第3話 思い上がりの成敗
血に濡れた剣を収め、エリオスはゆっくりと振り返った。
路地の奥、恐怖と驚きの入り混じった表情の群衆が彼を見ている。
だが――拍手も歓声もない。
その目には、冷ややかさと猜疑の色ばかりが宿っていた。
(……そうか。こいつらにとって、俺はただの放蕩息子か)
それも当然だ。
酒場で暴れ、金を浪費し、我が物顔で領民を顎で使ってきた“エリオス・リオンハート”という男を、彼らは知っている。
たとえ今ここで悪党を斬ったとしても、それは気まぐれ、あるいは新たな気紛れの始まりに過ぎないと、彼らは思っているのだ。
ただ一組、例外があった。
殴られていた男性と、泣き崩れたその妻。
二人は人混みをかき分け、血にまみれた彼の前に跪いた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……!」
男の声は震え、女は嗚咽を漏らす。
それは、心からの感謝だった。
エリオスは短くうなずくと、二人の肩に軽く手を置き、背を向けた。
剣の切っ先がまだ地面に赤い筋を描く中、彼は人々の冷ややかな視線を背に受けながら、歩き去っていく。
マリアが追いつき、肩を並べた。
「……頭でも打ったんですか?」
その声色には本気の疑念が混じっていた。
からかうような笑みはない。ただ、信じられないといった調子だ。
エリオスは答えず、ただ歩みを進めた。
そのとき、音もなく、背後から声が降ってきた。
「……あんまり派手にやるもんじゃねえよ」
振り返らずとも分かる。フェリオだ。
「赤の狼団は、必ず復讐に来る。貴族の令息だろうが容赦しない。命が惜しいなら……」
「赤の狼団の本拠地はどこだ?」
エリオスは立ち止まりもせず、前だけを見据えて問うた。
背後で、フェリオが息を呑む気配がする。
「……どうしてそんなことを聞くんだ?」
「いいから、早く答えろ」
突き放すような声音に、フェリオは短くため息をついた。
「……街の外れ、西の森の奥。廃城がひとつある。そこが奴らの巣だ」
「そうか」
その一言とともに、エリオスの口元に、不気味な笑みが浮かんだ。
それは、獲物を前にした獣の笑みだった。
◇◇
夜更けの「狼の牙」は、安酒の匂いと下卑た笑い声に満ちていた。
煤けたランプの明かりが、赤の狼団の構成員たちの顔を照らし出す。壁には古びた狼の毛皮が飾られ、酒場全体がまるで狼の巣穴のような雰囲気を漂わせている。
奥の特等席には、三人の影があった。
ひとりは、大柄で分厚い肩を持ち、赤毛混じりの黒髪を無造作に束ねた男。片目に走る傷跡が、場の空気を支配している。
ボルガン・レッドクロウ。赤の狼団の団長だ。
向かいには、赤い革ジャケットを羽織り、足を組んでグラスを弄ぶ黒髪の美女。
ルチア・ヴァイス。赤の狼団の副団長である。
そして、テーブルの端には、禿頭の巨漢が酒瓶を握り締めている。
グラット・ホーグ。元地下闘技場の猛者。
カウンターの向こうから、赤いミニドレスのバーテンダー、リリィ・モーガンが、すっと近づく。
彼女はルチアの腹心であり、この酒場に出入りする全ての人間から情報を吸い上げる女だ。
「……面白くもない話を持ってきたよ」
リリィの声は甘く、それでいて冷たい。
ボルガンはグラスの中身を一口飲み、片目だけを動かす。
「言え」
「今日、昼間。うちの連中が街でちょっとした稼ぎをしようとしたら……リオンハート家の坊ちゃんが、首を突っ込んできやがってさ」
その瞬間、グラットが椅子を蹴って立ち上がった。
「なんだと!? あの腑抜けの放蕩貴族が、うちの連中に手ェ出しただと!」
酒瓶を叩きつけ、テーブルが軋む。
「座れ」
低く響く一言で、グラットは肩を震わせながら腰を下ろす。ボルガンの声は冷たく、それだけで場の空気が凍る。
「んで、どうなった?」
「……なんと四人を、その場で斬り殺しちまったのさ」
リリィが言葉を区切ると、テーブルの上に緊張が走った。
ルチアが細い指でグラスの縁をなぞりながら、唇を歪める。
「四人を? ……へえ、あの怠け者がねえ。で、ボルガン、どうするの?」
団長はしばらく黙し、グラスの中の琥珀色をゆらゆらと揺らす。
その片目が、獣のように細められた。
「決まっている」
重く低い声が、酒場の空気を押し潰す。
「相手が何者だろうと、俺たちを舐めた代償は、必ず払わせる」
その言葉に、グラットの口元が獰猛な笑みを浮かべ、ルチアはグラスを掲げて小さく乾杯の仕草をした。
酒場の中で、静かに、しかし確実に、復讐の炎が燃え始めていた。
◇◇
夜のリオンハート邸。
広間の大時計が低く時を刻む音が、妙に耳に響く。
