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 ホームズ:急:序


 真っ白な頁が視界を撫でていく。

 わたしは本を読んでいた。表紙に記された掠れた題名は、「記憶」。

 何もない。何もない。ボロボロの頁は、そのままわたしの記憶の有様だった。

「酷いなぁ……」

 呟いて、静かに目を閉じる。なかった。何もなかった。空っぽだった。空虚だった。わたしにはわたししかなかった。

 わたしには記憶がない。記憶がない。存在しない。一番最初からそうだったのだ。何もない。故に何も思い出せないのも道理だ。埋めてもいない宝石を、掘り出せるものはいない。

 だから、わたしはわたしの知っているわたしとして存在している。わたしが知る以上のわたしはいないのだ。彼と共に過ごしたあの時間が、正真正銘のわたしだ。

 それを少なからず嬉しいと感じている自分が、少しだけ可笑しく感じてしまう。

 開け放たれた窓から風が吹き抜ける。ため息を一つ。

 窓の枠から床へ降りる。

 ぽっかりと、口を開けたように扉が開いている。その奥には一寸先も見通せない、深く濃い闇色が渦巻いているばかりだ。

 そこから、白銀が伸びる。透き通るような白。凍り付いたような銀。それらが混ざり合って、朽ち果てた色彩を晒して、わたしの体に巻き付いた。ぬらりと先端が開いて掌へ。撫でる様に指は頬を過ぎ去って、首元で立ち止まった。

 微かな息苦しさと締め付け。ぞっとするような冷たさが肌を貫いた。

 それを振り払う。冷たく、しなやかで、そして儚い細い腕は、あっという間に千切れて消えた。

「そっちに行く気はないの。ごめんなさい」

 淡々と意思を告げる。

 アレが何なのかは分からない。ただ、わたし自身に近しいものだとは理解できる。あれの誘いに乗ってしまえばお終いだという事も。

 きっと喪われる。何もかもがうやむやに融けて、何もかもがなかったことになってしまうのだと予感する。

 だから、決してわたしがアレの手を取ることも、誘いに乗ることもないのだろう。

「だから、近づかないで。触れないで。わたしは、もう一度会わなければいけない人がいるの」

 告げるのは明確な拒絶。どれだけ触れる手が懐かしい物だとしても、正しい物だとしても、切実なものだとしても、わたしはもう揺るがない。揺るげない。

「わたしは、忘れないの」

 ああ、きっと今のわたしは笑顔なのだろう。

 白銀がさらに数を増してわたしの体に絡みついた。

 恐怖はなかった。
































 かちり、と時計が壊れた。

 針が止まる。もう、誰かが時計を直すまで、時を刻むことはないだろう。

 ぎしり、と歯車が鳴った。

 中の歯車はまだ動いていた。健気に、懸命に、力強く廻っている。

 ぱきり、と外装が割れた。

 螺子れている。歪んでいる。壊れていく。たった一つ、歯車はまだ壊れない。

「…………」

 炎の揺れる薄明の中で、ぼんやりとわたしはそれを見た。

 止める気はない。直す気はない。

 壊れればいい。なにもかも、壊れてしまえばいいのだ。

 そう願って、この長い時間を生き続けたのだから。

 目を閉じる。視界を切り離す。眼を開ける。片側の眼球だけで世界を捉える。

 それが最後の儀式。

「始めましょう」

 これが最後の呪文。

 そして始まるのが、最後の呪いだ。



















「――くっ!」

「今日に限って数が多い……!」

 白刃一閃。切り裂かれた影が、もとより質量など持ち合わせていなかったかのように霧散する。

 あの後、二人で悪霊を斬っていたが一向に途切れないまま、更に他の悪霊が湧き続けていた。

 最初こそある程度余裕をもって戦うことが出来たが、時間がかかりすぎている。ちらりと時計を見ればもう二時間も経過していた。微かに絡みつく呪の影響もあって、今のわたしの動きは随分と普段より鈍くなっているだろう。……このままでは。

 嫌な予感を振り払うように、わたしは声を張り上げる。

「美緒っ! 護符はあと何枚ある!?」

「一枚! もう逃げる分しかないわ!」

「っ……! わかった! 任せろ!」

 心臓を、一瞬だけ冷たい手が握りしめたような気がした。

 刀を構えなおす。消耗しすぎた。今まではそれでも美緒の援護があった。が、それももう尽きた。今残る手札をきることは、逃げる手段の放棄に他ならない。それは――それだけは認められない。だから、活路を見出せるまで持ちこたえなければ――!

 揺らぎかけた精神を持ち直すために、また呪文を――言刃をかけなおす。

「――戸和謂流 雲瀬歩 螺祖 龍鬼刀夜

   火冥霊契 化縷真 生裏結 覆暮辺恵乃屡」

 いくら唱えても耳に慣れない音。意味さえ知らない力ある言葉。桜田より貸し出された、社に許される唯一の牙。それがこの呪文だ。

 既に死んでいる悪霊をもう一度殺す、計り知れない術理。あくまで与えられただけであり、どう考えてもわたしの身の丈には合わない力。得体が知れないから、そうそう何度も使いたくはないが、今はこれに頼るほかない……!

