ホームズ:急:了
ホームズ:急:急
暗い、昏い、灰の中を歩く。まるで炎か何かのように風に舞うそれらは、肌に触れたところでその感触を伝えない、幻か何かの様だった。
事実、それは幻と何ら変わらないものだ。ここは彼女が見る夢の外。俺たちのいるべきではない世界。カタチを持つものは何一つなく、俺もただ自分の主観にのみ従って俺というカタチを保っているにすぎない。
だから、余計なことを考えてはいけない。今の俺から少しでもかけ離れた思考は、空想は、すぐに俺から斬り離されて、俺を惑わす現実に化けてしまう。今は、ただひたすらに前だけを目指すしかない。……まっすぐ前に進むしかないのだ。たとえ、その先にあるのが一寸先も見通せない暗黒なのだとしても。
思えば、この町に来てからの俺はずっとそうだった。そうして進んできた。いや、より正確には、彼女と出会ったあの夜から――
「――おはよう、ワトソン君」
気が付くと、俺は屋敷の布団の上に横たわっている。眼をこすりながら起き上がろうとすると、にこにこと笑顔を振りまく彼女が、布団に腰かけていた。
優しい朝日に満ちる部屋、幻のように彼女は微笑んでいる。
白い髪、同じ色の毛で覆われた猫の耳と尻尾、銀色の瞳。すっかり見慣れて、すぐそばになかったことを寂しいと感じていたその表情と、そして声。
間違いない。彼女を、俺は決して間違えない。
「……ホームズ?」
「? ええ、貴方の頼れる相棒、名探偵ホームズよ。……どうしたの? そんな鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をして」
「あ、ああ、いや……だってお前――」
さらり、月光が頬を撫でていく。
満ちていた優しい光の代わりに、部屋を彩る柔らかで寂しげな陰影の中、銀色の彼女は変わらず微笑んだまま。何も変わらず、硝子細工のようにそこに居る。勿論、本当に硝子細工であるわけではない。手を伸ばせば彼女はそこに居る。その柔らかさも、体温も、感情でさえ理解は出来ずとも手に取ることは出来るだろう。
……ああ、そうか。
一瞬で溶けて昇って消えてしまった朝日が、つまりはその答えだ。俺はあの日差しを知っている。何もかもを見失って突き落とされるあの日の、あの朝の絶望と共に刻み込まれてしまった。
あの朝も、突きつけられた現実とは裏腹で、きっとこんなにも優しい光に満ちていた。
灰色に凍りついた俺の眼球がそうと認識できなかっただけなのだ。
枕もとのスマートフォンを手に取る。日付はやはり、あの朝、あの日のまま。その後に続くモノ全てを忘れたように、能天気な電子制御の数字が時間として表示されている。
「……ごめん、ごめんな。俺は――」
彼女は本物だ。存在していなかった本物だ。俺が、共に迎えられたかもしれない現実だ。真っ直ぐに受け止められたかもしれない、幸福な朝日の象徴なのだ。俺が、もう二度と手にすることがない過去の一つだ。
俺が涙にして流してしまったモノ。
それが、形のない夢の外で、今こうして形になっている。他ならない、俺の記憶の一部――俺の願望、俺の世界として。
「簡単に否定しちゃうのね」
ぽつりと彼女は呟いた。月光の中、気が付けば布団も俺の部屋も消え失せていて、まるで泳ぐか踊る様な足取りで彼女は俺に背を向けていた。
「……いいや、肯定したんだ。これは、俺が手に入れられなかった夢だから」
呟きを否定する。手を伸ばしたくないわけじゃない。手を伸ばさないわけでもない。
「本当? 簡単に諦めただけじゃないかしら?」
一歩分だけ遠ざかって彼女はまた問いかけるように呟いた。俺は何もない空を見上げる。夢の名残である灰が月光の中微かに虹色を思い出しながら舞って去っていく。
「まさか。簡単に諦めたくないから、ここで立ち止まっちゃいけない。手に入れないモノを惜しむのはいつだって出来るだろう。記憶は捨てない限り一緒にいてくれるよ。けれど、手に入れたい物はいつまでも待ってくれやしないんだ」
ただ、方向を間違えない。間違えちゃいけない。何もないまっさらな昨日よりも、真っ暗で怖くて何かがあると信じられる明日を向かなければいけない。向き合って進まなければいけない。
だから、
「……そう」
「ああ、だから――ごめん。俺は、あの日のお前を置いていく」
視線を今、ずらしてしまうワケにはいかない。夢を形にはできない。たとえここでそれを為したとして、それは望む結果にはなってくれないから。
「うん、まあ、しょうがないわよね。ここで立ち止まっていたら、いつ消えてしまうか分かったものじゃないもの」
少し寂しそうな顔をして、彼女は此方を振り返った。その笑顔が酷く眩しくて、その瞳が酷く耀いていて、どうしようもなく切ない表情だった。
「ねぇ、だったらせめてさ、向こうのわたしは幸せにしてあげてね」
まるで、夢を見ていたのかのようだった。
一歩踏み出す。前進は、酷く肌寒い手触りの感慨を胸に詰め込んで、そして積み重なった感情に覚悟という種火を放り込んで滾らせた。
躍る灰の中を、崩れた幻想の亡骸の中を、また、真っ直ぐに歩きだす。
ただ、歩いて、歩いて、進んで、進んで、進みつづける。
ふっ、と暗闇がその質を変える。深い、得体のしれない、手触りのない暗闇から、明確に実体を持つ、現実の光が作り出す暗闇へ。
それと同時に、目の前に人影が現れる。黒い着物、黒い髪。闇に滲むように、女性が一人。
ここは――あの、小さな神社の前?
「……帰ってきたのか」
「ええ。おかえりなさい、統也君」
「蔵子さん……。何故、ここに?」
「お迎えに上がっただけですよ。丁度ここへやってくるような気はしていましたから。……鍵を、手に入れたようですね」
「何……?」
見れば、手に何かを握っている。
真っ白な灰と――その中に紛れる様に、小さな黒い鍵が一つ。
「これで、四つ目か」
「それが何か、もう理解していますか?」
「……そう聞かれるからには、この鍵も、鍵を使う扉も、きっと見た目以上の意味があるんだろうな」
ふっ、と自嘲気味に笑って、俺は彼女に向き直る。黄金色に見える瞳が、じっと俺を見つめ返していた。彼女は、きっと多くを知っている。俺が知っている以上にこの町に深く、深くかかわっているのだろう。
「――ええ、この鍵はとても重要なモノです。まあ、それはこの町にとってではなく、あなた自身にとってという意味ですけれど」
「へぇ……。じゃあ、なんでそんなものを、あんたが持っていたんだ?」
「あなたはもうその理由を知っているでしょう。カタチには最初から意味がない。夢の外と夢の中、その境界は本当に曖昧なもので、夢の中の夢もまた、同様ですから」
なぞかけめいた返答。悲しいかな。その内容は、その意味はもう十分すぐるほどに実感済みだった。
「ああ、確かに。そうか、成程、そんな話なのか」
「そんな話です。こんな世界に意味はない。こんなわたしに意味はない。万物万象遍く無価値で無意味ですよ」
蔵子さんがクルリと背を向けて、歩き出す。……ついてこいということだろうか。
「まあ、それでも知ることは大事ですよ。きっと。無意味なりに意味があって、無価値なりに価値があるのが面倒な部分ですよね。お陰でわたし達はわたし達らしくあれるのでしょうけれど」
「……そういうこと、なんだろうな。きっと。何にもこだわれなかったら、こんなカタチを自覚することもないままだろうし」
曖昧な言葉どうしを交わしながら、二人夜の森の中を歩いていく。木漏れ日の替わりに地面を濡らす月光が、風と共に揺らめく。蟲の声もなく、獣の寝息も気配もなく、ただ木の葉の囁きだけが、互いに交わす言葉以外の全ての音だった。
「ここには、たくさんの人が逃げ隠れているんです。居場所を失ってしまった人、帰るところを見失った人、在り方を忘れてしまった人、眠ったまま彷徨ってしまった人、眠りにつけなくなってしまった人――本当に色々な人が寄り添ってます」
「……それは、あの白い子のような……?」
「ああ、廃ビルに行ったんでしたね。そう、ですね。原因は同じですけれど、彼女はまた別ですよ。深く深くこの町と結びついているので、歪んだとしても異物にはならないんです。だから、役割を喪っても先代としてしっかりとカタチを残していられます。ここに集まるのは、もっと弱い人たちです。まあ、早い話が意味とかカタチとか、色々喪ってしまっては存在を続けてはいられませんし、早い話がウイルスみたいに危ないモノになってしまうので」
「……つまり、危険物と扱われないように隔離してるってことか?」
「まあ、それが正解ですね。危険物に扱われないようにって言っても、その扱い自体が危険物扱いですけれど、取り除かれないためにそうしています」
言葉を一旦止めて、此方を振り返って彼女は自分を指差した。
「わたしは、その橋渡し……というか諸々含めた指導者のような立ち位置ですね。ほら、障碍者もその他大勢の社会に含まれるためには、よくその人を理解した健常者が必要じゃないですか。丁度、その役割ですよ」
「そろそろ教えて欲しいんだが……なんで俺をここに連れてきた? 理由が見えない」
「渡すモノがあるからですよ。それと、あなたに会いたがっている人がここには大勢いますから」
ざ、ざ、と空気が変わっていく。先程まで草木の音しかなかった森に、異様な気配が満ち、そして無数の瞳が俺を捉えた。月光が、その瞳の主を照らし出す。
全て、かつて人間だったモノだ。すぐに俺は理解した。誰も彼も、体に人間だった頃の名残がある。……彼女が堕ちた時、彼らもまた狂ってしまったという事だろう。あの町を夜になると徘徊する影と同じ――あるいは肉体を持つが故に、希薄にもなれず、痛みさえも伴うより悲しい存在。
今、ここで俺が終わらせるべき存在。
「俺に頼み事ってのは……つまり、そういうことでいいんだろ?」
「はい。よろしくお願いします」
「…………分かった」
刀を抜いた。銀の刀身が、揺らめく月光を跳ね返して煌めく。
別に、これで一人一人、首をはねたっていいのだろう。ただ、それではきっと皆、痛いし時間もかかってしまう。
なら、試しにやってみるような感覚になってしまうが、一太刀で全て終わる方がいいのだろう。
……前々から、思っていた。自分に流れる異星の神の血は、一体何を司っていたモノなのか。
考えれば、簡単なことだ。俺が今まで何を呼び込んだのか。俺よりも前の俺が、一体何を呼び込んでいたのか。
それは、誰にだってもたらされるモノ。あの時見た、悪夢の中の町がその答えだ。
そして、俺はソレに触れてきた。呼び込んできた。なら、従えることもできるだろう。
「――俺が殺す」
くるりと刀を逆手に持つ。そしてそれを地面に向かって振り下ろす。銀色の軌跡が、地面に真っ直ぐと突き立って、そのまま波紋となって森の暗闇へと広がっていった。白銀のソレに触れた瞬間、異形になってしまった者達がバラバラになって消えていく。
……うまく、送ってやれたのだろうか。
「もう、自分が何者なのか、よく理解しているのですね」
「大雑把には、だけどな。もっと詳しく知るためには、当人にでも聞くしかないだろう」
少し頬を吊り上げながらそう言って、周りを見回す。いつの間にか、あの古ぼけた小さな鳥居の前に居る。……居場所を必要とするものが消えて、居場所そのものも消えてしまったのだろうか。酷く感傷的な空想だが、この町ならそういうことがあってもおかしくないだろう。
ぼんやりとそんな感想を転がしながら、突き立てた刀を引き抜く。コレは、間違いなく俺の目的を果たすための手段になる。だが――
「――……」
月光に照らされる鳥居の下に、きらりと光るものがある。拾い上げてみると、それは夜にその輪郭を溶かしてしまいそうな、小さな黒い鍵だった。……これで五つ目。
「統也君」
「……蔵子さん」
「どうすればいいのか、そろそろ理解できましたか?」
どうすれば。何を、とは聞かれるまでもない。きっとこの人は、俺の考えていることを理解している。俺の目指す結末を知っている。
「俺は……きっと殺せる。なにもかもを」
「…………」
「それが、今の俺には――いいや、元々この血にはできた。できる」
だとして、それからどうするか。それこそが問題だ。
俺の血は、「殺す」事に――正確には「死」に関する事柄に特化しているのだろう。だからこそ、既に死んでいる者たちをひきつけるし、そう言った者達を完全に終わらせることができる。つまりは、俺は望む相手を完全に殺すことができる。今までのことを考えると、無条件に殺せるというワケでもなく、殺意を向けて何かしらの行動をするというのがトリガーなのだろう。例えばそれは木刀を振るうことだったり、刀を突き立てることだったり。そうして殺せなかったのは、どれも俺が殺せなかったと認識した相手だった。
逆に言えば、俺は、何もかもを殺せると思って、そして行動を起こせば文字通りなにもかも殺せてしまうのだろう。そうだという確証は、どこにもない。俺なりの推理と、脳髄から滲む不自然な直感がそう告げているだけだ。そして、ソレはきっと今の俺にとってはなによりも信用できるものだろう。
「あいつは――ホームズは、この町と同じだ。……この町に墜ちた、月が見続ける夢。多分――」
誰にも該当しない少女。歪んでもいない、そして真っ当でもないイレギュラー。
一つの推理がこれまでの探索を通して、俺の中で出来上がっていった。
もし、この町の光景を夢見たとして、それを実際に目の当たりにした時、自分は一切何も手を出さず、ただ眺めていることなんてできるのだろうか?
