第1話 信頼の裏切りと、異世界での再出発
――月明かりだけが差し込む、静かな夜。
世界のほとんどを征服し、『絶対王』と畏怖されたアルベルト・ヴァルディアは、油の灯りを落とした薄暗い天幕の中で、軍靴を脱ぎ、粗末な椅子に深く腰掛けていた。
遠征の最中とはいえ、戦場の喧騒はここには届かない。かすかに聞こえるのは、外で巡回する兵の足音と、風にたなびく旗の音だけ。
外は冷え込むが、天幕の中は暖かく、戦の緊張からわずかに解放される時間だった。
今日も血を流した。
だが明日で終わる――はずだった。
相手はフィオーレ神聖国。つい先月まで友好関係を築き、交易も盛んに行っていた隣国だ。それが、突如として同盟を破棄し、アルベルトの遠征軍の背後を急襲してきた。
いかに神聖な相手であろうとも歯向かうものには容赦しないのが、アルベルトが絶対王と呼ばれるゆえん。遠征を勝利で終えたのち、剣に塗られた血の乾かぬうちにフィオーレ神聖国の侵攻を開始した。
城門を閉ざし、最後の一兵まで抗戦する構えを見せる。だが補給線はすでに絶たれ、降伏は時間の問題。
今日中に交渉がまとまらなければ、明日の朝、総攻撃で首都ごと叩き潰す――それがアルベルトの決断だった。
天幕の外から、衛兵の声がした。
「閣下、ルシアン殿がお見えです」
アルベルトは、少し驚いたように片眉を上げた。
ルシアン・エリュシア。フィオーレ神聖国との交渉役を務め、少年の頃からアルベルトの右腕として仕えてきた男。
「この時間にか……通せ」
幕が上がり、銀鎧の上に外套を羽織ったルシアンが姿を現す。月光を背に、その表情は読み取りにくい。
「ルシアン、お前も休め。明日が山場だ」
「……そのことで、お話が」
アルベルトは、机の上の地図に視線を落としたまま軽く顎を動かした。
「聞こう」
「……この戦を、やめていただきたい」
短い沈黙が落ちる。
やがてアルベルトは、ゆっくりと椅子から立ち上がり、背を向けて隅に置かれたワインを取ろうとした。
「交渉は決裂したと聞いている。今さら何を――」
――シュッ。
背後で甲冑が擦れ、鋭い金属音が響いた。
アルベルトは即座に振り返り、反射的に掌を掲げる。彼が得意とする魔法。
「雷槍!」
……しかし、空気は何も反応しない。
次の瞬間、全身を重く締め付けるような感覚が襲った。まるで四肢に鉛が流し込まれたかのようだ。
「魔法が……封じられている?」
ルシアンの背後に、見知らぬ影が数人。フードをかぶったその者たちは、淡く光る魔法陣を天幕の四隅に展開していた。
「拘束結界……それに、体力を奪う呪詛までかけるとは」
「用意は周到に……閣下の教えです」
ルシアンは無感情に答える。
「裏切りは許さぬ……」
アルベルトは腰の短剣を抜き放ち、一気に間合いを詰めた。
剣と剣がぶつかり、火花が散る。
魔法が封じられていても、剣術なら負けるつもりはない。いや、これまで幾度も魔法抜きで死地をくぐり抜けてきた。
数合打ち合うごとに、ルシアンの呼吸が乱れる。
「本気か、ルシアン!」
「……ええ、お許しください」
アルベルトは振り下ろしの一撃で形勢を逆転させ、ルシアンを押し込む。
だが――刃が天幕の支柱に深く食い込み、動きが一瞬止まった。
「……しまっ――」
その隙を逃さず、ルシアンの剣が閃いた。
鋼の切っ先が腹を深々と貫き、灼けるような痛みが走る。
「ぐぬぅ……」
膝が崩れ、短剣が手から滑り落ちる。
視界の端で、魔法陣の光が揺らめき、音が遠のいていく。
最後に見えたのは、苦悩に歪むルシアンの顔だった。
「お許しください。神々がお望みなのです」
振り下ろされる止めの一撃。
