第10話 若き女辺境伯の苦悩
◇◇
領主ギルバードの胸には、ここ数日の出来事が重くのしかかっていた。
街中で赤の狼団にからまれていた領民を救い、騎士団ですら手を焼いていた賊を一夜にして殲滅まで追いやった――息子、エリオスの変貌。
誇らしさと同時に、言いようのない不安が胸を締め付けていた。
ギルバードは執務室に、幼い頃からエリオスを世話してきた執事長ハロルド・クロムウェルと侍女マリア・エインズを呼び寄せた。
「……お前たちの目に、今のエリオスはどう映っている」
問われた二人は顔を見合わせ、少しの沈黙の後に口を開いた。
「……確かに、どこかおかしい、と申しますか。以前の若様とは、まるで別人のように感じられます」
そう言ったのはハロルドだった。だがその声音には、主を案じる深い思いが滲んでいた。
続いて、マリアがためらいがちに言った。
「ですが……今の姿こそ、本来のエリオス様なのかもしれません。優しさの裏に、強さを秘めていらした……ずっと、そう思っていましたから」
ハロルドも腕を組み、深くうなずく。
「もう少し様子を見ましょう、旦那様」
ギルバードは重く息を吐いた。
彼を悩ませているのは、領内の問題ばかりではない。
近く催されることになっている、辺境の領土を統べる女辺境伯、セレナ・ヴァレンシュタインが主催する諸侯を集めた総会。さらに前夜祭として催される盛大な宴。
各領主とその家族が招かれ、顔をそろえるその場に、リオンハート家から誰を出席させるか。
宴だけならまだ誤魔化しがきく。しかし総会はそうはいかない。辺境領の貴族は全員で5人。総会には領主ともう一人、嫡子または側近が参加することになっているのだ。
通例であれば、後継者である長男エリオス。
だが、あまりにも急激な変貌を見せた彼を連れて行くことに、ギルバードは強い不安を覚えていた。
いっそ、王都のアカデミーで優等生として名を馳せる次男、アランを呼び寄せるべきか……。
そんな思考に沈んでいたところで、扉がノックされ、本人が姿を現した。
エリオス・リオンハート。
その腕には、膨大な書類が小脇に抱えられていた。
「父上。少々、お時間を」
机に書類を置き、彼は淡々と語り始めた。
「調べたところ、我が領はクロース男爵家に莫大な借金を抱え、さらに水の利用に関して法外な税を取られているようですね」
ギルバードの表情が引き締まる。この事実はリオンハート家の者であれば、使用人であっても知る事実だ。
「……それが今さらなんだ?」
「いえ、なぜ解決しないのかと思いまして。このままでは相手はますますつけ上がるだけかと」
ギルバートは深いため息をついた。
彼とて解決できるものなら、すぐにでもそうしたい。しかしとうてい無理なのだ。
やはり我が嫡男は現実すら直視しようとしない愚か者であったか……と失望する。
「確かに難題でしょう。だからといって放っておけません。そして、解決できるとしたら――今が好機です」
エリオスは鋭い目を父に向けた。
ギルバートの伏せられた目が自然と上がる。
「私がそれらを一度に解決してみせましょう。そのために――女辺境伯セレナの催すパーティーへ、私を連れていってください」
力強い声が執務室に響いた。
「なんだと……?」
ギルバードは息を呑み、言葉を失う。
(あれは本当に、自分の息子なのか?)
その疑念が心をよぎる。しかし、エリオスの瞳に宿る迷いなき決意と覇気を目の当たりにして、一縷の望みに賭けたくなるのを抑えられなかった。
◇◇
夜の帳が下り、辺境伯邸の政務室にはランプの淡い光が揺れていた。
机にうず高く積まれた文書の山の前で、セレナ・ヴァレンシュタインは椅子に腰掛けたまま、白い指先でこめかみを押さえていた。
銀糸のような長い髪が肩を伝い、細い首筋にかかる。宝石のように透き通った青の瞳は、今は疲労と憂愁に曇っている。
見る者の息を呑むほどの端麗な容姿を備えた彼女だが、その美しさは領主として背負う重責の影に翳っていた。
政務官や執事が次々と報告に訪れる。
そのたびにセレナは柔らかな笑みを浮かべ、しなやかな声で答えた。
だがその笑みは仮面だった。心の奥底では、重圧に押しつぶされそうになっている。
二年前。病に倒れた父、アーヴィング・ヴァレンシュタイン辺境伯が世を去った。
母はすでに亡くなっていた。残されたのは幼い弟、まだ十歳のレオナルド。
十九歳だったセレナは、使命感だけを胸に辺境伯位を継いだ。
(自分がどうにかしなければ、この家も、この領も、崩れてしまう)
しかし現実はあまりに過酷だった。
現在の王、アルフォンス三世は彼女にとって遠縁にあたる。
かつて世界に覇を唱えたグランヴェル王国も、今や往年の威光は色あせつつある。
周囲を囲む列強諸国からの侵攻は年々激しさを増し、国力はじわじわと削られていた。
その影響を最も受けるのが、この辺境。
セレナの領地を支えるのは四つの家門。
西北部のグリフォード伯爵、西南部のハルデン子爵、東北部のクロース男爵、そして東南部のリオンハート子爵。
とりわけ勢いを増しているのはクロース家だった。
現当主、オズワルド・クロース男爵。