きっと、彼女にはそんなことは無理だったのだろう。たとえ自分で作りだした夢だったとしても、真実とはかけ離れた虚構であったとしても、永遠の孤独の中、憧れ続けた世界が手を伸ばせば届く場所にあるというのに、どうして諦められるというのか。
結局、彼女もまた夢になった。正確には、彼女は彼女と言う分身を作り出し、そしてこの町に住まわせた。だが、それも恐らくは不完全だったのだろう。誰かの存在を借りなければ自我を確立できず、そして誰かに認識されなければ、その存在さえも徐々に希薄になり消失しかねなかった。
そんな彼女に触れたのが、見つけてしまったのが、他ならない俺だ。
「……ホームズは、月がこの町に夢見た自分自身だ。アバターみたいなものなんだろう」
この町には、かつて月の欠片が堕ちた。孤独な孤独な神様もどき――その一部。ただ一欠片と言え、この町を狂わせるには十分だった。結果がこの悪夢。その夢の続きで、俺と彼女は出会った。
――約束をした。一緒に出かけると約束をした。すれ違って、終わってしまった約束。この町の異変に呑まれ、遠く遠く、手の届かない場所に行ってしまった約束。
「俺はアイツを救いたい。――いいや、会いたいんだ。もう一度」
だから、
「この町を――この悪夢を殺す」
もう、それしか手段はない。
例えば、夢を現実にするにはどうすればいいだろうか。その一つの答えがこの町そのものだ。
実体のない、精神生命――情報生命の空想は、物質的な存在を伴って投影される。客観的には、夢が見る夢は現実と何ら変わらない、らしい。
細かく言えば、これは位相のようなモノで、ズレの一致やその他の要素も関わるそうだが、今は割愛する。
とにかく、夢そのものであるホームズも俺と同様にこの町で生活できるのは、そういう理由からだ。夢の夢として実体を持った彼女は、物質的に存在している。
今は、この町の夢が終わりかけている。それによってホームズもその存在が希薄になってしまい、俺や他の住人には認識されなくなってしまった。同様に、彼女もこの町の住人も、俺も認識できなくなってしまった。――そう、彼女は間違いなくこの町に居る。
では、どうすれば彼女を救えるのか。
夢はあっけなく消えてしまう。例えば夢を見る者が目を覚ませば、夢は忘却の彼方に消えるだろう。ただ、それならばもう一度眠りの中で同じ夢を見れば、また帰ってくることもあるだろう。しかし夢を見る者が死ねば、夢も共に死んでしまうだろう。当然、死んだ者が再び生き返ることはない。その両方が、この町に起ころうとしている。この町は終わる。夢が終わると共に、月は目を覚まして夢を忘れ、そして死に、この町は――夢は永劫に葬り去られるだろう。
死んだモノは生き返らない。そう、夢の中でくらいしか、生き返ることはない。
「夢を続けるのですか?」
「……それも、まあ正解だとは思うけれど」
町を振り返る。夜に紛れる様に、まだチラホラとカラスが飛んでいるのが見える。ひときわ大きな白い影は、あの廃ビルの少女だろうか。
「この町は、あまりにも死にすぎている。夢というには苦すぎる。……きっともうそろそろ、明日をしっかりと迎えるべきだよ」
「……では?」
「夢を終わらせる。この血が降りなければ――終わらない在り方がなければ、機能に拘り続ける必要もない」
この町はずっとずっと昔から歪んでいた。その歪みが今の有様を、彼女に暖かな幻想を与えてしまったのなら、息もできない程に甘い悪夢を見せ続けているというのなら、その根元から断ち斬ってやるしかないだろう。
「……得物を探さないとな」
この刀では、その目的に届かない。馴染むだけではダメだ。俺の腕全てを奪って、脳髄まで根を張るほどでなければ、足りない。
その在処は、七つの鍵が閉じ込めたまま。あと二つばかり、鍵が必要だ。
「鍵が何処にあるか、心当たりは?」
「貴方が答えに向き合い、決着を付ければ自ずと手に入るでしょう」
その言葉を最後に、夜の風に溶けていく様に蔵子さんは消えてしまった。
「…………はは」
動かない月を見上げて、視線をそのまま振り下ろす。
そうして歩き出す。
「やっと前進だ、ホームズ」
……
「この町はね、とっくに寿命を迎えているの」
月が、ひび割れている。
冗談のような光景だった。月光を粉々に砕いたような、細かな破片と塵が微かな虹色に輝きながらその深い亀裂からゆっくりと吹き出している。
呆然とそれを見上げながら、わたしは淡々と彼女の言葉に耳を傾けていた。そうする以外に、何かしようとも思えなかった。ドラマならば、こんな場面こそ彼女の隣で自分の想いを伝えたり、抱きしめたりするのかもしれない。けれど、残念ながらわたしにはそんなことを出来るほどの気力は浮かばなかったし、今目の前の光景は、ドラマどころか月が見ている夢なのだ。
どうすればいいのか、皆目見当もつかない。つかないけれど、
「……わたし達は、死んでしまうのかな」
「いいえ、そもそもいないものだから、夢と一緒に消えてお終いよ」
「消えたく、ないな」
「……そうね。わたしも、消えたくはないけれど」
風が、ゆるりと頬を撫でて消えていく。振り返れば、先ほどまで座り込んだままだった彼女が立ち上がり、真っ直ぐにわたしを見つめていた。
「この町は、一度きっちり終わるべきだとも思っていたから、何と言えばいいのかしらね……。少し、安心しているわ」
「君は、」
それでいいのか。
告げようとした言葉を飲み込んで、わたしはまた月を見上げた。仄かな虹色は今や町を覆う夜全体に重なって、その淡い色彩を深い深い黒に溶け込ませていた。
きっと、もう彼女は続かないのだ。続けられないと言い換えてもいいかもしれない。自分の未練が、もうこの先にはきっと存在しない。後悔もこのまま死に絶えるなら、それこそ前を向く必要などどこにもない。後ろだって振り向かなくていい。両の目をくりぬいて棄て去ってしまったところで、そもそも見るべきものが何一つない彼女にとっては何も問題がない。
……死ぬべき、なのだろう。この町はあまりにも血に塗れすぎていて、あまりにも行き過ぎている。
だが、わたしは消えたいとも思えないし、わたしが消えるべきだと思いたくもない。
「……止めないわ。真琴。わたしは、貴女に願う資格なんてないから」
「美緒……」
「死にたくないし、消えたくない。それは当たり前の感情で、とても大事なもの……。前を向いているために、必要なモノだから」
「……それでも、君はもうそれを必要としないだろう?」
「そうね」
素っ気なく、彼女は呟いた。
どうしようもない感情が胸を締め付ける。それをどうすればいいのか、見当もつかない。
それでも、今は進むと決めた。
「この町の死が消えれば、まだ続けることは可能だろう?」
「ええ。けれども、それは――」
「分かっている。どうしようもない選択肢だ。……この町を、わたしが斬っていた亡霊と何も変わらない状態にすることだ。だが、」
振り返ることなく、進む。後戻りなど、とうに出来なくなっている。そうなることを、望み、選び、今わたしはここに居て、戦いに赴くのだから。
「美緒と一緒にいるのなら、ただ消えるよりも何億倍もいいんだ」
……
桜田蒔苗が俺を呼び寄せた理由は簡単だった。
町を殺す呪いそのものに、俺を仕立て上げるため。そしてそうなった俺を用いて辻桐璃音を町ごと殺すため。
気が遠くなるほど大掛かりで、そして狂気じみた計画だ。
結果的に言えば、彼女の目論見は果たされるというべきだろうか。この町はもうまもなく死に絶え、それと同時に辻桐璃音も死ぬ。ほかならぬ、俺という存在がそうするのだ。
異星の死は、この町の血と深く混じりあい、確かに滅びをもたらした。一度目は物質的に。二度目はそこに燻り揺蕩う夢さえも根こそぎ殺す。
俺が、殺す。
「……」
無言で砂利道を歩く。アスファルトに覆われることなくむき出された古い道には、風に長く晒され、酷くざらりと荒れていた。これがこの町の未来なのだ。これがこの町にしがみつく現実で、過ぎたはずの過去だったのだ。
全て、息の詰まりそうな甘い悪夢の中で霞んで淀み、忘れられていただけだ。
ざ、ともう一つの足音が聞こえる。ざ、ざ、ざ、と足音が重なり、響き合うように大きくなっていく。つまらない錯覚。単純に、音の主が此方に近づいているだけだ。
砕けて揺らめく月明りの中、少女が一人、燃える双眸を真っ直ぐにこちらに突き立てている。
「…………」
「…………」
社真琴。この町に住まう少女。この夢の中で生きる少女。この夢の中で終わる少女。きっと、この夢が終わらないことを願う少女。
無言が二つ重なる。互いに首元に刃をあてがっているような緊張が静かに形になっていく。殺気と殺気。見つめ合うように真っ直ぐつながった視線は、とうに睨み合いに化けていた。引く気はない。引くべきではないと理性が、引くものかと意思が、進めと本能が告げている。恐らくは、彼女もほとんど同様の心情なのだろう。ぴたりと立ち止まったままだ。
「言葉はいるか?」
「いいや、それよりもっと手っ取り早い方法があるだろう」
「……そうだな。もう、そうするしかないもんな」
問答は短い。相手の意思は分かり切っていたし、それは相手も同様なのだ。どうにもならないことなど重々承知の上で、今こうして睨みあっている。それでも、どうしても振り切れない感情もあった。それも、こうして切り捨てられてしまえば踏ん切りもつく。
ふっ、と小さく息を吐き、構える。
月明りが夜の中を揺蕩うように、刃金に反射して煌めいた。殺伐とした雰囲気の中で、それは場違いなほどに幻想的で、そしてそう考えることもできない程に、俺の心は真っ直ぐに彼女に殺意を向けていた。
殺す、ということがどうなのか、これまでの人生で深く考えることはなかった。
そうする必要なんてなかった。それはずっとついて回っているはずなのに。
目を向ける必要なんてなかった。きっと、そんなことをしていては人間は耐えられないから。
こうして向き合う時、俺たちは――人間は、その心のカタチを捨ててしまうのだろう。
「…………」
「…………」
息はない。呼吸を読まれては次の一手が知られてしまう。知られてしまえば、斬られる。
息はない。でたらめな月光が飾り立てる騒がしい色彩に引き換え、この町には死、そのものめいた無音だけがのっぺりと張り付いている。
息はない。誰もが呼吸を忘れている。それはとっくにこの町に必要なくなってしまったもので、この悪夢を生き永らえさせてきた呼吸そのものだ。ついに途絶えた町の息遣いそのものだ。
息はない。息はない。息はない。この静寂と名付けられた音が終わると気こそが、どちらかの終焉だ。逃れえない結末だ。
故にそれが尽きぬ今こそ、終わりが、この無音に満ちている――
切っ先が、震えた。
社は下段より、俺は上段。
一気に間合いを詰め、地面を睨む切っ先を踏みつける。
社の瞳が同様に揺れ、真っ直ぐにこちらを見た。それを射抜くように見返し――刀を振り下ろす。首筋に、縦に近い斜めで綺麗に刃が入ってゆく。一度だけ高く赤い血が吹き、それきりだった。
引き抜き、血を掃う。ぱっと、彼岸花が綻ぶように、乾いた地面に赤が散った。
刀を収め、その場を後にする。
……例えば、もしこうならない将来があったとするなら。もしこんな結末を選び取らない結末があったとするなら。
それは、きっと、この夢の後に続くモノなのだろう。
だから、先程の太刀筋にも、今これから征くべき道も、迷いは、ない。
迷いはないのだ。
月明りに、何かが照らし出されていた。地面の血に紛れる様に、黒い鍵が横たわっている。
拾い上げて、血を拭う。真っ黒いその表面に映りこんだ自分の顔が、ぼやけてよく見えなかった。
これで、六つ目。
「……なあ、俺は間違っているか」
「意味のない問いかけですね。もう答えを持っているでしょうに」
桜の花びらが一枚、風に乗って俺の横を通り過ぎていく。この町は桜の木が多い。落ち着いて見ることができれば、いい思い出になったろうに――
「さようなら。美緒さん」
「ええ、さよなら統也君。きっと、また」
言葉は、やはり短かった。
名残はなく、悔いもない。幾ばくかの寂寥も置き去りにして、歩き出す。
彼女に会うために。
……
なんとなくの予感はあった。始まりの場所がここであった以上、きっとお終いもここで――そして、鍵は最初から自分で持っていたのだろうと。
黙々と、屋敷の中を進み、最奥の部屋の前。
明かり一つない暗闇の中、迷うことなくたどり着いたその場所で、俺は淡々と作業をこなしていた。
これまで手に入れていた鍵を回し終えた錠前に、最期の鍵を――渡されていた門の鍵を差し込み、回す。
かちり、と呆気ないほど簡単な手応えと共に、鍵が開いた。
中には、まるで質量を伴っているかと錯覚するほどの、昏く、深く、重い闇が詰まっている。
深呼吸を一つ。吸って、吐く。心なしか少しだけ鮮明になった視界の中央、ぽっかりと空いた真っ黒い入口へと――
「待て」
声が、俺の背中に投げつけられる。
酷く馴染みのある声。酷く違和感を覚える声。
振り返ると、そこには黒い着物の青年が立っている。
やはり、少しばかりだが予感はあった。彼は一体何故顔を見せないのか。何故襲い掛かってくるのか。何故導くような行動をするのか。
彼はそうして自分の正体を隠しおおせた。彼はそうして俺の戦い方を学んだ。彼はそうして俺をこんなモノだと気づかせた。
もうすでに混じりかけているのだろう。彼の思考を理解し始めている。
……全ては、彼が、俺へとなり替わるために。
「なあ、そうなんだろう。龍鬼刀夜!」
同時に抜刀する。降りぬいた一閃は空を切り、返しの一閃に空を切らせる。
睨む貌は、忌々しい想像と違わない。
――ソレは、俺と同じ顔だった。
にやり、と「俺」は深く口元を笑みにゆがめながら、食い合う刃と刃に力を込めていく。
「ああ、そうだ。立木統也。俺はお前、お前は俺。そうなるように仕組んだ。あの別れの日から幾星霜、こうしてこの地に合わせた形で生まれ変わるために!」
「ふざけろ! 俺は俺だ! 今、ここでお前と刀を交え、今、このお前を殺そうとしているのが俺だ!」
「いいや、ここでお前は終わり俺となる! そうするために耐え忍んだ! 俺自身を忘れ、俺自身を喪い、死に絶えたまま待ち続けた! 悪夢? 幻想? 虚構? それがどうした。今俺は此処に居る! お前を殺すためにここに居るぞ!」
剣戟が重なっていく。互いの思考と思考が混じり、弾き、、喰らい合っている。視界がばちばちと爆ぜる様に切り替わり、歪み、裏返る。
互いに互いの剣を理解していた。現在進行形でぶつかり合い融け合う思考は互いに互いの一手を予告し合い、それを喰い破らんと一方は我武者羅にまた別の一手を打ち、それに克たんともう一方も食らい付く。
刃と刃を用いた人と人の死合は、爪牙を剥いた獣の死闘へなり果てていた。
はじけ飛ぶ金属音は高く響き、もはやどちらのものとも知れない絶叫と唸り声、怨嗟と怒号が脳髄を揺らしあっている。
「俺は死だ! 終わりを与えるモノ。全てに平等に訪れる、この世界において普遍の理! たとえ星そのものが違おうと、その概念は変わらない!」
「それで彼女に拒絶される!」
「ああ、そうだ! 俺は彼女に不死を定めた! 彼女の死に死を与えた! 故に因果は死に絶えた死そのものである俺を認めない! ――だがっ!」
ギィン、とひときわ大きく鈍い金属音が響く。
強く弾かれた切っ先は、不格好な弧を描いて目の前の「俺」からそれてしまう。
それを――致命的な隙を見逃す程、「俺」は優しくなかった。
「――だから、俺はお前になる」
暗闇を突っ切って、銀色が俺の胸を貫いた。心臓のど真ん中に冷たさと熱さが同時に入ってくる。数瞬の後、それを痛みだと理解した脳髄が、血液と共に激痛を全身に奔らせていく。
いや、違う。俺の脳が、心臓が、この痛みを送り込んでいるんじゃない。
胸に突き立てられた刀が、青白く輝きながら脈動している――
「分かるだろう? お前の血が、俺の血に呑まれ消えていくのが……!」
「げ、がぐっ、が、ぎゃあぁあああああああッ!」
体の中で、炎が駆け巡っている。比喩ではない。刃に突き破られた血管の中を、「俺」の血潮が――熱く流動する青い炎が奔っていく。
熱い、熱い、熱い熱い熱い熱い!
自分の中に自分ではないモノが入り込んでいく。
それに呑みこまれ、自分は成す術もなく消えていくのが理解できる。
やがて血管を蹂躙するこの炎は、脳さえも焼き尽くし、本当に俺という存在を未来永劫この町から、この夢から、彼女との約束から切り離し、消し去ってしまうだろう。
炎とは別の何かが、滾る。
何かを言おうとしても、肺と喉は流れ込む痛みに蠕動し、言葉にならない呻きと叫びを吐き出すだけだ。思考はばらばらになったまま、まとまらずに絶叫と共に削れていく。
「ありがとう、お前のお陰だ。俺は、ようやく新しい俺になる」
ただそれでも、この自分が自分を喪っていく激痛の最中でさえ、確かになっていくものがある。吹き飛びそうな意識の中で、それだけが強く強く燃え上がり、その熱が俺の魂を肉体に結び付けている。
あまりにも理不尽だと感じた。
納得ができなかった。当然、受けいれることも論外だった。
だから、
「――、……す」
炎の熱ささえもはねのけて、自分の血潮の熱さも忘れて、ただただ、自分の中でどろどろと融け出してきた重い激情が、真っ赤に脳髄を赤熱させていく。
がり、と歯がなる。脱力し、刀を取り落としかけていた手が、柄に指を喰いこませていく。崩れそうだった足が力を取り戻し、噴き出す血さえ意に介さずに、心臓が力強く拍動を始める。雷光めいて奔る衝動は神経より全身に巡り、炎を飲み込み煮える血潮は燃え上がりそうな脳髄を更に加熱する。皮膚の下で、自分であったものが、自分自身である別の何かへと変貌していく。
――紅い、紅い、虹。
一筋の光を視た。
いや、一筋きり、ではない。
幾本も、この深い深い夜の闇に揺蕩うように、それは確かに在った。
夢でもなく、幻でもない。
血より深い、暮れ逝く空から空気という不純物を取り除いたような、真っ直ぐな紅。
酷く懐かしく、そして暖かい色彩。
何か、生命を、その原初の情動を、機構を象徴するかのような、その光景。
ああ。そうか。
この光は、導く光なのだ。
全てに在り、全てを進ませ、全てを望み、そして全てを終わらせるもの。
この世全てに満ち満ちるもの。
それに、身を委ねる。
「む……――!?」
激痛と熱さに震えていた瞳が、今、別の熱に憑かれて定まった。重なった青い視線が、一瞬同様に揺れた。同時に流れ込む炎の勢いがほんの少し弱くなる。
それを――致命的な隙を見逃す程、俺は優しくない。
抗う。全力だ。
熱く滾る俺自身を以て、侵略する炎を打ち消す。
空いた左手で、刀身を掴み、ずる、ずると引き抜きながら、一歩前へ。刃で切り裂かれ、肉から溢れる赤々と煌めく血は地面に落ち、陽炎を立てながら焦げ付いた。
「……ろす――!」
両腕を使っての押し込みに負けないよう、左腕に渾身の力を込めて刀身を抜く。あふれ出る血は熱いのだろう。心臓に流れ込む空気は冷たいのだろう。だが、今ではなにも感じない。脳を駆け巡る、この熱量全てを目の前の「俺」へ叩き込む。その意思が、衝動が、本能が、今俺を突き動かしているモノだ。
あるいは、ソレこそを呪いと呼ぶのか。
右手首を捻り、刃を返す。ぐいと左手を引き、相手の体を開けて――肩を、下より上へと切断する。
「ぎ、……っっっ!?」
短い苦痛の声は、直ぐに噛み殺された。血のようにあふれ出る青い炎を靡かせ、「俺」は後ろに飛び退る。
逃がさない。力の抜けた腕ごと刃を胸から引きずり出し、投擲。回転ベクトルによって指が役を成さなくなった腕は吹き飛び――刀は真っ直ぐに回転しながら、やつの足目掛けて飛翔した。
踏み込む。
一歩ごとにごっそりと体から抜け落ちていくものがあると理解できる。一歩ごとに脳の金宇が取り返しのないところまで言っていることを理解できる。
踏み込む。
だとしても、もう俺は決めたのだ。彼女にもう一度会うために、この悪夢を殺すのだと。その目的を遮るものを否定するのだと。
だから――
「――殺すっ!」
全身から、皮膚を喰い破るように血があふれ出る。熱く質量を持ったそれらはまるで俺の意志そのもののように、手や足に纏わりつき、その動作を補強し勢いを増していく。まるで衣服のように形を成したそれらの深紅とは対照的に、俺の肌からは熱が失われていく。
ぐっしょりと血に塗れた髪が重い。頭を振るって後ろに回す。派手に揺れた視界がやけにおかしく感じられて、ふっと口元に笑みを飛ばした。
手首を戻す。指先を回すように、くるりと切っ先が円を描く。顔を背けていた刃が真正面に向き変える。
いつしか、俺にはオーロラが見えていた。それはただ一色、混じり気のない純粋な紅で彩られた神秘的な光で――そして俺を導いている。
踏み越える。
踏み超える。
間合いを踏み砕き、煌めく紅に刃を乗せて、視界の中央に「俺」を捉え、駆ける、駆ける、駆ける!