闇が迫り――その奥から、異世界の声が響く。
「……そなたの力、我が世界に必要だ」
「あの忌々しい神々の野望を打ち砕くため、もう一度、生きよ――」
まぶしい光が、全てを飲み込んだ。
◇◇
耳の奥で、やけにうるさい笑い声と、グラスのぶつかる音が響く。
重たいまぶたをこじ開けると、目の前に揺れるランタンの灯りと、すすけた木の梁があった。
鼻をつく酒と香辛料の匂い。
ここは……酒場か。
「エリオスの坊っちゃん、もう閉店だよ!」
荒っぽいがどこか面倒見のいい声。どうやら彼女が店主のようだ。
「ったく、うちで潰れるなって何度言ったら……サラ、水持ってきてくれ」
「はーい」
軽やかな声が返り、看板娘サラが桶から汲んだ水を器に入れて運んでくる。
頬に冷たい水が無造作にぶっかけられる。
「……エリオス様、大丈夫ですか? あ、あの今日は本当にありがとうございました!」
「サラ! こんなやつに礼なんていいんだよ。どうせ幼馴染の前でかっこつけたかったからだけなんだから」
「で、でもマルクさん、エリオス様が助けにはいってくれなかったら、私今頃……」
「とにかく、おしゃべりしてる暇あるんなら、皿の一枚でも洗うんだね」
エリオス様……。
自分のことを呼ばれたのだと気づくまで、数秒かかった。
――いや、違う。俺はアルベルトだ。エリオスなんて名前じゃない。
入口の方で、重たい靴音が響く。
「……やっぱりここでしたか」
「まあ、ハロルドさんじゃありませんか? わざわざお屋敷からここまで?」
「サラか、元気そうでなにより。それよりもエリオス様よ……。リオンハート子爵家の嫡男がこのような醜態を毎日毎日さらすなんて……はぁ、お亡くなりになったお母様がご覧になられたら、どんなにお嘆きになることか……」
白髪混じりの背筋の伸びた老人は、リオンハート家の執事長、ハロルド・クロムウェル。
「ハロルドさん、とりあえず小言はお店を出てからにしましょ」
「あら、マリア! 毎日ご苦労様です」
「あはは……毎日、ね……」
ハロルドの後ろには、栗色の髪を後ろで束ねた若い侍女、マリア・エインズが眉をひそめて立っている。
「エリオス様」
マリアがじろりとエリオスを見下ろす。
「いいからいきますよ……」
「口でいってもきかんぞ、マリア」
ハロルドが低くため息をつく。
「どうせこうでもしなきゃ帰らん」
気づけば、ハロルドが片腕を肩に回し、もう片方にマリアが入り、二人がかりでエリオスを引き起こす。
「待て、俺は――」
言いかけて、違和感に気づいた。
声が少し低い。
手を見れば、節くれだった指と擦り切れた袖口。鎧でも軍服でもない、安物のシャツ。
「……どこだ、ここは」
「何を言ってるんです、エリオス様」
マリアが冷たい視線を寄こす。
「まだ酔ってるんだろう」
ハロルドが首を振る。
街灯代わりの松明が、石畳の路地を淡く照らす。夜風がやけに冷たい。
歩きながら、マリアが小声で「黒猫亭で酔い潰れるのは、これで3日連続」とぼやき、サラが入口から手を振って見送った。
エリオス――また、その名前だ。
二人の口ぶりからして、「エリオス」として生きているらしいと、気づいた。
(……俺は死んだはずだ。ルシアンに刺されて――)
脳裏に、あの夜の光景がよぎる。
腹を裂かれる感覚と、耳元で響いた「もう一度、生きよ」という声。
(まさか……いや、そんな馬鹿な)
だが、この景色も、この身体も、彼の知るものではない。
ひとまず口を閉じ、二人の歩みに合わせた。
この体の名前は、エリオス。
(そして、どうやら俺は――辺境の貧乏子爵家の、どうしようもない放蕩息子として生きているらしい)
