霧になろうとした者
科学技術の発展に伴い、犯罪の検挙率が向上したネービア王国。そんな国で、警察官になったばかりのディナンは憂鬱そうに呟いた。
「昨日も千人超え、か」
手元にある資料を見つめていると、不意に背中を叩かれた。速くなった鼓動を落ち着かせてから、ディナンは振り向く。
「やめてくださいっていつも言ってますよね!」
「いやあ、悪い悪い」
へらへらと笑うのはイリヤ。ディナンの指導係で、先輩にあたる人だ。
同じように笑いながら、ディナンはそっと背中をさすった。まだ痛い。
悪気がなければ何をやっても許されると思っているイリヤのことが、ディナンは心底嫌いだった。しかし、彼の豪胆さを好む人は一定数いて、口にはできない。
「ほら、そろそろパトロールに行くぞ」
「了解です」
貼り付けた笑みを浮かべ、イリヤとともに外に出る。霧が日の光を隠し、あたりは薄暗い。都市部でも霧が出るのは珍しく、加えて、技術の向上により生活が充実しているため移住してくる人が後を立たず、ネービア王国は『光なき光の都』と呼ばれている。
しかし——光あるところに闇はある。
ここは事故死・自殺が、異常なほど多いのだ。
「えー、今現在の自殺者は百十四人、事故死は⋯⋯」
イリヤの説明を、ぼんやりと聞く。感覚が麻痺してしまったようで、驚きはあまりない。ほかの人も似たようなものだ。
いつものごとく、なんの発見もなく終わろうとしていたとき、会議室の扉が勢いよく開いた。
「共通点、見つかりました!」
そう大声で言ったのは、科学捜査班の女性だ。
これを見てください、と数枚の写真を見せる。
「先週から稼働させた写真機に、死亡者の友人や家族が何人も写っているんです」
写真機というのは、一定時間ごとに自動で写真を撮る機械のことだ。ネービア王国でしか生産が許されていない、重大な国家機密である。
写真には、見たことのある人物が緊張した表情で細道に入る瞬間が収められていた。今の人は夫が自殺し、遺体を見て泣き喚いた女性だ。知っている人はほかにもいて、会議室は静かになった。
「つまり⋯⋯他殺か」
イリヤが言うと、女性は「その可能性も、なきにしもあらずですね」と歯切れ悪く応えた。
「それで、この細道の先には『魔法使い』がいるそうで⋯⋯。魔法使いというのが裏社会での呼び名なのか、比喩なのかは不明です」
裏社会が関わってくると、調査はやりにくいだろう。そのことに気づいて、ディナンは小さくため息をついた。だが逆にイリヤは燃え上がったようで、勢いよく立ち上がった。
「ここでもたもたしていたら、死者はさらに増える。早速今から突撃するぞ、ディナン」
「え、まだ情報不足で危険では?」
「証拠は充分だろ?まあ、少々の力は使うかもしれないが」
不安しかないディナンだが、拒否権などなかった。
舗装された道を、蒸気自動車で駆ける。細道からは徒歩である。幾つか空き家を通り過ぎると、魔法使いがいるという店があった。看板を見上げる。
「『ミスティリア』⋯⋯確か神秘って意味だっけ」
まさに魔法使いという感じである。
木製の扉を開けると、カランコロンと涼やかな音がして奥から黒いフードを被った小柄な人物が現れた。
「いらっしゃいませ」
女性の声だ。しかも若そうである。
イリヤは、「警察だ。ちょっと話を聞かせてもらおう」と怒気を含んだ声で言った。すると魔法使いは、「どうしましたか」と首を傾げた。
「最近、この人が店に来ただろ?」
写真を突き出され、魔法使いはフードをずらす。綺麗な顔立ちだ。なぜか既視感を覚えた。
「ああ、この方ですか。悩みがあってこちらを訪れたそうです」
「で、魔法使いさんは何て言ってあげたんだ?」
「勇気こそが晴天への道だと」
「なるほどなぁ、そうやって殺人に協力したわけだ」
「殺人とは?」
イリヤは鼻を鳴らし、机に写真を叩きつけた。
「白々しいな⋯⋯これは偶然か?」
魔法使いはそれをちらと一瞥し、即答した。
「偶然でしょう。もっと明確な証拠はないのですか?」
