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第33話 ダイナ夜戦③

◇◇


 レオニードは森の出口で立ち尽くしたまま、目の前の光景を信じられずにいた。


「なんだ……? これは……」


 朱色の炎が木々を焼き尽くし、恐怖に叫ぶ敵兵たちを巻き込む。

 その炎の奔流は、人の力で生み出されたものとは思えなかった。


(魔道具か……いや、違う)


 だが、これほどまでに広範囲の森を焼き、一度に無数の兵を殺すものなど、見たことも聞いたこともない。

 あるとすれば、伝承の中でしか語られぬ“魔法”と呼ばれる類のもの……。


(しかし今、立ち止まって考える場合ではない!)


 智将レオニードは即座に思考を整理し、兵たちの顔を見渡した。


「諸君! 落ち着け、私を見よ!!」


 恐怖に慄く者、動揺で硬直する者、皆の視線を集める。

 深呼吸をひとつ、そして冷静な声で号令を飛ばした。


「整列せよ! 我らが負けることはない!」


 しかし、胸中の動揺は隠せなかった。

 誰が想像しただろうか。深夜の森を炎と剣で切り裂き、四方八方に死を振りまきながら、南砦へ向かう者が、たかだか貴族の血筋に過ぎぬ若者だとは……。

 名を馳せる戦士の気配が、森の奥から、すでに周囲の空気を震わせていた。


「ヤツは……悪魔だ……」


 思わず漏れた独り言を飲み込み、レオニードは弓兵を森の出口にずらりと並べた。

 疾風のごとき速さで、漆黒の鎧に身を包んだ武人が、闇の中から姿を現す。脳は瞬時に判断した。


(ヤツだ!)


 その瞬間、口をついて出たのは、たったひとつの命令だけだった。


「放て!」


 弓兵たちが一斉に矢を放つ。空を裂く鋭い音。だが、漆黒の武人エリオスは、ひらりと剣を振るい、放たれた矢をことごとく落とす。

 その動作は、人の域を超えた精度と速度を伴っていた。

 瞬きする間もなく、繰り出される次なる号令。


「突撃!!」


 槍と剣を手にした兵たちが四方から襲いかかる。しかし、エリオスの足は一歩も止まらない。

 まるで風そのものが突進してくるかのように、斬り伏せながら進む。


「私が相手だ!!」


 レオニードは剣を抜き、全身にファイラを巡らせた。青白い光が髪を逆立たせ、剣身からも熱を帯びる。


「うおおおおお!!!」


 雄たけびをあげ、馬で突進する。森の中の枝や木の幹を蹴散らしながら、エリオスに挑む。

 剣を打ち合わせる衝撃が体を揺さぶる。


「ふんっ!」


 一合、二合――しかし、エリオスはまともにやりあうつもりはない。彼の目は南砦のみを見据えていた。


「くそっ!」


 レオニードは驚愕と苛立ちを覚える。

 ……と、そのときだった。馬上の視界からエリオスの姿が消えたのだ。


「どこだ?」


 直後、馬が悲鳴を上げた。

 ガクッと視界が落ちる。すると目に入ったのは、馬の脚に斬撃を加えたエリオスだった。


「しまっ……!」


 短い言葉すら言い終える余裕もなく、派手に倒され、地面に叩きつけられる。

 頭を打ち、一瞬意識が飛ぶ。


「ぐぬ……」


 目を開けると、遥か遠くに漆黒の背中。


「……私にとどめを刺さなかったのか……」


 エリオスは一瞬の躊躇もなく、森を抜け、砦から打って出てきた守備兵を軽々と片付けていく。


「私のことなど、はなから眼中になかった、ということか」


 皮肉めいた笑みが浮かぶ。

 同時に、レオニードの胸中に新たな覚悟が芽生える。

 敵はもはやただの貴族の子息ではない。南砦を一心不乱に狙う、名を馳せる戦士だ。


(私は判断を見誤ったのか……)


 しかし智将として、今必要なのは臆病な思考ではない。全力で戦うのみ――そう自らに言い聞かせる。

 立ち上がった彼は大声をあげた。


「全軍、立て直す!! いったん森の出口に集まるのだ!」


 そのとき、別方向から兵の喚声が響く。南砦の前で布陣していたグランディア王国の精鋭軍が動き出した知らせだった。


「くっ! そうきたか!!」


 空に差し込む朝の光が、炎で赤く染まる森を照らす。その光景を見たレオニードは、眼前の脅威に身を震わせながらも、戦場の思考を研ぎ澄ませた。


「南砦への侵攻を食い止めるのだ!」


 エリオスが突き進むその背中、そして南砦に迫る味方の精鋭――この瞬間、戦局は新たな局面へと突入したのである。


(ここを登り切る――そうすれば勝機は見えてくる!!)