全能感、ではない。ただ恐ろしく煮え滾る衝動と本能と理性の中で、冷たく冴えた刃金のように、事実だけをは淡々と形になっていた。それは逃れようがなく、逃しようもない未来。一切合切の可能性を焼き払い、最後に残った一握の灰のようなものだった。
俺は、彼を殺す。
真っ直ぐに「俺」は俺をみ返し、落ちた右手に構う事なく、逆手で地面に突き立った自身の刀を引き抜いた。
そして構える。獣のように、低く、鋭く、満ち満ちた血と夜の雰囲気に塗れ溶け込む様に、汗と油に塗れた、蛍の如き昏い昏い殺意を気配に雑ぜこんで。
――弾ね翔ぶ。
混ざり合う、情動と情動が混じり切れずに弾けて燃える。烈火のように猛る意思は、この身を喰い破りそうなほどに激しく脈動し続けている。
それら全てが肉を、骨を、血を、脳を、神経を、魂そのものを、限界を超えて駆動させる。
間合いが、死ぬ。
ほぼ同時に駆け出し、一秒の万分の一にも満たぬ刹那に衝突。ぶつかりあい飛び散った刃金と刃金の破片が赤く燃えて破裂する。こもり過ぎた力のせいで血管が破れ、体温で蒸発し赤い霧になる。睨みあった眼光と眼光が呪いに化けてぶつかり合う。熔けた脳漿が涙のように瞳から零れ、頬に焦げ跡を残していく。とうに止まった事を思い出した心臓は、止まない同号の震えを縁に踊り続けている。軋む骨は、燃える血を吐き出し続けてこの身を止まらせることなど許さない。
我武者羅に遮二無二に無我夢中に、共に一切合切が目に入らぬまま、共に互いの全てを憎悪しそして滅ぼさんと猛り、吠え、叫び、駆ける、駆ける!
三日月が雲に隠れるように、逆さの刀が半身になった「俺」の影になる。構わない。次の一手ごと、斬り伏せる。
切っ先は再び天頂を指した。
刹那に失墜。加速した刃はすでに血に塗れ、かつての鋭さと冷たさを思い出すことはもうないだろう。ただ、殺すには十分。一度斬って足らなかった。五度斬ろうと、十度斬ろうと、足らないまま。なら、幾百幾千幾万幾億幾兆幾京の刃を以て殺し尽くすだけだ。
頭蓋を割って、飛び散る脳漿を、噴き出す血を、零れた眼球を、眺めて唸る、
ヤツは死だ。故に、
「殺せねェよ――なぁ?」
真っ二つの顔がにやりと獣の笑みを浮かべる。さけたかと思える程に吊り上がったその口が、割れた三日月のようにも見えた。そして、刃金の三日月が今度はこちらに迫る。捻られたからだ全てを発条の様に放って伸びる一閃。踏み込んだ間合いは相対する「俺」のソレと重なり、そうして薄れて消える。
喪った顔を引き上げる脳や血を、振り回す程の勢いで放たれた一刀は、寸での所で俺の刃に阻まれた。
再び剣戟と呼ぶには激しい金属の衝突音と共に、盛大に火花が散る。
死なない。殺しているから、死んでいるから、「俺」はここに縛られ、死ぬことを――消えることを許されない。死そのものというには大分生き物に近くなっているが、その本質はまだ変化していない。むしろ、変化させるために「俺」は俺になり替わろうとしているのだから、当然の話だ。
そして、俺も同様。
「俺」の一手を、俺は殺し続けている。大きく隙を晒す必殺の一撃を乗り越えた、確殺の一手を俺は俺の権能で殺し、そして「俺」を殺す。
「俺」は死によって生き返り、俺は死を殺して生き残る。真逆の構造だ。
食って食われてを繰り返し続けている。千日手だ、前進がない。殺せず、殺されない。決定打の不足、どころか互いの決定打によって互いが生き延びているような状況だ。長い膠着は、確かに精神を削るが、それに左右されない権能は拮抗を維持したまま、その力を発揮し続けている。
また、一刀。
顔を染め上げるこの赤は、己の血と脳漿か、返り血だろうか。判別もつかず、意味もない。理由は定まったまま、繋がる二通りの答えを前に迷って揺らめき続けている。
弾いて、返す。刀が、軋み泣いている。数え切れぬ斬断に、衝突に、鐵の限界が見え始めているのだろう。この刀が重ねていた歴史を踏まえてなお地平の遥かに在った武器としての終焉が、ただ一晩に目前まで迫っている。
躊躇いはない。刀とはそういうものだ。零れて、錆て、歪んで、折れて、砕けて、その刃が何物も切り裂くことが叶わなくなる日まで、仕手の力として振るわれ続けるのがその本質だ。歴史? 価値? それは、これが闘争の為に砕け散ることを厭わせるにはあまりに無意味に過ぎた。
――走る。己の刃を届かせるために。
――吠える。己の覚悟を脳に焼き付けるために。
この肉体も、また、そういうものだ。
血は肉を走らせ、脳を廻す為。骨は肉を支え、肺は息を巡らせ、心臓は血を送り、目は眼前の敵を捕らえ、口は叫ぶためにある。全て、全て、打ち倒すべきものを打ち倒す為にこそ、真価を見出されるのだろう。
顔を拭う血衣は、燃え上がるかと錯覚するほどに熱く、体と共に脈打っている。逆立つ髪から滴る血の味はやたらに焦げ臭い。足跡は焦土めいた硝子質な黒を煌めかせている。
視界は、蒼い。
空だ。夜だ。からっぽ、がらんどうの真空が満ちている。輝いている。うずくまった獣様にこちらを睨む、真っ黒い「死」は動かない。そのままにやにやと口元をゆがめている。勝ち誇っている。勝てないのは自明の理だ。お互い様だろう。死が死を殺せるものか。このままでは何も変わることなく血と骨と脳漿と肉をあたりに撒き散らし続けるだけだ。
そして、そうすれば月は死ぬだろう。二度と、手の届かない場所へ彼女を連れ去ってしまうだろう。この町の終わりと共に力を取り戻す「俺」は待ち望んだ再会を果たすのだろう。俺は、「俺」の中で、その脳髄心臓血管粘膜神経臓腑のなかで蠢くことさえ許されぬまま後悔を噛み締め続けるのだろう。
嗚呼、アア、あゝ――それだけは、納得がいかない。
奔る血を、より迅く、迅く、廻して駆ける。
オーロラは、視えている。
殺す。
踏み込み、斬り、振り返り、斬り、跳ね上げ、斬り、撃ち降ろし、斬り、廻し、斬り、駆けて、斬り、跳んで、斬り、飛び込んで、斬り、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って、斬って――――
「殺せない! お前は殺し、俺を証明し続ける!」
「知るかァッ! 死ねッ、死ねッ、死ね死ね死ね死ねェェエエエエエエエアアアアアッッッ!」
牙を剥いて詰る。呪う。ああ、そうだ。呪いだ。呪い殺す。刃を叩きつけて、飛び散った紅に真っ黒い呪いを吐き出し続ける。真っ蒼に揺らぐ廊下の中は、どろりと熱い紅に塗れている。
伸ばした手が、延長の刃が真っ直ぐに心臓を割いて胸から腹まで深々と抉った。零れた腸を踏み潰して小汚く温い水たまりにしながらひっくり返した刃で首筋を狙う。その影よりこちらを狙う切っ先を、ずるりと踏み込む足を滑らせ体を沈め、耳の横を空ぶらせる。下がった刃を横倒しの弧を描くように振り上げる。顎を少し右にそれ、「俺」の顔が三分の二を残して大きくずれる。落ちる、頬の肉と骨、真っ二つに割れて零れる眼球。垂れ下がりかけた脳。それらがすべてがまるで冗談のように引っ張り上げられる。
にや、と釣り下がった三分の一が笑った。無力を笑う顔。嘲笑。ソレは決して許さない。
滑らした足に力を籠め、思い切り体を思いきり前に持ち上げる。その勢いのまま鳩尾に柄尻を捩じりこむ。ぼきゅ、と鈍くくぐもった折れる音を耳に聞きながら、引き摺り倒す。顔をごっそり失い、腹に致命的な一撃を受けた「俺」は碌な抵抗もできないまま背中を血まみれの床に打ち付けられ、真っ赤な咳を吐き出した。抉りこむ様に柄尻を下げていき、刀の峰に手を添え、力を込めていく。必死に前に出された「俺」の腕ごとその額へ刀の刃を喰いこませていく。
当然、「俺」は必死に抵抗をする。だが、防御に左腕を使い、挙句に右腕は斬り落とされたまま再生する様子はない。足をばたつかせるのが限界だが、胸の上に乗っているので、背中に膝も届かない。防御のために、刀を捨てたのは明らかに失策だった。そんなことも予測できない程に、「俺」は今焦っている。ならば、
ごりごりと嫌な硬い手応えを押しつぶすように、刀と峰にかけた左腕へ一気に体重をかける。がくり、と足を踏み外すような勢いで刀が下がる。
――まずは腕。
より頭蓋に深く食い込んだ刃が、脳漿まで到達する。融け合いかけた意識と思考に、物理的に冷たい刃が介入してきた。少なくとも、コイツは斬られている間は再生しない。俺の体から痛みが消える時こそ――痛みを感じる場所が死んでしまった時こそ、こいつが蘇る時だ。
考えろ。どうすればこいつは死ぬのか? 何がこいつを焦らせているのか? 何故斬り落とされた腕が再生しないのは? 俺の何がコイツを完成させる? コイツは今何が足りていない? 今まで起きたことを突き詰めろ。何が変化しているのかを見定めろ。それが致命の一撃になる――!
刀を立てる。柄尻を上げ、逆手に握りなおして、引き裂くように力を籠める。そうすると真上から割られていた頭蓋から一瞬だけその刃は浮かんで、今度は縦から入り込んだ刃の軌跡を押し広げる様に食い込んでいく。
もう、ロクな抵抗もない。冷たい感触もほとんど感じ取れない。再生が始まるのは時間の問題だ。だから、出来るだけこの体を壊す。先程までは殆ど一撃で致命傷に至らせたが、どうにも損傷の度合い――とくに損傷面積で再生時間に差異があるようだった。少なくとも時間稼ぎにはなる。
ある程度進んだところで、柄を下げる。同時に持ち上がった刃に、ばきりと頭蓋が割られ、その切っ先は顎の骨の内側――喉を穿っていく。ぞりぞりと肉をそがれる感触を猿叫にして吐き出し、力づくでまた柄を持ち上げる。ぶちぶちと顎関節を繋いでいた筋肉を引きちぎり、顎骨を剥ぎ飛ばす。それと同時に喉が開かれた。ごぼごぼと少しだけ血の泡が出たのは、生きているからではなく、肺が少し圧迫されたからだろう。
ずる、ずる、と肉片が動き出している。再生を始めているのだ。
時間的な猶予は、ない。いや――半ば実験のようになるが、試してみる価値はあるだろう。
喉から刀を引き抜き、逆手のまま今度は腹へ突き立てる。
心臓が止まっているため、血は噴き出さない。蠢きこちらを睨む、眼球を意に介さず、ぐい、と刀を倒して、深く突き刺して――そのまま引きちぎる様に柄を引いた。
重い手応え。もう刃が零れすぎているのだろう。斬るのではなく引きちぎっているのと、もうほとんど変わらない。
丁度「俺」の心臓の真上に足を置いて、思い切り踏ん張った。めきめきと幾本か肋が鳴って、足が沈み込む。
同時にみちみちと鈍い音を立てて、徐々に刃が持ち上がっていく。皮膚が伸び、裂け、肉が覗く。あちこちが零れた刃は、鋸の様に内臓に食い込み、そして引き千切ろうとしていた。
「ぎざ、ま、ぁ…………!」
割れ欠けた顎と裂けた喉で、「俺」が呻く。頭の再生は殆ど完了していた。早くはない。最初の攻撃の時にはもっと早い再生をしていた。損傷の度合いと再生速度に関係があるのはやはり間違いない。これを続けることも、再生時間を伸ばすという意味では間違いないだろうが、根本的な解決にはならない。
ぐり、と砕けた肋ごと心臓を踏みにじりながら、思案する。
「全部削ぎ落とせば、何とかなるか」
ばつん、という異音と、ずるりと引き抜ける感触。腹の皮を破って、腸を引き摺り出した。踏みにじる骨の感触と心臓の感触が、生温い。刀を振るって、引っかかったままの腸を遠くへと放り投げる。びちゃり、と濡れた音と共に血とずたずたの内臓が壁に張り付く。ぐるんともう一度振り回し、血を掃う。ほとんど切り裂く武器としては使い物にならない、が――
「突き刺すなら、話は別だろ」
「ギ――!」
繋がりかけていた右腕に、刀を突きさす。まだ脆いままの骨はあっさりと砕け、肉も簡単に引き千切れる。真っ当に腕の形になりかけていた「俺」の右腕は、また無意味な骨と肉の束ねかけに戻ってしまった。
引き抜き、また突き刺す。ふさがりかけていた喉をもう一度引き裂いた。
「ひゅ、――」
息の抜ける音。笛の様で、しかしどうしようもない程に不格好な高音。……耳は貸さない。思い切り体を捻り、勢いよく刃を、骨を断たれていた左腕に叩きつける。繋がり切っていない骨がまた折れて、筋肉と皮につながれたまま不格好に投げ出される。手の甲にもう切っ先が殆ど砕けかけた刃を突きさして、そのまま引き千切る。
またそれを遠くへ放り投げて、顔を蹴る。ごきゅ、と頬骨の割れる音と共に、眼球が眼窩から零れ落ちた。
刀を逆手から順手へ。
足の付け根目掛けて、振り下ろす。斬る、ではなく叩きつける。下手に斬ろうとしてもこの刃の状態では肉の繊維が絡んで動けなくなるだけだろう。
だから斧や鉈の様に、鋭い打撃として刀を利用する。少なくとも、今の刀の状態ならその方が効率がいい。
元の用途から外れようと、やたらと強くなっているように感じる俺の膂力なら、十二分に目的は達成できた。骨と肉の区別が無くなるほどに両足を潰しきる。四肢を喪い、頭を砕かれ、それでもなお「俺」の肉は、血は、這いずりながらまだ一つになろうとしていた。
しぶとい、などとは思わない。そうだろう、と静かな納得が胸の内に降り積もる。ここにきて、俺の熱は揺らめく蜃気楼のように、在るように見えても、その手ごたえを喪っていた。
彼は、彼の愛する人の元へ帰りたかったに違いない。ただ、それを俺は認めない。その過程で奪われてしまうモノを、俺が失うモノを認められない。許せない。その成就は確かに一つの幸福だろうが――自分の幸福を差し出す理由には程遠い。だから、
「――生きているなら」
――死んでいないなら
「そこ……まだ動いてる筈だよな」
ぎらり、天頂を切っ先が貫く。睨み据えるまでもない、視界の真中に、中心に、醜く小さい命の胸を置く。目掛ける。振り下ろす。
ぞぶり、鈍く柔らかさの後、硬い手応え。広がっていた肉片交じりの赤に波紋が広がる。抜けきった人間らしい暖かみを取り戻そうと足掻く塊に、それを守るためにある骨の檻を突き破って、冷たく凍った鉄の骸が差し込まれた。
震える。
生きようと、血を廻す。空気に溶けていく熱、血に溶けていく冷たさ。それがまるで毒の様にその生命蝕んでいく。生きるため、続くための拍動は、今やその首を絞める絞首台への前進へと成り下がった。
ぐり、と刀を捻る。ぶちぶち千切れていく肉の奥、歪み折れる骨の奥、まだもがき続けている心臓が覗く。指を差し込む。温い、冷えかけの血をかき分けて、その醜い内臓の裏に爪を立てる。刀を引き抜く。ぽっかりと空いた穴から、吐き出されるように一度だけ血が噴き出す。ぎゅ、と手に力を籠め、引き摺り出す。
拳に、食い込む骨の破片と、貼り付いた肉の感触を振り払うように、床に、心臓を叩きつけた。べしゃりと粘性の水音をまき散らして、それは床の上で潰れた。不格好なまま、びく、びくと不規則な、弱々しい蠕動を続けている。
繋がっていたもの全てから切り離されて、握りつぶされ、叩きつけ潰された心臓は、ひょうひょうと呼吸を続けるように、鉄臭い冷えた夜を飲み込み続け、続くモノのない血みどろの床に新しい赤を注いでいく。ひしゃげて役に立たないそれらは、息絶える寸前の獣か何かの様に我武者羅に、あるいは健気にその機能を続けている。いや、それは最早そんな表現は当てはまらないだろう。既に奉仕すべき肉体から切り離されてしまった以上、その無意味な肉の塊同様、 その機能も機能と呼ぶにはあまりにも無意味であり、賽の河原で石を積むのとなんら変わりがない。
例えるなら、そう――きっと、それは罰だった。新たに手に入れた肉の持つ本能、欲望に逆らえず、苦痛に耐えながら新たな苦痛を己に課すその有様は、罪に対する罰と呼ぶのが最もふさわしいのだろう。
では、その罪とは一体なんだ? 浮かび上がったそれこそ無意味な感傷と疑問の視線を浴びながら、心臓は最後の血を吐き出した。
罰を終えた。罪を、全て贖ったように思え――そして刹那に感傷と疑問に答えが啓かれる。
《…………よもや》
声が聞こえる。いいやちがう、聞こえてなどいない。この薄暗い空間には、空気を震わせるものなど己の鼓動しか存在しない。声など聞こえていない。
《よもや、この肉を、血を、全てを殺し尽くすか》
洞穴の奥底から聞こえる風音、恐怖を精神へ塗りたくる魔笛の楽、夜闇より這い出る得体のしれぬ獣の息遣い、或いは精神を蝕み狂気を呼び込む呪文の類だろうか。
いずれも、違う。
それは音に似て、言に似て、されどこの星に満ちるそれらとは全く違う、異星の呪いであった。
