表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/13

3.

「母親が亡くなったのは、息子が5つの時でした。公的には心筋梗塞で亡くなったことになっていますが、当時、私が仕事で関わっていた、ある危険な組織に殺されたのです。敵は私が妻を溺愛していることを知っていた。だから狙われました。私のせいで妻は亡くなりました。けれど私は立ち止まるつもりはありませんでした。私は息子を他人に預けて、5年かけてその組織を壊滅させました。

 大仕事を終えて時間の余裕ができて、再び息子と一緒に暮らせるようになりました。私はとても嬉しかった。あの子もとても喜んでくれました。二人きりの家族です。あの子には私だけ、私にもあの子だけ。言葉にはしませんでしたが、私たちの間には強い絆がありました。

 私は息子のためなら命だって惜しくなかったし、できることは何でもしてやるつもりでした。けれど甘えさせはしませんでした。自分の後継者として厳しく育てること、それが息子のためだと信じていました。息子も常にそれに応えてくれました。成績はトップクラスで、私が勧めたボランティア活動や習い事を嫌がったことも一度もありません。

 けれど、あの子は私よりも妻に似たのでしょう。おっとりと物静かな性格で、音楽が好きでした。時間を見つけては、ピアノやギターを弾いてばかりいました。趣味を持つのは悪いことではありませんから、特に私も反対はしませんでした。

 けれど大学受験が迫ったある時、音楽関連の大学か専門学校に行きたいと相談されました。何かの冗談かと思いましたが、息子のまなざしは真剣でした。自分の想いをゆっくりと、だけど、どこか熱っぽく語りました。

 私は許しませんでした。音楽家は私の跡取りになれる職業ではありません。私が折れないことを知ると、息子はうなだれて「わかった」とだけ言いました。そして私の母校である大学の法学部に現役合格しました。

 その頃から私は人脈を築かせるために、息子をあちこちのパーティや集まりに連れ歩きました。息子の表情はどんどん暗くなっていき、時々、何か言いたそうに私を見ることもありました。

 えぇ、私は気づいていたんです。息子にとって私の後を継ぐことは重荷であり、楽しいものではないことに。でも気づかない振りをしました。そのうち慣れるだろうと思ったんです。

 ある日のことです。私は息子に呼び出されました。指定されたのは、繁華街の片隅の雑居ビルでした。ごちゃごちゃと入り組んだ細い道を抜けてたどり着き、古ぼけたエレベーターに乗りました。

 ドアが開くとそこは音楽スタジオでした。

 私は明らかに場違いでした。他の客や受付に奇妙な目で見られながら、息子のいるブースに向かいました。ノックもせずドアを開けると、息子がアコースティックギターを肩からかけて立っていました。

「来てくれてありがとう」息子は嬉しそうに笑いました。

 防音のためか部屋には窓がなく、テーブルの上には音楽機材らしきものと、その横に息子が愛用しているノートPCが置かれていました。色褪せたソファに座るように勧められ、仕方なく腰かけました。正面に小さなステージのような段があり息子は慣れた様子でそこに立ちました。

「よく来るのか」

 そう聞くと、わずかなためらいの後「週に二度くらい」と息子は答えました。それからもう一度「来てくれてありがとう」と言いました。

 ステージの上で息子は目を閉じました。すぅっと深く息を吸う音がして、目を開けた時には顔つきが一変していました。いつもの穏やかで優しいあの子はどこかに消えていました。なんと言えばいいのか……神秘的な表情でした。目はどこか遠い世界をさまよい、唇が笑っているとも苦しんでいるとも、どちらにもとれるような形で開かれました。

 次の瞬間、耳がぴりっとしびれました。同時に心臓へと震えが伝わり、それが息子の声とギターの音のせいだと気づくのに数秒かかりきました。息子の指先は素早くギターの上をめぐり、透き通る歌声がスタジオに響き渡りました。

 私は音楽には素人です。でも息子の奏でる音と声は美しく、引き込まれる何かがありました。優しく包み込まれるというよりは、内側に入り込んでくるような音でした。聞いていると胸の底に眠る何かを揺さぶられ、一瞬、不安になり、それからもっと揺さぶられたいと願うような、そんな音でした。

 ギターが最後の旋律を鳴らし終え、スタジオがしんと静まり返りました。息子は目を閉じ、ゆっくりと開きました。そこにはいつもの息子がいて、問いかけるように私を見つめました。私は言葉が出ませんでした。

 予想外だったのです。

 こんな場所に呼び出されたのだから、息子の音楽を聴かされることは何となく分かっていました。でもまさか、これほどの才能だとは思いもしなかったのです。

 天才、という言葉が頭に浮かび、同時に恐れと焦りが心をかきむしりました。

 私の交友関係には何人かの天才がいますが、彼らにとって才能はどうしようもない業です。歴史上の偉人たちを見てもそれは明らかです。過剰な才能はあふれだし、時として、器を壊し周囲にも影響を与えます。私は息子の音楽にその危うさを感じました。

 息子はおずおずと言いました。

「ギターを続けていたこと、ずっと内緒にしていてごめん」

 私は我に返り、必死で冷静さを装いました。

「別に趣味を持つのは悪いことじゃない」

「実はネットに曲を上げていたんだけど」言いづらそうに息子はつぶやきました。私の険しい顔から視線をそらし、もちろん匿名でだよ、と言い添えてだまりこみます。

 嫌な予感がしました。話の先を聞きたくありませんでした。けれど、先延ばしにしても仕方ありません。

「それで?」と促すと、意を決したように口を開きました。

「いくつかの音楽事務所からスカウトの連絡がきたんだ」

「スカウト?まさかプロにでもなるつもりか?」

「もし、なれるなら」

 頭にかっと血がのぼりました。

「恥知らずなことをするな!その程度のギターと歌でプロになどなれるか、うぬぼれるな!」

 初めて息子を怒鳴りました。

「帰るぞ」

 息子は悲し気な顔をして動こうとしませんでした。私はステージまで行き、息子からギターを奪い床にたたきつけました。弦が鈍い不協和音をたてました。慌ててギターを拾おうとする息子の腕をつかみスタジオを出て、タクシーに乗りました。私たちはタクシーの中で一言も口をききませんでした。

 家に着くと息子は自分の部屋に行き、私は書斎でウィスキーを飲みました。高ぶった感情を強い酒でなだめようとしたのです。

 夜が更け、酒で意識が濁っても眠りは訪れませんでした。私は息子を遠くに感じました。あの子と私の間に音楽という深い溝があり、2度と同じ大地には立てない、そんな不安に捕らわれました。音楽が息子を奪った、息子の才能に裏切られた、そんな気がしていたのです。

 でも息子はギターを奪われた時も、腕を引っ張られた時も抵抗らしい抵抗をしませんでした。夜明け頃、私の愚かな心は、そのことにかすかな安堵を覚え眠りにつきました。

 ……本当に愚かでした。こうして話すのが苦痛なほどです。子供の才能を祝福すべきだったのに、凝り固まった私はまだあの子を縛ろうとしていたのですから。

 その日、仕事から帰ると息子はいませんでした。テーブルの上には今後の人生を私の子供としてではなく、一人の人間として生きたい、と書置きがありました。その時、私は昨日が息子の20歳の誕生日だったことに気づきました」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