第16話 監査団
◇◇
辺境領に激震が走ったセレナ・ヴァレンシュタイン主催の総会から、一週間。
オズワルド・クロースは約定どおりに屋敷を追われ、侍女や護衛とともに街の宿へと身を寄せていた。立派な領主邸を空け渡し、主一家が狭い宿に押し込められている光景は、領民たちにとっても異様以外の何ものでもない。噂は瞬く間に広がり、街には「クロース家は終わりだ」とささやく声が飛び交い始めていた。
その最中、リオンハート家から使者団が訪れた。
表向きは「友好のための親善訪問」と称されていたが、真の目的は監査である。総会で暴かれた不正のほかに、まだ隠し事はないかを暴き出すためのものだった。
団長を務めるのは、リオンハート家の嫡男、エリオス。
彼の左右を固めるのは、女騎士リアナと、鋭敏な観察眼を持つカイル。さらに財務や政務の役人が数名、滞在中の世話係として侍女のマリアと執事長ハロルドの姿もあった。総勢十名ほどの精鋭が一行をなす。
まずは儀礼として、宿にいるオズワルドを訪ね、屋敷の鍵を受け取る。
オズワルドはにこやかに彼らを迎え入れた。豪奢な食卓を整え、酒と料理を並べ、笑顔で歓待を演じてみせる。
しかしエリオスはひと口も手を付けない。同行の者たちにも同様に厳命していた。
「マルコ卿のご容態はいかがかな?」
柔和な笑みを浮かべながら、エリオスはふいに切り込む。
一瞬、オズワルドの瞳が獣のように細められた。
だがすぐに表情を整え、冷静に答える。
「おかげさまで会話ができるほどには回復いたしました。数日もすれば、外にも出られるでしょう」
「それは何より。心配していたので」
そう言ってエリオスは微笑み、静かに腰を上げた。
やがて会談は形式どおりに終わり、オズワルドは鍵を渡した。
使者団が去るその背中を、二階の窓からじっと見下ろす影がある。
黒鉄の仮面に、銀で刻まれた歪んだ笑み。
それをかぶった青年、マルコ・クロース。
片方の耳も、形を失った鼻も、もう二度と戻らない。
その代わりに纏ったのは、冷酷な仮面と尽きぬ怨念。
「……エリオス・リオンハート……」
かすれた声が、仮面の奥から漏れる。
彼の眼差しはもはや、憎悪だけで燃え立つ鬼火そのものだった。
◇◇
オズワルドの屋敷の中は、驚くほど整然としていた。
どの部屋も隅々まで掃き清められ、まるで使用人の気配すら感じられない。政務室に至っては、書類や帳簿が几帳面に整理され、机の上には無駄な物が一切置かれていない。ギルバードから聞かされていたとおり、オズワルドは潔癖とも呼べるほどの完璧主義者であるらしい。
エリオスは屋敷を巡りながら心の中で確信していた。
(この屋敷の内部から、不正を示す書面や帳簿など出てくるはずがない)
そう、赤の狼団への指示書やラミレス公国との密約書類は、すべて屋敷の外、つまりオズワルドの手を離れた場所に存在するのだ。あのような危険な書類を屋敷の内側に保管するなど、彼の性格ではあり得ない。
この3日間に及ぶ監査の真の目的は、別にある。
クロース家を完全に抹殺するための”口実”を作り出すこと――それだけだ。
その始まりは、二日目の夕刻だった。
監査を終えたエリオスは、再びオズワルドを訪ねた。
「屋敷の整理ぶりは見事です。さすがはオズワルド卿、領地経営の才も卓越しておられる」
エリオスは柔和な笑みを浮かべながら、褒め言葉を惜しみなく並べた。
オズワルドもまた、笑顔を浮かべながら内心を探られまいとする。
「ありがとうございます。まだまだ至らぬ点も多く……」
帰り際、エリオスはさらに一言付け加えた。
「明日の夜、屋敷の大広間で最後の晩餐を催します。ぜひ、オズワルド卿ご夫妻にもご参加いただき、親交を深めたいと思います。当家からは私ども十名全員が参加し、おもてなしさせていただきます」
オズワルドは表向き微笑みながら、妻に確認してから返事をすると約束し、その場をやり過ごした。
しかし、エリオス一行が去った直後、屋敷には別の影が忍び寄る。
汚れ仕事を担う兵たちを密かに部屋に呼び寄せると、低く命じた。
「台所から火を出し、屋敷は火事になったと見せかけよ。リオンハート家の侍女らが慣れぬ台所で火の始末ができなかった。屋敷の火事で、エリオス・リオンハート以下、主要な人員が命を落とす――そのシナリオを実行せよ。決行は明日の夜だ」
兵たちは無言で頷き、闇に溶けるように去った。その瞬間、屋敷の壁や廊下に潜む空気まで、何か不吉な気配に包まれた。
明日の夜、全てが変わる……この穏やかな表情の裏で、死の設計図が静かに動き始めていた。
◇◇
三日間にわたる監査は幕を閉じた。
結果、不正を示す証拠は何ひとつ見つからなかった。それでもリオンハート家の一行には、安どの空気が漂っていた。
