第31話 ダイナ夜戦①
◇◇
砦の空気は重く、湿った夜気が兵たちの肌にまとわりついていた。
エリオスは静かに兵たちの前に立ち、凛とした眼差しで彼らを見渡す。その瞳は若さを残しながらも、確固たる覚悟を湛えていた。
「俺と共に南砦を攻略する決行隊を募る」
その声は低く、だが砦の隅々にまで響き渡った。
一瞬の沈黙の後、兵たちがざわめく。自ら選ぶのではなく、志願を募る――その意味を誰もが理解できずにいた。
エリオスは続けた。
「この任務は非常に危険だ。生きて戻れる可能性は一割、いや、それすらないかもしれん。
だが……座して死を待つより、わずかでも運命を切り拓く希望に賭けたいと願うのなら、その心に従えばいい。それこそが真の武人だ」
彼の声には揺るぎがなかった。だが次に続けた言葉は、兵たちの胸に深く突き刺さった。
「だが、真の武人を目指さぬ生き方もまた間違いではない。むしろそれもまた、正解とも言える。ここに残り、援軍を待つ。それもまた立派な選択だ。
だから……俺は皆がどのような選択をしようとも、決して責めぬ。
己の心の声に耳を傾けよ。
周りに流されるな。
本当に進みたい道を選べ」
兵たちの目が揺れる。恐怖と誇り、理性と衝動がぶつかり合い、誰もが唇を噛みしめていた。
エリオスは最後に言い放った。
「十分だけ待つ。俺の部屋の扉を叩いた者だけ、俺と共に砦を出る。誰であろうと歓迎する。だが、誰も来なくても、俺はひとりで発つ」
そう言い残し、彼は背を向けて部屋に入った。
沈黙が砦を覆う。窓からすべり込む生温かい夜風が兵の心をざらつかせる。わずか十分の時間が、永遠にも思えた。
五分後。
最初の足音が廊下を踏みしめ、扉を叩いた。
「入れ」
低い声に導かれ、姿を現したのはアイザックだった。
かつてオズワルドに仕え、闇に生きた剣士。冷徹な刃のごとき眼差しをしていた男は、今はただ一人の若き主を見つめていた。
「貴殿に生きることを許されて以来、私は決めたことがあります。どこまでも貴殿についていく、と。迷いなど微塵もありませんでした。
ですから此度の作戦も同行することに迷いはありません」
彼の声は硬い岩のように揺るぎなかった。
続いて入ってきたのはリアナ。
「私も行きます!」
その笑みは飄々としていた。
「理由? 簡単です。エリオス様について行った方が、面白そうだから」
場違いに思えるほど軽やかな言葉だったが、そこに嘘はひとつもなかった。
さらに次々と扉が叩かれ、十名ほどの兵が集まった。誰もが顔を強張らせ、それでも決意を宿していた。
そして、時刻ぎりぎりに駆け込んできたのはカイルだった。
扉を叩く音は震え、開いた瞬間、彼の全身が震えているのが一目で分かった。
膝は笑い、顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
「こ、怖い……怖いんです……!」
嗚咽交じりに吐き出される声は、部屋の空気を震わせた。
「ですが……私は、エリオス様のおそばにいなくてはいけない存在……。エリオス様が決死の覚悟をなさっているのに、どうして自分だけ、生き長らえる道を選べましょうか……」
涙で濡れた顔を上げ、必死に言葉を紡ぐ。
「でも……でも、怖い……! だから、この震える膝も、止まらぬ涙も、どうか……どうかお許しください……!」
その姿を見た瞬間、エリオスは言葉を挟まなかった。ただ彼を抱きしめた。
カイルは胸に顔を埋め、子どものように声を上げて泣いた。嗚咽は止まらず、砦の重苦しい静けさに響いた。
エリオスはただ無言で、強く彼を抱きしめ続けた。
「よく来た」
その囁きは、涙に沈んだ心に火を灯した。
こうして決行隊は集った。
エリオスの名を王国に、やがて世界に轟かせる伝説の戦……「ダイナ夜戦」。その幕が、静かに、しかし確実に上がろうとしていた。
深夜二時。
北砦の空は重たく曇り、月明かりすら雲間に隠されていた。
ただ冷たい風だけが、これから流れる血と鉄の匂いを予感させるように吹きすさぶ。