翌朝。
強い光がまぶたの隙間から差し込んだ。
頭が割れるように痛む。
「……くそ、飲み過ぎた」
反射的に目を覆い、硬い寝台から身を起こす。見慣れぬ天井。だが今は驚く余裕もない。胃の奥が重く、喉が渇いて仕方がない。
ベッドから身を起こし、鏡台へ。自分の姿を覗き込む。さらさらの黒髪、すらりと伸びた鼻に切れ長の目。二十そこそこと思われる張りのある白い肌。しかし普段の不摂生からくる淀んだ顔つき。
やはりどこからどう見ても、別人である。
侍女のマリアが、盆に水差しと薬草茶をのせて入ってくる。
「お目覚めですか、エリオス様」
「……ああ」
渋い声が自分の口から出て、違和感がまた募る。
一息つく間もなく、マリアが淡々と告げる。
「旦那様がお呼びです。執務室へ」
「旦那様……はて?」
「もう! ほんと冗談はよしてください! 旦那様と言えば、リオンハート子爵、ギルバート・リオンハート卿に決まっているではないですか!」
なるほど。どうやら自分はリオンハートという名の貴族の子息らしい、と悟った。
執務室に通されると、中肉中背の中年の男性がエリオスの方へ鋭い視線を向けた。
痩せた頬に短く刈った黒髪。机の向こうから見据えるその瞳には、怒りも苛立ちもなく、ただ……空虚さが漂っていた。
「昨夜も黒猫亭か」
「……ええ」
「ほどほどにな。……以上だ」
それだけ。
叱責でもなく、諭すでもなく、ただ形だけの言葉。
(……期待なんて、欠片もないな)
二日酔いの頭を抱えつつ、廊下を抜け中庭に出る。
乾いた風が吹き、兵士たちの掛け声が響く。
鎧のきしむ音と木剣の打ち合う音。
「おはようございます、エリオス様!」
明るい声が飛ぶ。赤い髪を後ろでまとめた女性。
「ああ、おはよう。ところで名は?」
「はあ……やっぱり覚えてくださらないのですね。わたしは騎士団副団長、リアナ・クロフォードです! 今度こそちゃんと覚えてくださいね!」
日に焼けた頬と笑顔が印象的だ。
「……ああ、努力する」
曖昧に返すと、彼女の後ろで訓練していた兵や若い騎士たちが、ちらりとこちらを見やる。その視線は冷えきっていた。
そして、鍛錬場の端、鋭い眼光の男と目が合う。黒髪に鋼色の瞳、がっしりした体躯。
「あの人は騎士団長、ガレス・フォードさんです。さすかにガレスさんの名前を忘れると色々とヤバいですよ!」
ガレスの視線は、もはや冷ややかというより、露骨な軽蔑に近い。
(どうやら、このエリオスってやつは、よほど嫌われてるらしいな)
部屋へ戻り、椅子に腰を落とす。
昨夜の出来事と、この世界での自分の立場――少なくともざっくりと把握しなければならない。
そのためには、直接街を見て、空気を感じるのが手っ取り早い。
玄関に向かうと、執事長ハロルドが腕を組んで立ちはだかった。
「外出ですか? まさか4日連続で飲んだくれになるおつもりですか?」
「そうはならないつもりだ」
「昨日もそうおっしゃってたではありませんか……」
「いいからそこを通せ」
頑として退かぬ二人をみて、深いため息をついたマリアがが口を開く。
「私が同行いたします。目付として。……それならよろしいでしょう?」
渋い顔のハロルドも、しぶしぶ頷いた。
門を抜け、坂道を下ると、街が広がる。
石畳は所々割れ、舗装もまばら。家々の壁は剥がれた漆喰が雨風にさらされ、修繕の跡も目立つ。
露店には野菜や干し肉が並ぶが、量は少なく、値札はやけに高い。
路地裏では、痩せた子供が犬と食べ物を奪い合っている。
通りすがる人々は、よそ者を警戒するように目を逸らすか、関心を示さないかのどちらかだ。