「はっ!」

 断末魔を旋律にして、舞踏を始める。立木は勘違いしていたが、わたしが修めているのは、戦闘の技術ではない。確かに剣術には似ているだろう。しかし、これはもっと不確かな相手に用いる技術だ。

 一つ一つの動作は単純だ。それを悪霊の動きに合わせて組み合わせ、連ね、舞楽と為す。

 伸ばす手に携えるのは刀。踏み込んで、薙ぐ。ただそれだけの動作。彼の用いる技術と比べれば、あまりにもお粗末。児戯にも等しい。この技は肉を断つことが出来ない。この技はあくまで儀式。そのための一工程に過ぎないのだから――

 呼気は短く一瞬に。緩急を刻み舞い踊る。

 白刃の煌めきを手向けの花にして、悪霊たちは霧散する。

 けれど――

(けれど――っっっ!)

 足りない。どうやっても、なにをやっても、足りない。足りない。足りない!

 どうすればいい!? これだけの数の悪霊を、どうやって滅する!? この、町全体を覆わんとする悪霊を!

「――っ! はぁっ!」

 絶叫しそうになった喉を戒める。口をつぐみ、焦る思考を落ち着かせて、舞う。

 いけない。先の事をいくら考えて焦っても、その前にここで悪霊に食い尽くされればお終いだ。今は間違えないように、ただ舞い続けて――彼女を、守らなければ。

「ふぅ――――っ!」

 刃風が唸る。駄目だ。もっと、もっと鋭くしないと。もっと迅くしないと。このままでは綻ぶ。否――もう綻び始めている!

 諦めない。ここで諦めたくない。わたしは、まだ、彼女に何一つ報いていないのだから!

「やぁあああっ!」

 踏み込む。円を描くように、一閃。群がってきた悪霊が真っ二つに両断されて消滅させられた。大丈夫。まだ戦える。まだ――!

 ぎり、と歯を食いしばって、刀を構えなおす。正眼ではなく、下段の構え。この方が、消耗が少なくて済むだろう。

 また、悪霊が迫る。……やはり数が多すぎる。ほとんど黒い波だ。

 大丈夫。大丈夫。大丈夫――!

 腰を落として、切っ先をずらしていく。縦ではなく、横へ。前ではなく、後ろへ。――動く。

 踏み込んで横薙ぎ。引き戻して逆袈裟。翻して上段から振り下ろし。下段から切っ先を上げて刺突。引き抜いてまた横に薙ぐ。斬って、斬って、斬り続ける。

 十体、二十体。まだまだ止まれない。

三十体。四十体。数が多すぎるけれど。

五十体。六十体。それでも、斬り殺せる――!

気が付けば、あたりに影はない。まだ気配はあるが、遠い。町中に蠢いているが、ここいらの物は大方片付いたのだろう。

 悪霊の残滓である、黒い靄があたりに立ち込める中、ほう、と一息ついた。

 ……少しは、数を減らせただろうか? とにかく、今すぐにここを離れなければ――

「――真琴、危ない!」

 美緒の声。無意識に下げていた視線を持ち上げる。

 ぼふん、と靄を突き抜けて真っ黒い手が伸びる。それも一本や二本ではなく、もっとおびただしい数の腕。腕。腕!

ほとんど斬ったと思ったが、まだまだ先程の波の生き残りが存在していた? 靄の中に潜んで、こちらが油断した瞬間を狙ったのか!?

どちらにせよマズい。幾らかは斬り殺せるだろうが、残りはどうしようもない。殺される――

「発!」

 短い声と共に、耳元で轟と風が唸った。

 見えない力が、眼前に迫っていた靄と悪霊をバラバラに吹き飛ばした。

「……これで、最後」

「美緒……っ!」

「今なら大丈夫。真琴、あなただけでも逃げて!」

 吹き飛んだ靄の向こうで、足音が聞こえる。足音が近づいている。……悪霊が、向かってきているのだ。

 かちかちかち、とカッターナイフの刃を取り出して、美緒は自分の手首に押し当てた。

「駄目だ! 君を置いてなんて……!」

「いいの。もう気が付いているでしょう? これだけの悪霊が出現する以上、もうお婆様は最終段階に移行している筈よ。……恐らくは、お婆様に計画が気取られていたのでしょう。だから、これはわたしの失態。責任を取るのも、わたしなの」