 南砦にたどり着いたエリオスは、外壁に手をかけた。

 漆黒の鎧の重みと、全身に走る痛みがエリオスを襲った。


「打て! 打て! 敵を打ち落とせ!」


 容赦なく浴びせられる弓矢や投石を、手甲で払いのけていく。しかし完全にはかわせない。


「ぐっ!」


 肩に刺さった弓矢の痛みは骨まで響き、額に打ち付けられた石で視界が赤く滲む。


「はぁ……はぁ……」


 息は乱れ、限界を超えた体は、今にも崩れ落ちそうだった。

 それでも彼は止まらなかった。止まれば、これまで犠牲になった仲間たちの想いも、積み重ねてきた戦術も無駄になる――その想いが、骨の髄まで力を注ぎ込み、手足を動かさせる。


「あと……半分……」


 登るたびに守備兵の矢や石が襲いかかる。しかし、それをかわす余裕などもはやない。

 肩に突き刺さった矢を引き抜き、血で滑る手で剣を握り直す。

 額をかすめる石の衝撃に体をひねり、まるで死線の中を泳ぐようにして外壁をよじ登り終えた。


「ぬああああああ!!」


 息を整える暇もなく、彼は腹の底から雄たけびを上げる。その声は砦内に響き、守備兵たちの足をすくませた。わずかに動揺したその隙を、エリオスは逃さない。


「そこだぁぁぁ!!」


 一歩一歩、剣を構え、襲いかかる敵を斬り伏せ、時にはかわし、時には突きの間合いを取る。

 魔法はもう使えない。頼れるのはこの剣と、自らの肉体だけ。だが、動きはすでに鈍く、一刀で敵をほふる力は残っていなかった。


「やれる!!」

「させるか!!」


 危うく首を斬られかけ、ほんの数センチの差でかわす。体力と集中力の限界が迫る中、彼はやみくもな突進をやめ、敵の間を縫うようにして砦の中を駆け抜ける。

 血と汗で手が滑り、心臓は破れそうなほどに脈打つ。それでも、進まねばならない。


「はぁはぁ……ここか……」


 ようやく辿り着いたのは、守備の要である門だった。ここを開けて味方を引き入れれば勝利は確実だ。


「いたぞ! ヤツだ!!」

「邪魔だ! 消え失せろ!!」


 息も絶え絶えに門番兵を蹴散らすと、閂を外す。

 体力はほとんど残っていない。

 腕が震え、膝が折れそうになる。

 それでも、最後の力を振り絞り、大きな門を押し開く。


 ――ゴオオオオ。


 その瞬間、背後から敵兵の剣が迫る。

 刹那、冷たく鋭い感触が背をかすめる。


「ここまでか……」


 観念したその瞬間。


 ――ビュッ!


 空気を裂く音と共に、弓矢が敵の額を貫いたのだ。


「エリオス様!」


 聞き覚えのある快活な女性の声が聞こえる。

 声は絶望の中に希望を灯す光のように響いた。


「リアナか……」


 同時に南砦の外から、地鳴りの掛け声が耳をつんざいた。


「突っ込めぇぇぇぇ!!」


 グランディア王国の精鋭軍が一斉に突入してくる。

 旗が翻り、勇壮な戦士たちが砦内に滑り込むその瞬間、エリオスは前のめりに倒れ込む。


「エリオス様!!」


 力の尽きた体を支えたのは、カイルとリアナの二人だった。

 互いの息づかいが耳に届き、戦場の喧騒の中に一瞬の静寂が生まれる。


「そなたがエリオス・リオンハート殿か」


 カイルたちの背後から、ひときわ黄金に輝く鎧が視界に飛び込んだ。


「ライナルト・シュタインベルクである」


 王国の二位の剣の達人だ。南砦前に布陣した軍勢の総大将でもある。

 精悍な顔立ちと冷徹な瞳を持つ男が、ゆったりとした足取りで門を潜る。

 その全身から発せられる圧倒的な存在感は、無双の戦士そのもの。彼はエリオスのそばに寄るとと、低く落ち着いた声で言った。


「よくやった。あとは俺たちに任せろ」


 その声と共に、ライナルトは剣を抜き、無双の戦士として砦内に消えていった。

 振り返ったエリオスの視界には、仲間たちと黄金の鎧の戦士が入り乱れる光景が映る。

 胸にこみあげるのは、勝利への希望と、これまでの戦いの全てを超えてきた自らの存在証明。

 血と汗と泥にまみれた体を支え、彼は倒れ込むように膝をつきながらも、胸の奥で確かな安堵を感じた。


「やったぞ……」

「ええ、エリオス様が成し遂げたのです!」

「いや……全員の功績だ……」


 砦は奪還された――そして、この戦いの勝利は、確実に彼らの手の中にあったのだった。


◇◇


 夜が明けた。

 セレナ・ヴァレンシュタインは鎧を脱がず、剣も腰から外さぬまま、自らの陣幕に閉じこもっていた。

 寝台もある。

 温かいスープや焼き立てのパンも給仕によって運ばれてきた。

 だが彼女はそれらに一切手を付けない。

 机の上には戦場の地図が広げられたまま、燭台の炎で紙はわずかに焦げ、ろうがこびりついていた。


(まだ報せはこないのか……)