(……裕福とは程遠い。領地の経済は相当やばいな)
市場通りの喧噪を抜け、人通りがまばらになった頃――
「……エリオス」
背後から呼びかけられ、振り向く。
薄暗い路地の入口に、背の高い青年が立っていた。
黒髪に灰色の瞳、片口角だけを上げる癖のある笑み。
「誰だ?」
「俺だよ。フェリオ・ダークウェル。あんた、マリア、サラとは幼い頃からよく一緒に遊んだ仲だろ。忘れちまったのか?」
マリアが可愛らしい顔を険しくして、エリオスとフェリオの間に割って入った。
「ちょっと、フェリオ! 今のあなたはただの幼馴染ではないでしょ! エリオス様に近づかないで!」
エリオスの腕を引く。しかしフェリオは立ち去る様子もなく彼らの背後にピタリとついた。
「相変わらずマリアはエリオスにべったりだな」
「あ、あ、当たり前でしょ! 侍女なんだから!」
「その割には3夜も連続してエリオスを黒猫亭まで迎えにくるなんて、ずいぶんと面倒見がいいじゃねえか。まるで本当の女房のように……」
「おい、フェリオとやら。くだらない話を吹き込むつもりなら消えよ。さもなくば斬り捨てるぞ」
エリオスの口調がこれまでになく重く、マリアとフェリオの二人の表情が青くなる。
「いや、まあそうだな。ちょっと耳に入れておいた方がいいネタがあってな」
「……またろくでもないことを吹き込むつもりでしょ」
マリアの声は低く、警戒の色が隠せない。
「エリオス様。ご存じかと思いますけど、フェリオは、赤の狼団の一員です。下っ端ですけど。だから信用しないでください」
「赤の狼団? ふざけた名前だな」
「おいおい、エリオス。おまえこそふざけた口を聞いてると、痛い目にあうぞ」
「ほう。赤の狼団とは貴族の子息ですら恐れぬ無法者集団ということか?」
あまりの歯に衣きせぬ物言いに、マリアの口元から思わず笑いが漏れる。フェリオは面食らった。
「……ま、まあ、簡単に言えばそういうことだ」
「盗み、恐喝、殺し……言うことを聞かないやつには容赦しない、街を仕切る悪党集団です」
マリアもエリオスに便乗するように、ずばりと言い放つ。フェリオは諦めたかのように、ため息をついて「まあ、そうだよ。俺たちは単なる悪党だ」と言った。
「小さいときは気の弱い少年だったあんたが、まさか悪党の一味に加わるとはね……。まさか、絶世の美女って噂のルチアとかいう副団長に一目惚れしちゃったとか」
「ち、ちげえよ! そもそもルチアさんは俺の手が届かないような人しか相手しないし……。仕方なかったんだよ。俺みたいに身寄りのない貧民がこの街で生きていくには、盗賊にでもなるしか道がないんだよ……」
エリオスは無表情のまま、視線をフェリオに移した。貧しい街とは思ったが、まさかここまで酷いとは……。
「早く用件を言え」
「ああ、今日はちょっとした忠告だ」
フェリオは手をひらひらと振り、わざと軽い調子で笑った。
「エリオス、お前に関係ある話だ。ここじゃ耳が多い。……ちょっと来いよ」
マリアが再び引き留めようとするが、エリオスはその手をそっと振りほどいた。
(この世界での自分を知る手がかりになるかもしれない)
そう考え、フェリオの方へ歩み寄る。
路地裏はひんやりと湿っており、腐った木箱と古い酒の匂いが漂っていた。
フェリオは奥まで進むと、振り返り、先ほどまでの薄笑いを消す。
灰色の瞳が、鋭く射抜くようにエリオスを見据えた。
「……お前、ちょっとまずいことになりそうだ」
静かな声が、湿った空気を切り裂くように響いた。
いよいよ数年ぶりの完全新作の連載スタートです!応援のほど、よろしくお願いいたします!