《だが――お前を喰らえば、まだ問題ない。貴様こそが我が肉と我が血の最果て。この星における私そのものだ》
静かに、俺は眼前にそびえる現実を理解した。
多くが螺子禍ったこの町において尚異質な正真の夜と同義である冷たき死が、それを知り、司ってきた鮮やかなる異星の青が、今、確かに此処に――俺の目の前に在る。
肉を持ち、血を持ち、そうして彼は己を変革してきたのだろう。その異形なる本質を包み隠し、忘れ、暖かな夢へ寄り添えるようにと、永い時の中を、脈々と受け継がれた願望と言う血潮の中で待ち、空虚な微睡みの中を彷徨ってきたのだろう。
その終点こそが俺だった。俺と言う、ちっぽけな肉体と人格だった。あの偉大な。遥か遠く貴い魂の望む有り様だった。
まるで、悠久の時を経た大渓谷か、生命を許さぬ大地の底で育まれた鍾乳洞か、はたまた那由他の命の連鎖を経て尚進み続ける広大な密林か――龍鬼刀夜という《現象》は想像を絶する意思を以て顕われようとしたのだ。この、ちっぽけな生を簒奪……否、それこそ収穫するために。
ただ、一つきりの孤独な永劫へ突き落してしまった、余りにも残酷な愛に報いるために。
「――は、」
口元が歪む。
壮大であった。スケールが違う。なんと素晴らしく、美しく、そして異形の在り方か。
比べるまでもない。この世の全生命が俺と彼を比べれば、彼を称賛し彼を肯定し彼に憧れるだろう。
比べるまでもない。ただ数日の感情と、夢幻さえも貫いたその愛と、どちらがより強固であるかなど、一目瞭然に違いない。
嗚呼、勝てない。勝てる筈もない。それは蟻が――蟻どころか砂粒に張り付き蠕動する細菌がこの宇宙全てに立ち向かうようなものだ。考えるまでもない。そのような対決があると想像することさえ滑稽だ。何条以て、それがあり得るなどと妄言を吐けるというのだろうか。
諧謔する。嘲笑する。俺はなんと無謀か。蛮勇と呼ぶことさえ烏滸がましい。こんなものに挑んでなんとなる。こんなモノと戦えるとでも思っていたのか。
嗚呼、嗚呼――俺は、どうしようもなく愚かしくて、そしてこれからもどうしようもなく愚かしいままだ。
迫る青。顔と思しき部位が展開し、青い触手が雨の後の川のように、濁流めいた勢いで襲い掛かってきた。それをかき分けるように、両の手で刀を構え――薙ぎ払う。
重い手ごたえが、幾重にも重なって手首から、肘、肩を駆け上っていく。もう、殆どバットを振り回すような感覚だ。当然、襲い掛かる触手をそれで防ぎきることはできない。体制を維持するため、足元を狙ってくるものを重点的に防ぐ。しかし、当然質量も、物量も違う相手だ。鉄砲水を身一つで止めようとしたところで、それが何秒も保てる道理はない。
酷く――本当に酷く呆気なく、俺は青い触手の奔流に飲み込まれた。
冷たく感じる程に熱いそれらは、ぞぶりぞぶりと俺を咀嚼するように、灰も残さず焼却していく。肉体と言う枷を取り払い、精神――正確にはそれを形作る魂を剥き出しにされた。
それは、あるいは死と呼ぶべきなのか。
飲み込まれていく。取り込まれていく。全身を駆け巡っていた血は、今や彼と同じ蒼い炎へと変じて、人間性を、生命そのものから切り離されていく。
俺という存在は燃え尽き、その炎を飲み込んだ黒い「俺」もまた、その在り方を喪おうと――正確には棄てようとしていた。
まだ、オーロラは視えている。
彼を飲み込み、私はその熱を胎の中で感じていた。
まさか、作り上げた体を全て殺し尽くされるとは思っていなかった。幸い、彼と言う完成品をまるまる手に入れることができた。目的は達成できた、というワケだ。そもそも、最初から本来の姿で挑むべきだった。
彼女に近くあるため、人形――あくまで人間という存在に近いだけの肉と骨の塊に、わざわざ拘ったのが失敗だった。いや、或いは成功とでも言うべきか? 痛み、苦しみ、そして怒りや憎しみ――今まで、巨きすぎたが故に感じ取れなかった繊細な感情を味わうことができたのは、まあ僥倖だったのだろう。今まで感じたことのないこれは、新鮮であり、煩わしくもあり、いずれにせよ、胸が高鳴るものだ。こんな素晴らしい物ならば、人間がこれを捨てることを躊躇するのも、これに並みならぬ敵意を抱くことも理解できる。
生きる、という感覚を恐らくは死ぬまで理解しえなかった私にとって、この感情はとても大きな収穫に違いないだろう。
腹の奥、熱が完全に溶けて消える。
……時間だ。
ぐるぐると体の内側で巡っていた炎が、徐々に縮み、重くなっていく。蒼い輝きをどろりと失い、炎はやがて暗く赤い血へと変貌していく。
感覚が全身から抜け落ちていくように感じ取れる。
――否、実際に今、私の体はそうなっている。私と言う存在を形作っていた精神、肉体は今やその原形をとどめぬほどに焼け落ちて、灰とも呼べぬその残滓より新たな肉体を生み出そうとしていた。
蠢き、滴る。あの夜、あの晩、あの時間、最後の一滴が私の手に墜ちた時のように、今私は転生を果たす。
肉体として機能していた権能が、概念が、私の意思による制御を離れていく。その意思自身も、多くの輪郭を取り払われていったことで、微睡む様に曖昧にぼやけていく。
滴り、滴り、滴り墜ちる。
触手状の器官からだらだらと己を構成する要素が抜け落ち、融け、滾りながら零れていく。赤黒くそれは床に広がり、這いつくばるようにあたり一面を染め上げた後、蠕動を始める。最初は微かな波紋が、次は大きく円を幾重も走らせ、やがて激しくその表面を波打たせ、徐々に徐々に手を伸ばすように尖りながら天井へと伸びていく。
最初に、指ができた。それは何を掴むでもなく虚空に爪を立て、がりがりと引っ掻くようにもがき、ずると引きずり出すように腕を伸ばす。鎌首をもたげた蛇のようにゆらゆらと腕は手首を揺らした後、唐突に狼が遠吠えをするように真っ直ぐ上へ手を伸ばし、そしてきつく拳を握り締めた。
じゅぅ、と焦げ付くような鈍い音共に形作られた部位から赤が剥がれ落ちていく。
――ぞっと、冷たさが指先から全身へ神経を駆け上っていく。
それを切欠にして、一気に泥濘の如く重い元素の血より体を引き抜いていく。
鼻が先んじて血に澱んだ空気を嗅ぎ、続く唇でまだ見ぬ世界に口づけをし、額をその輪郭に摺り寄せ、両の眼で恍惚と見つめる。
肩を撫でる微かな夜風に、両の腕を差し出し、すぐにだらりとたれ下げ、ずるずると足を引っ張りだす。
手をつき、膝をつき、喉にこびりつく苦く甘い血を無理やりに吐き出す。口の中に広がる血臭に脳が痺れる。これが、酔うという感覚なのだろうか。かつて彼女に感じたものよりも濁った暴力的な感触を、咀嚼し、飲み込む。
肌を撫でていく夜は、存外に冷たく、そして静かだった。視界を彷徨う明滅する月光は余りに眩しく、昏い。
かつて見ていた世界は広かった。色がなかったわけではない。音がなかったわけではない。ただ、そう、鮮明に認識するには、あまりに私はこの惑星の命と比べ巨きく、そして深く繋がり過ぎていたのだ。
「あ、ぁ――――」
渇いた喉を震わせ、私は歓声とも哄笑とも慟哭とも咆哮ともつかぬ絶叫を上げた。
感情が、感情が止まらない。止められない。この感覚、この認識、この世界。ああ、ああ、止まらない理解、認識、これほど極彩色の世界を、私は――俺は終ぞ知らないままだった。そう、そうだ。「だった」のだ。俺は今、確かにこの世界に存在している。生きている。呼吸をし、心臓を動かし、血管に血を巡らせ、脳細胞を廻している。ここにある。偏在とは比べようがないほどに心細く、そして確固とした感覚か。これほどまでに多くの情報を摂取するのは初めてだった。
声を上げる。上げ続ける。発狂しそうなほどの激情が、脳から溢れ神経へ逆流し、全身を震わせていた。
ああ、生きている。帰ってきた。ここに。この場所に。彼女の元に。あの夢見続けていた世界に。
「――帰ってきたよ、璃音」
震える喉で、俺はようやく意味のある言葉を吐き出した。
永い、永い約束の果てだ。俺はやっと、やっと本当の意味でこの星にたどり着けたのかもしれない。ようやくこの手で、俺は彼女を抱きしめることができるのだ。
なれぬ二足で歩き出す。俺の足元で揺らめく影は着物のカタチをとり、裸のままだった体を覆い隠す。触れる衣の感触を少しくすぐったく感じながらも、そんなことは意に介さぬほどに俺の心臓は痛みを感じる程に高鳴っていた。
会いたい。
揺らめく月明りの中を、ゆらゆらとおぼつかない足取りで歩き始める。
なれない肉の足を引き摺るように、ゆっくりと、それでも確実に、俺は前に進む。ひんやりと床が足の裏に冷たく貼り付いた。
何処となく、暗闇と肌を撫でる冷えた空気があの虚空の旅を思い出させる。
思えば、随分と遠くまで来たものだ。あの何もない暗闇を泳いでいる間も、何かを見て、何かを聞いて、何かを感じていたのだろう。
しかし、それらはあまりにも希薄だった。心からは程遠く、現実という薄暗い霞を越えることは終ぞなかった。故にこそ、孤独とさえ感じられるほどの存在の断絶が、己を取り囲む極彩色の異形の感覚が夢幻じみて感じられるのだろう。
遠かったもの。触れることなど夢見ることさえなかった、この感情。されど空想ではない。
今、確かに胸に抱いて今歩んでいる。血のつながる果て。約束の決着。離別の終点。芽吹いた悲哀は、ここに幸福な結末として結実しようとしている。
清々しい、というのはこういう感情をこそ指すのだろう。
かつて墜ちた時には感じ得なかった、彼女の語ってくれた春の夜の風。まるで夢のように儚い、桜の花びらを彼岸へ誘い、命の季節の始まりを告げる風。残酷で、そして誰よりも暖かなその風が今、静謐ながらも眩い朝日の予感に満ちた夜と共に、胸の内を満たしていた。
鼓動は刻々と確かになる歩調に合わせて、高く高く昇っていく。口ずさむのは、いつか聞かせて貰った古い流行歌。うろ覚えの不格好な旋律は、それでも不格好なりに弾んでくれる。
幸福を、唄う。
―――ぼくは きみにあいにいく
いつか きみにあいにいく
わすれられない あのひ
てのとどかない あのひ
おもいでを みちしるべにして
さよならを みちしるべにして
かつては遠かった歌詞の意味が、こんなにも近く、そしてまた遠くなっていく。
君に会いに行く。いつか、ではなく今、君に会いに行く。
忘れたことないあの日。もう手を伸ばさなくていいあの日。
思い出は道しるべだった。さよならの道しるべはもう要らない。
歩き出した。歩き出すための足を、こうして手に入れた。作り出した。
進む。進む。明日を目指して、進み続けられる。
昨日を振り返るのは、もうおしまいだ。
ぎし、と床が鳴る。
足元ではない。眼前でもない。俺の、すぐ背後。動くものなど何もない筈の場所から、それは確かに聞こえた。
振り返る。小さく鳴く床の音に、不穏な気配を感じながら視線を背後の暗闇に投げ入れる。
ゆら、ゆら、と紅色が泳いでいる。濃淡がその真っ直ぐな色彩に鮮やかなグラデーションを与え、砕けて散り舞う月光と共に、幻想的な光景を作り出していた。
その奥に、蒼が、在る。
「……まさか」
呟きに、微かに震えが混じっていた。
ありえない、と思考はその想像を叩き潰そうとしている。それができないのは、きっと、頭の奥底でそれを認めてしまうからだろう。彼は他ならぬ俺の血族で――そして俺はこの不可能とさえ思える計画を完成させた。なら、彼にもきっとそれは可能なのだ。いや、それどころか、彼の方がずっと簡単に彼の望む決着を手にできるのだろう。
ぼんやりと揺らめく異端の紅に、ぽつぽつと蒼の星が咲く。
それらはより集まりながら、確かな輪郭を暗闇の中に浮かび上がらせ、そして巨大な蛇に似ていた。
異形。尋常ならざるその姿、その威容。しかしそれは俺の知る姿とは違う。何よりも深く虚ろな黒ではなく、何物をも斬り裂き、蝕む害意の紅に染まっている。その体に灯る蒼い発光器も、この星の在り方を逸脱した異形の蒼ではない。空や海原、煌めく宝石に、咲き誇る花々など、この星全ての蒼をかき集め磨き上げた様な、生命の輝きに満ちた蒼の色彩。
炎の如く、儚く熱いその煌めきが、鼓動するように明滅しながら、紅の中に灯っている。
それは、巨大な蛇に似て――しかしその胴体には小さいながらもはっきりと足が存在していた。
珊瑚にも似た雄々しい角。朽ち葉のように鮮やかな鱗。揺らめく炎のような鬣。そして、爛々と輝く蒼い、蒼い眼――
其処には、深紅の龍が居た。生物としての存在を手にした今なら理解できる。これは、理外のものではない。この星に存在する者たちにとって不変の法。故に――嗚呼、これに抗うことなど不可能なのだ。それは続けるための行為である。それは閉ざすための行為である。
ずる、ずる、と体を引き摺る様にして龍が迫る。薄く開かれた口には、ずらりと並んだ鋭い牙が並び、宝玉のような瞳には、煮え滾る溶岩のように、憎悪が煌々と光を放っていた。
「は、ははは……そうか。そういうこと、だったか」
俺は、それを見て理解した。
取り返しのつかないことをしてしまったのだ。あの祝福は、約束は、成程、確かに果てしのない呪詛だったのだと。
「――俺が……」
だらりと、両腕が下がる。がくりと膝をつく。手に入れたばかりの体から力が抜けていくのが理解できる。絶望。そうか、これを絶望と呼ぶのか。口元には止められぬ悲憤とも、己への嘲笑ともとれぬ笑みが震え、強張る両の掌は顔を覆い、役に立たない瞼の替わりになろうとする。
「俺、が……、……ぁ、ぁあ――アァアア――――」
喉から絞り出される絶叫は、まるで獣じみて、そしてどうにもならない無意味な音のまま、響いて溶けた。
恋情は痛切なまま――否、今やどんな刃より鋭い呪いになり果て、愛は後悔と罪悪と悲痛に塗れた。――吐息がかかる。熱い、まるで炎そのもの様な吐息。眼前には顎があった。ずらりと並ぶ牙があった、首を差し出せば、直ぐに閉ざしてくれる決着があった。
そうしたくなってしまう衝動に囚われる。自分の所業を、到底許せるとも、許されるとも思えなかった。だからこそ、
「できない、できないんだ。死ぬことは、できないんだよ」
引き返すことは、ますます無理になった。進むごとに今や痛みが食らい付くとしても、そうすること以外に、道などない。最初からなかった。俺が自分自身で閉ざしてしまったのだから。
刀を引き抜き、振るう。いつの間にか手のひらに収まっていた影はするすると伸びて刃に化けた。走る一閃に、顔を背ける様に龍は顔を引っ込める。
彼は法を以て俺を喰らおうとしている。故に、彼もまた同じ方法に縛られている。
――絶望的なモノだ。肉の格が違う。命の格が違う。
だが、それがどうしたものか。こちらは背負う愛の重さが違う。償う罪の重さが違う。それらがここから俺を逃がしはしない。縛り付け、そして永遠に、前に進む時が来るまで立ち向かわせるのだろう。
それでいい。……そうすると決めた。
八相に構え、一歩踏み込む。
今、龍は怯んだように頭を後ろへ下げている。だが、短いながらもしっかりとした足はまだがっしりと床に爪を喰いこませたままだ。反撃は容易。鎌首をもたげているのと変わらない。
二歩目。構えは変えないまま、距離を、踏み殺す。まだ、龍は動かずじっとこちらを見ている。
三歩目――間合い。気を吐いて、振り下ろす。
風を引き千切って、力任せの一撃が竜の額へ――
ぶん、と風を斬る音と、腹へ鋭い衝撃。
踏み込んでいたはずの俺は、一瞬で吹き飛ばされていた。霞みかける視界の中で、ゆらと揺れている紅い尾を見てようやく理解した。あの長い尾で叩かれたのだ。
顎に、牙に、意識を取られ過ぎた――
ごろごろと床を転がり、酸っぱい唾を吐き出す。はっ、はっ、と不規則に喉を擦る息が苦い。胸は心臓が脈打つ度に鈍い痛みを訴える。
がくがくと震える足に鞭を打って、なんとか立ち上がる。……ここで倒れるわけにはかない。手放さずに済んだ刀を、もう一度構えなおす。同時に、龍が動いた。
するすると廊下の壁や天井を滑るように這って行き――こちらへ噛みつこうと大きく口を開けた。
早い。そしてその顎はきっと俺の体を容易く噛み砕けるだろう。
だが、ただ黙ってやられるほどは、甘くない。
後悔がある。恐怖もある。絶望だってある。だが、それでは足りない。どうあっても、進むと決めてしまった俺には、既に限りのない後悔と、まだ見ぬ決着への恐怖、取り返しのつかない過去への絶望と、ありとあらゆる罪に塗れ呪われそしてそれに許されぬ、許さぬとも進むと決意した俺には、足りないのだ。それでは。