彼は元は王の御用商人。商才にたけ、莫大な私財を武力に転じつつある。
しかも国境を接するラミレス公国と、王の知らぬところで商いを通じ密かな友好を結んでいるという。
野心に満ちたその姿勢は、やがて辺境伯領をも飲み込もうとするだろう――セレナには、そんな予感があった。
さらに最近、クロース男爵は嫡男マルコと自分との縁談をそれとなくほのめかしてきている。
断れば敵対を招き、受ければ家の誇りを売る。
どちらを選んでも地獄の道。
セレナは机に突っ伏すようにして目を閉じた。
(父上、私は、どうすればよいのでしょう)
その時だった。机の上に新たに置かれた一通の封書が目に入った。
封蝋に刻まれた紋章は、双頭の鷲。リオンハート家のものだ。
差出人は……。
「エリオス・リオンハート……? あの放蕩息子か」
昨年の宴で悪酔いした挙げ句、総会では頓珍漢な発言を繰り返して家門に泥を塗ったのは記憶に新しい。
思いも寄らぬ名を見て、セレナはゆっくりとまぶたを開いた。
◇◇
煌びやかなシャンデリアの灯りが、広間いっぱいにきらめきを放つ。
辺境伯邸で催される大舞踏会――セレナ主催のパーティーが、今まさに幕を開けた。
貴族の親族や各地の有力商人らも招かれており、不審な者が紛れ込まぬよう、出席者は身分関係なく、入り口の帳簿に署名が必要だった。
帳簿台を過ぎれば、豪華な装飾のダンスホール。そこに続々と人が入ってくる。
絢爛たるドレスに身を包んだ令嬢たち、威厳を漂わせる貴族の男たち。
そこかしこで談笑の輪が広がり、楽団の奏でる弦の調べに合わせて舞踏が始まろうとしたその時。
場の視線をさらったのは、一人の青年の入場だった。
「マルコ・クロース卿ですわ!」
金糸のように輝く髪、碧眼に映る自信に満ちた光。
整った顔立ちと堂々たる立ち居振る舞いに、令嬢たちの吐息がもれる。
「まあ、なんて…」
「まるで物語の王子様のよう…」
その囁きは瞬く間に会場を包んだ。
だが、マルコは彼女らに一瞥すら与えなかった。
一直線に歩みを進め、やがて玉座のように場の中心に立つセレナのもとへ。
恭しくひざまずき、白い手袋を外すと、その手を取り上げ、セレナの左手に、優雅に口づけを落とした。
「この日を心待ちにしておりました、セレナ様」
華麗な所作に、場の一同は感嘆の息をついた。
拍手さえ起こりかけた――が、その瞬間。
広間を突き刺すような静寂が走った。
まるで時が止まったかのように、音楽が、笑い声が、消える。
重厚な扉が開き、そこに現れたのは黒髪の青年。
リオンハート子爵家の嫡男、エリオス・リオンハート。
放蕩息子と陰口を叩かれてきた男。
だがその日の彼の装いは、誰の目にも眩しく映った。
深紅の礼服に漆黒のマントをまとい、剣帯の金具が燦然と光を弾く。
立ち姿は、威風堂々――もはや「噂の放蕩者」とは似ても似つかなかった。
彼もまた、一直線にセレナのもとへ進む。
その歩みには一分の淀みもなく、まるでこの場の中心こそ自らの居場所だと言わんばかり。
そして彼は深々と腰を折り、右手を胸に当てて名乗った。
「リオンハート子爵家、嫡男、エリオス・リオンハートでございます。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
その低く響く声に、広間の空気が震える。
セレナの青い瞳が、大きく見開かれた。
「やあ、これはこれは」
先に口を開いたのはマルコだった。
白い歯を見せながら、余裕たっぷりの笑みを浮かべる。
「去年とはずいぶんと振る舞いが違うようで、驚いたよ」
会場の耳目が二人に集まる中、マルコはさらに一歩進み出ると、よく通る声で言葉を放った。
「去年の貴殿といったら……会場に入る前から酔っぱらって、女性という女性に絡んで、しまいには警備の騎士に追い出される始末。見ているこちらの方が恥ずかしくなったんだからね!」
高らかな笑い声が広間に響き渡る。
取り巻きの令息たちもそれに同調して笑いを漏らし、空気は一瞬にしてマルコの掌中にあるかのようだった。
だが、エリオスはにこやかな表情を崩さなかった。
ゆったりとした口調で、しかしその言葉には冷たい鋭さが滲んでいた。
「人は誰しも、様々な顔を持っている――ということです」
言葉を切り、静かに周囲へと視線をめぐらせる。
そして、ふとマルコを見据え、声を低めにしながらもはっきりと続けた。
「容姿端麗で気品に溢れた貴族令息が、その裏では、幾夜も逢瀬を重ねた女性を、使い物にならないと知るや……ゴミクズのように放り捨てる、という例もありますからね」
会場に微かなざわめきが広がった。
マルコの顔が、一瞬だけ引きつる。
そのわずかな変化を、セレナは鋭い眼差しで見逃さなかった。
「……ふん。舌がよく回るようになったじゃないか」
マルコは皮肉めいた言葉を吐き捨てると、すぐに微笑を取り戻し、余裕ある態度を崩さず会場の中央へと去っていった。
残されたエリオスは、まるで何事もなかったかのようにセレナへと向き直る。
深々と丁寧にお辞儀をしてから、今度は彼もまた会場内へと歩を進めていった。
――嵐の前触れのような空気を残して。