 彼女はただ椅子に腰掛け、じっと地図を見つめていた。

 目は赤く、疲労は極限に達している。それでも瞬きひとつ惜しむように、ただ一点――北砦の印を凝視していた。


「……今すぐにでも行けたなら」


 声はかすれ、震えていた。

 オルハンやエリオスは、既に敵の手にかけられているかもしれない。

 だとしても、主君として同じ場所に身を置くことが義務であると、セレナは信じていた。

 だが彼女には己の身を置く場所を決める権限すらない。


 ――お主は軽々しく動いてはならぬ。


 それが国王の命令だった。

 すなわち、彼女は“顔”であり、“旗印”でしかなかった。その現実が、胸を焼き裂くような歯がゆさとなっていた。


(せめて、あの緑の狼煙の意味が判明するまでは……彼らを信じてみよう)


 彼女は奥歯を噛み締め、動かぬ決意を心に刻んだ。


 その時だった。

 陣幕の入り口が開き、ゆったりとした足取りでルクレール侯爵が姿を現した。

 彼の後ろには、恭しく笑みを浮かべるグリフォード伯爵が従っている。

 侯爵は昨夜ぐっすりと眠ったらしく、顔色は晴れやかで、髭を撫でながら愉快そうに言った。


「やれやれ、閣下。いくら若いとはいえ、徹夜などしていては体を壊しますぞ。朝餉も召し上がらぬとか。お身体を大切になさいませ」


 セレナは返答しない。

 ただ鋭い視線だけで彼を射抜いた。


「……ご用件は?」


「ご用件? もちろん一つにございます」


 侯爵は机に手を置き、指先でとん、とん、と軽く地図を叩いた。


「作戦は失敗に終わりました。北砦は孤立し、援軍の見込みもなし。となれば、陛下に早々に報告し、連合軍結成の上奏を行うべき時。これはもう揺るがぬ事実にございます」


「……まだ戦は終わっておりません」


 セレナは低い声で返す。


「終わっておらぬ? ははっ」


 すぐさま口を挟んだのは、グリフォード伯爵だった。


「ならばどうなさいます? 北砦の兵がいかに奮戦しようと、数の差は歴然。殿下お気に入りの……あの若造、ええ、確かエリオスとか申しましたか。おそらく真っ先に犠牲となったでしょうな」


 わざとらしく眉を下げ、口元には薄い笑みを浮かべている。


「いやはや、惜しい方を失くしましたなあ。殿下があれほど目をかけていらしたのに……」


 机を叩く轟音が陣幕を揺らした。

 セレナの拳が地図の上に振り下ろされていた。


「いい加減にしないか!」


 その声音には怒りと悲痛が混じり合い、部屋の空気が凍りついた。


「彼らはまだ討たれたとは決まっていない! 憶測でものを申すな!!」


 一瞬、グリフォードの笑みが引きつる。

 だが、すぐにルクレール侯爵が口を開いた。冷ややかで氷の刃のような声だった。


「そろそろ現実を直視しなさい、セレナ殿」


 侯爵の目は光を帯びぬ冷たい灰色。


「貴女の決断が遅れれば遅れるほど、北砦に取り残された兵たちの命は短くなるのですぞ。

そして戦況はますます悪くなるばかり。

このままでは、あなた自身の品位を損なうばかりか、家門を破滅に導く火種となりますぞ」


 その一言に、セレナは喉の奥でぎりりと歯ぎしりをした。拳を震わせながら、絞り出すように頭を垂れる。


「……取り乱しました。申し訳ありません」


 ルクレールは薄く笑みを浮かべ、一枚の書状を机に置いた。


「分かればよろしい。それより……こちらをご覧あれ」


 それは国王への報告書であった。

 セレナが提言した作戦の失敗、そして敵の優勢を認めた上で、連合軍結成を進言する内容が端的に記されている。

 グリフォードが羽ペンを取り上げ、セレナの目の前に差し出した。


「あとはこちらにサインをいただければ完成です。すでに使者は待機させております。さあ……どうぞ」


 セレナの手が震える。

 伸びていく指先が、ペンに触れかけたその時――。


「伝令――ッ! 伝令ぇッ!」


 陣幕の外から、喉を裂くような大声が響いた。


「報告! 我が軍、南砦を奪還! さらに北砦を包囲していた敵軍を撃破! 敵は自陣深くまで後退、防衛隊が北砦へ無事突入とのこと!」


 セレナの瞳に光が戻る。


「これはお返しする!」


 彼女は手にしたペンをグリフォード伯爵のひたいに投げつけ、椅子を跳ね飛ばすように立ち上がった。


「やったか!」


 次の瞬間、彼女は陣幕を飛び出していた。

 朝日が昇り始めた空へ駆け出す背中に、ルクレールとグリフォードは声をかけることすらできなかった。

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