第20話 リュミエールの戦い 準備
◇◇
ヴァレンシュタイン領とクロース領の境に広がる大平原――リュミエール平原。
一面に短く刈られた草が揺れ、風が吹き抜けるだけの、隠れる場所ひとつない開けた戦場であった。
連合軍とクロース軍、それぞれが陣を張り、幾千の焚火の煙が夜空に昇っている。
その中央、紅の幕舎を構えるセレナ・ヴァレンシュタインの陣幕の中に、諸侯と将たちが集っていた。
「状況を申し上げます」
立ち上がったのはヴァレンシュタイン軍総司令官、オンハル・ディルク。
壮年の将であり、かつて王国にその名を轟かせた剣の達人――その腕前は今なお王国内で第五位に数えられている。
鋭い目つきと、落ち着いた口調が評定の場に重みを与えた。
「我ら辺境連合軍の兵力は総じて一万。内訳はヴァレンシュタイン本隊五千、グリフォード軍二千五百、ハルデン軍千五百、そしてリオンハート軍千。対するクロース軍は、オズワルド本隊四千、その嫡子マルコ率いる部隊二千――合わせて六千」
数字が告げられるたびに、陣幕の中にいるセレナの顔に安堵と緊張が交錯する。
確かに兵力差は連合軍に有利であった。
「次に陣形について――」
オンハルは卓上に広げられた地図を指し示した。
「クロース軍は鋒矢の陣。これは鋭く尖った矢じりの形で、敵陣を一点突破し、分断することに長けた攻撃陣形です。しかし、その両翼は脆弱で、突撃を凌げば逆に包囲の好機が訪れる」
「一方、我らは鶴翼の陣を敷いております」
地図の上に広がる線は、大鶴が翼を広げるように見えた。
「中央にヴァレンシュタイン本隊。左翼の山麓にグリフォード軍とハルデン軍。右翼の河川敷にリオンハート軍を配置。敵が捨て身の突撃を仕掛けてきたとき、両翼を大きく畳み込み、包囲し、殲滅する。これが我らの勝利の方策です」
「なるほど……」
グリフォード伯爵が長い髭を撫でながらうなずく。
「兵力でも我らは優勢。陣形でも勝っておるとなれば、戦いは見えたも同然か」
「ハルデンも異議はござらん」
ハルデン子爵も頷き、諸侯の空気は自然と和らいだ。
ギルバード子爵は静かに座しつつ、時折エリオスに視線を送る。息子がこの場にいることへの不安と期待、その両方が入り混じった眼差しである。
「異論がなければ、この策をもって戦に臨もう」
セレナが口を開いた。毅然とした声は、誰も否応なく従わせる迫力を持っている。
一同は頭を垂れ、次々と陣幕を後にした。
外に出れば、平原の向こうに黒々としたクロース軍の旗と無数の松明。
翌日の激突を思えば、誰もが胸の奥に重いものを抱えていた。
だが、ひとり……エリオス・リオンハートだけは陣幕に残った。
静まり返った幕内で、彼は机の上に置かれた地図に目を落とし、微かな微笑を浮かべる。
「……あとは、彼らがどう動くかですね」
闇に包まれた平原を見据え、彼の心はすでに戦の最前線へと向かっていた。
「……彼らとは、誰と誰のことだ?」
低く鋭い声が幕内に響いた。振り返れば、いつの間にか陣幕に戻ってきていたセレナ・ヴァレンシュタインが、じっとエリオスを見据えていた。
エリオスは小さく息を吐き、わずかに目を伏せてから答える。
「やはり、気づいておられましたか」
セレナは椅子に深く腰を沈め、長いため息をついた。
「……そうか。やはりそうだったか。グリフォード卿とハルデン卿が、直々に大軍を率いて出陣してくるなど、不自然だとは思っていた」
「はい」
エリオスは地図に視線を落としたまま、淡々と続けた。
「開戦を告げる角笛が鳴っても、彼らは山麓から動かないでしょう。そして、戦況がクロース軍に傾いたと見れば、その矛先を……殿下の喉元に突き立てるはずです」
セレナの瞳が鋭く細められる。
「つまり、実際には一万対六千ではなく……我らが六千、敵が一万ということか。クロース軍が攻撃的な陣形を敷いたのも納得だ」
「はい」
エリオスは静かにうなずいた。
「……では、どうする?」
セレナの問いに、エリオスは口角を上げ、わずかに笑みを浮かべた。
「裏を返せば、戦況がこちらに傾けば、彼らは喜び勇んでクロース軍の背後を突きます。結局のところ――我らの戦力は互角です」
「互角、か……」
セレナは腕を組み、じっと彼を見据えた。
エリオスは指先で地図をなぞりながら言葉を続ける。
「クロース軍の策はこうでしょう。オズワルド卿の本隊四千が殿下の本隊を引きつけている間に、マルコ率いる二千が我がリオンハート軍千を撃破する。その勢いのまま右翼から殿下の軍を圧迫する。思わず退いたところを合図に、グリフォード卿とハルデン卿が牙をむく――」
セレナの眉がぴくりと動いた。
「……となると、この戦は、リオンハート軍の働き次第で大きく変わる、ということか」
「お察しのとおりです」
エリオスは力強くうなずいた。
