第28話 兄弟の再会
◇◇
王都からの勅命は速やかに辺境領へと伝わった。
課せられた兵数は精鋭千名。その半分、五百はヴァレンシュタイン軍から供出されることになり、総司令官オルハン自らが采配を執ると決まった。
「さすがに此度の任は荷が重すぎますな」
ヴァレンシュタインの陣屋で命を受けたオルハンは、深く息を吐く。同時に彼の主人であるセレナもため息をついた。
「許せ。私も同じだ」
家臣に弱音を吐く姿など一度も見たことがない。そんな彼女がこんな表情をするなんて……オルハンは気を取り直し、すぐに副官へと指示を飛ばしていった。
残りの五百は、グリフォード伯爵領から二百、ハルデン子爵領から百五十、そしてリオンハート子爵領から百五十。
リオンハート家の屋敷では、ギルバード、エリオス、そして騎士団長ガレスが揃って卓を囲んでいた。
広げられた地図の上に石駒が置かれ、兵数が計算されている。
「百五十とは……決して少なくはないな」
ギルバードが眉を寄せて地図を見下ろした。
「父上、ですがここで後れを取るわけにはいきません。これは領の名誉だけではなく、今後の立場にも関わることです」
エリオスは穏やかに、しかし確信をもって言った。
ガレスが腕を組み、低い声で続けた。
「ならば我らの兵を率いるのは誰にしましょうか」
その問いにギルバードが重々しく口を開いた。
「その件についてだが、ヴァレンシュタイン卿から直々に指名があってな。エリオス、おまえに任せよ、とのことだ」
「なんと……」
「おまえは辺境領の総会で頭角を現し、王都でも名が広まり始めている。この機により多くの名声を得て、名実ともにヴァレンシュタイン卿の片腕となるのだ」
ガレスもうなずいた。
「副将ですが、私が推す人材が一人おります」
「誰だ?」
エリオスが問い返す。
「騎士団副団長、リアナです」
エリオスはわずかに目を見開き、そして笑みを浮かべた。
「……あのリアナを副将に? 頼もしい限りだ」
「はい。彼女は勇敢でムードメーカーにもなれるし、兵からの信望も厚い。副将として申し分ありません」
こうして、リオンハート家の百五十はエリオスを総大将、リアナを副将に据えて戦地へ赴くことが決まった。
クロース領に戻ったエリオスは自分に同行するメンバーを選ぶため、使用人、政務官、兵など主要な人物を集めた。
騎士団長ロルフについては、国境を接するラミレス公国の抑えとして領地に留まることになった。ラミレスが動けば背後を突かれかねない。戦場に出すよりも、守りに置くのが得策である。
「僕も参ります」
「私もお供いたしたく」
会議の末席に控えていたカイルとアイザックが立ち上がった。
「いいだろう」
エリオスは即座に承諾した。その後も兵たちから数名選んだ。
そして最後に、柔らかな声が上がった。
「お世話役として、わたしも同行します」
侍女マリアが深く一礼する。
「マリア、俺たちは戦場に向かうのだが……」
エリオスは少し驚いたように彼女を見た。
「ふふっ。エリオス様が自分のいないところで別の女にうつつを抜かさないか心配で仕方ないのよねー」
ルチアが軽口をたたくと、マリアが顔を真っ赤にして反論する。
「そんなんじゃありませんから! 私は侍女としての務めを――」
「はいはい、分かったから。そんなに怒らないの。いいんじゃない? エリオス様の王都での暮らしを支えてもらえば。その代わり私は残って羽を伸ばさせてもらうわ」
エリオスはうなずいた。
「よかろう。マリア、よろしく頼む」
こうして、リオンハート家からの戦場派遣は正式に整った。
総大将エリオスがリオンハート兵の百五十を率い、辺境の精鋭の一角として王都に集うことになったのだった。
◇◇
王都に集結した精鋭は三千。
ヴァレンシュタイン軍五百を筆頭に、王国内の有力諸侯から選りすぐられた兵ばかりである。重装歩兵の列は厳かに、騎兵の軍勢は眩いほどに槍を掲げ、凱旋広場を埋め尽くしていた。
その前に立った国王は、玉座にあるときとは異なる厳然とした威容を見せ、朗々と声を響かせた。
「我が民よ、我が兵よ。
カルヴァン共和国の侵略によって、わが国土は踏みにじられた。しかし、この地に集った三千の精鋭こそ、王国の誇りであり、反撃の刃である。
我らが戦うのは、ただ勝利のためではない。
家族を守るため、大地を守るため、そして我らが王国の未来を守るためだ!
