表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/42

第34話 戦神マルクスの再来

◇◇


 北砦の土塵がまだ靴底に白くこびりついている。隊列はゆっくりと、しかし確実に一歩ずつ戻ってきた。

 どの顔にも泥と血と疲労が刻まれている。

 だが、その疲労の奥には、達成した者だけが知る充実感——生き延びた、任務を果たした、という静かな高揚が漂っていた。


「北砦の急襲隊が戻ってまいりました!!」


 本拠キャンプ地に響く伝令の声。

 英雄たちの帰還をひと目見ようと、待機していた将兵が一斉にテントから外に出てきた。


「おおおおっ!!」


 自然と雄叫びと拍手が巻き起こる。

 そんな中を悠々とヴァレンシュタインとリオンハートの連合隊が歩を進める。

 先頭でも後方でもない、ちょうど列の中央寄りにひときわ目立つ白の鎧があった。

 太陽が差すたびに銀色に反射して鋭く光るその姿を見て、セレナの胸は小さく跳ねた。


「オルハン!!」


 彼は駆け寄ってきたセレナを見て、驚く間もなく膝を折り、規矩正しく敬礼した。

 戦場の泥が白い膝当てに汚れを残している。


「セレナ様、任を果たし、ただいま戻ってまいりました」


 オルハンの声は疲れているが、沈着だった。


「よくぞ、よくぞ戻った……!」


 セレナは言葉にならない安堵と不安の狭間で、ただ立ち尽くす。

 喉の奥がざわつき、言葉が出てこない。

 胸の中で何度も、いや、いけない、という分別が小さく囁く。

 公の立場として、真っ先に一人の若者の安否をただ聞くわけにはいかない。そんな卑しい振る舞いは許されない。

 その自制が、今の彼女を律していた。


「セレナ様、報告いたします」


 オルハンは彼女の心情を見抜いていた。

 長年、彼女のそばで仕え、成長を見守ってきた男の目は、ほんの僅かな表情の揺らぎを逃さない。静かに、しかし容赦なく、彼は報告を続けた。


「帰還いたしましたが、全員が無事とは申せません。預かりし六百五十の兵のうち、戦死者十名、負傷者十五名でございます。重傷も含まれますが、ここから少し離れた水辺のテントで、医療班が手当てを進めております」


 セレナは肩を落とした。

 数としては受け入れうる損耗かもしれない。

 だがそれでも、一人一人の顔が浮かぶ。

 あの笑い声、あの喚声、あの背中……血の匂いが鼻腔を満たすようで、胸がぎゅっと痛む。


「そうか……」


 オルハンは続けた。


「最後にエリオス・リオンハート卿について、になります」


 その言葉は、轟音のように彼女の周囲を震わせた。

 セレナの心臓は一拍で跳ね、全身に血が逆流する。言葉を紡ぐ前に、口の中で何かが渇いた。


「エリオス卿の発案で、我々は敵の包囲を解くために、奇襲をかけました。

敵が怯んだ隙に、彼が少数を率いて敵陣を突破。

その姿は、戦いの神マルクスを彷彿とさせるものだったと、味方の誰もが申しております」


 オルハンの声は淡々としている。

 だが言葉の輪郭が震え、男の胸中に去来した恐れと敬服と安堵が混じったのが、セレナにははっきりと伝わった。


「マルクス、か……」


 セレナは小さく呟いた。

 戦神の名が口をついて出る。

 馬の皮のにおいと焚き火の匂い、そして硝煙の残り香が彼女の記憶を揺さぶる。エリオスの姿が瞼の裏で大きく揺れた──黒い鎧、剣を振るう片手、止まらぬ前進。彼が無事であってほしいと願う気持ちは、理性を超えて熱を帯びる。


「して、その後は?」


 とセレナは問いかける。

 声が震えないように努めたが、その指先はほんの僅かに震えていた。


「はい」


 オルハンはさらに細部を語る。


「敵本隊の主力を分断し、南砦の側面を突く際、エリオス卿が先陣を切り、白刃の中をご自身で切り開かれたとのことです。

重傷を負われても、倒れることなく、最後は砦の門を開け放つまで戦われた。

泥と血にまみれ、呼吸は浅かったが、戦いの合間に兵たちを鼓舞し続けていたと証言が揃っております」


「命に……命に別条はないのか?」


「……おそらくは……」


 セレナの胸は締めつけられた。

 言葉にならない思いが洪水のように押し寄せる。

 だが彼女はなおも理性を保とうとする。国王に任された軍勢を率いる者として。

 だからこそ、今だけは個人的な感情に流されるわけにはいかない。だが、言葉の端から零れ落ちる感情を止めることはできなかった。


「彼は、どこに?」


 オルハンは微かに息を吐いた。


「医療テントです。医療班が手を尽くしております。ですが、意識は戻られていません。出血も多く、しばらくは安静が必要かと存じます」


 セレナは問答無用で走り出した。

 自分でも驚くほどの速さで、足が地面を蹴る。

 陣の奥へ、医療幕舎へと向かう道を、彼女はまるで風に乗るかのように駆け抜けた。

 従者や兵が道を譲る。誰もが、その顔色変化の理由を理解している。

 彼女の周囲にできた空気の流れが、塞がれていた何かをこじ開けたようだった。


(今の私は……許されるのだろうか)


