目撃者ゼロオオオオ!
「きゃああああ!」
「うおっ!」
昼下がりの街中。背後から悲鳴が突き刺さり、おれは反射的に振り返った。
そして次の瞬間、まるで時が止まったかのように体が固まった。周囲の人間も同様に息を呑み、誰もが目を見開き、唯一動き続ける“それ”を凝視することしかできなかった。
男が包丁を振り下ろす、その様を――。
めった刺しだ。馬乗りになり、何度も何度も刃を突き立てる。そのたびに、刺されている男の手や足が魚のようにビクンと跳ねた。肉を裂く湿った音が響く。その執念じみた男の動きに、頭から足の先まですうっと冷えていくような感覚がした。
やがて、動かなくなった。刺したほうも、刺されたほうも。
男はゆっくりと立ち上がった。地面に落ちて踏まれた果実――おれはそれを見て、そう連想した。男もその死体を見下ろし、そう思っているような気がした。
男はふらつきながら、包丁をポケットに押し込もうとした。だが刃が引っかかって入らなかったらしく、シャツをまくり上げて腰の帯に無理やり挟み込んだ。
それから、服の乱れを直し始めた。……いや、あれで隠したつもりなのか。無理だ。この場には目撃者が山ほどいるのだ。あんなのでごまかせるはずがない。
「おい、お前!」
我に返ったのだろう。誰かが怒鳴り、ざわめきが広がった。スマートフォンを構える者もいる。おれは一瞬、「不謹慎な……」と思ったが、いや、あれでいい。逃げ道は完全にない。
男はちらと周囲を見渡し、ポケットに手を突っ込むと何かを取り出した――
「目撃者ゼロカードオオオォ!」
……なんだ? なんの真似だ?
いや、やはりいかれてるのだ。男はポケットから黒いカードを取り出すと、サッカーの審判のように高々と掲げ、狂気じみた声で叫んだ。
誰かが通報し、警察がすぐ来るだろう。その前に取り押さえるなら、おれも加勢してやってもいい。こんな場面はめったにない。もちろん、自分の安全が優先だが。
妙な興奮が込み上げ、おれは一歩踏み出した。
「きゃああ!」
「うおっ!」
「だ、大丈夫ですか?」
……え? これは、どういうことだ?
通行人たちが、さっき刺された被害者に慌てて駆け寄り、声をかけ始めた。まるで今になって事件に気づいたかのように。
そして、刺した男は背を向けて、堂々と歩き去ろうとしていた。
「あ、あの、すみません。あのー」
「えっ」
気づけば、おれは男を追いかけ、声をかけていた。男は肩をびくりと跳ねさせ、振り返った。
「あの、刺しましたよね?」
「えっ、えっ、あれ? え? へへへ……」
男は目を泳がせ、体をくねらせながら引きつった笑みを浮かべた。落ち着きのない、どこか子供じみた動きだ。もしかすると根暗なのかもしれない。人と話すのが苦手なタイプ。
「も、目撃者ゼロカアアアアドォ!」
「あ、それ、さっきのやつ」
「え、え、え、あれ? お、おっかしーなー……」
男は手元のカードを見つめ、ぶつぶつと呟いた。
「あの、そのカードってなんなんですか?」
「え、あ、うん、あ、あー……あんたさ、空気読めないとか言われない? へへへ」
「え?」
「うーん、なんかさあ、へへへ、きもいよね……へっへ、目撃者ゼロカードオオオォ!」
「だから、もう見ましたよ」
「あっれー?」
男はカードをぺしぺし叩き始めた。どこか幼いのは、動揺しているせいかと思ったが、おそらくもとからこうなのだろう。引きこもりかもしれない。髪は伸ばしっぱなしで脂っぽく、服は毛玉だらけだ。
「で、結局それ、なんなんですか?」
「え、いや、あの……拾ったんすけど。これ、なんか“目撃者をゼロにできる”みたいで……それで――」
男は視線を逸らし、しどろもどろに答えた。説明らしい説明にはなっていないが、意味は理解できた。
どうやらこのカードを見せた相手の記憶から『犯行の瞬間』を消すことができるらしい。
カードは黒地で、血のような赤い縁取り。厚みはキャッシュカードほど。中央には眼のような紋章があり、周囲には何かの呪文のような文様が刻まれている。
どういう仕組みかはわからないらしいが、確かに悪魔か宇宙人の落とし物と思わせる異質な雰囲気がある。
「あの、じゃあ、もう行くんで……言わないでよ?」
男はおどおどとそう言い、背を向けた。
「ああ……」
「ん、うっ!?」
おれは男の前に回り込み、シャツをめくって腰に挟まれた包丁を引き抜くと、そのまま白い腹に突き立てた。
男は「ひぎぅ」と間抜けな声を漏らし、後ずさりした。足がもつれて転び、腹を押さえてのたうち回った。嗚咽を上げながら、片方の手をこちらに伸ばす。何か言おうとしたのか口をパクパクと開いたが、おれは構わず刃を振るい続けた。
通行人の悲鳴が、遠くで木霊した。
「……も、目撃者ゼロカアアアド!」
……うまくいった。おれは事切れた男からカードを奪い取り、高く掲げた。
その瞬間、周囲の人々が石像のように固まった。
おれはその隙に死体から離れた。数秒後、「刺されてる!」と声が上がった。今しがた事件が起きたかのような調子で。
おれは包丁の柄をシャツで拭い、建物の隙間に放り込むと、静かにその場を離れた。
――こんなこと、本当にあるのか。いや、あるんだ。これはとんでもないものを手に入れてしまったぞ……。
家に帰ってからも興奮は収まらず、おれは笑い、叫び、床を転げ回った。
もう何も怖くない。人目を気にする必要もない。法律も、モラルも。そんなもの関係ない。おれは自由だ。なんだってできるのだ!
