【未帆総合・未帆探究】第一講:純愛の責任の行方は何処に?
※興味のある方は、ぜひ自作を!
今回は記念すべき初回ということもあり、筆者の(実質)処女作である『主人公鈍感』の最終話から議題を切り取った。
場面設定は三月、卒業式の一週間後。トラウマに打ち勝とうとした未帆が、亮平へ改めて恋を証明する場面である。
今回の探究対象になる台詞は、次のようなものだ。
「キュンって、しちゃった。責任、取ってくれるよね」
まず、この未帆が発したセリフを分解してみよう。
『キュンとした』は何かに心が突き動かされた状態を口語的に伝えたものであり、(直接言葉にするのはいささか冗長ではあるが)亮平への率直な愛情が浮き出ている。『何に』の部分は文脈判断するしかないが、この物語中だと一年間における亮平の行動全体を指しているものと思われる。この一フレーズは、一目見た雰囲気や顔立ちで釘付けになった衝動的な心の揺れでなく、長期間熟成された上に成立した包括的で温暖な好意の表れだろう。
『~してしまった』は完了の意で、通常はマイナスな事柄に当てはめて使用されるのであるが、告白文に否定的な調味料を混ぜ込む輩が何処にいるだろうか? 罰ゲームで強制的にさせられたのであれば別であるが。
次に考えられるのは、自身の行為に装飾を加える目的だ。ただの能動態過去形では印象付けに弱いと見て、語尾を故意に変化させることで更なる注目を引きつけようとしたのか。単独で捉えると、場面(未帆がブランクを経て亮平と再会した)の流れも相まって適切な選択肢に見える。
いや、それでは不自然極まりない。『自身の行為を装飾』する目的なのであれば、動詞の動作主は未帆に決定するはず。例文を挙げると、『今日は宿題をサボっちゃった』のように、語り手が積極的に出現しなくてはいけないのだ。
『キュンとする』の動詞の主体は、辞書上では未帆だ。まさか亮平の心を透かして予知しているのではないだろう。
だがしかし、これは日本語特有の擬似自動詞である。『キュンとする』行為そのものは、情緒豊かな恋半ばの少女が主語だが、決して独りでは達成し得ない行為でもある。空虚な時間の狭間に放り出されて、突然人がしみじみと心を濡らすだろうか。温かさが身に染みるだろうか。答えは、いずれもノーである。
英語を勉強したことがあれば、感情系はどう表現するかを知っていることだろう。『moved』『surprised』『satisfied』……。これらの動詞たちは、皆受け身の形を取る。自動詞にはならない。何か『他人』を必要とするからだ。新たなモノに触れなければ、驚きを覚えることはない。一切合切の仇事をゴミ箱へ投げ出させるモノに出会わなければ、涙が自然と零れることはない。自己完結が出来ない動詞なのである。
以上のことを鑑みると、完了の形を取ってはいるが型にはまらない、掴みどころのない文章になっているようだ。この不思議を、次文で解明することにしよう。
『責任、取ってくれるよね』。ここでピンと来た方が多いかもしれない。先ほどの完了形の皮を被ったものは、受け身(被害とも見なせるが、語感が悪い)であった。『キュンと』したのが未帆で、させたのが亮平。これで、主述関係と使役主を捕捉できた。
この『責任』は、本文中の表現をそのまま引用するならば『キュンとさせた』責任であるし、言い換えれば『私を亮平に惚れさせた』責任である。
ここで、今回の本題に入る。
『責任を取れ、は自分勝手な言い分ではないか?』
亮平の雄姿と優しさ(具体例は割愛する)があった故の結果とはいえど、愛しさを抱いて突っ込んでいったのは未帆の方だ。業務用冷凍庫でフリーズしていた亮平に、責任の在処を追及するのは理に反している。こう言っては議論を破壊しかねないが、自分で始めた物語は自分で後拭いをしろ、という心無いヤジが降ってきてもおかしくない。……そういう文脈で無いのは暗黙の了解としておこう。
焦点になるのは、『未帆の一途な純愛の原因は亮平に帰結するのか否か』である。字面だけでは、到底肯定するに足る要素が存在するとは思えない。
未帆本体の性格や気質はまた別の探究機会に回しておくとして、未帆と亮平が関わった主な出来事を記す。
・入学直後(ただしこの段階は作者の描写が不安定なため確定しない)
・大運動会(影響小)
・修学旅行
・夏祭り
・冬休みのアレコレ
・卒業一週間前から最終話まで
どの場面においても、亮平から未帆に直接心を鷲掴みにした形跡は見当たらない。庇護の欠片を見せる事は幾回もあれ、愛情の塊を贈ることは無かった。印象操作で欺きの像を投影する試みも、年間を通して確認できない。逆は山盛りの食べきれないライスほどあるのだが……。
恋愛というチャート上のやり取りを追跡するに、未帆から亮平への一方通行規制がかかっているのではないかと勘違いするほど発信元が片方に偏っている。源となり得る地点は二つだけであり、一つは未帆、他方は亮平である。
ただ、これは余りにも外見重視ではなかろうか。神視点からの日常生活では未帆が肥大して捉えられるのであって、亮平が関与していない(ここでの関与は積極に限る、消極ではない)証拠は何処にもない。
そもそも、全く返事が期待できない相手に、いくら天下の幸福請負人の未帆でも無限に延びる包括愛を持ち続けられるとは思えない。小説外の世界に住む我々(筆者含む)はしばしば小説内のキャラクター、特に主人公や正ヒロインは特殊素材の合金か何か、物理法則の通用しない特異な次元に日々を綴っていると思いがちだが、彼らも同じ人間に変わりはない。未帆であっても、一般常識とやらは持ち合わせている。石像に一生届かないラブレターを送り続けるほど楽観的でもなければ慈愛心でもない。
時々、未帆には発言義務を放棄する行動が見受けられる。言行不一致で度々亮平に本人が頼んでもいない積乱雲を持ち込みもした。
だが、殊『愛情』という領域で、未帆は群を抜いて秀でた五感を持っている。欲望と無知の地獄の釜ミックススープを跳ね除け、真の眼で物事を凝視し、誠に辿り着ける能力があのだ。冗談めかした表現でも、無意味で独りよがりの求愛行動は決して行わない。彼女の一挙手一投足には、彼女自身と『亮平』への含蓄がある。
振り返ってみると、亮平も亮平で冷凍保存されている自己の精神を自覚している。暴力と血の嵐から未帆や澪を遠ざけようとしたが為に自身をかなぐり捨てていたのであり、根っからの鈍感ではありつつも天然ではない。
作中、常に未帆と亮平は両想いであった。具現化こそ最後にもつれ込んだが、潜在的には既に恋が成就していた。外れそうになったレールを未帆が引き留めたハイライトがあったにせよ、元の道筋は最初から一本だったのだ。
そうなると、お互いの想いは重なっていたはずなのに、未帆からすれば亮平がアプローチしてこなかったことになる。もどかしく、つれない。当の亮平はそのことを素で認知していない。責任を取ってほしい、という言葉がチョイスされたのも非論理的だとは言えないだろう。
何気ないワンフレーズに、生活全体を過ごしてのヒロインの要旨がこれでもかと含まれている。特に未帆は、全て数え上げようとすると紙が何枚あっても足りなくなる。掘れば掘るほど味が出る、これも自作小説を探究する魅力の一つなのだろう。