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第15話 眠れぬ夜

◇◇


 その日の夜。

 激動の一日とは裏腹に、ヴァレンシュタイン家の執務室はしんと静まり返っていた。


 ペン先が紙を擦る音だけが、闇に沈む部屋に淡々と響いている。

 セレナ・ヴァレンシュタインは机に向かい、議事録と決定事項のまとめに没頭していた。

 それは彼女の責務であり、また心を落ち着ける唯一の行為でもあった。


 書き進める文面には、総会で承認された数々の決定が記されていく。


 ひとつ、リオンハート家にクロース領の一部を割譲すること。


 ひとつ、そこに含まれる水源の管理権をリオンハート家が握ること。


 ひとつ、クロース家は今後、逆に水の使用料を支払う立場になること。


 ひとつ、来週早々、クロース家の屋敷にリオンハート家の監査団を派遣すること。


 条文を一つ書き記すたびに、セレナはわずかにペンを止め、思案の沈黙に沈んだ。

 クロース家の人間が屋敷に立ち入ることすら許されず、街の宿に身を寄せる屈辱。

 それは貴族として致命的な恥辱であり、オズワルド・クロースにとっては耐えがたい辱めであろう。


(だが、あの男は簡単には倒れない)


 セレナはそう断じていた。

 オズワルドは老獪で、権謀術数をいとわぬ男だ。

 このまま大人しく従うはずがない。必ずや巻き返しを狙うだろう。

 そのとき最初に狙われるのは……おそらくギルバード、あるいはエリオス。

 血が流れる未来の幻影が脳裏をかすめ、胸の奥が冷たく重くなる。


 だが次の瞬間、今日の決闘の光景が思い出された。

 あの異様な強さ、冷酷なまでの執拗さ。

 観衆が吐き気を催すほどの惨劇を生み出した剣さばき。

 ……あれを目の当たりにしてなお、オズワルドが軽々しく動けるだろうか。


 思考の中で、セレナは不意に自分が安堵していることに気付いた。あの怪物の存在に。


 パーティーで見せた紳士的な立ち居振る舞い。

 総会で見せた理知的で鋭い弁舌。

 決闘で見せた、悪鬼のように残酷な姿。


 どれもが矛盾していて、どれもが真実のように思える。

 彼は一体、どこまでが本物なのだろうか。

 いや、考えるまでもない。あの男はどれも偽りなく――その全てが「エリオス・リオンハート」という存在なのだ。


 ならば、どこまで信用できるのか。

 どこまで寄り添えるのか。

 自分の一族を託すに足る人物なのか。


(答えは出そうにないな……)


 ただ一つ、確信をもって言えるのは、彼はこれまで自分が出会ったことのない傑物である、ということだ。


 この辺境を背負い、導く立場に彼が立ったとしたら。

 どんな未来が待ち受けるのか。

 その想像は、恐怖よりも、奇妙な期待を呼び起こす。


 胸の奥が小さく高鳴るのを感じ、セレナは唇を噛んだ。


(なぜだ?)


 なぜ彼の存在を思うだけで、心が揺さぶられるのか。

 恐ろしいはずなのに、あれほどの残酷さを目にしたはずなのに。


「……今夜は眠れないかもしれぬ」


 自嘲めいた囁きが、夜の静けさに溶けて消えた。

 セレナは深く息をつき、再びペンを執った。

 紙面に走る文字は、彼女の揺れる心を隠すための仮面のようでもあった。


◇◇


 一方、クロース家の寝室。


 厚いカーテンで閉ざされた部屋の中、かすかなランプの明かりが、ベッドに横たわるマルコの姿を照らしていた。顔は包帯でぐるぐる巻きにされ、かつて社交界を魅了した美貌の面影は、もはやどこにもない。


 彼の枕元には、ガラス瓶が三つ、無造作に転がっていた。一本で金貨一枚――王都でも限られた貴族しか使えぬ最高級のポーション。その三本すべてを惜しげもなく傷口に浴びせたにもかかわらず、削がれた鼻も、失われた耳も戻ることはなかった。

 血こそ止まり、腫れもいくぶんか引いたものの、痛みだけは頑として消えぬらしい。


「いたい……いたい……」


 意識の深い闇に沈んでいるはずなのに、マルコの口からは子どものような呻きが絶え間なくこぼれていた。かつて誇り高く、傲然と振る舞っていた青年の姿はそこになく、ただ傷に苛まれる弱者がいるだけだった。