「だけど!」

「真琴! あなたはあなたの守りたいものを守って! ……大丈夫よ。わたしは幸せだから」

「……美緒。わたしは。わたしが守りたいのは……!」

 ふっ、と切なげに、彼女は笑った。瞳に光が揺れている。

 微かに震える声で、美緒は――わたしの大切な人は――

「……もう、行きなさい。時間がないわ。行って、彼に伝えて」

「――その必要はないな」

 ばさり、と大きな羽ばたきの音。

 黒い影が舞い降りる。巻き起こった風が強すぎて、眼を開けられない。

「え? え……? 屋敷の外? ……どうなってるんだ?」

ぽーいと放り出されたのは、ここ最近よく行動を共にした少年だった。

「立木!?」

「あ? 社? 本当に何なんだ……――っ!?」

 キョロキョロあたりを見回した彼は、迫りくる悪霊を見て固まった。

「――……」

「不安かね、少年」

「お前……」

「唐突で悪いが、協力してほしい。どうにもこの町のお嬢さんは、世間知らずでせっかちなようだ。」

「……なあ、お前はきっと知ってるんだろう? 教えてくれよ。あいつらはなんだ」

 黒い影――悪霊を指差した。

「もう聞いているだろう? ――悪霊さ。かつて人だったものだ。この町で笑い、泣いて、生きて、死んだ者たちの成れの果てだ」

「…………」

 肩のカラスが彼の疑問に答える。

 彼は、黙ったまま俯き、眼を閉じている。

「怖気づいたか? 人を――人だったものを斬ることは出来ないと。なに、心配はいらない。今の君を彼らはよく認識している。理性こそ失っているが、寄ってくるのは君に殺してもらいたいからだ」

「だから、関係ないってか?」

「安心したまえ。ここは我らが引き受ける」

 幾つもの羽音が重なっていく。気が付けば月が見えない。いや、違う。これは――

「亡骸を啄むのは、カラスの義務であり権利だ。そうだろう?」

 夜空が見えなくなるほどの、カラスの大群が飛んできた。

「これは――」

「すまんな桜田、そもそもこの町で死体を専門にしていたのは我々だ」

 カラスが首をかしげるようにしながら、何処か懐かし気にそう笑った。

「やるべきことは分かっているな?」

 そのまま、美緒にそれだけを告げた。

「……はい。桜田蒔苗を抹殺しなければなりません」

「よろしい。それでは共同戦線と洒落こもう。あの魔女は、私だけではどうすることもできないからね」

 カラスが立木の肩から飛び降りて、くるりと宙返りをする。

 ごきり、と嫌な音がして、気が付けば真っ黒い見慣れた鳥の姿は、歪でおどろおどろしい造形に切り替わっていた。

 翼は片方が大きく肥大化して捻じれ、先端が指のようになっている。もう片方には小さい翼が余分に生えている。足も片方は普通だが、もう片方はほとんどそのままの人の腕が突き出ている。顔は焼け爛れ、嘴は罅割れ欠けて、その奥からは人間のような歯が見える。

 そんな形の、人の身長よりも頭が高いカラスが、彼のすぐ隣に舞い降りた。

「……お前、口あったんだな」

「なければ喋れないだろう?」


 ……


「真っ直ぐに桜田の屋敷へ向かうのかね?」

「いえ、最初はこの子の家へお願いします」

 カラスの背に乗って、夜空を翔ける。

 美緒さんとカラスはそのままで襲撃の段取りを手早く固めていった。社はずっと美緒さんの背中にしがみつきながら震えている。……高いところが怖いのだろうか。

「ふむ、社の家にかね?」

「取りに行きたいものがあります。ここまで強引な手段に訴えた以上は、既にお婆様もこちらに対する防御策を講じているはずです。ならば、あまり急襲に拘らず、出来る限りの戦力を投入することが最善でしょう」

「道理だな。それではそうするとしよう」

 カラスはぐいと進路を変える。少し気になったので、美緒さんに問いかけてみた。

「なぁ。社の家に取りに行くものって何なんだ?」

「この子自身の装備と……あなたに関連するものですよ」

「……俺に?」

「はい」

 真剣な表情で、美緒さんは俺と目をあわせた。

「統也様。よく聞いてください。きっとあなたは、この戦いの後にとても大事な決断を迫られます。わたしはあなたがどんな選択をしようと、それに従います。だから、どうかお心のままに、後悔のない決断をしてください。……どうか、お願いいたします」

 そう言って深々と頭を下げる。正直、未だに俺は彼女がここまでしているのかを理解できていない。

 だけど、今この瞬間だけは、

「……ああ、分かった。そうするよ、美緒さん」

 そんな理由で誤魔化して、先延ばしにしてはいけないんだと思った。

「……美緒」

「こうするしかないのよ、真琴。ここから先――お婆様を殺した先に待ち受けているのは、わたし達の及ぶところではないわ」

 美緒さんは静かにそう笑う。

「さぁ行きましょう」

 ばさり、カラスの歪な翼が、真っ黒な夜を羽ばたいた。


 ……


「ここが……」

「…………わたしの家だ」

 大きな鳥居とは対照的な質素な神社と、その近くに建てられてた予想以上に新しい母屋。それが社真琴の実家だった。

「あ、あんまりじろじろ見るな!」

「すまん、神社の家なんて珍しくてな……」

「地下室まで案内するわ、着いてきて」

「私はここで待っていよう」

 他人の家だというのに、迷いなく進んでいく美緒さんに着いていく。

 鞄から取り出した蝋燭に灯された火が、彼女の足元を揺れながら照らしている。

 狭苦しい縦穴を梯子で降りる。

「……家に、こんな道があったとは」

「社も知らなかったのか」

「この道は隠された道。秘匿する場所。人目に触れることは余程の事がない限り許されていないのよ。それも桜田の許可がなければいけないし、お婆様は許可を出すつもりもなかったようだし、真琴が知らないのも仕方ないわ」