恐れるな。
汝らの背には、この王とこの国全てがある!
ゆけ、勇敢なる戦士たちよ!」
その声に応えるように、兵たちは盾を叩き、槍を掲げて鬨の声を上げた。重低音の波が凱旋広場を震わせ、兵士の胸をも打ち鳴らす。
続いて、総大将セレナ・ヴァレンシュタインが一歩進み出た。
甲冑を纏い、長い銀髪を束ねたその姿は、凛烈な刃のようだった。
「私はセレナ・ヴァレンシュタイン。
これより皆を率い、カルヴァンの刃を退ける役を担う。
だが、私一人の力では何も成せない。
この三千の力が一つとなって初めて、王国を救うことができる。
どうか信じてほしい。
私は諸君を見捨てない。勝利の旗を掲げて、必ずや皆と共に帰還する。
共に行こう!」
その言葉は長くはなかった。だが、広場を埋めた兵たちの胸に深く突き刺さった。
「セレナ! セレナ!」
と名を叫ぶ声が沸き起こり、兵士たちの士気は最高潮に達した。
この日は王都に留まり、馬と兵を休めることになった。
夜の帳が降り、王都のリオンハート邸では、戦場に向けての準備を終えたエリオスが鎧を解き、椅子に身を沈めていた。
そこへ、盆を手にしたマリアが静かに近づき、言った。
「エリオス様。せっかく王都においでなのですから……弟君にお会いになられてはいかがですか?」
「……弟?」
エリオスは眉をひそめた。記憶を失った彼にとって、弟の顔も名も思い出せなかったのだ。
返答に詰まる主を見て、マリアはふっと微笑んだ。
「確かに、以前までのエリオス様なら、弟君に会わせる顔はないとお思いになったかもしれません。でも今は違います。私が太鼓判を押します」
「うむ……」
「ただご自身で“変わった”と仰っても、信じてもらえないかもしれません。ですから私がそばにいて、ちゃんと説明いたします。安心なさってください」
しばし沈黙が流れた。やがてエリオスは苦笑を浮かべ、肩を落とした。
「……そこまで言うなら仕方ないな。任せよう、マリア」
こうして、エリオスは初めて弟と対面することを決意したのだった。
◇◇
アラン・リオンハートは、その日、朝から胸の奥に鉛のような重さを抱えていた。
王国内の各地から選りすぐられた精鋭が王都に集結する――。
その挙兵式はアカデミーの生徒にとって一大行事であり、誇りを示す舞台でもあった。
だが、アランには誇れるものなどなかった。
彼は戦や権力争いに心を燃やすような少年ではない。
むしろ草花を愛し、庭の片隅に咲いた小さな花を観察しては時間を忘れたり、怪我をした小鳥を拾っては甲斐甲斐しく世話をしたりするのが好きだった。
幼い頃から、人の争いよりも、命が芽吹き、育まれる営みのほうに心を寄せていたのだ。
だがアカデミーの空気は、そんな彼にはあまりにも冷たかった。
ここに集うのは、貴族の子息・令嬢ばかり。
誰もが家の威光を誇り、将来の地位や出世を当然のように語る。
剣の腕や弁舌を競い合い、互いを蹴落とすことにためらいを持たない。
アランには、そのどれもが性に合わなかった。
彼の心優しい性格は、貴族社会の冷酷さと相性が悪かった。
笑顔を作って人と接することも、場に合わせて自分を偽ることも苦手だった。
本当なら、今すぐにでも王都を離れ、地元の領地に帰りたかった。
そこには緑豊かな森と広い草原がある。
幼い頃から慣れ親しんだ大地であれば、花や動物と共に、穏やかに生きていける――そう願う気持ちは日に日に強くなっていた。
だが、叶わない。
父ギルバードの顔が、頭に浮かぶ。
父に迷惑をかけることはできなかった。
何より、失望されたくなかった。
リオンハート家の次男として、家を支えることを期待されているのは理解している。
「きっとお前なら色々なことを学んで、リオンハート家を支える人間になれるはずだ」
父がそう語ったときの眼差しを、アランは忘れられなかった。
(裏切るわけにはいかない)
だから今日もアランは、笑顔を作る。
胸に押し寄せる閉塞感と、背負わされた期待の重圧を抱えながら。
幼いながらに、己を偽って生きる術を必死に覚えようとしていた。
けれどその生きづらさは、確かに心をすり減らしていった。
