第25話 ハルモニアの大移住
◇◇
夜も更け、エリオスとマリアが宿へ戻ると、すでにフェリオとルチアが帰ってきていた。
食卓には簡素な夕餉が並べられているが、四人はそれぞれ持ち帰った情報を口にする方が先だった。
「こっちは終わったぜ」
フェリオがパンをちぎりながら言った。
「村人どもはな、ダリウスにもグリフォード伯爵にも忠誠心なんざ持っちゃいねぇ。ただ、毎日の暮らしで手一杯で、立ち上がる力がねぇだけだ。どいつもこいつも、あのデブ領主に搾り取られてくたびれてる」
「ふぅん、じゃあ尻尾を振ってるのは兵と取り巻きくらいね」
ルチアはグラスを揺らしながら肩をすくめる。
「私の方は数少ない鍛冶職人たちを訪ねてきたわ。さびれてるけど、まだ腕は残ってる。誇りもね。彼ら自身、もう一度ハルモニアの名を国中に轟かせたいと願っていた」
「夢を見ているわけか」
エリオスが静かに言う。
ルチアは楽しげに微笑み、グラスを傾けた。
「ええ。しかも理由もはっきりしてる。村が武器の名産地だったのは湖のおかげ。豊富な水があるからこそ、高温での鍛造や冷却に最適だったのよ」
エリオスは黙って二人の報告を聞き、しばし思案に沈んだ。
宿の小窓から差し込む月明かりが、彼の横顔を淡く照らす。
やがて、低い声で言葉が落ちた。
「決めた。村人全員をリオンハート領へ移す」
三人が一斉にエリオスを見つめる。
「へぇ……村ごと?」
ルチアが目を丸くし、にやりと笑う。
「大胆ね。でも、悪くないわ」
「あいつら、この土地じゃもう先はねぇしな」
フェリオも腕を組んでうなずく。
「本気ですか……」
マリアが慎重に口を開く。
「領民を丸ごと移すとなれば、ダリウス卿に気づかれぬはずがありません。必ずや妨害が入ります」
エリオスはマリアを一瞥し、静かに頷いた。
「わかっている。それでも、このままではハルモニアの魂は完全に消滅する。ならば……俺がすべて抱えてやろうではないか」
言葉に宿の空気が重くなる。
しかしその重さは、決意の重さでもあった。
エリオスは窓の外に広がる湖へ視線を向けた。
月光を受けて銀色にきらめく水面が、未来の繁栄を映し出すかのようだった。
「ハルモニアの誇りを蘇らせよう」
ルチアが微笑む。
「決まりね。んじゃ、次はなにをする?」
エリオスはフェリオに視線を向けた。フェリオの顔が少しだけ引き締まる。
「おまえは影の中でこそ真価を発揮する男だ。そうだろ?」
「まあ、あんまり日の当たる場所は好きじゃねえな」
「そうね。フェリオは、気配を殺し、人の心の奥底にするりと入り込む……そんな感じなのが、お得意よね」
「……なんか典型的な危ねえヤツって聞こえるんだが……」
誰も否定しようとしないことに、フェリオが「ちぇっ」と舌打ちをする。
エリオスは穏やかに告げた。
「そんなおまえに今回の作戦で最も重要な役割を与えたい」
◇◇
翌日以降、エリオスは連日ダリウス邸を訪れていた。
退屈しのぎの話し相手を務め、気まぐれな領主に付き合って酒を酌み交わし、ときには警備兵たちに剣の稽古をつける――その姿は、まるで辺境から来た貴族の若造が、田舎領主に取り入ろうとしているようにしか見えなかった。
だが、その裏で、フェリオが着実に動いていた。彼の役目は、警備の目を盗み、村人たちに移住を勧めること。
「移住先はクロース領の川のほとりだ」
「金は心配いらん。当面の暮らしはこちらで面倒を見る」
「税は……作ったものを売ったときの、ほんのわずかでいい」
抑えられていた村人たちの目に、少しずつ光が戻っていった。
夢や希望という言葉を忘れかけていた彼らに、未来の話は久しぶりに胸を温めるものだった。
「……俺、あの話に乗ろうと思う」
誰かの一言がきっかけだった。