頭が熱い。眼が熱い。胸が、熱い。灼ける。焦げる。そうして凍る。定まる。これを、覚悟と呼ぶだろう。真っ黒く穿つその一本の刃は、ただ前へ前へと突き進み、突き破り、そして折れることも砕けることもない。
時が、ぐるぐる、ぐるぐると、伸びて、延びて、停まる。
体が、動く。
酷く重く、遠く、それでも、確実に軋んで、動いている。狙う場所ははっきりとしている。そこにしか勝機はなく、そこにしか続く未来もありはしない。故に迷いもなく、戸惑いもなく、容赦もない。
手を指し伸ばすように、指をさすように、大きく開かれた口の中央――喉奥へめがけて真っ直ぐに、刀を突きいれる。
重たく、熱い手応え。腕の皮膚を少し削った牙の先の感触。涎と、血と、元が何かだったかさえ分からない吐瀉物に塗れながらも、何とかその切っ先を龍の後頭部から覗かせた。
ぎらりと煌めいたそれの輝きをしかと眼に刻み付けながら、振り回すようにして刀を引き抜く。
びしゃりと、鈍く重たい水音と共に龍の頭が床に叩きつけられた。刀はドロドロに汚れ、腕は血の熱さに爛れてしまった。
それでも、今、俺は立って、そしてアイツを見下ろしている。
「――はぁ、ぁぁ……」
溜息と、吐く。吐くことができている。生きている。勝ったのだ。
足を引き摺る。感傷は、後にしよう。今は早く彼女の元へ――
ずる、
ずる
ずる、
ずる、
ずる、
ずる、
ずる、
ずる、
ずる、
ずる、
立ち止まる。
何かに、引き摺られている。
死の恐怖に囚われかけて遠くなった、体の感覚は、それをしている正体を教えてはくれない。振り返ることはできない。
教えてはくれなくとも、それを俺は知っている。この肉体がそれを知っている。正体など、そんな大仰な扱いをするまでもない。それは命が生まれて以来、今日に至るまでただ一度の例外もなく向き合い、そしていつか受け入れなくてはならないものだ。
足に、いつの間にか紅い蛇が絡みつき噛みついている。
痛みはなく、力も強くない。しかし、それに俺は抗う事は出来ず、ずるずる、ずるずると引き摺られていく。床を掴もうとしても、引っかかるものもなにもない以上、それはロクな抵抗にならなかった。
後ろを振り向けば、さらに幾匹かの蛇が肩や腹に噛みつく。それだけではなく、さらに多くの蛇が大口を開けて、こちらに向かっている。それらの蛇の出どころは討ち倒したはずの、あの深紅の龍の首――
「――生きて、いるのか」
「ああ、生きてるよ」
ぼそりと呟いた戸惑いに、くぐもった声が返事をした。声の出どころが、判断できない。だが、はっきりとその声は聞こえたのだ。彼にはこちらの声を聴いて、返答するだけの余裕がある。つまりは、反撃の可能性がある。この蛇に何をされたのか理解できないが、少なくとも今、俺自身は酷く疲弊し、そして消耗している。この蛇を振り払う事さえ困難だ。こんな状況で攻撃されたら、と想像すれば、自然、焦燥が脳に、じりじりと嫌な感覚を広げていく。
必死に腕や足、刀を振り回して蛇を振り払いながら、視線を彷徨わせる。だが、映るのは蛇と、龍の死骸と、夜に満ちた廊下と、ゆらゆらと不規則に揺れる砕けた月光ばかり。
彼の――今や俺のものとなったあの人影は何処にも見当たらない。
幻聴? いや、そんな筈はない。では、一体何処から?
「呪いを知っているか?」
声が続く。
幻聴、ではない。確かにこの耳で俺は聴きとっている。
出所が分からない。
「誰かが妬ましい。誰かが憎らしい。誰かが恨めしい。なんだっていいんだ」
ただ声だけが、ひどく彼に似つかわしくない淡々とした声が響いている。出どころは、やはりわからない。ただ、声の大きさからさほど遠くはない、むしろ近いという事は理解できる。だからこそ、遮られない視界の中で、その影さえ捉えられないという事実が酷く恐ろしい。
「好きだ。嫌いだ。愛している。尊敬している。感情は、自分の中で完結するものだ。けれど」
何処だ。何処だ。何処だ。一体、この声は、彼は、一体、一体何処から――
ふと、違和感を覚える。
「その影響は別だ。肉を媒介にそれらは外へ伝い、そして何かしらの変化を引き起こす。それは例えば感情の先走りだったり――あるいは肉体の変化だったり」
もぞもぞと何かが動いている。最初は服の下に何かが潜り込んでいるのかと思い音でいた。
違う。奸悪が曖昧になっている体が、すぐにソレが何処にあるかを理解できていなかっただけだ。
腹の内側、腸の奥、俺の中央より、声は、否――声に似たその呪いは、脳髄を舐っていた。
腹の皮と肉を突き破って、腕が飛び出す。ゆらと開かれた指が柔らかく柔らかく踊って、ぐっと力強く握られた。
「人は生きる。生きて、感情を紡ぐ。そして感情は、世界を動かす。……簡単な理屈だ」
ずるずる、ずるずると引き摺られていく様に、俺の体から――私の体から、俺が抜け落ちていく。
「嗚呼――世界は呪いに満ちている」
酷く冷めた声。酷く、酷く醒めた声。その言葉はまるで刃のように私の心臓に真っ直ぐに突き刺さり、その冷たさを血潮に流し込む。
息が詰まる。心臓が凍る。血潮が止まる。骨が眠る。俺が、停止していく。
「きさ、ま――!」
「……元の口調に戻ってるな。しっかり返してもらったぞ」
ぱしゃり、と彼の足元で水音が響く。先程まで蛇や、龍の亡骸だった紅は、今や床を濡らす血の色彩になり果てていた。既にあの牙や鱗で武装した雄々しき生命の痕跡は跡形もなく、
ひたひたと床に広がる生暖かい液体ばかりが残されている。
何が起こったのか。彼が……私の体を、私の抜け殻を使っていたのは理解できる。だが、だが、確かにそれを私は殺したのだ。あの、強大に過ぎる生命に一矢報いた、そうおもっていたが――
「呪詛転生」
ぽつりと彼は呟き、その手に握る折れた刀を逆手で振り上げる。切っ先のない、不格好な鉄の断面がざらりと光を反射して、私を睨んでいる。
「俺の血潮は呪いだ。呪いは命に流れるものだ。だから、それを媒介に俺は生き返ることができる。奪い取ることができる。極めれば、死なずともそれを為せる。奪わないまま為せる」
振り下ろされた刃は腹を喰い破られ、抵抗できぬままの私目掛けて真っ直ぐに、本当に真っ直ぐ振り下ろされ――ぐしゃりと、視界を真っ赤に突き潰した。
痛みが鈍い。痛みを、外界から刺激を感じ取るための脳が、潰れた眼球越しに折れた刃に潰されてしまっているのだろう。
口を開けても、声が出ない。音が聞こえない。ただ、無感情な様子で彼は私を見下ろして、滔々と語る。
「お前は俺を殺した。それがトリガーだ。俺は、誰かが誰かを殺そうとしたとき、殺したときに湧く呪い、を俺は血潮にしている」
手を離し、ゆっくりと体を引き起こす彼の目は、あの龍と同じ真っ蒼な色彩に輝いている。完全に変質しているのだろう。元の、人間であった彼とは、彼と言う一個の器であった頃とは、もう、何もかも……
「――ありがとう、お前には感謝している。ここでこうして俺はいる。ここで約束を果たそうとしている。全部――お前が作り出した未来だ」
ぐ、と刀に重みがかかる。タツキトウヤが、その柄に足を乗せていた。
「だけど、全部が夢だなんて結末は哀しいから、全部が消えるなんて悲しいから、全部俺が、俺とあいつが約束と一緒に背負っていく。――あんたの願いを踏みにじって、先へ進むよ」
踏み抜かれた。
頭蓋の砕ける音と共に、ずると冷たい刃がまた深く潜る感覚。床に頭を縫い付けられた。これでは、動くことはもう叶わないだろう。
言葉と一緒に刃に貫かれ、私は、いつしか涙を流していた。
「さようなら、龍鬼刀夜」
最後に呪いの名前を呼んで、私と同じ名の少年は立ち去って行った。
決着は、酷く冷たく、凄惨で、これ以上ないくらい重く呪われていた。どうすることも、私にはできない。命を求め、そして今確かに求めたソレと共に私は潰えようとしている。
とどめるために、手を伸ばす力など、最早、私には残されてはいない。
敗北である。これまでの過去、のしかかる現在、やがてくる未来、全てに私は敗北し、ここに亡骸を晒している。それが、積み上げてきた私の所業にふさわしいものだとは思わない。この結末が、快く受け入れるべきものだと思えない。
だのに、何故だ。
頬を濡らすこの涙が、胸を締め付ける切なさが、こんなにも爽やかに感じるのは、何故だ。
涙で滲む視界の奥へ、彼は――私の子孫は歩き去っていく。その歩みは迷いがなく、此方を振り向くこともない。ただ、自分の意思で真っ直ぐに進み続けている。
「立派ね。あの子」
声と共に足音が近づいてくる。薄暗く沈みかけている視界の端、誰かが来たのが見える。
「久しぶり。随分人間らしくなったわね」
それが誰かを私は静かに理解し、ふっと小さく息を吐いた。そうしてなんとか俺は
「――ああ、久しぶり」
目を向けることはできない。閉じようとする瞼、どうにか押しとどめるだけで精いっぱいだ。それでいい。彼女が見送る背中と、同じ背中を見送れるなら十分だ。
酷く穏やかな心持だった。思ったよりも、ずっと凪いだままの心象がすとんと腑に落ちている自分が居た。どうしようもなく懐かしい、夢見ていた過去の面影。そうだ、かつてあった日常とは、確かにこういうモノだったのだ。
「前に進めるのだな。私は、彼を理解していなかったが……君はずっと彼を認めていた」
「だって、子供ってそういうものだもの。面倒を見なければいけないものだけれど、自分の意思を持って、自分のやることを決めて、そうして生きていくものよ」
穏やかな声が耳を撫でてくれる。となりに座り込む気配を感じながら、もう一つ、私は音のない息を吐く。
酔っているのかもしれないと思った。潤んで歪む視界も、熱で濡れてしまう声も、霞んでぼやける思考も、何か、とてもとても心地の良いものを飲み込んだからなのかもしれない。
満足、と呼ぶには足りない。感動、と呼ぶには切ない。寂寥、と呼ぶには暖かい。
これを、こんなものにも、人間は名前を付けてしまうのか。
なら、きっとその名は知らないままがいいだろう。私はそれを呪えない。受け止めるには重すぎる。きっと余計なものが滲んでしまう。
ふつふつと、揺れる感情を口の中で転がしてから、私は初めて横に座る彼女に、自分から声をかけた。重なる逡巡と、振り絞った勇気を一拍に詰め込んで、そうして言葉を吐いた。
「今更、だろうけれど、言わせてくれないか」
「……うん」
「ただいま」
「おかえりなさい」
短い、本当に短いやり取り。
それだけだが、ふっ、と繋いだ手を見失ってしまうような感覚に陥る。
それは、頼んでいた罪悪が、自分を括りつけていた後悔が、胸を貫いていた約束が解けて消えてしまったからか。
酒を盃から零すように、私は、横たわる終焉へ落ちていった。
……
眠るように、彼の瞳からは光が消えた。本当にあっというまに、名残もなく慚愧もなく、かつて再開を約束したわたしの伴侶はその第二の生涯に幕を下ろした。あるいは、わたしが知覚できないだけで、それはずっと地続きだったのかもしれないが、わたしに彼が触れ、声をかけたのは今宵が最新だった。そんな事実が、どうしようもなく切なく、そして愛おしい。
彼は約束を守った。それがどんな形だったとしても、覆しようのない現実だ。
触れる頬の感触は、冷たく硬い。それでも、滲む笑みのカタチを見て取れることに安堵する。きっと、報われたのだと信じられる確かな証だった。
ありがとう、とわたしは告げる資格がなかった。彼に歪ませられ、彼の望むわたしという感覚を多く喪ってしまったわたしには、彼を労う事など許されるはずもない。振り向けば、あまりに人が背負うには重たすぎる歴史が並ぶ。いつしか書架の如く格納され遠ざかった過去を、他人事のように眺めていた。それが現在にさえ及んで、ようやくわたしは自分を人だと信ずることができなくなってしまった。それでいいのだ。背負ったものは、願ったモノの代償だ。彼にかけてしまった呪い、それが牙を立て爪を立て身を抉る痛みそのものなのだ。
だから、それから目を背けることをしなかった。背けたところでそれは追ってくるまでもなく在るのだから、背けることができなかったという方が正しいのかもしれないが。
きっと、きっと、いつか、きっと。それは彼とわたしを繋いだまま時の奈落へ誘う、永劫の呪いであると、受け入れているつもりだった。
彼が、それを食い千切れるなどと、思っていたのはいつの日だったろうか。
いかなる言葉を以て、わたしはこの心象を吐き出せばいいのだろう。あまりに永くこの世を見続けた眼はもう乾ききって泣き方を忘れてしまった。
どうすればよいのだろうと、途方に暮れることさえできないわたしに、いったいどうやって彼に報いることができるというのか。
「……ねえ、どうしましょうね」
触れた指先からは、凍えてしまいそうな冷たさが伝わってくる。
彼はもう事切れている。いまさら何ができるわけでもないが……それでも、と考えられるのは、わたしなりの過去の残り香、というワケだろうか。
「ああ、わたしは――」
瞳を閉じる。彼にそうしたように、自分もそうする。涙が流せなくとも、きっと悼むことは出来るだろう。
もう、彼に再び会えた幸福を噛み締めることができない。
……
ひたひたと、いつかの夜のように一人俺は廊下を彷徨っている。
相違点は、怯えてないことと、懐中電灯ではなく砕けた月光が足元を照らしている事、それと目的がはっきりしていることだろうか。
俺には、終ぞ真っ当な信念も何もなかった。桜田美緒のような責任感も覚悟も、社真琴のような誰かのために突き進む勇気も、俺の内には存在しない。
だからふと、些細な疑問が俺の足元に転がるのだ。何故こんなところにいるのか。何故こんなことをしているのか。知らぬまま死んだところで、逃げたところで、誰もきっと俺を攻めてはくれない。帰るべき場所はとうに死に絶えて、新しい場所は今まさに終わろうとしている。
だから、こんなつまらない疑問が浮かぶのだ。
抗う意味が何処にある。
抗う意味は此処に在る。
そう弾き出すまでもなく、携えたままの結論が疑問を斬って捨てる。
鍵は七つ、確かに俺の手の中にある。あとは、あの扉の向こうに待ち受ける者を、俺がしっかり受け止められるかどうかだ。
暗闇の奥、ぼんやりと浮かび上がるように、あの扉が見える。
懐から鍵を取り出そうとすると、それらは蛍火のような柔らかい燐光を帯び、独りでに鍵穴に刺さっていく。
そのまま、何かをじっと待ち受けるように鍵は微動だにしない。
七つの鍵が何を求めているのか、はっきりと確証はなくとも、それでも告げる。きっと、それが最後の証だ。
「開けてくれ」
言葉と同時に、鍵が回る音が鳴る。全く同じタイミングで、まるで一つの音だったように鳴り鳴いた七つの鍵の音に続いて、重たい錠前が、床にぶつかる鈍い音が響いた。それを足でどけて、ドアノブにてをかける。
そして開けた。
外開きの扉の向こう、軋む蝶番の音は、真っ暗な閉鎖空間に殆ど響かずに飲み込まれてしまった。
まるで、夜を個体にしたような、一切の光を感じ取れない粘性の黒が、部屋の中には満ち満ちている。……今更、そんなものに臆しはしない。
躊躇いなく一歩、さらにもう一歩踏み込む。最初の一歩はまるで腐って温くなった汚泥をかき分けるようで、続くもう一歩は音のない胃も苦しい深海を揺蕩うようだった。
視界はたっぷりのインクをぶちまけられたように黒塗りにされ、鼻腔からは濃密な虚無の気配ばかりが感じ取れるばかりだった。周りを見渡すように、頭を巡らせる。暗闇の中を長く伸びた髪が揺れるのがわかる。首の骨が少し捻じれ、皮と肉が伸び縮みすることも分かる。
だが、それだけだ。
それ以外の感覚――外界から感じ取れるはずの感覚が俺の行動に追いついていない。
先ほど、あの気が遠くなりそうなほどに現実感のない――いや、文字通り現実などと言えるものでなかったあの夢現と同じようで、どこか違う感覚だ。
何が違うとは言語化できないが、それでも違う事だけははっきりと認識できる。
「意識ははっきりしている。……けれど、これだけ目的をはっきりさせているんだから何かしら反応しそうなもんだが――」
そうだ。俺の目的がはっきりしている以上、ここが夢の外であったのならもう少しそれに近い形で反応を示すはずだ。だが、そうならないというのなら――
足の裏で砂が鳴った。
気が付けば、薄暗い牢獄の中に俺はいた。少し戸惑うが、驚くほどでもない。これは、夢の外ではなく、俺ではないだれか別の夢の中、ということだろう。恐らく、月の見る夢でもない。
では、誰の夢だ?