あるわけがない。単なる憶測だけで突撃しているのだから。沈黙したイリヤに、「業務妨害で訴えますよ」と追い討ちがかかる。
「舐めやがって⋯⋯!」
イリヤはキレたフリをして机を叩いた。恫喝めいたことをして、自白させようという魂胆か。魔法使いは驚いたように身を引いた。落ち着かせるためか、左手首の脈に触れている。先程も感じた、既視感。この癖を持つ人を、ディナンは知っている。
いやでもまさか、そんなわけない。行方不明になった彼女が、こんなところにいるはずがない。そう思いながらも、気づけばディナンはイリヤの腕を掴んでいた。
「なんだよディナン!」
「っいえ、あの、お、怯えてるじゃないですか」
狼狽えながら、魔法使いを見つめる。不思議と彼女と目が合った気がした。
「ディナン⋯⋯」
魔法使いは苦しそうに名を鸚鵡返しする。彼女も自分のことを知っている?尋ねようとしたとき、イリヤの大声が脳に響いた。
「お前なぁ、なんだよ?邪魔するな!」
肩を強く押されて、よろめく。責め立てる声が五月蝿くて、思わず耳に手を当てた。この後に続く言葉を、ディナンは知っている。最後に勝つのは暴力なんだよ。そうしたらふざけた態度も取れなくなる。彼がよく言う言葉だ。
「⋯⋯すみません」
本当に言いたいことはこんな台詞ではないのに。ずっとこのやり方に不満を抱きながら黙認してきたが、彼女に似た魔法使いが怯える姿を見たくはなかった。ただそれは私情でしかなく、うまく説明できるわけもない。故にディナンは黙る。
「⋯⋯お引き取りを。客ではないのなら帰ってください」
イリヤとディナンが話しているうちに、魔法使いは冷静さを取り戻していた。イリヤは舌打ちをして足音荒く外に出る。そのあとを追おうとしたところで、魔法使いの声が聞こえた。
「久しぶり、ディナン。それからありがとう」
「!?」
振り返ると魔法使いはフードを下ろしていた。銀色の髪が、はらりと広がる。
ああ、やはり、彼女は。
「アーミス⋯⋯?」
******
八年前。
両親が死に、その子供は行方知れず、という事件が起きた。巷では幼女趣味の犯人に攫われたのではないかと囁かれていたが、死体に不審な点はなく、警察は自殺と断定。
そのとき行方不明となった子供が、アーミスだった。
「⋯⋯」
過去の調査報告書を見返し、遠い記憶を呼び起こす。
アーミスとディナンは、友人だった。だから彼女が行方不明と知ったとき、ディナンはひどく取り乱したものだ。
成長してから気づいたが、きっとあの頃の自分は彼女に恋心を抱いていたのだと思う。しかし、今はどうだろう?少なくとも警察官としてのディナンは、素直に喜ぶことができない。
なぜならアーミスは未だ行方不明のままと、社会的にはなっているからだ。警察署に行けば保護もしてもらえるにも関わらず、怪しい仕事をしている。それはつまり、薄暗い何かがあるということで。
ディナンは知らず知らずのうちに、報告書を強く握りしめていた。
「どうしたんだよディナン」
「っ先輩」
考えこんでいたディナンに、イリヤが声をかけた。そっと彼の機嫌を伺うと、ケロリとしていた。怒鳴られたのは昨日のことだが、普通に話せるのはありがたい。握りしめていた拳をほどく。
ディナンはさりげなく報告書を隠そうとする。しかし、目ざといイリヤに取り上げられてしまった。
「これって、結構前の事件だよな。⋯⋯ん、お前この行方不明の娘の知り合いだったのか。名前が載ってるな」
「ええ、実は」
なんでもないふうに応えつつも、気が気ではなかった。もしイリヤが、魔法使いの正体に気づいてしまったら⋯⋯と案じたところで、警察官ならば真実を言うべきだとも思った。
自分は彼女をどうしたいのだろう。それが、分からない。
「もしやディナン、アーミスって子が好きだった?」
その質問にディナンは、ぼんやりしていたからだろう、つい本音を漏らしてしまった。
「はい」
気づいたときには遅く、目の前にはニヤニヤ笑うイリヤの顔があった。