冷え切った心に小さな灯がともり、それは村中に広がっていった。
「そうと決まれば、早速支度をはじめなくちゃ」
老人も、子どもも、女たちも、皆が静かに荷をまとめはじめる。
「よし、この包みは私が運びましょう」
マリアは足腰の弱った老婆の荷造りを手伝い、汗をにじませながらも笑みを浮かべる。
一方ルチアは、エリオスから授かった命を果たすために一時村を離れていた。
「さすが私。褒めてもいいのよ」
戻ってきた彼女の表情には、何かを成し遂げた自信の色が宿っていた。
そして、時が来た。
星の瞬きも冴えわたる深夜。
エリオスはダリウスの屋敷にて、豪奢な酒を惜しみなく振る舞い、領主と警備兵たちを次々に酔い潰していた。
「エリオス卿、ぐっ……ぐはは! また来い、いつでも相手をしてやるぞ……」
赤ら顔のダリウスがテーブルに突っ伏したのを確認すると、エリオスは静かに席を立つ。
「今宵はこれで失礼します」
その頃、村の外れでは、荷を背負った村人たちが列をなし、息をひそめて集まっていた。
震える手で幼子を抱きしめる母親、年寄りを支える若者、名残惜しげに村を振り返る者……。
そこにエリオスが音もなく現れた。
「……行くぞ」
闇を裂くように低く響いたエリオスの声。
先頭に立つその姿に導かれ、村人たちは一歩、また一歩と歩み出す。
ハルモニアの村を、後にして。
マリアが天を仰いだ。
「どうか無事にいきますように」
こうして、前代未聞の大移住が静かに始まった。
◇◇
ダリウスが異変に気づいたのは、太陽がすでに空高く昇った頃だった。
屋敷の外は静まり返り、鳥の声すら聞こえぬ。いつもなら朝から響く鍛冶の槌音も、子どもの笑い声も、すべて消えていた。
「……どういうことだ……?」
転がり込んできた警備兵が、青ざめた顔で告げた。
「だ、旦那様! 村に……村に誰もいません! 家も畑も、空っぽでございます!」
ダリウスは、頭から血が上るのを感じた。
「や、やられた! くそっ、あの小僧め……! これでは税が入らん! わしの贅沢が……!」
考えることは村人の暮らしでも、領地の未来でもない。ただ、自分の贅沢が絶たれることへの恐怖だけだった。
すぐさま馬車を仕立て、警備兵たちを連れて村人一行を追う。
やがてクロース領に入って間もなく、荷を背負って歩む長い列を見つけた。
「止まれぇええっ!」
怒鳴り声に、村人たちは振り返り、怯えに顔をこわばらせる。
その前に立ったのは、エリオスとルチアだった。
「ようやく来たか」
フェリオとマリアは村人を安心させるように声をかけ続けている。
ダリウスは金切り声を張り上げた。
「貴様ぁっ! わしを謀ったな! 人を何日でも何人でも派遣してよいとは言ったが、まさか全員などと聞いておらんぞ!」
エリオスは泰然と肩をすくめる。
「私はただ、貴殿のお言葉をそのまま受け取っただけですが」
「ぬ、ぬかせっ! 伯父上に言いつけてやる! そうすれば貴様はおしまいだ! 王都で市中引き回しのうえ、処刑にしてくれるわ! 覚悟するがいい!」
ヒステリックに叫ぶダリウスを見て、エリオスは深くため息をつき、ちらとルチアに視線を送った。
ルチアは得意げに一通の書状を取り出し、声高に読み上げた。
「ここに記す――ハルモニア住民のクロース領への移民を認める。その代わり、移住期間中はグリフォード伯爵に対し、毎年金貨十二枚を献上すること……」
読み上げ終え、末尾に記された署名を高々と掲げる。
「ほら、ご覧あそばせ。伯父様――グリフォード伯爵自らの署名よ」
ダリウスの顔がみるみる蒼白になり、次に真っ赤に染まった。
「そ、そんな馬鹿な……! 伯父上が、わ、わしを……!」
ルチアはにやりと笑い、声を低める。