 そうこうしている内に、底へ着いた。硬い感触。石造りの様だ。

 かつ、かつと足音が響く。橙色の光が、でこぼこの壁や天井を照らしている。

「……随分古いんだな」

 俺のつぶやきに、彼女が頷く。

「この部屋は社の家がこの町にやってきた時に作られたものだからね。数えるのもばかばかしい年月存在していたはずよ」

「……美緒、聞いてもいいか?」

「何かしら?」

 社の思いつめた声に、美緒さんが振り返る。手元の蝋燭に照らされる彼女は、口元ははっきりと明るく照らされているのに、目元が影になっていてよく見えなかった。

「……一応、わたしも自分の家系が呪術師と関連があることは知っている。だが、そこまでだ。恐らく外様とも呼ばれているから、桜田に敗北し、こうして従属しているのだろうと理解もしている。だが……肝心の、何をしていた家系なのか、何故敗北したのか、そこだけがぽっかりと穴が開いているんだ。それを、君は知らされているんだろう?」

「ええ。知っているわ」

「その答えは、この先にあるのか?」

「そうね。そういうことになるわ」

「……わかった。それなら、いい」

 社は、そのまま無言になってしまった。

「統也君は、どうする? 今のうちに何か聞いておく? そろそろ着くから、そっちで話した方が早いのだろうけれど」

「……じゃあ、一つだけ。この町にとって、カラスってなんなんだ?」

「彼らはこの町の、元々の死神よ」

「元々……?」

「後でそれは説明するわ。この町ではね、元々人の亡骸をカラスが食るって事があったの。そうし続けることで彼らは穢れを引き受けて、この町には悪い妖怪や悪霊が産まれないようになっていたのよ」

「……掃除屋、みたいなヤツか」

「そうね。そういう見方をするのが正解かもしれない。そういう関係が続いている内に、人の形になって、死期が近づいた人の場所に表れるようになったのよ。元々鳥葬が根付いていた土地じゃないから、死体をカラスに食べられることに抵抗があったわ。だから、彼らは――彼らの祖である彼女は、ある契約を持ちかけたわ」

「契約? どんな?」

「死ぬまでの間、死期が近づいた人間を見守り、守護する。出来る限り幸せにする。そういう契約。それからは、カラスは町の人間に受け入れられたわ」

 死神。カラス。――彼女。

 あの廃ビルで見た天使は、まさか……そういうこと、なのだろうか?

「今では、廃れてしまった風習だけれどね。それを信じる人も、それを知る人も、それを願う人も少ないわ」

「なんだか、寂しい話だな」

「そうでもないわ。カラスたちに寄り添おうとした人間は確かにいたから」

 ぽつりと呟けば、そう彼女は笑った。

「多くの人間は忘れてしまったけれど、ずっとカラスたちを覚えていた人間もいて、そういう人間は契約をずっと執り行ってきたわ。だから、きっと寂しくはなかったと思う」

 かつ、と足音が止まる。

「お待たせ。やっと到着。これで、さっきの死神の話も、真琴の家の話もできるわね」

 蝋燭の火が揺れる。

 札を大量に張り付けられた、木製の扉がそこにはあった。

「行きましょう。統也君。真琴。何もかもを教えてあげる」

 ぎぃぃぃ、と嫌な音を立て、独りでに扉が開く。

 ぽっかりと口を開けた暗闇の中に、彼女は振り返ることもなく入っていった。


































 目を開ければ、そこは薄明の中だった。

 わたしはそこを漂っている。全身には銀色の細長い腕が絡みついていて、徐々に銀色が強くなる方へと引きずり込んでいく。

 それをいけないことだと理解しているから、手を伸ばす。暗く深い場所へ。わたしの元居た場所へ。体が重い。腕を動かすのにも苦労する。ごぼ、と口から泡が漏れる。音に慣れないまま、銀色の中をただよって、わたしが手を伸ばす方向とは逆さに昇っていく。

 いやだ。

 自分が曖昧になっていく感覚。触れる感覚は暖かいようにも、冷たいようにも感じ取れる。どちらでもない、どちらでもないのだ。触れていると錯覚しているだけだ。このまま、わたしは解けて消えてしまいうのだろう。そんな結末は認められない。望んだものを諦められない。だから、足掻く。藻掻く。

 いやだ。

 約束を待つばかりが、わたしの出来ることじゃない。腕は解けない。引きずられることをやめさせることもできない。それでも、少しはそのスピードを遅くすることくらいはできる。彼をわたしは信じている。だから、わたしは絶望しない。