「ほうほう、恋か。確かにこの写真の顔もかわいいしな」
「え、いや、その⋯⋯」
慌てていると、あろうことか彼は報告書を見せびらかしながら大声で叫び出した。
「ディナンはこういう系の女性が好きらしいぞ!」
「!?ちょっと何言ってるんです!」
同僚からの視線が痛い。腹が立つのは、イリヤ含めこの状況を楽しんでいる人がいることだ。ディナンの気持ちなど、少しも考えずに。
「——いい加減にしてください!」
たまらず、声を荒げる。イリヤを睨みつけ、報告書を奪い返した。ちょうど写真のところが破れてしまい、無性に悲しくなる。
ディナンは背を向け、その場を離れた。
「ちょっとしたいじりだってのに、マジギレすんなよー」
イリヤの呟きだけが、耳に残った。それを振り払おうと屋上へ上がる。
「⋯⋯あ、報告書直さなきゃなぁ」
不安定に揺れる紙を持ち直すと、高い空を仰ぐ。また霧が出ていた。光を隠す霧。この仄暗さが、今は心地よい。目を閉じる。
「元気がないですね」
不意に聞こえた、澄んだ声。左を向くと、アーミスがそこにはいた。
いつの間に、というかどうやってここに来たのだろう?やはりアーミスは、
「⋯⋯本当に魔法使い?」
すると彼女はふふふと笑う。
「改めてゆっくり話したいと思って。聞きたいことも、あるでしょうし」
「うん⋯⋯。八年前の事件からずっと何をしてたの?」
初めから遠慮のない質問で悪いかなと思ったが、ずっと気になっていたのだ。
じっくり間を置いてから、アーミスが話し始める。
「⋯⋯そうですね、まずはあの事件について話します。あの人たちの死は自殺となっていますが、本当は殺人です」
あの人たち、という呼び方に、憎しみを感じた。家族関係は良さそうに見えていたが、実は違ったのだろうか。
「あの人たちは完璧主義者で、私にもそれを強いていました。耐えるしかなかった私の代わりに、彼らを殺してくれた人がいます。それが、先代の魔法使いです」
「先代の、魔法使い⋯⋯。つまりアーミスはその人から魔法を教わったんだね」
アーミスはこくりと頷く。彼女の話は簡潔にまとまっていて、しかも淡々と言うから、まるで第三者の過去を聞いているようだった。⋯⋯いや、アーミスにとってはもう他人事なのだろう。彼女は人間として生きることを捨てたのだから。そのことに、一抹の寂しさを感じつつも、話を促す。
「苦しむ人を助けたいと思い、この仕事を継ぎました。あのとき私が救われたように」
「魔法を使って?」
「はい。⋯⋯魔法のこと、すぐには信じられませんよね」
そうでもない。ありえないことが起きすぎている上に、アーミスが言っているのだ。自然と信じられる。
「それにしても、魔法を使えば写真機とか欺けるんじゃないの?」
素朴な疑問だ。魔法があれば、完全犯罪など容易いことだと思うのだが。
アーミスは首を横に振る。曰く、魔法と科学は相性が悪く、外部からだと難しいらしい。それに彼女は元が人間だからか、『隠蔽』と『修正』しか完璧に使いこなせないのだとか。
魔法に興味はあるので、早速破れた報告書を直してもらった。あっという間に裂け目が消え、感嘆する。
「はい、どうぞ」
ありがとうと言いながらそれに手を伸ばす。しかし、アーミスは報告書から手を離そうとしない。
「どうした?また破れるよ」
「ねえ、ディナン」
アーミスはひどく真面目な顔をしていた。それに釣られ、ディナンは笑顔を消した。
「破れた写真は直せます。それと同じように私は、あなたと和解したい」
「和解も何も、そもそも喧嘩なんてしてないでしょ?」
告げられた言葉には応えず、ディナンは誤魔化した。
彼女は犯罪者だ。本来ならばここで逮捕しなくてはならない人で、深入りすればするほど別れがたくなる。それが分かっているから、「もちろん」とは言えない。
「⋯⋯そう、あなたの判断は正しいです。警察官としては。でもディナンは私を捕まえられない」
哀愁の漂う笑み。確信めいた口調。頭がくらくらしてきた。