「伯父様から伝言を預かっているわ。悔しければ、自分の力で村人を取り返してみよ。それができぬなら、二度とグリフォード領に戻ることは許さぬ。これまでの怠惰と圧政のつけと思え……とな」
「ぬ、ぬぬ……うぉおおっ!」
怒りに我を忘れたダリウスは、腰の剣を抜いた。
その瞬間、エリオスの眼光が鋭く走る。
「ここはクロース領。そして私はクロース領の領主、エリオス・リオンハートです。その私に、グリフォード伯爵の親族がおのれの剣を向ける――その意味を理解しているのでしょうか?」
「う、うるさいっ! 兵ども! こやつを討て! 村人を取り返せ!」
だが、誰一人として動かなかった。
むしろ警備兵たちは視線を交わし合い、やがて次々と膝をついた。
「リオンハート卿……どうか、我らもお連れください! あなた様と共に生きたいのです! これからも剣の稽古をつけてください!」
「……」
エリオスは少しだけ考えるふうを見せ、静かに口を開いた。
「ならば心を入れ替え、村人たちを守ると誓え。その証として、彼らの荷物を持て」
「はっ!」
兵たちは歓喜して立ち上がり、競って村人の荷を担ぎ始めた。
一人、取り残されたダリウス。
剣を取り落とし、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら叫ぶ。
「お、俺は……俺はこれからどうしたらいいんだ……!?」
エリオスは背を向けたまま淡々と告げた。
「俺が渡した金貨があります。これまでと同じ暮らしをして使い果たし、野垂れ死ぬのもよし。それを元手に商いを始め、底辺からのし上がって伯爵や俺を見返すもよし。すべては貴殿次第です」
「た、助けてくれ……! 頼む……!」
なおもひざまずき懇願するダリウスに、エリオスは振り返らない。
ただ一言だけ投げた。
「次に会うときを、楽しみにしております」
そうして、村人たちを従え、エリオスは歩み去った。
泣きじゃくるダリウスの声だけが、クロース領の風に虚しく響いていた――。
◇◇
川のほとり。
清らかな水音と共に、新しい生活が芽吹いた。
村人たちはその地に小さな村を築き、「ネオ・ハルモニア」と名づけた。
かつての誇りを失いかけていた人々が、もう一度心を奮い立たせるために。
「よしっ! やるぞ!!」
鍛冶職人たちは槌を振るい、火床に炎を燃やし続けた。
だが彼らが作り出したのは武器だけではない。
生活に欠かせぬ農具や日用品も手がけ、人々の暮らしを豊かにした。
そして、リオンハート産の魔晶石を組み込んだ品々は、驚くほどの付加価値をもたらした。
王都をはじめ、主要な都市の市場で、クロース領の商人たちによって高値で売れ、瞬く間に評判を呼んでいった。
移住からわずか数か月。
ネオ・ハルモニアからエリオスに納められる税は、月に金貨二枚にまで成長していた。
グリフォード伯爵に献上する金貨十二枚を差し引いても、なお領主エリオスの手元に残る収益は膨大であった。
それを見越し、彼はさらに村を拡張していく。
「ここをもっと大きく育てよう」
リオンハート領やクロース領の各村からも、希望者がいればネオ・ハルモニアへ移住させ、その費用はすべて負担した。
住居の建設も整え、生活に必要なものを欠かさず提供する。
さらに、鍛冶職人たちへの指導や技術継承にも惜しみなく援助した。
村の人々は一丸となり、未来への希望に胸を膨らませて働いた。
やがて、クロース領の領都は、職人たちの手で生み出された品々を集散する拠点として繁栄し、
グランヴェル王国でも屈指の経済都市へと成長していった。
その名は国境を越え、やがて世界中に響き渡ることになる。
そして同時に、「ネオ・ハルモニア」の名もまた、世界のあらゆる地に轟くことになるのだが……それは、まだもう少し先の物語である。