 彼が立ち止まっていたっていい。この手を伸ばすことが無意味でもいい。どん底まで落ちる未来が待ち受けてたっていい。

 今、わたしが確かにそうしたいと思ったから。そうしたいと願ったから。それだけが理由だ。それだけで十分だ。

 薄明が揺らぐ。白銀に呑まれる。暗黒が遠のく。手を伸ばしても届かない。藻掻いたところで止まらない。

 ごぼり、ともう一度声にはならない泡が昇る。

 沈む暗闇の奥の奥、底の底。手の届かない場所から、わたしの帰る場所から、蒼と紅が渦巻くのが見える。

 ああ、ほら。

 やっぱり見つけてくれた、

「ワトソン君――!」








 話は随分と昔に遡ります。昔、この町には辻桐という家がありました。

 辻桐は呪いを生業とする家系で、代々外の家から種を貰い受け、子供を為して続くのがしきたりでした。

 ある時、この町に大きな物が降ってきました。それは蛇によく似た、空の果ての生き物だったのです。誰もが怖がって彼には近づきませんでした。見たことも聞いたこともない、空から落ちてきた生き物ですから、当然のことです。

けれど、そんな彼に近づくものが一人だけ居ました。辻桐の家のお姫様です。彼女はとてもおてんばで、いつも家の者たちの言いつけを破ってばかり。付き人の、桜田の女の子も大層手を焼いていたのです。空から大きなものが落ちてきた時も、おてんばは治りませんでした。こっそりお屋敷を抜け出して、誰よりも早く彼に会いに行きました。

彼を見に来たお姫様を見つけて、彼はこう言いました。

「ありがとう。綺麗なモノを見た。これで満足だ」

 心の底からの言葉でした。もっと不器用な声、もっと不器用な言葉で、彼はお姫様にそう告げたのです。

 お姫様は首をかしげて言いました。

「何を言っているの? そんな早く死んでしまってはつまらないわ。もっとお話ししましょう?」

 心の底からの言葉でした。どこまでも平常運転、おてんばわがままで、お姫様は彼にそう告げたのです。

 これを聞いて、彼は大爆笑。あんまりに驚いて、あんまりに可笑しくて、あんまりにばかばかしくて、笑いが止まらなくなってしまいました。彼は大層彼女を気に入りました。こんなに我儘で、美しく、可愛らしい生き物を他に知らなかったのです。

 こうして劇的な出会い方をした二人は着々と愛を育み、幸せな結婚をしましたとさ。

 めでたし。めでたし。

――と、そうは問屋が卸しません。

この二人は深く愛し合っていましたが、一つ問題がありました。それは寿命です。彼は遥か空の彼方から旅をしてこの星に降りた身。長い旅路を歩んできた彼には、お姫様の人生を一緒に歩めるだけの余力が残っていなかったのです。

 彼は大層悲しみました。けれども、満足もしていました。そもそも死地を探して彷徨っていた身ですから、最後に良い時間を過ごせたと、幸せだったと満足していたのです。

 彼女は納得しませんでした。ふざけるな、と激怒して、国中の、世界中の医者をありったけ攫ってこいとまで言いました。皆がやらないなら自分がやるとまで言いだしました。彼への愛情の裏返しです。お姫様は彼と死ぬまで一緒に居たいと願っていました。

 それを彼は引き留めます。そんなことを彼女にしてほしくなかったのです。

 だから、一つ提案をしました。

「死ぬ前に一人子供を授けよう。その子供を私だと思って愛してくれ。そうして、その行く末をずっと見ていてくれ」

「わかったわ。きっとそうしましょう」

 彼は彼女に不死の呪いをかけて、そして子供を成しました。彼と彼女は大層喜び、そしてありったけの愛情を注いで子供を育てました。

 やがて彼は力尽き、彼女に看取られて死んでしまいした。

 彼と結ばれたお姫様の名前を、辻桐璃音と言います。彼女は、今でもこの町のどこかで、ひっそりと彼の子孫を見守っているのです。

「――と、言うのがこの悪夢の始まりよ」

 納得いただけたかしら? と彼女は首をかしげる。

 正直、これ単体で見たら荒唐無稽もいいところだろう。だが、俺はこの話を知っている。この話につながるモノを知っている。

 喉が、急に渇いた様に感じる。

「…………なあ、美緒さん」

 恐る恐る、俺は彼女に尋ねる。

「何かしら?」

「その……《彼》は……なんて名前だったんだ?」

「それは、真琴の家の話と繋げた方がいいのでしょうね」

 社に視線を向けると、戸惑うような視線が返ってくる。……どうにも、話を呑みこめていないらしい。美緒さんの口ぶりだと、どうにも桜田蒔苗は特に情報を与えないまま彼女に協力させていたようだし、仕方ないのか。

「《彼》が飛来してから暫くたって、町には奇妙な集団が現れたわ。彼らは《彼》がこの町に飛来することを予想して、そして調査をするためにやって来た。現代で《観測所》を名乗っている方達と同類だったのでしょうね。外からやってくるモノを信奉する呪術師の家系――それこそが、真琴達の先祖、社の家よ。彼らはこの町を取り仕切ることで《彼》を独占しようとした。要は、辻桐と桜田と《彼》に真正面からケンカを売ってしまったのよ」

 今の現状から大方予想が付く。社の家は――

「残念ながら、彼らは辻桐と桜田に敗北する結果になったわ。そもそもこの町は桜田の物で、その上で勝利できる辻桐に、社が欲しがっていた《彼》、それに対して社は規模だけで言えばごくごく一般的な呪術師の家系。結局、戦力差が酷くて一方的に敗れてしまったの」