 その手を握りしめ、オズワルドの妻は声を震わせた。


 「……きっと、お父上が……必ず、このカタキを取ってくださいます。マルコ……安心なさい……」


 涙は頬を伝い、彼女は嗚咽を堪えきれなかった。

 愛する息子の未来が、あの日を境に閉ざされてしまったのだ。

 華やかな舞踏会の中心に立つことも、誉れ高き結婚の縁談に恵まれることも、もう二度とない。

 仮面で顔を覆い隠し、陰に生きるほかなくなった。


 オズワルドは、その光景を黙然と見つめていた。

 妻と同じく、胸の奥底に煮えたぎるような憎悪を抱いていた。

 いや、彼のそれは妻の比ではなかった。


 領地も、誇りも、そして家の未来さえも、あの小僧――エリオス・リオンハートに蹂躙された。

 なにより、息子の未来を無残に奪い去ったことが許せなかった。


 ふと窓に目をやると、夜空に白々と輝く月が浮かんでいる。

 その光を睨みつけるように、オズワルドはゆっくりと唇を開いた。


「……たとえ魂を悪魔に売ろうとも、必ずやこの恨みを晴らしてみせる」


 その誓いは低く、だが揺るぎなく。

 クロース家の主は、静かに――しかし確実に復讐への一歩を踏み出していた。


◇◇


 一方その頃、リオンハート家が滞在する宿。

 部屋の中では、長い時を息を詰めて待ち続けた執事長ハロルドと侍女マリアが、落ち着かぬ面持ちで佇んでいた。二人とも心は重く、扉の向こうから聞こえてくる足音に何度も耳を澄ませては落胆し、また息を整えていた。


 だが、その憂鬱は唐突に破られた。

 部屋へ入ってきたギルバードの晴れやかな表情と、腹の底から響くような愉快な笑い声が、宿の静けさを一瞬で吹き飛ばしたのだ。


「やったぞ! 我らリオンハート家に、ようやく光が差したのだ!」


 その声にハロルドは目を丸くし、マリアは思わず胸を押さえた。信じがたい吉報に、二人の心は一気に軽くなる。


 その夜、宿の一室ではささやかながらも祝杯があげられた。

 普段は決して口にしない酒を、ギルバードは自ら注ぎ、なんとハロルドやマリアにまで振舞った。


「こんな夜は滅多にない! 共に祝おうではないか!」


 金色に揺れる酒を口にしたハロルドは感極まったように何度も頷き、マリアは頬を赤らめながら微笑んだ。

 こんなにも心の底から笑うギルバードを見るのは、マリアにとってはじめてのことだった。


 聞けば、あの忌まわしい借金や水源の問題が一度にすべて解決したという。

 財政に疎いマリアですら、その出来事がどれほど奇跡に近いものか直感できた。

 しかもつい先日は、辺境を脅かしていた「赤の狼団」の問題まで解決したではないか。


 それらすべての立役者は――エリオス。

 マリアにはもはや、彼に対して確信めいた思いがあった。


 深夜。ギルバードが満足げに眠りについたのを見届け、マリアはそっと部屋を抜け出した。

 テラスに出ると、夜風の中にひとりたたずむ背中があった。

 月明かりに照らされたエリオスの姿は、どこか現実離れして見えた。


 意を決し、彼の二歩ほど後ろに立ち、そっと声をかけた。


「……あなたは、何者なのですか?」


 その瞬間、エリオスは静かに振り返った。

 無言のまましばらくマリアを見つめる。

 真っすぐに向けられる瞳に、マリアの胸の鼓動が高鳴った。


 やがて彼は、淡い微笑を浮かべて口を開いた。


「――さあ、俺にもよく分からない」


 その言葉には冗談めいた響きがあった。

 だが同時に、ふと影を差すような寂寥が混じっていた。


 マリアは息を呑む。その微笑みは、彼女の心に深く刻まれ、決して忘れられぬものとなった。


◇◇


「……あなたは、何者なのですか?」


 その問いが、何度も脳裏で反響していた。

 答えは、すでに口にした通りだ。


「――さあ、俺にもよく分からない」


 それは虚勢でも欺瞞でもない。まさに、心からの本音であった。


 かつての自分は、アルベルト。

 世界を圧倒的な軍事力と経済力によって統べ、誰もがその名を恐怖と敬意をもって口にした、絶対王。

 あと一歩、ほんの一歩で全世界の支配が完成するという、そのとき……。

 最も信頼した腹心、ルシアンの裏切りによって命を絶たれた。


 だが、死は終わりではなかった。

 目を覚ますと、没落寸前の貴族の家に生まれた、放蕩子息エリオスとしての人生が始まっていた。

 はたして何のために?

 誰の意志で?


 思い出すのは、アルベルトとして絶命した直後、深い闇の中で耳にした不思議な声。


 ――そなたの力、我が世界に必要だ

 ――あの忌々しい神々の野望を打ち砕くため、もう一度、生きよ


 忌々しい神々?

 その言葉の真意は、いまだに理解できない。

 いったいどの神を指すのか、あるいはどの世界の理を指すのか。皆目見当もつかない。


 エリオスは、思索を振り払うように小さく息を吐いた。


(考えても無駄だ)


 結局、己が何者なのかなど分かりはしない。

 ならば、考えるべきは「これから自分が何者になるのか」。


 答えは一つしかない。

 アルベルトとして果たせなかった野望。

 すなわち、世界を征服し、覇王としてその名を歴史に刻むこと。


 それこそが、自らの存在を肯定する唯一の道であり、今のエリオスの目標であった。


 隣人との諍い――クロース家の横暴や、領土や水の問題など、彼にとっては取るに足らぬ些事。

 まるで、目の前を飛び回る一匹の蠅にすぎない。


 蠅は追い払ってもすぐに戻ってくる。

 だからこそ、徹底的に叩き潰さねばならない。


 息の根が、完全に止まるまで――。


 エリオスの口元に、冷ややかな笑みが浮かんだ。

 その微笑は、祝宴に酔いしれる宿の空気とは不釣り合いな、冷たい覇者の笑みであった。


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