そして、まるでこの場に不安など存在しないかのように、毅然と顔を上げた。
「ご安心ください。必ずや、我が軍が完膚なきまでに敵軍を叩きのめしてご覧にいれましょう」
その瞳には、かつて絶対王と呼ばれた男の覇気が宿っていた。
◇◇
話は三日前にさかのぼる。
ヴァレンシュタイン領とクロース領にまたがる広大なリュミエール平原。そのヴァレンシュタイン領側に、リオンハート軍は陣を敷いていた。
キャンプの中心、本陣の大きな天幕の中。重苦しい空気のもと、ギルバード、エリオス、ガレス、リアナの四人が戦況を整理していた。
そこへ、天幕の入口がそっと開き、物見役のカイルが肩をすぼめるように入ってきた。
「し、失礼します……ご報告を」
彼の手はまだわずかに震えている。それでも声だけは絞り出すように大きくした。
「クロース軍の陣容が判明しました。リオンハート軍と対峙するであろうマルコ軍は……重騎兵が二百。重装の槍兵が三百。残りは歩兵千五百ですが、その歩兵すら、鉄製の盾に剣、胸当てまで揃えております……」
「へぇ、さすがは金満貴族ご自慢の軍勢ね」
リアナが口笛を鳴らすように軽口をたたいた。快活な笑みを浮かべてはいるが、瞳には戦場を前にした緊張が隠せない。
「むぅ……」
ギルバードは額に手を当て、低くうなった。
「やはり重装か。正面からぶつかれば、我が軍などあっという間に蹴散らされるのではないか……」
「左様にございます」
ガレスは真剣な声音で続ける。
「軽装主体の我が軍では、長く持ちこたえるのは難しい。マルコ卿との決闘で勝利されたことは誇らしきことにございますが……戦は一人で行うものではありません。現実は厳しゅうございますぞ」
そう言って、深くため息をついた。
しかし、エリオスだけは違った。椅子の背に軽く身を預け、落ち着いた声で告げる。
「この戦、我らの勝ちはすでに見えております」
「な、何を……」
ギルバードが顔を上げる。
「兵の装備の差は歴然にございますぞ!」
ガレスも反論した。
「せいぜい、我が軍の特徴といえば三百の弓兵くらい。あとは軽装の兵ばかり……」
エリオスは微笑すら浮かべた。
「大軍など、地の利を活かせばものの数でもありません」
「……地の利、だと?」
ギルバードは眉をひそめる。
「開戦まで、三日はありましょう。その三日で――兵どもには、弓と剣をシャベルに持ち替えてもらいます」
「シャベル……?」
リアナが目を丸くする。
「な、何をはじめるつもりなのだ……?」
ギルバードの声には不安が滲む。
エリオスは、机上の地図の一角に指を走らせる。そこにはリュミエール平原を縦に流れる大河の支流が描かれていた。
「川の流れを、少しだけ変えるのです」
静かに告げられたその言葉に、天幕の中の空気が一変した。
リュミエール平原の一角。澄み切った青空の下、リオンハート軍は剣や槍を放り出し、シャベルを手にして地面を掘り返していた。地響きのように土を削る音、川の流れを誘導する木材のきしむ音が重なり合う。
エリオスは陣頭に立ち、兵の汗と土埃にまみれた働きぶりを見渡すと、朗々と声を響かせた。
「聞け! 三日後、ここに川の流れを変えきったなら、この場にいる者、すべてに金貨一枚を与える!」
その言葉に、一同の手が止まる。誰もが顔を見合わせ、次の瞬間、どよめきが爆発した。
「き、金貨一枚!?」
「馬鹿な……四人家族が一年食っていける額だぞ!」
「本当なら夢のようだ!」
兵たちは声を上げ、歓声を交わしながらシャベルを振るいはじめた。疲れで重くなっていた腕も、約束の金貨の輝きを思えば、羽のように軽くなる。士気は一気に燃え上がった。
そんな中、リアナが息を弾ませながらエリオスの傍へ駆け寄る。額の汗をぬぐいながら、半ば呆れた声を上げた。
「ねえ、あんな大盤振る舞いの約束して……本当に大丈夫なの?」
エリオスは涼しい顔で答える。
「オズワルドから巻き上げた金貨がある。それを兵に投じて何が悪い?戦で命を懸ける者に報いるには、これ以上の使い道はあるまい」
何でもないように告げるその声音に、リアナの胸は高鳴った。彼の器の大きさに、思わず鼓動の速さを抑えきれない。
一方その頃――。
クロース領側に陣を敷いたマルコの軍勢も、すでに平原に着陣していた。伝令から「リオンハート軍は陣を張るや否や、土木工事に没頭している」との報告が届く。
「ははは! なんと愚かな!」
マルコは腹を抱えて笑い、父オズワルドも冷笑を浮かべる。
「荒れた河川の堤防でも作って、セレナ辺境伯のご機嫌取りでもしているつもりか」
「小僧の浅知恵よ」
マルコは唇を吊り上げ、軍旗の影に立って天を仰いだ。
「エリオス・リオンハート……貴様、戦場を遊び場と勘違いしているようだな。今度こそ、この手で叩き潰してやる!」
彼の笑い声は、まだ誰も知らぬ大いなる罠の上に響き渡っていた。




