第32話 ダイナ夜戦②
◇◇
時間が経つにつれて、レオニード・アルヴァレスの表情はより厳しさを増していった。
夜戦であっても普段から鍛え抜かれた精鋭部隊を誇りとしている彼にとって、わずか十名ほどの小隊が容易に姿を消すことなど、到底理解できなかった。
(なぜ捕縛も殲滅もできないのか……)
黒髪を艶やかに揺らし、端正な顔立ちの青年将校は、焦燥を胸に秘めつつも冷静に戦況を整理しようとした。
「奴らは……一体、何者なのだ……」
ひとり呟き、報告書を読み返す。
森の奥へと抜けていった十名の動きは、あまりにも正確で迅速だった。暗闇を縫うように進む足取り、的確な索敵、そして敵陣の指令系統への影響……どれも、並の兵では成し得ない芸当だった。
「申し上げます。敵の小隊を率いているのは、目撃情報によると、グランヴェル王国のリオンハート子爵の嫡子、エリオス・リオンハートと思われます」
「リオンハート……エリオス……?」
リオンハート子爵もエリオスも、レオニードにとっては全く馴染みのない名であり、身構える理由にはならなかった。ただ一つ確かなことは、この小隊を軽視してはいけないということだけである。
「仕方ない」
レオニードは決断した。
万が一、この小隊が森を突破してきた場合に備え、布陣を整えるのだ。もし森を突破されれば南の砦は目と鼻の先。もっと言えば、精鋭揃いの敵本隊に合流されてしまう。ならば先手を打って布陣するほかない。
彼は近くの兵に命じた。
「通信機をブラックスピア隊につないでくれ」
「はっ!」
ブラックスピア隊は、軽装で俊敏、索敵や待ち伏せに長けた精鋭たちだ。
「中佐。我らに御用でしょうか?」
通信機の先から低い女性の声が聞こえてきた。
ブラックスピア隊の隊長フィオナである。
レオニードは淡々とした口調で告げた。
「カラストン・パスで、敵を討て」
カラストン・パスは、両側を高い崖に囲まれた天然の切通しだ。もし敵がここを通れば、即座に挟撃できる。
フィオナの声が続く。
「数は?」
「十名ほど」
「たった十……。かしこまりました。ブラックスピアの全力をもって敵を殲滅します」
たった十名の小隊を討つために、自軍の中でもとくに優れた小隊である自分たちを使うなんて……よほど手強い相手なのだろうと、フィオナは気を引き締めたようだ。
ここで慢心するようなら、任務から外すことも考えていたレオニードは、ほっと安堵した。
「敵はすでに森の中ほどまで進んでいる。早速取りかかって欲しい」
「かしこまりました」
そこで通信が切れた。
レオニードはさらに慎重を期すために、自ら一軍を率いてカラストン・パスの先に布陣することを決めた。
「皆のもの、出陣だ!」
「おうっ!!」
馬上の彼の表情には、将としての冷静さと、夜戦における一抹の緊張が浮かんでいた。胸の奥では、わずかな不安も芽生えていた。もし予想を外し、敵が別ルートを選べば、全計画は水泡に帰す。
「よし……行くぞ」
短く息を吐き、レオニードは決意を示した。陣幕を出る際、幹部たちに迅速な指示を下しつつ、馬にまたがり南砦へと歩を進める。
夜の闇は深く、星明かりが冷たく平原を照らす中、彼の瞳だけが鋭く光っていた。
◇◇
森の闇はさらに濃く、枝葉を踏みしだく音さえも、緊張と疲労で重く響いた。
エリオス率いる決行隊が、森に入ってからしばらく時間が経った。速度を落とすことなく進んできたため、兵たちの間には肉体的な疲れが忍び寄り、肩の動きや呼吸にわずかな乱れが見え始めていた。