 走りながら、セレナの内面は矛盾と緊張でいっぱいだった。

 すべきこと、すべきでないこと。

 彼女は自分が負う責務を思い出した。国の命運を左右しかねない決断を下す立場。だが今、足を止めて祈ることしかできなかったあの若者──彼の胸に寄り添うことは、公の務めとは別の、人としての義務ではないか。


「セレナ様!?」


 目的のテントの入口脇で、リオンハート家騎士団の副団長リアナが起立していた。

 彼女もまた激闘から帰還したばかりで、疲労困憊のはずだ。

 しかしまるで大切な誰かを守るように眼光鋭く、周囲を警戒している。

 セレナが歩み寄ってくると、彼女は小さく頭を下げながら言葉を添えた。


「殿下。兵たちのお見舞いにいらしてくださったのですか?」


 その問いに、チクリと胸が痛む。


「あ、ああ」


 リアナの顔がパッと明るくなる。


「ありがとうございます! 皆も喜びます」


「うむ。あなたもよく頑張ったな」


 短い労いを告げた後、テントの幕を上げる。

 その背にリアナの声がかけられた。


「どうかエリオス様にも、ねぎらいのお言葉をかけてあげてください。さすれば卿の命を賭した働きもむくわれましょう」


 セレナは短く頷いた。

 幕の布を払って中に入ると、灯りに浮かぶ人影と、布にまみれた匂い、そして忙しげに動く治療の手が目に入った。

 包帯を巻く手、薬を嗅ぐ鼻、冷静に処置を指示する声。負傷者たちは呻き、呼吸を整えるのに精一杯だ。

 それでも総大将のセレナが自ら見舞いにきたことに、全員が喜びをあらわにした。


「セレナ様がいらしてくださったぞ!」

「セレナ様! ありがとうございます!」


 セレナの頭の中から、この時ばかりは一人の青年の姿が、ふっと消えた。


「よく頑張ったな」

 