「いやはや、これでようやく休めますな」
執事長ハロルドが、眼鏡を押し上げながら深々と頭を下げる。
この監査を通じて、エリオスは意外な収穫を得ていた。それはこのハロルドである。
もとより几帳面な人であることは気づいていたが、さらに帳簿に関する知識や書類を整理する力もある。執事にしておくのはもったいない人材。財務全般を任せるに値する逸材だ。
「エリオス様もお疲れでしょう。どうか今夜は心ゆくまでお休みくださいませ」
侍女のマリアが小さく微笑み、茶を差し出した。
「ありがとう、マリア。だが休むのはまだ先になりそうだ」
エリオスは茶を受け取り、軽く息をつく。
「まったく……エリオス様は無理をなさる」
マリアが唇を尖らせると、ハロルドは小さく咳払いをして笑った。
「若殿は今までさぼっていたぶん、頑張りたいのでしょう。好きにさせてあげなされ」
「そういうことだ」
エリオスは軽口を交わしながらも、心の奥底では冷徹な計算を巡らせていた。
(オズワルドの凶行は、まだこれからだ)
夜になる前、エリオスはカイルとリアナを伴って、屋敷最上階のテラスへ出た。
遠くに広がる森の影が、夜の訪れを予兆していた。
「カイル、裏口の位置は把握しているな?」
「はい。森へ抜ける小道と接続しています。逃走経路には最適です」
エリオスは頷き、視線を鋭くした。
「今夜、そこにルチアを待機させている。彼女ならこの土地に通じている。お前たちは監査団全員を引き連れてリオンハート領へ戻れ」
リアナが息をのんだ。
「ですが……エリオス様はどうなさるおつもりですか?」
エリオスは、ほんの少し口元を上げて答えた。
「俺は正面から、堂々と帰ってやるさ」
夜が更け、屋敷の大広間では、即席の晩餐会が始まった。
エリオスは会場の端で待機していたマリアを呼び寄せると、その手を取って中央に導いた。
そして高らかに宣言する。
「身分に隔てはない! ここにいる全員が監査団の仲間だ。ゆえに、全員がこの晩餐会を楽しめ! これは俺の命令だ!」
驚きに包まれた場内に、一瞬の静寂が走る。
だが次の瞬間、一斉に歓声が上がった。
蓄音機から軽やかな音楽が流れ出す。
エリオスはマリアの手を取って踊り出した。
はじめは戸惑っていたマリアも、やがて弾けるような笑顔でそのリズムに身を任せる。
「エリオス様……私、夢を見ているみたいです!」
「ならば覚めないうちに楽しめ」
輪の向こうでは、ハロルドがぎこちなくも楽しげに踊っていた。
普段は硬い顔を崩さぬ執事長の姿に、笑い声が弾ける。
宴はゆるやかに、穏やかに時を刻んでいった。
誰もが、この時間が永遠に続けばと願ったかもしれない。
だが……。
終盤、乾杯の合図が響こうとしたその時。
突如として、屋敷を揺るがすほどの轟音が夜を切り裂いた。
大広間の外で、大きな爆発が起こったのだ。
「カイル! 様子を見にいけ!」
エリオスの鋭い声が大広間に響いた。
「はっ!」
カイルは即座に駆け出し、炎と煙のただ中へと消えていった。
ざわめきに包まれる会場を、エリオスはリアナと共に落ち着かせる。
「慌てるな。俺がここにいる限り、誰一人として危害は加えさせぬ」
リアナもまた即座に声を張り上げ、手際よく避難の指揮を執った。
やがて戻ってきたカイルが報告する。
「エリオス様! 屋敷のあちこちで火の手が上がっています!」
エリオスは眉ひとつ動かさず頷いた。
「そうか。ならば、手はず通り頼んだぞ」
「はいっ!」
リアナは鋭い眼差しでうなずくと、一同を導き、速やかに避難を始めた。
しかしその場に立ち尽くすエリオスに、ひとり気づいた者がいた。
「エリオス様! お逃げください!」
叫んだのはマリアだった。涙に濡れた瞳が彼をまっすぐに射抜く。
エリオスはその姿にわずかに目を細めると、あくまで穏やかな微笑みを返した。
「心配はいらない。お前は自分の身の安全を一番に考えよ」
「いやっ! エリオス様!」
なおも声を張るマリア。だが避難の波に呑まれ、彼女の声は遠ざかっていった。
静寂が訪れる。
やがてエリオスも、ゆっくりと動き出した。
もうもうと煙が充満する中、マントで口元を覆い、正面玄関へと進む。
外気に触れたその瞬間、彼の瞳が鋭く光を宿した。
正門の周囲――そこには黒ずくめの影がいくつも待ち構えていた。
彼らの手には剣、弓、槍。全員が殺意を剥き出しにしている。
「エリオス・リオンハートだな」
一人が冷ややかに名を呼んだ。
「ああ、そうだ」
エリオスは淡々と応じる。
「悪く思うな。これが定めだ」
男が吐き捨てるや否や、黒き影たちが一斉に襲いかかってきた。
だが、エリオスは微塵も慌てなかった。
口の端を吊り上げ、余裕の響きをもって言い放つ。
「……こやつらでは食後の運動にも物足りんな」