アーミスはひらひらと手を振ると、霧に紛れて姿を消した。逮捕しようと思えばできた距離にいたが、心がそれを拒んでいた。
時間がかなり過ぎたので、静かに机に戻る。またもやイリヤと顔を合わせづらくなってしまった。
「ディナン」
「はい」
呼ばれると分かっていた。深く、お辞儀をする。
「申し訳ありませんでした」
「別に気にしてない」
そういう割には不機嫌そうである。もとより感情の起伏が激しい人で、扱いが難しい。今だってそうだ。急に笑顔になると、「いいこと思いついたんだが」と言い出した。
「明確な証拠なしで、あいつを取り調べる方法がある」
「⋯⋯なんですか?」
「別の案件で連れてきたらいい。例えばだな、行方不明者に似ているとかで」
ディナンは己を恨んだ。彼にそのことを気づかせたのは自分だからだ。家で報告書を読むべきだったと後悔するも遅い。イリヤは生き生きしている。
「まあ、どうしても罪を認めないというのなら、自白した
ことにするか」
「それって⋯⋯報告書に嘘の証言を!?」
驚愕する。今回に限っては確かにアーミスが犯人だが、警察官がそれでいいのか。それにもう一つ。
「⋯⋯今までにその手、使ったことあるんですか?」
恐る恐る尋ねると、イリヤは冷笑を浮かべる。
「考えてみろよ。明らかに犯人なのに逮捕できないとか、被害者が報われないだろ」
つまりやったことがあると。そういうことか。
「でもそれだと冤罪も⋯⋯」
「確かに、その危険はある。でもな、相手が嘘を言ってるかどうかって、大体分かるもんなんだよ、俺くらいになると」
「⋯⋯そうですか」
「おい、ここは笑うとこだぞ」
イリヤが笑いながら突っ込むので、いつものように合わせて笑ってやった。そうか、ここは笑うところだったのか。彼のツボが全く分からないし、そもそもこんな内容の会話で笑いを入れてくるなんて不謹慎ではないか。出そうになるこの気持ちは、咳として吐き出した。
「真面目な話をするとな、不充分な証拠だろうがその全てを説明できる奴がいたら、犯人に違いないと思わないか?のろのろ証拠集めして、犯人に逃げられたら被害者に顔が立たない」
全ては被害者のため。ある意味では正義だ。ある意味では優しい。
しかしこれはあんまりだ。豪胆の度を超えている。そう言いたいが、イリヤへの怯えが、ディナンを萎縮させる。
結局いつものように、口は閉ざされたままだ。ここ最近怒らせてばかりだから、いつ大爆発が起きるか分からない。
「明日には全て解決だ。よかったなディナン。こんな優秀な先輩の元に来れて」
ははは、と乾いた笑いを漏らしつつ、仕方ないと自分に言い聞かせた。如何なる理由があろうとも、アーミスは殺人に加担した。それは違法で、倫理的にもアウトだ。イリヤの方法は悪いが、結果的には彼が正しい。
理解している。だけれどもディナンの理性を覆う霧は、晴れることはなかった。
******
「また来たのですか」
呆れるアーミスに、不敵な笑みを見せるイリヤ。
「今日は別案件でな。お前が行方不明者に似ているから、ちょーっと話を聞きたいんだよ」
言うや否や、アーミスの腕を掴む。
「どこへ行こうと?」
「お前みたいなのが世話になる取り調べ室だ」
そしてそこに入れば最後、問答無用で牢に入れられる。いや、彼女の場合は死刑だってあり得る。
「人助けの殺人加担でも、こっちは容赦しないからな」
イリヤの発言に、目が丸くなる。彼は、知っていた。
「先輩、どうしてそれを?」
「聞き込みしてったら、ガイシャが物理的にも精神的にも暴力を振るっていたことが分かった」
「⋯⋯気づくのが遅すぎでは?本当、警察は頼りない」
ため息をつくアーミス。イリヤの手に力が入る。
「っ!痛い!」
「そういう話はあとで聞いてやるからな」
叫ぶアーミスに構わず、無理やり連行しようとする。その拍子に机の角にぶつかり、彼女の顔は大きく歪んだ。
「——!」
そのときのディナンには、彼女が犯罪者であることなど頭の片隅にもなかった。ただひたすらに、アーミスを救いたい、その一心だった。