「待ってくれ。美緒。それだと、わたしのご先祖様は一族郎党皆殺しにされても、文句は言えないと思うんだが……」

「当然、この町には社を許して迎え入れるだけのメリットがあったのよ」

「……《彼》の情報か」

「ご名答よ、統也君。社の一族はわたし達よりも多くの外の存在についての情報を持っていたから、その有用性を認めて桜田は社を迎え入れたわ。彼らと話をして、やっとわたし達は彼の名前を知ることが出来たの。それが――」

「――龍鬼刀夜」

「……ええ、知っていたのね」

「屋敷の中で見つけたんだ。家系図だと思うが……、やっぱり疑問がある」

「なにかしら?」

「あの名前は複数あった。辻桐璃音と婚姻関係にあったものとは別に、子孫にも存在している。……どういうことだ?」

「見ての通りよ。代々の辻桐家にはね、龍鬼刀夜の名前を与えられた子供たちがいた。それだけの話」

「意味が分からない。だって、それは空から降って来たヤツの名前なんだろ!? なんでその子供にも同じ名前が――」

「忌子だからよ。《彼》の血が混じった辻桐には、時折生まれた時から正気を失った子供が生まれたわ。子供たちは例外なく強い力を持っていて――そして例外なく狂気に侵されていた。制御不能ながらも強大な異能を持つ子供たちを、辻桐の一族は恐れたのよ。だから、彼らは子供たちに呪いをかけたの。それが龍鬼刀夜という名前。名前って、一番最初に掛けられる呪いで、一番強力な呪いでもあるのよ。一族の姫を愛し、その生涯を彼女の為にささげた、強力な存在。その名前は、一族に背くことができないという強力な呪いとして機能したわ」

「……なら、教えてくれ。偶然なのか? その名前が俺と同じなのは、ただの偶然なのか? 立木って苗字も、統也って名前も、ただの偶然なのか? 教えてくれよ、美緒さん」

「偶然……と言いたいところだけれどね。残念ながらそうじゃないわ。辻桐の家系が呪術の大家である以上、その血統である立木もまた、呪いに少なからず関わっている家よ」

 静かに、彼女は目を閉じる。

「立木は、辻桐の一つの役割を担っていた家よ。龍鬼刀夜の隔離。それこそが立木の家の始まり。彼らは空の果てからやって来た血を自身の家から純化させることを目指したの。単純な話、強大過ぎたというのが大きな理由だったのでしょうけれど。或いはもう一度、龍鬼刀夜の力を再現したかったのか……。いずれにせよ、その目的は果たされたわ」

 彼女の言葉が途切れる。

 沈黙はきっと一瞬だった。それでも、俺にとってその時間は酷く長い時間に感じられた。

 何故か。そんな自問自答には意味がない。答えなんて最初から持ち合わせているのだから。

 死刑宣告が告げられる前の数瞬は、きっと人生で一番長く感じる瞬間に決まっている。

 事実、告げられた言葉は、断頭台の刃と何ら変わらないモノだった。

「――立木統也君。あなたが最後にして、二人目の本物の龍鬼刀夜。全てを終わらせる切り札その物よ」


 ……


 沈黙だけが、夜の森に積み重なっていく。

 空に張り付いたままの月。違和感さえ抱けなかったそれの歪さを今更ながらに再確認して、俺はため息を吐いた。

 白銀が夜の空気を背景にして映える。

 手にしっくりと馴染むそれは、話の後に彼女が手渡したものだ。緩やかに、優美な弧を描く刃。鈍い銀色の拵えに、真っ黒い柄糸。――それは刀だった。分類としては、打刀になるのだろうか。

 これこそが、社の地下に封印されていた力なのだという。

『――かつて辻桐の家に代々伝わって来た刀よ。とはいっても、初代当主が帯びていたものの写しらしいのだけれど』

『それはまた、珍しい話だな』

『そうね。ただ、写しと言っても切れ味は鋭い名刀で、長い時を経て随分とたくさんの念が染みついているから、妖刀としても一級品の代物よ。下手な怪異なら、これが近づくだけで霧散しかねないわ』

『……へぇ』

『あら、嫌な顔しないのね』

『呪いの装備品は初めてじゃないからな』

 と、まあそんなやりとりがあった。

 冴える月光に、煌めく刃。振るう軌跡に風の手ごたえ。知らず知らずの内に、満足そうな笑みを浮かべているのが自分でも理解できる。……おかしいな。刃物を振り回して喜ぶような性分じゃないと思っていたのだが。これではその認識も改めなければいけないだろう。

 嗚呼――それとも。

「……無理にでも笑っていないと、やってられないとでも思ってんのかね、俺は」

 それこそ狂ってしまったのか。あるいは狂いたいと願って道化になっているのか。

 この町の真実は、どうしようもないほど残酷だった。呪いを扱う家々の血みどろの歴史。異星の来訪者から始まった、狂った血統。

 そして極めつけにもう一つ、とんでもない事件がこの町には起こっていて――それはまだ終息していない。それが社真琴にさえ知らされていなかった、桜田蒔苗と、桜田美緒しか知りえなかったこの町の真実。