砦の門前には六百五十の兵が沈黙のまま整列していた。松明の炎がゆらゆらと揺れ、その橙色の光に照らされる顔はいずれも硬く引き締まり、死を覚悟した者のものだった。
オルハンが進み出る。その傍らに立つエリオスと、がっちりと両腕を組み交わした。
「エリオス殿。俺はまだ貴殿を認めたわけではない。」
低く、しかし深く震えるような声だった。
「勇気と無謀を履き違えた愚か者だと、今も思っている。……だが、もし俺の目が間違っていたと証明してみせよ。俺の願いはそれひとつで足りる」
その言葉に、エリオスはわずかに口元を引き締め、静かに応じた。
「私たちが戻るまで、砦を……どうかお頼みします」
オルハンの瞳が炎を映し、力強くうなずく。その横顔は、誰よりも重責を背負う将の姿であった。
無言のまま、門番に目配せが送られる。
きしむ音とともに、厚き鉄門がゆっくりと開かれていった。
闇が広がっている。
その先は沈黙に支配された静寂の平原。
「全軍、背にした松明に火を灯せ!」
オルハンの命が下ると、炎の光が闇を押し返すように次々と立ち上った。六百余の松明が揺れる光の川となり、砦を後にする。
エリオスたち決行隊だけが松明を持たず、黒い闇の影に溶けていた。
門が再び閉ざされる。厚い鉄の扉が背後を遮断するその瞬間――。
「全軍、突撃!!」
オルハンの大号令が闇夜を切り裂いた。
雄たけびが上がる。地を蹴り、鉄甲が鳴り、六百の兵が炎を背に駆け出した。轟音のような足音が平原を震わせる。
虚を突かれたカルヴァン共和国軍の前線は一瞬浮き足立った。
「な、なにっ!?」
「敵が打って出たぞ!」
混乱の叫びが広がり、迎え撃つ構えが乱れる。だがすぐさま彼らも態勢を立て直し、黒々とした波のように四方からオルハンの軍勢に殺到した。
剣戟が閃光を散らし、鉄のぶつかり合う轟音が夜空に響く。
その混乱の只中を、松明を持たぬ影の一団が、するりと南へと走り抜けていた。
先頭のエリオスは、襲いかかる敵兵を、まるで風を切るかのように斬り伏せていく。
「ぐあっ!」
剣が描く軌跡は無駄なく、美しく、あまりに鋭い。斬られた兵は反応すらできずに地へ沈む。息ひとつ乱さず、彼は駆け続けた。
しんがりを守るのはアイザック。迫る危険を正しく察知し、極力敵との戦いを避けるために剣を振るう。
「……下がれ!」
アイザックは低く唸りながら、追いすがる敵兵の足を狙い、切り裂く。悲鳴とともに倒れ込む兵。助けようと仲間が立ち止まる。その一瞬の遅れが、決行隊を遠ざける時間を作った。
さらに、側面ではリアナの矢が夜を裂く。
「そこ!」
放たれた矢は正確無比に喉を貫き、あるいは腕を縫い止め、敵を寄せ付けなかった。
「右から三人! 二十歩!」
カイルの声が闇を裂く。
怯えに震えながらも、その目だけは鋭く敵の影を捉えていた。仲間に正確な位置を告げ、エリオスの剣が迷わず突き進むべき道を切り開く。
闇夜に散る火花。血の匂い。
それでも決行隊は誰ひとり欠けることなく、ひたすら南へと駆け抜けた。
背後ではオルハンの軍が獅子奮迅の戦いを続けている。敵兵が殺到し、炎が乱舞し、地鳴りのような怒号がこだました。
そして、わずか十分後。
決行隊は平原を抜け、森の中へと滑り込んだ。
エリオスが振り返り、短く頷く。
「アイザック」
「了解」
彼は迷わず火打ち石を打ち、狼煙筒に火を放った。夜空に昇る炎の尾が、緑に光る煙を立ち昇らせる。
「狼煙だ……! 奴ら、本当に突破しやがった!」
激しい戦闘が続く中、オルハンは口角を上げた。
「皆のもの! 撤退だ! 砦に戻れ!!」
続々と引き上げていく兵たち。オルハンはその奥の黒い森を見つめていた。
「幸運を祈る、エリオス殿」
そうつぶやき、彼も砦の方へ踵を返した。
◇◇
カルヴァン共和国軍の本陣――。
その中央で報告を受けていたのは、若き総大将、中佐レオニード・アルヴァレスであった。
二十代半ばに過ぎぬ年齢ながら、戦術眼と冷静沈着な判断力で次々と戦果を挙げ、異例の抜擢でこの地の全軍を任されている将だ。