だが敵は彼らに休む暇など与えてくれるはずはない。後方を警戒するアイザックが低く声をかける。
「前方にも、敵の気配……!」
エリオスは眉間にしわを寄せ、前方と後方を交互に見やった。森の奥に敵の兵影が見え隠れしている。さらに、後方からは足音や鎧がぶつかる金属音が徐々に大きく聞こえてきた。
「……包囲を狭めつつあるな」
エリオスは短くつぶやく。声には疲れも動揺も混じらなかったが、その眼光は鋭く、状況を的確に把握していた。
「こりゃ、いよいよヤバくなってきましたね」
リアナが笑顔で精一杯に強がってみせる。
カイルはもう泣き出しそうだ。
エリオスは冷静だった。
「奴らに焦りが見られない……」
共和国軍は夜襲を受けた側でありながら、無理に攻め込むことはせず、じわじわと圧力をかけることで、森の中で孤立した少数の隊を心理的に追い込んでいた。
森の入り口からは見えない深い谷や渓流が進路を限定し、抜け道はほとんどない。圧迫感と疲労が同時に兵たちの心身にのしかかる。
「前方の敵は結構な数みたいね……」
リアナが小声で告げる。視線の先に、森の隙間から赤い松明の光がちらりと揺れた。敵は森の切れ間に待機しており、こちらの進行をじっと見据えているのがわかる。
エリオスは剣を握りしめた。
「止まるな、ここで休む余裕はない。突破するしかない」
彼の短い指示に、疲労の色を帯びた兵たちも無言でうなずき、武器を固く握り直す。
森の闇に沈む彼らの影は、静かに、しかし確実に迫る敵の気配に包まれていた。
「いけっ!!」
短い号令とともに、待ち構える敵兵が前方から飛びかかってきた。鉄と鉄がぶつかる甲高い音が森の静寂を裂き、緊張と疲労の中で、接近戦が始まった――。
「バラけるな!!」
森の中で接近戦が始まっても、エリオスは声を張り上げた。
「走れ! 止まるな!」
疲労で肩が落ち、足が鈍る兵たちに、彼の一声が再び活力を与えた。
斬撃が飛び交い、血の匂いが混ざった森の冷たい空気の中で、仲間たちは懸命に前進する。
鉄のぶつかる音、木々を割る音、呻き声、怒号が混ざり合い、森は地獄絵図のようだった。
カイルが叫んだ。
「前方に切通し!!」
人が通れるように山や丘を削って作られた道のことを切通しという。
「ちっ! 突っ込むぞ!」
カラストン・パス――狭く切り立つ両側の崖が迫るその切通しに入ると、敵の待ち伏せが待っていた。抜け道が限られるため、逃げ場はない。エリオスは息を整え、リアナとカイルに目配せする。
「ここが勝負どころだ!」
左右からの苛烈な挟撃で仲間の一人を失った。血の飛沫が夕闇に赤く映える。
「くっ!!」
アイザックはその光景に一瞬立ち止まり、僅かに目を見開いた。その瞬間、周囲から敵が回り込んできたのを彼は察知できなかった。三方からの包囲――黒い影が迫る。
「しまった!」
エリオスは直感で理解した。アイザックが危ない。振り返り、彼は叫ぶ。
「アイザック! こっちへこい!!」
リアナとカイルを先に行かせて、エリオスは最後方のアイザックの元へ駆ける。
同時にブラックスピア中隊の手練れが現れた。三人の名は、カドモス、セリウス、そして女剣士フィオナ。彼らは敵ながらも精鋭中の精鋭、闇夜でも動きに無駄がなく、暗闇に紛れる影のように迫ってくる。
「くそ……!」
エリオスは低く歯を食いしばり、剣を握り直す。アイザックは恐怖と混乱で動きが止まりかけていた。エリオスの声が再び彼を奮い立たせる。
「足を止めるな!」