ざぁ、と風が大きく、すすきの穂を撫でていく。
少しだけ緑を残した穂の色味は、夜空に浮かぶ大きな満月に照らし出されて、白金色に輝いていた。
「ああ――来たのか」
どこか、ぼんやりとした調子の声が聞こえた。月から真っ直ぐ下、丁度すすきの野原の中央に、浮かび上がった影のようにその人はいた。
長い黒髪が風に乗って蛇のようにうねる。煌々とした月の光を吸って、鳶色の瞳は金色に輝いていた。
その貌を、俺は知っている。酷く懐かしい顔だ。この町に来る前、俺は彼女に出会って様々なことを学ばせてもらった。……以外、といってもいいのだろう。彼女がここに居る筈がない、関係などどこにもなかったはずだ。そう、決めつけてしまうのは容易かったが、俺はそうしなかった。できなかった。
俺は、彼女の――師匠の名前も、何処に住んでいたのかも、何処から来たのかも、ほんとに人間なのかも、何一つ確証を持った答えを持ち合わせていなかった。
だから、
「お久しぶりです」
「うん、久しぶり」
とりあえず、自分の中にあった素直な感情をそのまま伝えることにした。
「こんな場所で、どうしたんです?」
「ここがわたしのそもそもの居場所だからね。帰るべき場所に帰ってきただけの話さ」
「随分とけったいな場所にお住みで」
「住めば都と言うだろう? まあ、好きでいるわけではないのだけれど」
「では、何故?」
「そういう約束だからさ。そも、わたしという存在はここで途切れてしまった。君の場所に行けたのは、まあちょっとした奇跡みたいなものだよ」
蛍火のような眼光が、ついと月から滑り落ちて、俺に定まった。幽かに、しかしそれ自体が輝いていると錯覚させるほどに強く、金色は俺にじっと注がれている。
ふっ、と淡い桜色の唇が柔らかく歪む。笑む声色で、彼女は俺に滔々と語りかける。
「僥倖だったな。こうしてもう一度君の顔を視れた。最後に別れて、それっきりだと思っていたからね」
「急でしたからね。驚きましたよ、お礼の一つもさせてくれないとは思いませんでした」
「……まあ、こういう在り方をしていると、どうしても制限が多くなる。仕方はなかったんだ」
言葉を切ると、彼女はゆっくりとした足取りでこちらに歩み寄る。
黒髪とは対照的な白い肌が、月明りに照らし出されて一層白々としている。頬に添えられた白い指は、酷く冷たく、まるで硝子か鏡のような無機質さを、それとは相反する肉と皮膚の柔らかさを感じさせる。
「分かるだろう? 人間じゃないんだ。どうしても現を歩むのが難しい。ここにこうして立っているのも曖昧となれば、尚の事さ」
ふっと、目の前にあった指がぶれるようにぼやけたと思えば、背中に柔らかな重さを感じる。振り向けば、彼女の旋毛が俺の背中に寄り添っていた。
「ね?」
「……そうですか」
彼女から離れるように一歩前へ出る。
今は、ここでこうして語らうことが目的ではないのだ。
ふっ、と少し肩から力を抜く。あまり畏まっても仕方がない。単刀直入に、要件を告げる。
「ここには貰いに来ました」
「何を?」
「――この家の始まり、その力をです。辻桐輝夜さん」
名前を、唱えるように、また眼前に立つ彼女へ投げかけた。
辻桐家、その由来――今この町に根付いた家系、根本である一人の女性、その名前こそが辻桐輝夜である。
「いいよ」
俺のご先祖様、というべきその人はにっこりと笑って、あっさりと了承してくれた。
ほら、と言って指差された先には、一振りの刀が抜身のまま突き立っている。拵えや、波紋などは、今手の中にある折れてしまった刀とよく似ている。だが、決定的に圧が違う。
存在感、とでも言い換えればいいのだろうか、それが全く違う。物質的には恐らく無事だった頃の手の中のものと差異は殆どなかったのだろう。しかし、それが放つ重々しい雰囲気は、それが今まで駆け抜けて――斬り抜けてきた血生臭い歴史、そしてそれだけ積み重ねてきた重々しい業が、質量を伴うと錯覚させるほどにこの刀には染みついているのだ。
「…………有難う。これで、前に進める」
「本当にいいのかい? もう、後戻りはできない。君は現在と言う時間軸から切り離され、どこにも留まれない漂流者になり果てる。誰にも記憶されない、誰にも認識されない、無個性な概念の一端になり果てる。それを、受け入れるのかい?」
「なあ、ご先祖様。もうとっくに、知ってるかもしれないけどさ――」
刀の柄を握る。前の刀の時も感じた、あのやたらと馴染むような感覚。それを更に強くしたような感覚がぞわりと掌から骨の髄まで染み込んでくる。
まるで、刀自体に自分自身の血管や神経が伸びていき、繋がっていくような、そんな異常な感覚。それを戸惑いも恐怖もなにも抱かず受け入れる。
「――恋は盲目で、恋する人間は無敵らしいぜ」
ずるりと刀を引き抜く。月光に照らし出された刀身は、きらりと鏡面のように輝いて、すっかりと変わり果ててしまった俺の貌を映し出している。赤い長髪、対照的に血の気の抜けた肌、そして宝石のような無機質な煌めきを宿した瞳が真っ直ぐに俺を見据えている。
「そっか、それじゃあ止めるわけにもいかないな」
少し肩をすくめ、ふっと小さく彼女は笑った。
「私も、恋をしたことがある。……ある、というか、それが目的でこちらに来たようなものだけれど」
月を振り返り、少しだけ目を細めた。笑っているような、泣いているような、なんとも曖昧な目で、じっと月を彼女は見つめている。
「結末がどうだったかはさておき……答えは得られたように思うよ」
風が、言葉を乗せて俺の耳元を流れていく。
一瞬だけ首を撫でていった涼しさと、声の中に冷え冷えと居座った現実が、言葉の中――その最後の暖かさとのギャップが、酷く優しく感じた。
「君も、きっとそういう結末を迎えるんだろうね」
彼女がさっと払うように手を振るうと、何かに引っ張られるような感覚と共に俺は彼女から離れていく。
「師匠――――!」
「さようなら。もう君と私は出会わない。私はここで終わったままだけれど――君は、まだこの先へ続いていくんだ」
振り返っても、そこにはもう誰も居なかった。びょおびょおと鳴く風が、真っ暗闇に吸い込まれ続けている。
ただ、彼女の言葉が酷く熱く俺の胸の内で滾っている。
この先。嗚呼、なんという激励だろう。俺に迷う余地なんてない。ここまでは博打だった。これからはきっと大博打だ。それでもそれを躊躇える程、俺は賢くなんてないし――なにより、俺を待つ彼女を俺は裏切れない。どうしても拭えない不安があった。どうしても払えない恐怖もあった。それを打ち破る呪いが、今、確かに俺の心臓を赤々と燃やして、一歩を踏み出させる。
眼前には砕け散っていく大きな月。俺は、屋敷の屋根の上に立っている。
桜の花びらが、大風に乗って飛んで行く。月の光を浴びて、一枚一枚が光り輝きながら、夜に鮮やかな軌跡を残していく。
その行先には、明かり一つない町がある。月居町。彼女が――辻桐輝夜がやってきたことによって、かつての名前を喪った町。俺を取り巻く全ての始まりとなり、今夜で終わるそれらの舞台だった町だ。僅か数日だが、それでも胸に渦巻く郷愁は、決して錯覚などではないだろう。古い因縁も、隠されてきた真実も、これから決する終着も、再会すべき彼女も、俺を形作る確かなモノだ。
刀を、構える。ゆらりと柔らかな弧を描く、白銀の刀身。鏡面の如く、砕けた月光をその身に映し輝かせながら、切っ先はぴたりと、俺の腹の前で止まる。
目を閉じはしない。左の手で、腹を覆う血の衣を開けさせる。俺なりに、ずっと考えてきた。悪夢を斬らねばならない。では、それをどうやって為すのか? 短い時間の間だが、それなりに呪術を知り、ある意味では学んだ。
血は未来へと、己を託す軛となる。例えば、桜田蒔苗が己の分身を産み落としたように、例えば、龍鬼刀夜がこの時代に己を再現してみせたように、血は強い縁を持つ。絆と言い換えてもいいだろう。受け継がれていく血は、過去の願いを現在へ運ぶ媒体とも言える。
なら、その逆はどうだ? 現在でこの血を一滴残らず焼き滅ぼしたのなら、その根本である過去には、何か影響が出るのではないか? 普通であれば、卵を割ったところでそれを生んだ親鳥が死ぬわけはない。だが、呪術にそんな道理はない。あるのは、ただ誰かを想い、願い、為すことのみだ。
「――ホームズ」
蒼い焔が、刀に灯る。まるで水が滴るように、或いは蛇が絡みつくように。
彼女の名前を、唱えるように呟く。
切っ先はその頂点をダイヤモンドのように輝かせ、するりと音もなく風を斬っていく。
――ホームズ。今、迎えに行く。
一息に腹を裂いた。
痛みは、一瞬。肌を破り、肉を裂いて、血を潜り、腑を貫く。白刃は無垢なその鋼の色を炎の蒼と血の紅と、それらが混ざり焦げ付いた黒に染まっている。神経と血管を灼熱感が駆け上り、痛みと認識できない程の激痛が肌を駆け巡る。自分の体が、バラバラに焼き崩れ、焦げていくのが克明に理解できる。
それでも、この手に握る刀同様、意識を手放すことはしない。刀身を縦から横に寝かせ、真っ直ぐに突き要られていた刃を、思い切り斜めへずらす。右の手も返し、左手を背中へ突き出した刀の峰へ添える。
荒くなる息を、歯を食いしばって噛み殺し、喉の奥から迸りそうな絶叫を、脳髄へ押し込めて、ぐっと体全体に力を籠める。ここからが、俺の目論見の正念場だ。
血が、呪いの軛となるならば。命をかける程、呪いや願いが強いのだというのなら。誰しもが予想できない剣が、必殺の魔剣足りえるのなら。
「は――ッ」
ギリギリと、肉が断ち斬られていく。重く、強く、刃はゆっくりと進んでいく。皮膚の内側からは炎が吹き上がり、端の隙間から洩れる吐息には火の粉が混じっている。髪も焼け焦げ、冷たい灰と残り火のように、骨のような白さとその奥に輝く赤を月光に晒していた。
必死剣。それこそが、馬鹿な俺の考えつく、唯一つの技――魔剣である。
走り出す。珍妙な体勢。崩れ落ちそうになるバランスと感覚、意識を必死に保ちながら低い体勢で一気に加速する。口からあふれ出そうになっているのは、吐き出した血か、それとも焼かれて灰になった喉そのものか。
月めがけて、跳躍。先程よりも一層に強い衝撃を、全身の未だ燃え尽きていない筋肉と皮、それと骨を総動員させて耐える。体を捻り、横だった刀身を縦の軌道へ。さながら、俺は車輪の軸だろうか。
ばつん、という嫌な音共に手応えは両の腕へ伝わる。あと数瞬後が正念場だ。
真っ直ぐ、真っ直ぐに月を見据える。
ああ、手は届かない。それでも、きっと、この刃なら届くだろう。
ぷつ、と一本の糸が千切れるように、俺の腹を真横に裂いて、紅の一閃が月を割った。瞬間、意識は暗転し、重力に囚われる俺と共に、底の見えない奈落へと墜ちていく。
――必死剣、月割り。それは、何もかもが終わる不確かなこの町で、確かに為されたのだ。
……
熱さが、じくじくとわたしの心臓をつかんで離さない。
頬に触れる暖かさが懐かしくて優しい。
声に似た音が聞こえる。声ではないけれど、きっとそれは声になろうとしている。
彼だ。彼が今、わたしの傍にいる。
それがたまらなく嬉しい。薄弱だったわたしが、もう一度濃く深く鮮やかな白色で紡がれるほどに、嬉しいのだ。
目を、もう一度覚ます。盲目は事実から逸れて虚構へ遷移する。触れる大気は酷く冷たく涼しい。伸ばした手、指先は何もない空を撫で、遥か頭上へ砕け堕ちていく月を目指し名残り悼んでいた。
最早、月の夢ではないのだと、明確に自覚していた自分自身が否定される。
紅のオーロラが縛り付けるように絡みつくように、愛おしむ様に、わたしの曖昧な輪郭を――曖昧だった輪郭に揺蕩い踊っている。
それが奇妙に親しく感じられたから、素肌の体に纏っていくことにした。
粉々に砕け砂のようにさらさらと夜の奥へ流れ、昇っていく。消えていく。それを眺めると、切ないような、清々しいような、複雑な感情を覚える。
その由来をはっきりと探ろうとして、自分の記憶が色のない水晶か夜の記憶のように空っぽなことに気が付いた。
誰? わたしは、一体誰? 此処は何処? 何故わたしは――あんなにも嬉しかったの?