 ひとりひとりの前でひざまずき、笑顔で声をかける。


「あとのことは気にせず、ゆっくり休むといい」


 緊張がほぐれ、中には涙する兵もいた。

 さらにセレナは、兵たちを看病する軍医や看護士たちもねぎらった。


「ありがとう。あなたたちの尽力のおかげで、戦場から帰ってきた皆が安心して傷を癒せるのだ」


 そうして一歩、また一歩とテントの奥へ足を踏み入れていく。

 その一番奥、薄暗がりの中で横たわる者が一人。汚れた白い包帯が頭部を巻き、鎧は脱がされ肩には血の染みが広がる。顔は紙のように青白く、唇には血の滲みがある。

 だが、その眉の形、その鼻の線、かすかに開いた口元——セレナは一目で、彼だと分かった。


「エリオス……」


 彼は眠っている、あるいは深い意識の淵に沈んでいる。胸の上下は浅く、呼吸音は規則的だが弱い。手は力なく伸び、指先は泥を残したままだった。

 傷は生々しく、険しい戦いの証が全身に刻まれている。


「よくぞ……よくぞ帰ってきてくれた」


 セレナはそっと膝をつき、彼の額に触れた。

 包帯の冷たさが、彼が生きているという現実をつきつける。

 胸が締めつけられるように熱くなり、目頭が熱を帯びた。


「戦神マルクスのようだったそうだな……」


 言葉は囁きになり、それでも彼女の口から溢れた。


「その勇姿、この目で見てみたかったぞ。……そばにいられなくて、すまなかった」


 遅れてテントにやってきたオルハンは、彼女の視界に入らないように、リアナとともに静かに見守る。


「とにかく今はゆっくり休むのだ」


 セレナはしばらくそのまま、彼の呼吸を見つめた。鼓動は弱いが、確かに脈はある。


 生きている——。


 その事実だけが、今の彼女を支える全てだった。


「私は誰よりも強くなくてはいけないのに……情けないな」


 涙が一粒、包帯に落ちた。


◇◇


 白布のテントの中は、夜の冷気を遮りながらも薬草の匂いと血の鉄臭さで満ちていた。

 静寂の中に、時折、負傷兵のうめき声や治療班の低い指示の声が混じる。


 セレナは、いつの間にか椅子に身を沈め、伏した額を両手にあずけていた。

 差し出された椅子に腰掛けたのは、ほんのひと時のつもりだった。だが長い緊張と疲労が、彼女の瞼を容赦なく閉ざしていたのだ。


 どれほどの時間が過ぎただろうか。


「……殿下」


 かすれた声が、耳元に触れた。


「……っ」


 はっと目を開ける。

 瞬きの先に、ベッドに横たわる青年の瞳があった。

 エリオスが、穏やかな表情でこちらを見つめている。


「目を覚ましたのか!」


 短く、驚きと喜びの声が漏れる。セレナは椅子をきしませて立ち上がり、反射的にその手を取った。冷たいが、確かに温もりがある。


「よかった……」


 エリオスはわずかに口角を上げ、


「ご心配には及びません」


 と、弱いながらも落ち着いた声で告げる。

 ゆっくりと上体を起こそうとする彼を、セレナは慌てて制した。


「だめだ、無理をするな」


 その制止の言葉の通り、エリオスは額に手を当てて軽くめまいを訴える。

 ぐらりと揺れた彼の身体が、自然とセレナの肩に預けられた。


「だ、大丈夫か?」


 セレナは心臓の音が跳ね上がるのを必死に抑えながら、その背を支える。

 だが次の瞬間、耳元に熱を帯びた低い声が忍び込んだ。


「殿下……私をカルヴァン共和国に遣わしてください」


「……!」


 セレナの目が大きく見開かれた。慌てて彼から身体を離し、凝視する。


「な、何を言っているのだ。まだ傷が癒えてもいないのに!」


「いずれも軽傷です。体力さえ戻れば、問題ありません」


 セレナはぐっと語気を強めた。


「今回の戦で、もっとも多くの敵を斃したのは貴殿だ。そんな者を再び敵中に送り込むなど、誰が見ても正気の沙汰ではない!」


 エリオスは首を横に振り、静かに、しかし強く言い切った。


「だからこそ、です」


「……どういう意味です?」


「今回の一件は、殿下もお気づきの通り、陣営内の誰かの策略です。

しかし我々には相手の尻尾を掴む余裕がなかった……。

だからこそ、もう一度つけ入る隙を与える必要があるのです」


 セレナは息を呑み、言葉を失った。

 その瞳を正面から受け止めながら、エリオスは続ける。


「殿下は、私が自ら使者に名乗りをあげたことを高らかに宣伝してください。

恐らく相手はこう考えるでしょう。

『戦神マルクスの再来』などとおだてられて調子に乗った若造が、傷を抱えたまま敵国へと赴くならば、途中で“何か”が起きても、それを敵の責任に押しつけられる……と」


 セレナの胸が苦しくなる。

 睫毛の影から、彼を真っすぐに見つめる。

 その表情は迷いがなく、むしろ静謐な決意に満ちていた。


「相手は念を入れるでしょう。たとえば……王国第四位の剣士ヴォルフ殿を、刺客に加えるかもしれません」


「ヴォルフだと……!」


 セレナの声は震えた。

 ヴォルフ・ハーゲン。狂気に似た戦いぶりで名を轟かせる猛将。その双剣は嵐のごとく、立ち塞がった者を屍に変えてきた男だ。


「そんな者を差し向けられては、お主が……」


「殿下」


 エリオスの瞳が強く光る。


「大丈夫です。必ずや、殿下を貶めようとする輩の悪事を暴き、敵国に奪われた領土を取り戻したうえで、殿下のもとへ戻ってまいります」


 その言葉に、セレナの胸はさらに締めつけられた。溢れるものを堪えきれず、彼女はゆっくりと小指を差し出す。


「……約束だぞ」


 一瞬、エリオスは目を瞬いた。

 だがすぐに表情を和らげ、その小指に自分の指をからませる。


「ええ、必ず」


 セレナは大きく息を吸い込み、頬に熱を感じながら、小声で付け加えた。


「……では、約束を果たしたら、特別に、私の王都散策に同行を許す」


「……え?」


 エリオスの目がぱちくりと瞬く。

 その隙に、セレナは彼の小指をぱっと解き放ち、顔をそむけると、陣幕の外に向かって大きな声で宣言した。


「これよりカルヴァン共和国との交渉に入る! その使者は、リオンハート家嫡男、エリオス・リオンハート卿とする!」


 テントの外でざわめきが広がる。兵士たちの声が重なり合い、次第に大きなうねりとなる。

 セレナは横目で、ベッドに半身を起こしたまま呆然とするエリオスを見やった。

 頬の赤みは引かないまま、しかし唇にはかすかな笑みが浮かんでいた。


「信じているぞ」


 彼女の心は揺れていたが、その瞳には確かな光が宿っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