アイザックとエリオスが合流。しかし攻撃の態勢は作れない。
カドモスが先制し、斬撃を振るう。
「死ねぇ!」
エリオスはこれを受け止め、逆に横から胸元を突いた。しかし硬い鎧をわずかに砕いただけだった。
「背中ががら空きだ!」
セリウスはエリオスの背後から、鋭い槍を繰り出すが、今度はアイザックがエリオスを庇う形で受け止め、槍の先端を地面に叩きつける。
「やあぁぁぁぁ!」
崖の上から滑るように飛び込んできたフィオナが素早く刃を振るう。
エリオスは壁を蹴って跳躍し、刃をかいくぐって彼女の背後に回る。だが、それを待ってましたとばかりに、カドモスが剣を振り下ろしてきた。
エリオスはその剣を弾く。僅かにできた隙。そこですかさず叫んだ。
「アイザック、走れ!」
アイザックはエリオスの横を通り過ぎていく。
しかし……。
「行かせるかぁぁぁ!!」
セリウスの槍が一直線にアイザックの左肩に伸びていく。
「ぐはっ!!」
傷は浅い。それでも痛みと衝撃で彼は倒れそうになる。それでもエリオスは手を差し伸べ、共に立ち上がる。
「まだ諦めるには早い! とにかくここを抜けるぞ!!」
半ば強引に駆け出す。
「逃がすか!!」
三人の敵も死力を尽くす。カドモスの剣がエリオスの肩をかすめ、血が飛ぶ。セリウスは槍を振るい、フィオナは素早く斬りかかる。
エリオスの額には汗が滲み、呼吸は荒い。だが、彼の眼差しは揺らがない。襲いかかる攻撃を避けるたびに、仲間を守る意志が火花のように迸る。
「エリオス様……」
アイザックは痛みに顔を歪めながらも、必死にエリオスの背中を追う。
狭い道の中で絡み合う剣戟の音、金属の衝突音、そして仲間の叫びが交錯する。しかし、二人は一歩ずつ、確実に前進した。
「もうすぐだ!」
ついに切通しを抜け、視界が開けたところで、待ち構えていたのは……。
「エリオス様!!」
味方だった。
リアナが弓を放ち、追手の足止めをする。
「ちっ!」
敵の執拗な追撃が止む。エリオスたちは、その一瞬の隙に後退する。
「みんな、いくぞ!!」
エリオスの掛け声と同時に森の奥へ駆け出す。
アイザックは肩に深い傷を負い、片手で剣を支えながらも、エリオスに支えられて森の奥へ進んでいく。二人の胸には激しい心拍が残り、夜の冷気がそれを一層際立たせる。
「え、エリオス様、敵が追ってきません!」
カイルの声と同時に一行の足が止まる。
彼らは互いの顔を見やった。汗と血にまみれた顔で、しかし生き延びた安堵と誇りが交錯する。
アイザックは肩を押さえつつ、震える声で呟いた。
「……申し訳ございません……」
「あやまる必要などない。とにかく息を整えよ」
「はい、ありがとうございます」
エリオスは短くうなずき、夜の闇に深く息を吐いた。森を抜けた先には、まだ見えぬ南砦と、さらなる試練が待ち構えている。気を引き締め直して、足を前に踏み出した。
一方のブラックスピア中隊。
「ちっ! すばしっこい奴らめ!」
隊長フィオナは暗闇の森の中で通信機に手をかけた。指先が震える中、冷静に言葉を紡ぐ。
「中佐、カラストン・パスでは取り逃がしました。しかし、そう遠くへは行っていないはずです。このまま背後を追います」
その報告を受け、レオニードは南砦の近くに布陣していた自軍を整えた。森の奥へと兵たちを進めさせ、見えぬ敵を追わせる。
黒髪をなびかせ、冷たい眼差しを闇夜に光らせながら、彼は自らの計算通りに事態を収めるべく指示を繰り返した。
(かかってこい。この森を抜けたところが、おまえたちの終わりだ!)