 この町はもう、とっくの昔に死んでいた。そこに住む住民を、それこそ生者も死者も巻き込んで、全て死に絶えてしまったのだ。

 それが真相。この町の現実。俺の生きる――この町の住人全てが生きる現実。

「…………」

 ひゅ、と刃が風を切り裂いた。ふわりと桜の花弁が一枚、真二つになって地に墜ちる。

 残心。納刀。

 だらりと垂れ下がった視線には、死体じみた冷たさの地面しか映らない。それだけしか、映さなかった。


 ……


 細い彼女の指が、わたしの唇を撫でる。湿った感触。つ、と撫でられた後には、血のように鮮やかな色彩の紅が塗られている。丁寧に、何度も、同じ所作を彼女――美緒は繰り返す。

 真剣な表情だった。彼女にしては珍しく、緊張しているのも見て取れる。少しだけ震える指先は、それでも本当に優しかった。

「…………」

「…………」

 沈黙。

 彼女にされるがままのわたしと、没頭する彼女だけが、揺れる蝋燭の火に照らされている。

 つ、と赤い色が過ぎていく。仄かに甘い匂いがする紅の、しっとりとした感触が奇妙に落ち着かない気分にさせる。あるいは、これは彼女がしてくれているから、そう感じているのだろうか。

 これはただの儀式の前準備。そう何度も言い聞かせているのだが、高鳴る心臓が静かになってくれる様子はない。

 実際、これは前準備に過ぎない。巫女装束の袖を通し、いつも使っている祭儀用の太刀を佩いて、そして代々伝わって来たお白いと紅で化粧を施される。普通、巫女というものは化粧はしない。だが、社は違う。この化粧は仮面をするのと同義だ。元来、社の舞は神殺しの舞だった故に、祟りを避けるために――身代わりにする為に化粧を施すのだ。

 だから、そう、やましいことは何にもない。

「……よし」

 指が唇から離れる。満足げな呟きから察するに、納得できる出来に仕上がったのだろう。

 美緒は少し恥ずかしがるような表情をして、指先を拭うと手鏡を差し出してきた。

「どう、かしら? あんまり自信はないけれど……今までで一番綺麗に濡れたと思うわ」

「…………」

 思わず、わたしは言葉を失った。

「……だめ、かしら?」

「――――、綺麗だ」

 ぼそりと呟いた声は、想像以上に喜色に満ちていた。

「本当……?」

「ああ。嘘なんて吐かないよ。美緒はなんでも器用にこなすのに、化粧だけは苦手だったな。……それも随分と上手くなった」

「それは……真琴に教えて貰ってから、こっそり練習したもの」

「……そうか」

 そうだった。初めて彼女に化粧のしかたを教えたのはわたしだ。……可愛い物が昔から好きで、でもそれはあまり自分に似合わないとよく自覚していた。だからその代わりとでもいうように、よく美緒に似合うと思ったモノをあげたり、中学に上がってからは少しだけ化粧をさせてもらったりした。

 だから、自分には大してしないくせに、人に化粧を施すのはやたらと上手くなってしまった。

 ……本音を言えば、彼女に化粧をしてあげたかったから、進んで覚えたのだけれど。

 高校に上がる少し前、美緒に化粧の仕方を教えてほしいと頼まれた時も、正直残念に思っていた。彼女の顔に触れるのが好きだった。彼女の顔をより映えるよう、手を施すのが好きだった。彼女をよく知っているから。彼女をずっと見てきたから、わたしだからできることだと思っていた。

「でも、よかった。それなら練習の甲斐があったわ」

 彼女はそう言って笑う。

 思わず顔を俯ける。彼女の言葉が嬉しかった。そのせいで緩んだ口元を、彼女に見せたくないと思った。紅潮した頬を見せるのが恥ずかしいと思った。長い付き合いだ。恥ずかしいところは色々と見られたが、そうされることに羞恥を覚えなくなることはなかった。

 ただ、これだけは言わなければいけない。伝えなければいけない。

「……ありがとう、美緒」

 顔を上げるのは恥ずかしいけれど、それでも、真っ直ぐに彼女を見つめていたかった。「嘘を吐くとき、真琴は目を合わせないからバレバレなの」と昔、美緒は教えてくれた。

 だからこうして真っ直ぐに合わせる視線は、わたしにとって嘘ではないという証明だ。

 それを正確に彼女は理解して、ほんの一瞬だけ申し訳なさそうな表情を瞳に揺らめかせ、そしてそれを覆い隠すような笑顔を浮かべた。

 ……また、だ。彼女は何かを貰う度に、微かな謝罪を瞳に浮かべる。本当に些細で、きっとほとんどの人はそれに気づくことはないだろう。ずっと彼女を見ていたから、なんとか気が付けた。ひょっとしたら、わたしと話す時は気を緩めてくれているからかもしれない。

 ただ、それはいいものじゃない。彼女は自分に送られるものに、心から感謝して受け取っている。そして、それに自分はふさわしくないとも思って申し訳なくも感じている。

 彼女は自分に価値を見出さない。

 その理由は彼女からついさっき語られた。……それは、確かに悍ましい理由だった。だから、彼女が自分自身に抱く感情も理解できないわけじゃない。それでも、美緒を嫌いになれないのは、未だにわたしが実感を覚えていないだけなのかもしれない。

