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第18話 戸惑いのはじまり

◇◇


 かつてアルベルトであった頃。

 十歳の夜に見た惨劇は、彼の価値観を決定づけた。

 両親も、兄弟も、闇に潜む刃に倒れた。


 最後まで家族を守ろうと己の命を投げ打った父の姿を、アルベルトは忘れなかった。

 その死に様を見て、幼き彼は悟ったのだ。


――家族は枷になる。


 夢を追う者にとって、心を縛るものは不要。

彼は生涯独身を貫き、友と呼べる者すら持たず、冷たく孤独な覇道を歩み続けた。

 屋敷に戻れば使用人たちが口を揃えて言う「おかえりなさいませ」。

 それは礼儀に過ぎず、薄っぺらい響きにしか感じられなかった。

 だが、それでよかった。いや、そうあることを望んでいた。


◇◇


 だが、今は違った。


 オズワルドの屋敷で火事に遭い、ヴァレンシュタイン領に滞在したのち、ようやくリオンハート領へ戻った時。

 屋敷の門前にはマリア、ハロルド、リアナ、カイルらが一同に並び、彼を出迎えていた。


「エリオス様……! ひとりで何やってたんですか……?」


 マリアは声を震わせ、両手で口元を押さえて涙をこぼした。


「いくら待っても、戻ってこないから、もう気が気ではなくて……」


「本当に……戻ってきてくださって良かった」


 ハロルドは年老いた目を細め、深く頭を垂れる。


「あんまり女子を待たせるものじゃないですって」


 リアナは真っ直ぐな瞳でそう告げた。副団長として常に凛としていた彼女の声が、かすかに震えているのをエリオスは聞き逃さなかった。しかしそのことを今指摘するのは無粋というものだろう。そこで話を切り替えた。