一方、エリオス一行は足を止めていた。
息を切らし、肩で荒い呼吸をするアイザックの背中を、リアナが支える。
「はぁはぁ……」
身を隠せる岩陰にたどり着いたとき、周囲を見渡すと、残ったのは四人だけであった。
白みはじめた空が木々の隙間から差し込み、南砦の外壁がはっきりと見える。だが同時に、敵兵がじわじわと迫ってくる影も確認できた。
「エリオス様……。いかがしましょうか……」
どんな時も明るい表情を崩さなかったリアナですら、悲壮感を漂わせている。
エリオスは、アイザックを見やった。
彼は肩から血を流し、意識が混濁しはじめている。息をするのもやっとの状態だ。
カイルは小さく震え、顔を引きつらせた。
「も、もう、このままじゃ……」
「カイルくん、それ以上は言っちゃダメ」
リアナはカイルの肩を握りしめ、深く息を吸い込む。
「とにかく今は少しでも体を休めよ」
エリオスはそう命じた。
ようやく待ち望んだ静寂が四人を包む。
疲労が心身を蝕む中、岩陰でわずかな休息をとった。
「俺のことはここで置いていってください……」
アイザックがつぶやく。
「それではアイザックさんが……」
カイルの声が震える。
しかし現実を考えると、深手を負った彼をかばいながら、敵の包囲を突破するのは無理だ。
「くっ……!」
リアナが悔しそうに唇を噛む。
エリオスはゆっくりと周囲を見回した。森の奥、敵の気配、そして迫る砦。彼の目に、迷いはなかった。
「俺が囮になる。リアナ、カイル、アイザック。お前たちは南砦近くの味方のもとへ行け」
その言葉にカイルは思わず泣き声をあげ、手を伸ばして必死に止めようとする。
「だ、だめです、エリオス様、そんなこと……!」
エリオスは穏やかに微笑み、優しく頭をなでる。
「泣くな、カイル。俺の言葉を信じろ。味方と合流したら、南砦を攻めるように頼むんだ」
リアナは唇をかみ、滲んだ涙を袖で拭う。
決意を固め、わずかに微笑んだ後、エリオスに駆け寄り……強引に唇を重ねた。
「これで勝利の女神が嫉妬して、エリオス様から目を離さなくなるはずです。だから、大丈夫。絶対に生き残ります」
エリオスは一瞬、驚きの表情を浮かべたが、すぐに真剣な眼差しに戻した。
「……ありがとう」
三人をその場に残し、エリオスは岩陰を離れる。深く息を吸い込み、両手を掲げる。周囲の木々に魔法陣を描き、詠唱を口にする。
「火の神イグニスよ――我にその裁きを授けよ!」
魔法陣の中心から、朱色の炎が奔流となって迸る。それはやがて翼を広げ、巨大な朱色の鳥、フェニクスの姿を取った。
「フェニクス・イグニス!!」
炎の奔流が南砦の方向へと噴き出す。木々はたちまち燃え上がり、敵兵たちは悲鳴をあげながら逃げ惑う。
驚愕と恐怖が入り混じり、南砦周囲は混乱の渦に巻き込まれた。
その混乱の中で、エリオスは大声で名乗りをあげる。
「リオンハート家のエリオス、ここにあり! 命の惜しくないヤツからかかってこい!!」
燃え盛る森を背に、彼はそのまま南砦へ突進した。剣を握りしめ、魔法の余波を背に受けながら、夜の闇を切り裂くように走る。
その姿は、血と炎にまみれた戦場の中で、英雄そのものの気迫を放っていた。
「すごい……」
森の奥で待機する仲間たち――リアナ、カイル、そしてまだ意識のあるアイザックの胸にも、恐怖と共に希望の火が灯る。エリオスが突き進むその背中を見て、彼らは再び走り出すしかなかった。
「私たちも出るわよ」
夜と炎、恐怖と決意が交錯する戦場に、エリオスの轟く声だけが響き渡る。
「かかってこいっっ!!」