呼び出しを受けたエリオスは、重厚な扉を押し開け、父ギルバードの執務室へと足を踏み入れた。
「お呼びでしょうか?」
部屋の奥、机の上には灯されたランプの光が、父の顔を陰影で覆っている。
ギルバードの傍らには、騎士団長ガレスの姿はなく、代わりに細身の男――政務官クラウス・ベックマンが、静かに控えていた。
どうやら父は、すでにガレスから昼間の一件を聞いているらしい。
「……座れ、エリオス」
ギルバードはとがめる口調ではなく、落ち着いた声で言った。
「後のことは私に任せなさい。おまえは危ないから、しばらく部屋でおとなしくしているんだ。いいな?」
エリオスは椅子に腰を下ろすことなく、真っ直ぐ父を見据えた。
「父上は……どうなさるおつもりか」
ギルバードは苦笑を浮かべ、視線を机の書類に落とした。
その沈黙を破ったのは、背後に控えていた政務官のクラウスだった。
「決まっているでしょう、金銭で解決です」
その声は湿った刃物のように冷ややかだった。
「ただでさえ財政は赤字続き。これ以上、騒ぎを広げられては困ります。……はっきり申し上げますと、迷惑なのです」
「クラウス、そのへんで――」
「いえ、旦那様。この際ですから、はっきり言わせていただきます」
ギルバードの制止を振り切り、クラウスは一歩踏み出した。
彼の目には、もはや隠す気のない軽蔑の色が宿っている。
「あなたがこれまで起こしてきた狼藉の数々……。夜会での乱闘、借金の踏み倒し、決闘騒ぎ……列挙すればきりがありません。あなたにリオンハート家を継ぐ資格などない。次期当主は弟君、アラン様であるべきです。赤の狼団の件はこちらで処理します。ですから、今すぐこの場で、家門を継ぐ権利を放棄してください」
長い言葉の刃を、エリオスは一言も挟まず、ただ静かに受け止めていた。
そして、間を置き、低く静かな声を落とす。
「……クラウスとやら、それで終いか」
政務官の顔に朱が差し、口を尖らせかけたその瞬間、エリオスが続ける。
「悪党相手に金で解決するなど、下の下策だ。国を滅ぼす愚鈍な政務官が思いつきそうなことだな」
その声は静かだが、冷え切った刃のような鋭さがあった。
「金をやれば、悪党はつけあがる……これまでもそうだったのではないか?」
クラウスの額に青筋が浮かび、口元が引きつる。
エリオスはそれを見て、くくっと短く笑った。
そして、声を張り上げた。
「三日以内に、奴らを成敗し、その首を父上の御前に献上してみせましょう」
クラウスが大笑いする。
「あなたのようなならず者に、できるはずがない! 大口を叩くのもいい加減になさい!」
「いいだろう」
エリオスの眼光が、炎のように鋭く燃える。
「もし成しえなかったなら、貴様の言う通り、家門の継承権を返上しよう」
クラウスは鼻で笑った。
「ぷっ、最初から勝てもしない賭けを持ち出して、家門を放棄するつもりだったのでしょう」
その瞬間、エリオスの表情が一変した。
獣のような鋭さと鬼気迫る圧が、部屋の空気を押し潰す。
「だが事が成れば、クラウス。それなりの代償をはらってもらうぞ」
クラウスは、かつて見たこともないエリオスの眼差しに、背筋を凍らせた。
だが、意地を張るように、強ばった声で答える。
「……いいでしょう」
ギルバードの部屋を立ち去ろうとしたそのとき、背後からクラウスの声が微かに届いた。
「……旦那様、アラン様に家督を継がせる件、領内にはどのように宣伝いたしましょうか」
エリオスの背は、わずかにも揺れなかった。
無反応のまま、重厚な扉を静かに閉ざす。
乾いた音が廊下に響いた。
廊下にはマリアとハロルドが待ち構えていた。
二人とも青ざめた顔で、息をひそめていたが、エリオスが姿を現すやいなや駆け寄る。
「坊ちゃま、大丈夫でございますか……?」
「エリオス様、いまの……大変なことをおっしゃったのでは……」
心配げな声。だが、エリオスは振り返らずに歩みを進める。
視線は前だけを見据え、答えは返さなかった。
彼の思考はすでに、別の場所にあった。
赤の狼団の拠点、街外れの西の森にあるという廃城。
どう攻め、どう攻略するか。
フェリオの話では、奴らの数は総勢五十。
戦場において兵五十は大した数ではない。
だがこちらは、たった一人。
しかも敵は、木造の廃城とはいえ、守りの固い城に籠っている。
攻城戦においては、攻め手は守り手の倍の兵力を必要とするのが定石――。
つまり、常識的に考えれば勝ち目は皆無だった。
だが、退く気は毛頭ない。
……せめて、あと一人。
冷徹に戦況を思い描きながら、エリオスの心にひとつの答えが浮かぶ。
「騎士団……」
そこから、使える駒を調達するしかない。
彼の眼に、不敵な光が宿った。