「事前に帰りを報せていないのに、こんなに大勢で出迎えてくれるとは思いもよらなかったな」


「僕が最初にエリオス様の帰還を見つけて、皆さんに報せました」


 カイルは胸を張り、まっすぐに言った。


「なるほど……そうだったのか」


 戸惑い……。

 アルベルトの頃には決して味わわなかった感情が、エリオスの胸に湧き起こる。


 さらに、領主の間に足を踏み入れた時、そこには酒を用意して待ち構えていたギルバードの姿があった。


「遅かったな、エリオス」


 彼は笑って杯を差し出し、肩を抱いた。


「……まったく、どれほど皆が心配したと思ってる?」


「想像もつきません。どうして私なんかを……」


「そりゃ、おまえ、家族なんだから当たり前だろう」


 その言葉に、エリオスは息を呑んだ。


 家族――。


 かつて自ら切り捨てた概念が、今、自分を包むように戻ってきている。

 ギルバードはさらに笑って言った。


「あんまり無茶ばかりするなよ。でないと、天国の母さんに俺が叱られちまう」


 そう言って視線を向けた先には、一枚の小さな写真が飾られていた。

 そこには若く美しい女性の姿。

 エリオスは名を知らぬ。実際に会ったこともない。

 だが、それがリオンハート家の母であり、自分の母でもあると、直感で理解できた。


 胸の奥に、不意に灯るかすかな熱。


 アルベルトの時代には決して覚えるはずのなかった、柔らかくも温かい熱だった。


 戸惑いを振り払うように、エリオスは屋敷を後にした。

 夜の街は酒と笑い声に包まれ、灯りが揺れている。

 彼の足が止まったのは「黒猫亭」。

 かつてアルベルトの魂がエリオスの体に宿った、因縁の場所である。

 扉を開けると、威勢の良い声が飛んできた。


「おう、久しぶりじゃないか! リオンハート坊っちゃん!」


 カウンターの奥で女主人マルク・ベラミーが、豪快に笑う。

 すぐさま看板娘のサラが駆け寄り、にこやかな笑みを浮かべた。


「エリオス様! 元気そうでよかった。ほら、奥の席が空いてるから――」


 しかしエリオスは首を振った。


「飲みに来たわけじゃない」


 そう言って店内を見渡し、すぐに目当ての人影を見つける。

 制服姿でトレイを持ち、客の合間を縫って歩く美女――ルチア。

 かつて「赤の狼団」の副団長であり、今はこの店の従業員として働いている。


「……制服がやけに似合ってるじゃないか」


 皮肉混じりの声に、ルチアは振り返る。


「ふん。あんたに褒められても嬉しくないわよ」


 吐き捨てるように言いながらも、その目にはどこか懐かしさが宿っていた。


「だが、板についてきた」

「あんたこそ……こんな場末の酒場に何の用? 慰めの酒でも欲しくなった?」

「残念だが、違う」


 エリオスは椅子を引き、真正面から彼女を見据えた。


「頼みがある。俺と一緒に『グラディア砦』まで来てほしい」


 ルチアの眉がぴくりと動く。


「あそこはクロース領。しかも国境警備の要よ。まさか正面から攻め込む気?」


「そんな無茶はしない」


 エリオスの声音は冷たく鋭い。


「相手の懐に入るのが得意なおまえに、守備兵どもを寝返らせてもらいたい」


「……また人使いの荒いこと」


 ルチアはため息をついた。

 だがその表情の奥に、ほんのわずかな笑みが浮かんでいる。


「いいわ。どうせ退屈してたところだし。……んで、私が失敗したら?」

「そのときは俺が砦ごと叩き潰す」

「要は私を捨て駒に使うるってわけね」

「悪いが、俺はおまえを捨てないし、駒として使うわけでもない」


 エリオスは淡々と告げ、立ち上がった。


「おまえは、俺の切り札だ。忘れるな」


 ルチアはその背を見つめながら、苦笑をもらした。


「……ほんと、人をその気にさせるのが上手いんだから」


◇◇


 会議室の重苦しい空気を、ギルバードの力強い声が割った。


「よいか。オズワルド男爵はすでに爵位を剥奪され、王命によって領地も失う。大人しく従うしかあるまい。使者を派遣すれば、それで事は足りるだろう」


「殿下のお言葉に、私も賛同いたします」


 騎士団長ガレスが深々と頭を垂れる。


「領地を接収される以上、もはや抵抗は意味をなさぬはず。男爵も愚かではありますまい」


 副団長のリアナが片眉を上げ、口を開いた。


「オズワルド男爵って、そう簡単に”はいそうですか”って人じゃないですよ。なんか、こう……なにを考えているか分からないって言いますか――」


 ギルバードは、娘のように見ているリアナの言葉に目を細めた。


「おまえはどう思う?」


 話を振られたエリオスは、しばし考え込むように地図を見つめ、やがて柔らかく言葉を紡いだ。


「父上。ガレス殿。……もちろん、領地を失った男爵が従順に従う可能性もあります。ですが、歴史を振り返れば、絶望した領主が選ぶ道は、たいてい三つしかありません」


「三つ、ですか」


 ガレスが姿勢を正し、真摯な眼差しを向ける。


「はい。逃亡、抵抗、そして……売国です」


 会議室の空気が一段と重くなる。

 エリオスは指先でオズワルド領と隣国ラミレス公国の国境をなぞりながら続けた。


「仮に逃亡したならば、すぐに捕らえられるでしょう。抵抗は、武力を蓄えているなら現実的です。そして売国。ラミレスに領土を明け渡し、自らの命だけは守る。……この可能性を、私は見過ごせないと思うのです」


 リアナがすかさず頷く。


「でしょ? オズワルド男爵って、自分のためなら何でもやる人ですもの」


 ギルバードの顔からは先ほどの楽観が消え、険しさが浮かんだ。


「……なるほどな。考えもしなかった視点だ」


 ガレスもまた、重々しく口を開いた。


「殿下の御言葉、胸に響きました。……私が軽々に見積もりすぎていたようです。確かに、油断は許されませぬな。使節団には私とリアナも同行します」


 エリオスは小さく微笑む。


「……それでも、使節団はオズワルド率いるクロース軍にあっさりと追い返されるでしょう」


 ギルバードが驚いたように眉をひそめる。


「何だと……?」


 エリオスは淡々と続けた。


「そうなれば、セレナ・ヴァレンシュタイ辺境伯の名のもとに、各領の連合軍が編成されるでしょう。もっとも、西北部のグリフォード伯爵や、西南部のハルデン子爵は、何かと理由をつけて兵を渋るかもしれません。彼らはクロース家と近しい。そうなれば、実際に戦うのはヴァレンシュタイ家と我がリオンハート家の二家が主力、という形になる可能性が高い」


 ガレスは無意識に拳を握りしめた。


「……それでは兵力が不足するやもしれませぬ」


「はい。近頃武力強化にいそしんでいたクロース家ならば、”連合軍を破れる”と考えてもおかしくない。そして、もしそれを成せば……」


 エリオスは指で国境線をなぞり、視線を鋭くした。


「それを手土産にラミレス公国と手を結び、独立をはかるに違いありません」


 会議室の空気が張り詰める。

 ギルバードは思わず背筋を伸ばし、息を呑んだ。


「では……連合軍に敗れた場合は?」


 問いかけるガレスに、エリオスは静かに答える。


「言うまでもなく、”売国”です。ラミレス公国に泣きつき、領土を差し出す。これが最も厄介な手です」


 リアナが小さく舌打ちをし、軽口を交えつつも鋭い声で言う。


「そうなったら厄介どころじゃ済みませんって。国境を突破されて、ラミレスの兵がうちらの領土に雪崩れ込んでくるわけですからね」


「だからこそ――その可能性の芽は、事前に摘まねばならない」


 エリオスの声は穏やかだったが、その眼差しには冷徹な光が宿っていた。


「クロース領からラミレス公国へ渡るには、必ず通る道がある。国境警備の要、グラディア砦。……あそこを、先に我らの手中に収めておく」


 そう言い切ったとき、会議室にいた誰もが、気づけばエリオスの言葉を軸に思考を巡らせていた。



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