「放せ!」
背後からイリヤを羽交締めする。もつれ合って、棚の上に置いてあった雑貨をなぎ倒してしまった。ディナンの前に落ちる万年筆。それの鋭い切先がキラと光って、その瞬間、何かが弾けた。
善悪だとか、過去だとか、そんなことはどうでもいい。自分の願いは、ただ、何ものにも彼女が脅かされないこと。それだけだ。
難しく考える必要なんて、ないのだ。
ディナンは万年筆を引っ掴む。そしてイリヤに向けた。
「なっ、なんだよディナン。やけにこの店じゃ反抗的だな⋯⋯」
イリヤの声は段々と小さくなっていく。自分に向けられた殺意に気づいたのだろう、目を丸くした。
「おい、待て。何をしようとしてる」
「もう分かってるんじゃないですか?」
冷ややかに笑う。イリヤは一歩後ずさり、拳銃を取り出した。無言で、ディナンの足に発砲する。
しかし、弾は当たらない。
「なんでだ!?」
「さぁ?神様が味方してくれたのかもしれませんね」
こんなことを言いつつも、ディナンは分かっていた。アーミスが、魔法を使ってくれたのだ。ディナンはそっと「ありがとう」と囁く。
「神だの魔法使いだの、いるわけないだろ。ありえないありえないありえないありえないありえないありえない」
何発も発砲し、やがて弾が切れると、今度は肉弾戦に持ちこまれた。これも厄介だ。イリヤのほうが上手に決まっている。
だか、ディナンが負けることはないのだ。アーミスがいる限り。
アーミスが、イリヤの視界を奪う。その隙にイリヤを床に押しつけて、真っ直ぐに万年筆を突き刺そうとしたが、その手から力が抜ける。
本当に、殺すのか——?
別にイリヤは完全なる悪というわけではない。正義感が強すぎて、間違った方法でしかそれを貫き通せない哀れな人なのだ。そう、だからディナンは躊躇ってしまう。万年筆が震える。霧に覆われた理性に、光が差す。
不意に、後ろから肩を掴まれた。
「やって、やってください」
アーミスの、光のない目。ひゅっと、息を呑んだ。
「アーミスっ、やっぱり僕はっ!」
「いつまでこの人に怯えて過ごすつもりですか!?不満だって、あるでしょう!」
不満。そうだ。
いつも独善的で、人のことを考えないイリヤが。
そしてイリヤと話すとき、本心を隠して笑う自分が。
ずっと嫌いだった。
そして次の一言が、ディナンから理性を奪う。
「それに、私のためにっ⋯⋯やってください!」
肩を掴む手は強く、それでいて震えている。こんなにも感情を露わにするアーミスを見たのは初めてだ。彼女には今、僕しかいない——。そう思ったら、承認欲求が満たされる感じがした。頼られている、必要とされている!それは非常に快感だった。
一心不乱に、狙うはイリヤの頸動脈。こわばる肌に、冷たい万年筆が突き刺さる。
「——っあ」
あたりが、鮮やかな真紅色に染まる。出血を抑えようとする両手を拘束すると、一瞬だけ、イリヤと視線が重なった。憎悪、困惑、恐怖。あらゆる人間の負の感情が、そこには詰まっ
ていた。
それから数分と経たないうちに、彼は呼吸を止めた。死亡日時は今月の七日、十四時八分。死因は大量出血。
ああ、と呻く。
殺してしまった。
他ならぬ、自分自身の手で。
ぬるりとした手を見つめると、アーミスの綺麗な両手が、ディナンのそれを包み込んだ。
「悔やむ必要なんて、ありませんから。全て、私のためにやったことなんですから」
少しでもディナンの心を軽くしようと、そんな風に言ってくれるアーミスに、なんとか頷きを返す。
「⋯⋯ごめんなさい、ディナン」
「え⋯⋯?」
思わず問いかけると、無表情で彼女は答えた。
「私の不安と焦りが、あなたを動かしてしまったのでしょう?」
違うとは、言えなかった。そもそもアーミスがいなければ、こんなことはしなかった。それはお互いに分かっている。
けれど。
「アーミスと離れるのは嫌だったんだ。だから別に、君のせいじゃない」
そう言うと、アーミスは俯いた。そのまま表情を見せずに、語る。
「私の不安と、同じです」
「──!」