艶やかな黒髪を肩口まで流し、白磁のように整った顔立ちは軍服の端正さと相まって凛然たる気配を放っている。だが、その眼だけは冷ややかに煌々と光り、情を捨てた策士の輝きを帯びていた。
「敵軍、突如砦から出撃! 松明を掲げ、正面より突撃開始!」
「第一陣、迎撃に移るも、敵勢の勢いに押されています!」
「……報告、繰り返します。敵軍、六百を超す規模で正面より奇襲を敢行!」
次々と駆け込む伝令の声にも、レオニードの眉はわずかに動くのみだった。
「なるほど。オルハン……か」
その名を口にすると、彼は静かに頷いた。
勇猛にして剛直、退き際を知らぬ男。だが同時に、徒労に終わる無駄戦を嫌う慎重さも兼ね備えている。
「あの男は安易な玉砕をするような凡将ではない」
レオニードは胸中で思う。
その彼が、なぜ奇襲を仕掛けたのか。
そこが明らかになれば、答えはおのずと見える。
考えを巡らす中、ひとつの報告が舞い込んだ。
「報告! およそ十名ほどの小隊が、混乱のさなかに南の森方面へと突破しました!」
その瞬間、レオニードの瞳が鋭く光った。
「……そういうことか」
口元に浮かんだのは笑みとも冷笑ともつかぬ薄い線。
「全前線に指令を飛ばせ。砦から出てきた兵は無視せよ。相手をして消耗する必要はない。それより――」
彼はきっぱりと告げた。
「南の森をしらみ潰しに探せ。鼠一匹、逃すな」
その声音に、幕内の空気が張り詰める。
若き中佐の命令は、雷鳴のように全軍へと響いていった。
◇◇
一方その頃。
エリオス率いる決行隊は森の中を駆けていた。
森といってもただの林ではない。深い谷が口を開き、渓流がごうごうと音を立て、切り立った崖が進路を遮る。まるで山岳地帯を思わせる複雑な地形であり、通れる道は必然的に限られていた。
息を殺して進む中、カイルが前方を凝視し、震える声を上げる。
「……エリオス様。細い山道に、敵が密集しています。待ち伏せです……!」
直後、後方を警戒していたアイザックも短く告げた。
「馬だ。蹄の音が近づいてくる。数は……十や二十じゃない」
エリオスの眉間にしわが寄る。
「なに?」
後方からの追撃は想定の範囲内だ。
しかし、前方で待ち構えているとなると話が違う。
このわずかな時間で自分たちの突破を察知し、正確に指示を飛ばしたということ。つまり、敵の指令系統は驚くほど迅速かつ的確に機能している。
エリオスの胸中に走ったのは、警戒心と、わずかな焦りだった。
(想像以上だ。この敵の総大将、只者ではない)
リアナが低く問いかける。
「どうなさるつもりです? このままでは……」
エリオスは即断した。
「仕方ない。強行突破する」
声は落ち着いていたが、その足取りは鋭く加速していた。
やがて前方の影が肉眼でもはっきりと見える。槍を構え、道を塞ぐ兵士たちの列。松明に照らされ、鎧の光が冷たく輝いた。
エリオスは剣を握り直し、短く息を吐く。そして詠唱を開始した。
「氷結の神ヴァルディオよ。
永劫の冷気を我に貸し与え、敵を凍てつく棘で穿て。
〈氷槍降臨〉!」
空気が一変した。
凍てつく風が渦巻き、夜空に白い光が広がる。
次の瞬間、無数の氷の槍が天より降り注いだ。
鋭い音を立てて突き刺さり、敵兵たちの体を貫く。
鎧ごと凍りつき、絶叫を上げる間もなく倒れ伏す者たちが相次いだ。
血と氷片が散り、足元の土が凍りつく。
だが、魔法が消えたあとに残るのは凄惨な光景だけではなかった。
「ぐっ……」
エリオスを襲ったのは、身体の奥底を焼くような虚脱感だった。
途切れそうになる意識を繋ぎ止めるために、奥歯を噛み締めた。
(今の体では、魔法はあと一度しか使えない)
それを本来は、南砦の攻略のために温存しておくつもりだった。だが、砦まではまだ半分も道のりが残っている。
(……まずい)
心の奥底に、これまでほとんど抱いたことのない感情が芽を出していた。
焦り。
不安。
それでも彼は顔に出さない。
ただ剣を掲げ、兵を振り返る。
「突破するぞ!」
決行隊は雄叫びを上げ、血と氷に覆われた道を踏み越えて駆け抜けた。
夜の森に、さらに深い緊迫が満ちていった。




