俺以外が全員おかしい
19xx/7/1
今日は死体と目が合った。
ゴミ捨て場のような場所で野垂れ死んでいたから、思わず視線を向けていたらぎょろりと膿んだ眼球がこちらを向いた。蛆が視界の端でチラついていた。目を離したら死が感染する気がして、それと見つめ合いながら横向きに移動した。そのうちに死体の眼球は裏側を向いてしまったので、俺は死なずに済んだ。
19xx/7/2
今日はでかいナメクジが足元から離れなかった。
冷たい粘液が滴るせいで、俺は転ばないようにずっと足元を見ていなきゃならなかった。それに自然と歩みも遅くなる。会社員時代も出勤前に足が重くなることがあったが、流石にナメクジのせいではなかった。うぞうぞと脚を伝って登ってきたので、目を瞑ってやり過ごしていたらいつの間にかナメクジは消えていた。
昔、ナメクジは寄生虫の温床だと聞いたことがある。粘液で濡れた足首をゴシゴシと洗っていたら、その水がみるみる赤くなった。水が原因なのか、粘液が原因なのかは考えないことにした。
今日は厄日だ。
19xx/7/3
俺は自分の意志でこの日記を書いている訳ではない。
奴に「もっと、できるだけ沢山書いてください」と言われた。
気がおかしくなりそうだ、助けてくれ。
今日は顔のない女に追いかけられた。
僅かに残ったパンとチーズを食っていた時のことだ。チーズを食おうと手を伸ばしたら、誰かの手に触れた。何も見えなかったが、確かに冷たい女の手だった。女は俺の耳のすぐそばで、さわっちゃった、と低く囁いた。俺はその場から全く動けなかった。冷や汗は止まらないし、口に残ったパンはみるみる口内の水分を奪っていく。女の手に触れた指先はそこだけ冷凍庫にでもブチ込まれたかのように冷たい。
連れて行ってもいい? と問われた。声は聞こえなかったが、確かにそう言われた。勿論俺はすぐに逃げた。パンを飲み込みながらよたよたと走った。大通りに出て、そろそろ撒いたかと後ろを振り向くと、そこには何も無かった。
それから今までずっと、顔のない女に追いかけられている。
大事なことだから再三に渡って書いておくが、俺は気狂いではない。本当に女は今も俺の後ろにいる。なにかを囁いているが、それに応えたらきっと「連れて行かれる」。だから一心不乱にこうして文字を書くしかない。・・・・
今、ちょうどこの紙になにやら体液が降ってきた。俺の左斜め上にいる首吊り死体からだ。死体はもう視界に入れないことにする。二度と目を合わせたくない。
19xx/7/4
昨日の日記でガイコツのことを「奴」と書いたら注意された。あのガイコツは、人語を話す癖に態度が不遜だ。からからと剥き出しの背骨を鳴らしながらふんぞり返っていて気に食わない。側にいる浮遊霊も俺の身体を無遠慮にまさぐってくるから苦手だ。しばらくここに滞在しましょうか、と言われたからお断りしてきた。あんなとこにいたら、それこそ本当に気が狂ってしまう。
こんな日記に意味はあるのか? もしかしたら正常な誰かがこれを見つけて俺を助けてくれるかもしれないと思って始めたが、今のところいたずらに精神を摩耗しているだけだ。悪夢日記をつけているようなものだからな。
そんでもって今日も悪夢は覚めない。
19xx/7/5
今日は金縛りにあった。
ゆっくりと意識が浮上した後で、けれども身体は動かない。呼吸は浅く、視界はぼやけて馬鹿みたいに明るいし、心臓はバクバク鼓動していて苦しい。不快だった。
ふと窓の外から黒いもやが見えた。もやはサッシの隙間からこちらを覗いて、今にもエサを捕食しようとしていた。しばらく観察された後、俺はもやに頬を撫でられた。やけに滑らかな肌触りで、それが尚の事気味の悪さを助長していた。生温いとはいえ温かい感触は久しぶりで、ああ、冷たくないな、なんて思いながら、気がついたら今になっていた。
そろそろ助けてほしい。
19xx/7/6
ガイコツに、やっぱりここにいてくださいと言われた。ふざけるな、絶対に嫌だ。死んでもこんなことにいてたまるか、クソッタレ。
19xx/7/7
もういよいよ、限界らしい。ガイコツは俺を逃さない。浮遊霊がじっとりと俺の四肢を拘束して、血なまぐさい部屋に押し込んだ。ちなみにこの部屋にも、先日の顔のない女はいる。今日も立派にストーカーをしているようだ。
現実逃避をしても仕方がない。こんな化け物に囲まれて生活するくらいなら、いっそ死んだほうがマシとまで思った。けれども目ぼしい刃物もロープもない。窓は嵌め殺しで、錆びた鉄格子は素手では破壊などできないだろう。俺は自由に死ぬこともできないのか。
頼む、誰か助けてくれ。
「先生、お疲れ様です。」
「うん、君もお疲れ様。入院手続きは完了した?」
殺風景な部屋で、医者と看護師が和やかに会話をしている。穏やかな昼下りに相応しく緩やかな言葉の応酬だが、その節々にどこか疲れも滲んでいた。
「はい。事務の方に引き継ぎまで完了していますので、安心してください。…しかし、とんでもなく強情な患者でしたね。どうしても入院が嫌だって…」
「ううん、しょうがないよねえ。誰だって自分こそが正常だって思ってしまうんだから。彼の治療は、自分の異常を認識するところからだね。」
医者はノートをパラパラと捲ると、そっとそれを閉じた。患者が日記としてつけていたそれには、汚れや折れている所があり、中々に年季と凄みがある。
「ま、気長にやっていきましょう。」
そういって医者がむき出しの背骨をからからと鳴らすと、看護師は同意するように一際高く浮き上がった。
俺だけが正常。