呆然として、もう一度空を見上げる。砕けた月光が煌めく夜空は、とても幻想的で、とてもこの世の物とは思えない程に美しかった。
衣服のように纏ったオーロラは相変わらず少しだけ暖かい。心細い今は、その暖かさが心強い。うんうんと自分を励ますように頷いて、一歩一歩しっかりと歩き出す。
誰もいない真夜中の町を、ただ一人で歩き続ける。裸足の足には、砂利が少し痛かった。
何か、自分の記憶の手掛かりになるモノを探さなくてはいけない。
こんな時こそ、頼れる相棒と協力して――
「――――」
――協力、して……?
視界が一瞬、砂嵐か何かのように乱れて眩む。がりがりと頭の奥を、脳から伸びて広がる神経をひっかかれるような痛みを感じた。
心臓の熱が、一層強くなったように感じる。
じくじく、じくじく、じくじくじくじくじくじく…………延々と熱は強まっていく。
それを源に、火が燃え広がっていく様に、熱は血管を駆け上り、わたしという存在を確かに焼き固めていく。
どく、どくと心臓の鼓動が矢鱈にはっきりと聞こえる。感じとれる。先程までと違い、わたしは自身に血が通っているのだと思った。暗闇に沈む町が、どうしてか輝いて見える。どうしてか、胸がきゅうきゅうと切なくなる。
何故だろう。…………寂しい?
「何故、わたしは寂しいと感じるの――?」
胸の前で、両の手を組む。祈る様な、大事なモノを握り締める様な、そんな具合。
寂しい。わたしの傍に誰もいないから。それは、誰でもいいのだろうか。それとも、わたしは特別な誰かに、わたしは会いたいのだろうか? はっきりと形になった肉体とは真逆に、わたしの望むモノは、その輪郭を曖昧にも見せてくれない。
歩く。歩く。そうして、誰もいない町を彷徨い続ける。
ざらざらと砂へ溶けていく町。夢見る者を喪った夢。終わりゆく場所。願いのない幻想。今わたしが居るのはそんな場所だ。当然、そんな場所を彷徨うわたし自身も。
掌を見る。燻り空気へ呑まれていく煙のように、薄まり揺らいでいる。きゅ、と拳を軽く握れば揺らぎは収まり、代わりに細かな罅が深く刻まれ、さらさらと砂が零れ落ちていく。頬に触れれば、冷たい水槽に指を浸すように、するりと飲み込まれる。……この町同様、わたし自身も曖昧だ。
酷く、薄暗い心持になる。わたしは、このまま曖昧に、誰にも見つけてもらえることもなく、。
ふるふると、オーロラが少し震える。肌に触れる暖かさが、生き物のようにわたしを抱きしめてくれる。その仕草が、まるでわたしを励ましてくれるように思えて、少し嬉しかった。
「……ありがと。あなたは――」
そっと手でオーロラを撫でる。浮かび上がった疑問は、酷く些細で、そして酷く決定的に思えて――答えにはひっかからず空ぶって消える。
少し首を傾げる。この光に、わたしは何を思いかけたのだろうか? 何を感じかけたのだろうか? 空ぶってしまった思考の指は、宙ぶらりんのまま地面を指差している。
「何処へ行けば……」
誰に聞かせるでもなく呟く。そのまままた彷徨いだす。
誰かに合えたらいいなと、微かな願望を胸の中にあったけれど、それが叶うはずもない。ここは死に絶えた町。終わり行く町。かつて町だったものの亡霊。既に空っぽの箱でしかないのだ、誰もいる筈がない。何故そんな願望を抱いてしまったのか、軽い見当はつく。恐らくはわたしの過去が――その微かな名残りがそんな情動を呼び起こすのだろう。それに縋るべきなのかも、今ここにいるわたしにはわからない。
オーロラは、ずっと励ましてくれるようにふるふると揺れている。だから、少しだけこの微かな情動も慰められている。このオーロラの正体は皆目見当もつかないが、それでも害のあるものではないとわかる。それが唯一わたしにとっての救いだった。
……前に進もう。
砕け散った月は、もはやかつての面影を殆ど失い、大小の星々のように瞬いていた。なんとなく、月の砂、という言葉を連想する。粉々になったあの月が、どんな思い出を持っていたのかは知らないが、それもきっと欠片一粒一粒に閉じ込められ、今のわたしの様に孤独に彷徨っているのだろう。
硝子質に透き通り枝分かれしたそれは、元は何かの樹だったのだろうか。触れてみればひんやりとした感触が伝わってくる。透き通り、葉脈めいた罅が結晶質の幹の中を奔っている。
珊瑚か鍾乳石めいた無機質なそれに、唯一生命の名残を感じさせるのは、明かりのない空に手を伸ばす枝――それを儚く彩る淡い桜色の結晶であった。その結晶は雪のソレによく似ている。まるで桜の花びらがそのまま凍りついてしまったようにも見え、そんな宝石めいた樹々が並ぶさまは、とても幻想的だった。
「綺麗……」
ほっと口から呟いてしまった言葉に、ふるりとオーロラが揺れる。その様子が今までの雰囲気と違うように感じて、少し怪訝に思う。今までは励ますような、わたしを支えるような意思を読み取っていたが、今度は、オーロラ自身がわたしの言葉に喜んでいるような、そんな風に読み取れた。
間違いなく、これにははっきりと意思がある。それには害意はなく、そしてこの反応から察するに、この町ともなにか関係があるのだろうか。
疑問は募るが、それを声には出さない。もっと、この町の惨状の原因が、今何故わたしがここにいるのか、情報を手に入れなければいけない。ただ、終わっていくということだけを理解しているこの町に、手掛かりが残されているのか。それが不安だ。
何処か、建物の中ならばその中に住んでいた住人の残した物があると思うが――
「――どこも、砂になりかけている」
町は終わり続けている。つまりは現在進行形でわたしの求める情報が失われ続けているという事だ。時間はない。急がなければ。
手近な家を見つけ、中に入ってみる。かつて玄関の扉だったモノは、酷く表面が風化しており、どんなデザインだったかはわからない。ドアノブは触れた瞬間にざらざらと崩れ、足元に白い砂の山を作るばかりだった。仕方なく扉を手で押すと、あっさりと内側に倒れ、砕けた蝶番からはぱらぱらとやはり砂が零れ落ちた。
家の中は、案の定砂まみれだった。手掛かりになりそうなものは、残っていそうにない。
それでも、探さないよりもマシだろう。
天井からは時折さらさらと砂が零れている。段々と、砂漠を歩いている様な気分になってきた。日用品だったと思われる砂の山があちこちにある。ひょっとすれば、此処に住んでいた誰かもこの砂の中に紛れているかもしれない。
ふと、白色の中にそぐわない色彩を見つけて目を止める。のこった薄型の四角形から察するに、テレビか何かだったのだろうか? 多分に漏れず白く風化し崩れた砂の山の中に、一葉の写真を見つける。これだけはなぜか風化していない。……ホームビデオを見ている、この家の人々の写真だろうか、どこかでピクニックをしている様子を、楽しげに見ている人たちの様子が写されている。
どうして何もかもが失われていくこの町で、これだけが風化していないのだろうか?
怪訝に思いつつ拾い上げると、その瞬間ぱっと砂が光りながら舞い上がり、写真の情景を形作っていく。
「え――?」
驚いている間に、家族団欒の様子は流れていく。思い出を懐かしみ、次を楽しみにしたり、暖かな雰囲気が見ているだけのわたしにもよく伝わってくる。彼らには明日があった。とびきりでなくとも、素朴だとしても、確かな幸福がこの家の日常だったのだろう。
記憶がないわたしにだってわかる。これはかけがえのないモノだ。
「……わたしにも、こんな思い出あったのかな」
呟いた自分の言葉が、ちくりと自分の胸の奥を突いた。
……探索を続けよう。少なくとも、この写真が何かしらの情報になることは間違いない。建物……多分人が住んでいたり、強くかかわっている場所であれば、見つけられるような気がする。そういうところを重点的に探してみよう。
しかし、砂になっていく場所はどんどん増えていく。となると、手掛かりの写真を砂の山から掘り起こしていくことも難しい。場所の見当をもっとよく絞るしかない。
「あそこ……一番、怪しいかな」
見上げた坂の先、硝子の樹々に囲まれた大きな大きな砂の屋敷がある。
……
「思ったより遠い。……苦しい」
随分と歩いたつもりだが、まだお屋敷には着かない。振り返れば実際に町は遠いのだから、あの大きなお屋敷は、町から伸びる随分と長い長い坂を上った先にあるようだ。
わざわざ何故こんな不便な立地にお屋敷を建てるのか、今一つ理解に苦しむけれど、無駄にこんな風にするというのも考えづらいのできっと何か理由があるのだろう。
「高さがあるから、街を一望できるようにした、のかな……?」
振り返った時点で随分としっかり町を見下ろせる。あの屋敷からならば、それは綺麗に一望できるだろう。そうは言っても、今見えるのは終わっていく町だけかもしれないが。
「ふぅ、はぁ……」
息が、きれる。最初はもっと動けるような気がしたが、気のせいだったのだろうか?
「……足も、なんだか余計に重いような……?」
また歩き出そうとして、酷く足に違和感を覚える。休む前も軽妙とは言えなかった足取りが、何故だか余計に重々しく感じられた。怪訝に思って、見てみれば、先程までと比べ物にならないくらいはっきりとが罅入り、曇りガラスのように微かに透けている。
……時間がないのは、この町だけではなくわたしも同じだ。それは分かっていたけれど、この町が終わるよりも、わたしが終わることの方が先なのかもしれない。
「……………」
ぐ、と足に力を籠める。また、ゆっくりだけれど坂を上り始める。時間がない。焦っている。それでも進むしかない。
薄暗い水晶の樹々が立ち並ぶ、無機質な森の中を、歩く、歩く、歩く。わたしには進むことしかできない。今あるものをどうにかやりくりして、必死に何かを探さなければならない。立ち止まって何かを見つけられることもあるだろう。進み続けることで見落とすものもあるだろう。けれど、それは今ではないし、わたしが探しているものでもない。
確かにそう信じられるから、またわたしは重さを増していく足を、目に見える終着という泥濘から引き抜いて前に踏み出している。
「止まっちゃいけない……!」
半分睨みつけるように、わたしはまた顔を上げる。俯くたびに零れ落ちそうになる感情を、ぎゅっと自分の中に引き戻すようにして、歩き続ける。
ゆっくりとだが、確かに坂の頂上が近づいていく。
あと一歩、あと一歩、踏みしめるたびに、進むたびに、胸の奥が融けるような血の味がする。灰を噛む様に吐息がざらつく。苦しさは増していく。楽にはならない。終わるこの町同様に、わたしもまた取り返しがつかない。
段々と視界が開けていく。昇っていくにつれて、樹々が無くなっているのだ。どうにも、何かになぎ倒されるか焼き払われたのか、かつて森であったろう場所は不自然な開け方をしていた。
「………?」
不思議に思っていると、異音が微かに聞こえる。恐らくは、その音は微かな音などではなく、もっとはっきりとした大きな音だったのだろう。機能を失い始めた耳が、荒くなった自分の域からその音をとらえきれなかっただけに違いない。ざらりと崩れ出した耳に触れながら。わたしは後ろを振り返った。
一瞬、ずるずると這いずる大蛇のようにソレは視えた。違う。そんな生易しい物ではない。深紅の極光が、町を這いずっている。それが薙ぎ払われるごとに、かろうじて町の形を保っていた砂の塊は粉々に崩れ風に煽られ、紅の光に照らされ、砕けた月光と共にひび割れた夜を鮮やかに彩っている。
「――――」
それを、わたしは知らない。知る由もない。幽かな感情の名残と、僅かな時間だけが、今のわたしを形作る全て。だから、胸を焦がす程に滾る感情をなどあるはずがない。
「――――ぁ、」
それを、わたしは知らない。知る由もない。感情を手に入れたのは今。記憶が始まったのは今。だから、なくしたものに対する郷愁など、あるはずがない。
「そんな――――」
それを、わたしは知らない。知る由もない。名前などわたしの記憶には存在しない。それは自分以外の誰かを規定するものだ。だから、自分自身のソレさえ持たないわたしが、持ち得るはずがない。
「――――ワトソン君……!」
なのに、その感情は、感覚は、名前は、わたしのなかで渦巻いて、溢れて、声になった。
知らない名前。知らない感覚。知らない感情。それは、どうしようもなくわたしの胸を締め付けて、離れてくれない。これを、どうすればいいのかも分からない。思考がまとまらない。ぐるぐると視界が渦巻いているようにさえ感じる。ただ、あの紅色から目を離すことができなかい。あれに抱いた感情が、それを許さない。
ワトソン君。
わたしは何故そのような名前であれを呼んだのだろうか? 何故これほどまでに胸が苦しくなるのだろうか? 何故、何故、何故――!