同じということは、アーミスも、自分と離れたくなかったということ。
罪悪感を覚えつつも、喜びという感情は抑えられない。
頭に浮かんだ邪推は、遠くにやって。
「さてと」
意識して、唇を歪ませる。
「完全犯罪、しようか」
******
『今月九日、自宅で亡くなっている男性が発見された。死因は頸部鋭的損傷による大量出血。争った形跡がないことから、警察は、事故死の可能性が高いと見て、捜査を進めている。
亡くなった男性は、八日から体調不良で休んでおり、心配した後輩が自宅を訪れ、発見した。男性とその後輩は警察官で——』
夕刊の一面を飾った記事を見て、ディナンは悲しげな顔をしてみせた。こうするだけで、勝手に周りが同情してくれる。
「すいません、ちょっと休憩してきます⋯⋯」
大手を振って休むことができるのも良かった。どうせ今捜査しているのはイリヤの事件だ。別にどうでもいい。もっとも、それは事件というより、事故死の可能性のほうが高いとされているが。
転んだ拍子に自分の万年筆で頸動脈を刺した事故死。それがイリヤの最期だ。
死亡日時も、死んだ理由も、死んだ場所も、違う。すべてが、ディナンとアーミスに都合のいいように隠蔽し、修正された。
イリヤが本当に死んだ七日、彼は聞き込みをしていたことにした。幸運にもイリヤは誰にも報告せずアーミスに会っていたため、だいぶ楽に隠蔽できた。
また、死体が見つかるまでの猶予期間で、アーミスに関することも片付けた。今はイリヤの事件で忘れられているが、事の発端は、アーミスの店に向かう自殺関係者が写真機に映ってしまったこと。しかしアーミスの魔法は科学と相性が悪く、外部から操作はできない。そこでディナンの出番だ。
彼女の魔法を内部に持ちこみ、中から浸食させる。言うなれば、コンピューターウイルスだ。ひっそりと、食い破る。
写真機を操作し、イリヤの行動歴を隠蔽。そして、今後店に来る人が映らないようにもした。これまでの記録の隠蔽はできないが、証拠不十分だから心配はない。
これでイリヤも、アーミスも解決だ。
「ふぅ⋯⋯」
肩から力を抜く。
イリヤを殺したことに罪悪感はもちろんある。だけれども、いつも感じていた重圧がなくなったのだ、後悔はしない。
それにアーミスとまた話せるようになった。燻っていた恋情が、喜んでいるのを感じる。我ながら、随分と長く初恋を引きずっていたなと呆れてしまう。
苦笑しながら、あのときした邪推を思い出す。
『私の不安と、同じです』
その言葉は嬉しくはあったが、同時に困惑もした。
果たして自分という人間に、そこまで言わせる何かがあるだろうか?確かに友人ではあった。しかし、親友と呼べるほどではない。八年間会わなかったというのに、なぜ、そんな風に自分のことを思ってくれるのか。
考えると、すぐに思いついてしまった。
今のアーミスにとって、ディナンには価値がある。
警察官という肩書きだ。
味方になれば、情報の隠蔽・流出等サポートをしてもらえる。利用できれば、心強い。
殺人の共犯となれば、自然と仲間意識が芽生える。そうなるように、誘導されていた⋯⋯?
苦笑が微笑みに変わる。
たとえそうだとしても、
「悪い気はしない」
あの瞬間から、二人は一蓮托生となった。永遠に、離れることはできない。
警察官としての使命を、捨てる行為ではある。それでもディナンはアーミスを選んだ。もう引き返せないし、引き返すつもりもない。痛みを抱いて、進むだけだ。
窓越しの景色がぼやけ始める。今日は濃霧になるらしい。それを見て、決意する。
彼女が光に潰されないよう、自分が光から隠そう。
これからもこの国では科学は発展する。それに伴い、捜査の方法も変わるだろう。そんなときに、アーミスという存在が、明るみにならないよう隠して守る。これは自分にしかできないことで、アーミスが自分に求めている仕事でもある。必ず、やり遂げる。
この決意の、ちょうどいい例えが浮かんだ。
霧だ。
僕はアーミスの、霧になろう。