最初は軽い犯罪から始めた。万引き、痴漢、スリ。ただ、カメラに映るのは不安なので、まずは防犯カメラを壊すところから始めた。
どうやらこのカードは『目撃者』だけでなく、『被害者本人』にまで効くらしい。皆一様に「誰にやられたかわからない」と口を揃えるようだ。
そのうち、カメラを壊す作業が面倒になってきて、おれは人けのない公園や薄暗い路地など、確実にカメラのない場所を選び、通り魔のような犯行ばかりするようになった。背後から殴りかかってはカードを掲げるのだ。
「目撃者ゼロカード!」
もはや犯罪の内容はどうでもよかった。カードを掲げて叫ぶたび、世界が一瞬止まる――その感覚が何よりもたまらなくて、癖になるのだ。
おれはその快感にどっぷりと浸っていった。
「目撃者ぁぁ……ゼロオオオォ! ……ふう」
「あのー」
「えっ、はい」
「そのカードって、なんですか?」
ある日、突然背後から声をかけられて、おれは驚いた。振り向くと、地味な雰囲気の男が立っていた。
どうやら、この男にはカードが効かないらしい。だが、考えてみればおかしなことでもない。おれがそうだったように、例外がいるのだろう。人間なんて五万といるのだから。
どこか仲間に出会ったような喜びが込み上げたものの、それもすぐに消えた。こいつは厄介な存在だ。
「さっき、痴漢してましたよね?」
「え、いやいや、ははは……」
「でも、そのカードを掲げたら――」
「い、いやー、なんでもないっす。じゃ……うっ」
逃げようとしたおれの肩を男が乱暴に掴み、地面に引き倒した。
「へ、へへ、なにするんですか、やめてくださいよ……」
情けない声が出て、おれは自分でも少し驚いた。そしてその瞬間、優劣が決まったのだろう。男はおれに馬乗りになり、めちゃくちゃに殴りつけてきた。
拳の重みが頭に響き、視界が暗くなる――気づけば、カードは奪われていた。
あれから数週間が経った。深い喪失感は消えず、代わりに焦げついたような怒りだけが残った。時折それは激しく燃え盛る。だが、できることといえば、せいぜい叫んだり壁に物を投げつける程度。もう、あの万能感は戻ってこないのだと、狭いアパートの部屋で思い知らされるばかりだった。
「クソックソクソクソ……ん?」
インターホンが鳴った。無視してもノックは続き、帰る気配がない。おれは舌打ちして、仕方なくドアを開けた。
「どうも、警察の者です」
「えっ」
そこにはスーツ姿の男たちが立っていた。
「あ、ああ、苦情ですか? 最近ちょっと、声が大きかったかもですね……ははは……」
おれは場を和ませようと笑ってみせた。だが、連中はピクリとも表情を変えなかった。
「最近、この辺りで多発している放火事件について、ちょっとお話を伺いたいんですが」
「ほ、放火? それはやってない……あ、いや、ははは、し、知りません!」
「まあ、詳しい話は署のほうで」
有無を言わせぬ調子で腕を掴まれ、おれはそのままパトカーに押し込まれた。連中はすでに、おれを犯人だと決めつけているようだった。
取調室では何日も尋問が続いた。暴力と怒号が繰り返され、それは日に日に激しさを増していった。
それでも、おれは無実を訴え続けた。放火はやっていないというのは事実だ。他のやつ、もしかしたらおれのカードを奪った男の仕業かもしれない。
おれの他の犯罪を白状させたいのかとも思ったが、あれらは誰の記憶にも残っていないはずだ。
「お前がやったんだろ! いい加減言えよ!」
「だから……違うんです……なんで、なんで僕なんですか……」
「お前は社会に恨みを抱いてるからなあ。何もかも燃やしたくなったんだろ? なあ、そうだろ!」
「お前のアパートの住人が言ってたぞ。普段から叫んでたらしいな」
「それは、つい……」
「それに、お前、ずっと無職らしいじゃないか」
「そんなの……関係ないじゃないですか……」
これは、あのカードを使った代償なのだろうか。刑事たちはおれを犯人と決めつけて動かない。あるいは、事件の目撃者が見つからず、苛立っているのかもしれない。
「あ、そうだ……目撃者は? 僕がやったって証言する人がいるんですか?」
おれはそう訊ねた。すると刑事の口元がにやりと歪んだ。
「いねえよ。一人もな。だが、やってないと証言するやつもいない」
「なあ、もういいだろ。さあ、言え、言うんだ! 『私がやりました』って言え!」
目撃者はいない。
おれを見てくれる人も、ここには誰一人いない……。