一度収まった筈の疑問の渦が、また盛大に頭の中をかき乱す。
頬を、熱いものが伝っていった。触れてみると、目尻から零れ落ちた雫が温く指先を濡らした。気が付けば、わたしは立ち尽くしたまま泣いていた。何故泣いているのか、わからないことが酷く不安で、酷く切なくて、また泣く。泣き続ける。止めようと両の手で、顔を覆うが、それから溢れる程に涙は止まらず、拭っても、受け止めても、それでも止まりそうになかった。
いつしか、わたしは砕けた月をまた見上げていた。死に行く町中に響くような大声で泣き続けていた。もう両手は顔を覆うことはしていなかった。
ただ、泣きたかった。最初にあった細かで真っ当な理由は涙と共にとっくに流れてしまったのだろう。泣いているのが泣きたくて、ここに立っているのが泣きたくて、泣きたいのが泣きたくて、泣きたかった。
そうしている間、わたしは何もかもを忘れて泣いた。
渇望した記憶も、渦巻く疑問を、胸を締め付ける切なさも、知らない筈の大切な名前さえ、全部、全部、忘れて泣いていた。
故も分からないただひたすら大きく単純な感情は、爆弾のようにそれまであったわたしの感情を吹き飛ばしまっさらにしてしまった。
「ひっぅ、……ぐず、ぅあ………」
やっと嵐のような感情が収まった時、すっかりわたしの頬や首筋、胸からお腹は流し続けた涙で濡れていた。足からは力が抜け、濡れた砂の上にへたり込んでしまっている。
ずっと大声を上げていたから喉も枯れて、しゃくりあげる声も酷くガラガラだ。
するするとオーロラは涙の痕を拭うように体を撫でていく。そうして頬をすりすりとあやすように触れ、終いにはぽんぽんと頭を撫でてまた衣服のような形に戻った。
「……っ、すん……。あぃがど………」
お礼をすると、ふるふると静かに震えた。構わないとでも言いたげな様子だ。
大分すっきりした。さんざん泣いたおかげだろう。いっその事、爽やかにすら感じる。
立ち上がって、砂ぼこりを掃う。まだ、道半ばだ。
「――あれ?」
一歩踏み出して、首を傾げる。足が軽い。足どころか、全身が軽い。絶好調だ。見て見れば、肌は白いものの、血の通った色合いをしている。罅割れも、透き通りもしていない。
ぎゅ、と強く拳を握ってみる。少し食い込んだ爪の感触。血が退いて余計に白くなる肌。確かに生きている手だ。
何故だか、理由は知らないけれど、今のわたしは立ち止まる必要なんてなさそうだった。
もう一歩、わたしは前へ踏み出した。
……
味噌汁の匂いを深々と肺に吸い込む。朝だ。
白いカーテン越しに、柔らかな朝の光が空気に溶け込んでいる。靴下越しのフローリングの床は、もっと冷たかった。
母に、おはようと行って椅子に座る。身支度は大体終わっている。眠気は一口分だけ残っていた。
平々凡々とした朝だ。取り留めのない朝。一日の始まり。白いご飯と、黄色い卵焼きと、緑のおひたしと――――赤い、赤い血の色彩。
殺す。
殺した。
殺された。
ざっくりと指は斬り落とされ食卓に転がっている。ぶちまけられた味噌汁に血が滲む。零れた脳漿がご飯に降りかかって白色を塗りつぶしていく。頭蓋の欠片はぱらぱらと零れるばかり。食い込んだ鉄はやたらになまくらで痛いばかりだ。
もっとうまくやればいいのに。
もっとうまくやればよかった。
砕けた頭でぼんやりと考える。
見下ろす瞳で赤を舐める。
欠伸は一口分、口から洩れてどこかへ消える。
切り取り。
余白ができる。余白を作った。此処が何処か、俺は・私は・僕は・我は・誰か・何か。無意味が無意味に渦巻き消える。
展開。
ぱっと眩む様に色彩が花開く。
テレビを見ていた。家に帰ったのだろう。
ドラマを見ていた。見たい番組は特になかったと思う。
コマーシャルを見ていた。他愛のない広告だが気に入っている。
首が滑り落ちる。ごろりと視界が転がり、ぐるりと不本意に振り向いた。目が合う。なんとなく表情をしかめる。
「邪魔するなよ」
お互いに文句を言い合って、踵を返した。
切り取り。
展開。
夜道を歩いていた。暇つぶしの散歩。
自販機の前で立ち止まる。物色。
飲み物を買った。好奇心からの購買。
飲んで顔をしかめた。期待との相違。
喉から刃が生える。延髄に切っ先を突きいれる
味はすっかりわからなくなった。
まあいいかとどうでもよくなった。
切り取り。
展開。
ボールを思い切り投げた。少し上手だ。
思い通りではないけれど、悪くない一球だった。手応え、というのだろうか。
ぱしん、と小気味のいい音共にミットに納まった。ナイス、と肩を叩かれた。
ちょっとだけ得意な気持ちになった。先生に褒めて貰えて気分がよかった。
腹から臓物が零れ落ちる。
嬉しいけれど、授業の野球はそこまで好きじゃなかった。
切り取り。
展開。
「誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
プレゼントを手渡される。嬉しかった。
中身はヒーローの変身玩具だ。将来の夢だった。
食べかけのケーキをほったらかして遊んだ。勿体ない。
呆れた顔だが、両親は微笑んでいる。懐かしい。
楽しくてしょうがない。五歳の誕生日だ。
背中から背骨が飛び出す。肋が根元から切断され、開いた背中から不安定になった背骨が覗く。
痛くて思わず泣いてしまった。泣き声は喧しいから、嫌いだった。
切り取り。
過去は裁断されてなかったモノへ。記憶は焼却され無価値な灰へ。何もかもが喪われ、そうなることを望まれ、誰も知らぬ場所、誰も知らぬ時間へ潰えていく。
痛む胸はすでになく。流す血さえも枯れ果てた。踏み出す足は地を踏まない。伸ばした指は腐り落ち、睨む眼は抜け落ちた。
ただ赤く彷徨う魂と呪詛だけが骨肉である。ただ奪い終わらせる理が精神である。曝け出された赤い色彩が、奪われていく熱そのものが本質である。
展開。
過去は既に幻影である。繋がるものを失い、繋がれるものを失った現実は死んでいる。そうなるようにしたのは誰か。
誰もいない鏡を覗き込んでいる。合わせ鏡。何一つ映らない透明な空間が永遠と続くように、自他の境界を見失いただ現象としてあることが、既に当たり前となっている。そうなって何百年とたつのか、それとも数秒前の出来事なのか、全て意味を失ってしまった。確かな記録としてそうなったという事実だけがしがみついているが、それに重さはなく触れることもできはしない。無意味な記録であった。
斬り殺す。斬り殺す。斬り殺す。記録が生み出す幻影が、この現象をそんな形に見せかける。感傷もなく、感慨もなく、ただ淡々と結果だけが積み重ねられていく。あと少しだ。もう少しで、全ての反応が完了する。
理由はない。ただそうさせる原因だけが今この状況を作り出し、そしてそれも終わりを迎えようとしている。
真っ暗な、真っ暗な透明に身を委ねる。踏み出した足はあっさりとほどけ、触れた指は簡単に溶け、飲み込まれた脳味噌はなんなく霧散した。
と、そこで立ち止まる。
引き戻される。
「…………?」
疑問。何故、俺は振り返っているのか。
……
頁をめくる。めくる。めくる。飲み干すように読み下す。流れる様な文字列を追いかける。それはわたしだった。どこまでもわたしだった。今のわたしの内からぬぐい取られてしまったものだった。何か、視えない糸かなにかで体を操られでもしているかのように、わたしという意識と肉体は耐えることない衝動にかられそこに置かれていた本を読んでいる
因縁を知った。感情を知った。歴史を知った。事実を知った。顛末を知った。感覚を知った。知った。知った。知っていた。取り戻した。取り戻すことができた。彼の手によって、今確かにわたしはここに――
「……そう、だ。そうだった――――!」
立ち上がる。昇り続けた先、何もない場所に只ぽつんとあった白い本。真新しいインクの香りと、朽ちかけていた、蘇った紙の香りが対照的だった。
溢れて枯れたはずの涙が、また頬を伝う。どこまでも暖かい涙だ。嬉しくて流れるそれが、こんなに暖かいこともわたしは忘れていた。
これからどうすればいいのか、はっきりと分かる。
彼が何をしたのか、今どんな風になってしまったのかもわかる。
この肉体があることは、きっとこの瞬間にかける為だったのだろうと思う。
「――名探偵、だものね」
彼にそう名乗った。名乗ったからにはしっかりとその分の活躍を果たさなければいけないだろう。するするとオーロラが――否、ワトソン君の残してくれた彼自身の思考の残滓に手を触れ、目を閉じる。
彼は外科手術のように、月の精神からわたしを切り離した。当然、いくら異星の神性を血に宿していようと、真っ当な人の形でそんなことを成せはしない。だから、彼は彼という存在そのものを炎にくべでもするように書き換えた。生命体、精神体という軛さえ取り払って極々単純な現象と概念へなり、この町の解体を始めた。それも、もう直に終わってしまう。それは、彼という存在そのものが完全に喪われ、もう二度とわたしの知る形ではありえなくなってしまうことを意味する。それは許容できない。
ワトソン君は、わたしの眠っている間、ひたすらに戦い続けてきた。それが、わたしだけが救われるなんて決着は面白くない。ああいう時間は、報われなければ嘘なのだ。
やるべきことは一つ。彼を取り戻し、彼と共にこの町を出ること、
「ふ――」
静かに息を吐く。しんと静まり返る思考伝いに、脳をはっきりと認識する。ここが初めで肝心だ。彼はカタチを失っていく、なら、もう一度カタチを与えてやればいいのだ。
出来るだろうか? 小さい不安が首をもたげる。
脳の回路を繋ぎ変えていく。本来の機能とは別に、もっと曖昧なモノを見通せるよう、最適化していく。夜の向こう、輝きのない命の星させ見通せるほどに精度を引き上げる。
ぱっと瞼を上げる。ぞっとするほど透明な空、夜風に舞う砂の一粒一粒さえはっきりと見て取れる。
だが、それだけではまだ足りない。まだまだ形ない、光を介さぬ現象や概念を視認できない。だから、見えるものをずらす。ざわりと色彩を喪う町。もぞりと輪郭をなくし、どろりと紅色の輝きだけが取り残された。
見つけた。あれが今の彼だ。
ここからは繊細な作業だ。走り出す。
裸足の足の裏、砂の粒が微かに食い込む。ざわりと打ち寄せる町の慣れ果てである砂の波を踏みつけて、ふきあれる以上に成長した夜風を背に受け、大きく跳躍する。砕けた月の欠片が身を削って尾を引き、終には落ちてきている。それを尻目に真っ直ぐ、真っ直ぐ、彼の元へ欠け落ちていく。
赤い、人のようにも見えるそれはついにやるべきことを終えたのか、ふらふらとした、しかし迷いのない足取りで、どこかへ立ち去ろうとしている。一歩踏み出した途端、踏み出した足が解けて消えた。揺らした腕は溶けた。うつむいた頭はぱっと霧散してしまう。
着地。もつれそうになる足を必死に前へ。間に合わないなんて許せない。
「ワトソンく――へぶっ!」
やっぱりもつれて、どしゃっ、と顔から砂の山に突っ込む。が、なりふり構わず、腕を振り回すようにして前へ進む。
駄目だ。まだ、約束を守っていない。何も出来ていない。もっと、もっとわたしは、ワトソン君と――
するりと掌が虚空を撫でる。何もない。影も形も、そこにはない。彼は手の届かない場所へ行ってしまった。
すとん、と胸の中心に氷の塊が落ちていった。ぞっとするほどの切なさが、胸を貫く。声が出ない。喉が微かに震える。伸ばした指が、ちからなく丸まっていく。
くしゃり、口元が歪む。気が付けば視線が落ちていた。力が抜けた指が、ぎゅっと砂を握った。零れそうになる嗚咽をこらえる。きゅ、と唇を結ぶ。泣き出して、なんになる。
手の届かない場所。少なくとも、そこに彼はいるのだ。諦めてたまるか。そんなことで立ち止まっていられない。
だから、今は、まだ泣いちゃいけない。ぐいと涙を目元を拭って前を見て――、
「――なにやってんだよ、まったく」
ぽん、と頭に掌が置かれる。
呆然と揺れたわたしの視線の先には、赤色があった。どこまでも真っ直ぐな、ひたむきなその色彩は、目新しいはずなのに、酷く懐かしい暖かみを持っていた。それは着物の色だった。
赤い着物が揺れる。赤い袖の先、少し色白の腕が、掌が、指が、頬を撫でる。あのオーロラそっくりの手つきだ。持ち上がった視界の真ん中、悠くなった蒼い瞳と目が合った。変わらない表情で、彼が笑いかける。
「ただいま、ホームズ」
「ワトソン君……っ、――ええ、おかえりなさい!」
今度こそ、涙がこぼれた。とっておくと決めた涙は、もう溢れるままにできる。それでいい。今わたしは泣きたくて、今わたしは誰よりも幸せだ。
左手に持っていた記憶の本さえ放り出して、彼の大きな体を抱きしめる。暖かいとも、冷たいとも違う、それはかつての彼の体温ではなかったけれども、些細なことだった。
「約束、守りに来た」
短い言葉と共に、ワトソン君も、わたしを抱きしめ返してくれる。力強い腕に、すっぽりと包み込まれてしまう。
「やっと追いついた。月《お前》が綺麗だ」
呟くように彼はそう言って、わたしから体を離した。返答はいらないようだった。少し照れたのか、はにかむ彼はわたしの手を握って指を重ねた。
「行こう。探偵とその助手で、次の事件に会いに行こうぜ」
はっきりと言って、彼はにやりと笑んだ。悪戯めいた笑い方だった。夜の中、何度も見た笑みだった。
彼のしてくれたこと、彼の賭けてくれたものは、わたしの体みたいにちいさいけれど、これからもっと大きい物を返したい。それ以上だって渡したい。
だから、まずは次の約束を果たそう。とびっきりの思い出にしよう。
「ええ、お出かけしましょう、ワトソン君」
彼の手を、彼のように優しく握る。その瞬間、体に纏わりついていたオーロラが、以前のように形を変えた。紅色のディアストーカー、紅色のインバネスコート、随分と探偵らしい、そして懐かしい服だ。
あの夜が終わる。彼と共に駆け抜けてきた、愛しいあの暗闇が、終わる。
彼が刀を抜きはらう。銀を孕んで、紅に生まれた長大な刀身が、鮮やかに夜を薙ぐ。
「約束だもんな、ホームズ。ずっと、楽しみだった」
「うん。わたしもよ」
並び立つ。オーロラと月光。龍と猫。彼とわたし。どこまでだってまだまだいける。勿論この夜の先にさえ――!
風が躍る。彼を中心に渦巻く見えざる大きな大きなちからが、空気を――否、この町そのものを搔き乱しているのだ。それに巻き込まれるように街だった砂が渦を巻き始め、やがて夜空も月を覆い隠してそれ自体が微かに発行する無機質な白い天井を作り出す。剥き出しにされた町の亡骸は、北の果てで揺蕩う氷の浮島のように、冷たく透き通り輝いているように見えた。
これがこの町の実態。既に終わった空っぽで冷たい亡骸。それが、確かな意思を持っているかのように捲りあがり、歪み、砕けながら巨大な津波のようにこちらへ向かってくる。
とん、とワトソン君が軽々と跳ぶ。それは最早飛翔か投射じみた加速で透明な大気を真上へ突っ切り、遥か上空から凍りつき波打つ町を見下ろす。津波に似た町は大きく渦を巻き、やがて巨大な五指を持つ人間の手になった。
「連れ戻したいんだろうな。俺がただの人間に戻れば、お前が消えちまえば、町はまだ夢を視続けられる。ずっとズレ続けていっても、破綻も崩壊もしないで狂って……それを当たり前にするんだ」
だから、手を伸ばす。鍵であるわたし達へ、空高く帰っていく暖かな夢へ、己の冷たさに耐えられないが故に――
それにどうしようもない哀愁を感じるのは、寂寥を感じるのは、わたしの錯覚だろうか。
むつりと黙り込んで、ワトソン君は刀を高々と掲げる。それは、上段に似て、違う。蜻蛉の構えに似ていた。その刀身に上空を漂っていた砂が寄り添う。白が紅に染まっていく。ぼんやりと漂っていたそれらは一人の意思に共鳴しより集まっていた。長大な、長大な紅い一刀が夜を裂く。
「ホームズ」
呆気にとられるわたしに彼が声をかける。隣を視れば、彼も寂し気に微笑んでいる。
「さよならを言いに行こう」
重なっていた指が離れて、絡み合う。もう、言葉もいらなかった。
一緒に空を真っ直ぐに翔け降りる。指が大きく伸ばされる。氷の砕ける大音声と共に届かないモノへ手を伸ばすように迫ってくる。彼は、やはり微笑んでいた。こちらをちらりと伺って、それを少しだけ深める。きっと見えたわたしの表情もそんな表情なのだろう。
ぐん、と紅が振り下ろされた。真っ赤な一閃が空を深々と切り裂いて、そして腕に直撃し――刃が砕ける。
罅割れた氷の腕は、しかしそのまま砕け崩れることはなかった。ぎちぎちと擦りあう音を響かせながら、表面に砕けた紅色の砂が食い込んでいく。それと同時に、氷の腕はさらに捻じれ伸び、明確だった五指はばらばらに裂け、そこからまた枝が伸びていく。その内の一本が、真っ直ぐ、真っ直ぐにわたし達の元まで伸びて――軽く、頬を撫でて止まる。それがきっかけだったのか。
「じゃあな」
短い言葉。小さな金属音。枝の先々を喰い破るようにして真っ赤な砂が凍り付きながら膨らみ、ほころび、花咲く氷の音色。
彼がわたしの手を引いて飛び上がる。今日がお終いになる。頬を撫でて去っていく風と、乱れる髪、飛ばされそうになった帽子を押さえる。遠ざかっていく町の成れの果て。――今や透明な銀色に凍りついた桜の大樹に見えるそれは、どんどん遠ざかっていく。
一際強い風が吹く。堪らずに目を閉じた次の瞬間、わたしは深紅の龍に乗っていた。
「ワトソン君……!?」
『おう、人間やめちまったからな。こういう風にもなれる』
格好いいだろ、と表情が見えずとも楽し気に笑っているのが分かる声だった。なんだか、わたしも嬉しくなってしまって笑ってしまう。正直な話、負い目がないワケじゃない。それでも、彼はわたしに笑いかけてくれる。気遣ってか、本当に気にしていないのか、それでも笑顔を見せてくれる。それを、傲慢かもしれないけれど、わたしは無駄にしたくない。だから――
「ふふっ、あははははははっ! うん、そうだね。格好いいよ。ワトソン君」
『だろ? ああ、それじゃ――』
「うん、それじゃ――」
本が飛んで行く。わたしの記憶だった本だ。でも、もう大丈夫だ。彼を覚えているわたしがいる。わたしを覚えている彼がいる。きっと、いつまでも一緒に歩んでいけるだろう。
だから、わたしは、桜の樹の元へ帰っていく本を見送った。大きく手を振るように、本はばらばらと頁をはためかせて飛ぶ。
過去はここであの町と共に眠るだろう。沈みゆく町の煌めきを見て、少しだけ微笑んで、わたしはまた前を見た。最後、本の表紙だけがよく目に焼き付く。
『「――次は、どこへ行こうか」』
本の題名は「シャーロック・ホームズの冒険」。