同級生たちが自慢げに「うちの軍はどれほどの兵を出す」と語り合うなか、アランは沈黙を選んだ。
彼の兄――放蕩者として名を馳せるエリオスが、大将を務めると知っていたからだ。
その名を出せば、また冷笑が降りかかるのは目に見えていた。
実際、グリフォード伯爵の息子からは容赦なく嘲りを浴びせられた。
「おまえの兄って、あのエリオスだろ? ははは! リオンハート家は相当な人手不足らしいな!」
彼の言葉は、アランにとってまるで鋭い刃のようだった。さらに、クラスの全員が彼に同調したことで、余計に肩身が狭い思いをした。
それでも彼は反論できず、ただ唇を噛んで耐えるしかなかった。
(歯を食いしばれ。耐えろ。失望されるな)
そう己に言い聞かせながら。
だからこそ、挙兵式で目にした兄の姿は、アランの胸を深く揺さぶった。
放蕩者と蔑まれたその人が、白馬に跨り、漆黒の鎧を纏い、兵たちを率いる姿は――英雄そのものだった。
「あの御方って、あなたの兄上らしいわね。……ふん、私が褒めてあげてもいいわ」
そう言ったのは、国内で権勢を振るっているルクレール侯爵の娘、リーゼロッテだ。アカデミーでも絶大な影響力を持つ彼女がエリオスの肩を持ったことで、クラスの誰もがてのひらを返した。
群衆の歓声に包まれる兄の姿を前に、アランは初めて「兄を誇らしい」と感じていた。
その興奮がまだ胸に残っている夕刻。
寮の玄関に現れたのは、まさかのその兄エリオス本人だった。しかも侍女マリアを連れて。
アランの心臓は跳ね上がった。
憎み、避け、軽蔑すらしてきた兄。
けれど今日見た姿と、今ここに立つ現実が、すべてを混乱させる。
「久しいな」
兄の低い声が響く。
何を言えばいいのか分からない。
胸に押し込めていた思いが、今にもこぼれ出そうなのに、口は強ばり、短い返事しかできなかった。
「お久しぶりです。兄上」
「うむ……」
会話が続かず、微妙な空気が流れるなか、マリアが必死に取り繕う。
「そ、そういえば、アラン様はこの前のテストでいい点数を取ったそうですね!」
アランは、マリアの気苦労に応えねばという一心で返事する。
「ええ……でもたまたまです」
「たまたまでもすごいですよ! 私の料理なんか、たまたま良くできたって自分で思っても、エリオス様は『美味い』とも『不味い』ともおっしゃっていただけないんですから!」
「は、はぁ……それは残念ですね」
その後も、マリアからの他愛もない質問に、ぎこちなく答える自分。
本当は打ち明けたかった。
アカデミーになじめず、毎日が息苦しいこと。
兄のせいで笑い者にされていること。
そして、地元に帰りたくて仕方ないこと。
けれど、どうしても言えない。
やがて兄は「会えてよかった。引き続き勉学に励めよ」と告げて、背を向けた。
(行ってしまう……)
その瞬間、アランは無意識に声を上げていた。
「兄上!」
呼び止めたはずなのに、何を話したいのか分からない。
ただ心が、必死に兄を繋ぎ止めようとしていた。
エリオスは立ち止まり、振り返った。
穏やかな顔で、真っ直ぐにアランを見つめる。
そして、まるで彼の気持ちを推し量ったかのように、優しく説いた。
「リオンハート家は知っての通り、中央からは離れており、貴族間の人間関係や中央の情勢には疎い。
それらを体で学び、家に誇りと威厳をもたらすのは、おまえしかできない。
だから今は学ぶのだ。
時には俺や家のことで馬鹿にされるかもしれない。だが、そんなときは『いつか見てろ』と歯を食いしばり、笑顔でやり過ごせ。
臥薪嘗胆の努力は必ず実を結ぶ。
そしてそれはおまえ自身とリオンハート家に大いなる栄光をもたらすことになるだろう」
胸の奥に溜め込んでいたものが、熱となって滲み出す。
涙が頬を伝い、アランは慌ててそれをぬぐった。
「……はい。ありがとうございます!」
声は震えていたが、確かに快活だった。
「うむ、良い返事だ。頑張れよ」
エリオスは満足げに微笑むと、マリアをうながして歩き出す。
夕陽がその背を照らし、長い影を落としていった。
「いつかきっと僕も……」
アランはその場に立ち尽くし、胸に灯った光を消さぬようにと、両手を固く握りしめた。




