宿っていた。