 だとしても、美緒はわたしにとって大切な――

「――どういたしまして、真琴。でも、それ以上はいけないわ」

「ひゃっ!?」

 吐息のような言葉が耳をくすぐる。驚いて、思わず軽い悲鳴を上げてしまった。

 咎めるようにそれだけを耳元で囁いて、彼女は立ち上がる。

「行きましょう。彼が待ってる」

「ま、待って!」

 地味に聞き捨てならないことを言われた。

 振り返ることもしないまま、行ってしまおうとする美緒の手を掴む。

「……どうしたの?」

「それ以上って……気が付いていたのか?」

「その質問があなたの気持ちにって意味なら、答えははいよ」

「な、な、なんで……!」

 動揺で言葉が詰まってしまうが、なんとか彼女には伝わったようだ。悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼女は答える。

「ふふっ。だって真琴の考えること、わかりやすいんだもの。あなたも、わたしのことをよくわかっているでしょう?」

「それは……まあ」

「だからね、だから分かる。あなたが何を考えているのかも――なにをしたいのかも。……ごめんなさい。あなたと過ごした時間はとても楽しくて、とても大事なものだけれど、やっぱり、わたしはあなたと共に居たくはなかった」

 わたしの手を解いて、彼女はうっすらと口元の笑みを冷たいモノに切り替えた。

「……美緒?」

「あなたが大嫌い。自分の美しさを理解できていないあなたが大嫌い。わたしなんかに触れるあなたが大嫌い。あの人に怯えながら従うあなたが大嫌い。わたしなんかよりも、ずっとまっすぐで純粋な、あなたが大嫌い。だから、わたしにそんな感情を向けないで。これ以上わたしに踏み込まないで。そんなことをする必要も、意味もないから」

 真っ直ぐにわたしを見下ろして、淡々とそう告げる。

 ……嗚呼。彼女の言う通り長い付き合いだ。その言葉に一切の嘘が混じっていないとよく理解できる。彼女の言う通りだろう。

彼女に付き合う必要なんてない。きっとわたしなんていなくとも、勝手に彼女はこの町のおために尽力するだろう。意味なんてない。わたしはこの町に関わりのある血統かもしれないが、すくなくとも桜田蒔苗の目論見でも、それを粉砕するための美緒の計画でも、キーパーソンでも何でもないオマケのようなものだ。わたしなんかがいようがいまいが、結果はきっと変わらない。

だからどうしたというのか。そんなこと、最初から百も承知だ。自分が何も出来ないことを知っている。自分に何も出来ないことも知っている。それでも彼女に付き合っていたのだ。必要も意味も、最初から関係ない。

そんなモノを理由にしていた覚えはない。そう、最初からわたしは、わたしは――

「――美緒!」

 自分の予想以上に大きい声が出た。けれど、それでいい。その方が変に躊躇うよりも、弾みがついて言いたいことを言いきれる気がした。

「わたしも君が大嫌いだ! なんでもかんでも自分で抱え込む! 危ないことを何も言わずに一人でやる! 何かを計画しても黙ったまま実行する! 自分の事は顧みない! 自分の面倒も見れないのに、やたら人の面倒を見る! 自分嫌いも拗らせすぎだ!」

 もう半分、怒鳴りつけているのと変わらない勢いで彼女に言葉を叩きつける。真っ直ぐに注ぐ視線の先で、彼女はそれを表情を変えずに聞いている――ように見える。

 よくよく見れば、口元が少し強張っているのが分かるだろう。悲しい時の彼女の癖だ。誰かに意地悪されたとき、彼女の祖母に酷いことを頼まれたとき、彼女にはどうしようもなかった事を失敗したとき、彼女はこんな表情を見せるのだ。

 ああ、わたしの言葉で傷ついているんだ。そんなことをぼんやりと想う。だけれど、弾みがついた感情は止まらない。ひたすらに思っていることを言葉にしていく。否定も、肯定も、嫌悪も、愛好も、何から何まで全部。これは会話なんかじゃない。仕返しだ。最初に言葉の刃を突き立ててきた彼女に、わたしの刃を突き立てる。ただそれだけだ。

 そしてこれが彼女の心に届かなかったのなら、傷の一筋も付けられなかったのなら、それこそわたしは――わたしが彼女と共有した時間は、無意味で、無価値なモノだったのだろう。

「――だからっ! そんな君が大好きだ! 誰かのために頑張る君が大好きだ! わたしに笑いかけてくれる君が大好きだ! 時々どうしようもなく不器用になる君が大好きだ! 大嫌いでしょうがない君が――わたしは大好きでしょうがないんだ!」

 言い切った……。言い切ってしまった……。俯いて、目をぎゅっとつむる。お白いを塗った上からでもわかってしまいそうな顔の赤さを隠したかった。吐き出した感情につられて、溢れ出しそうな涙で、彼女が施してくれた化粧を崩したくなかった。

「……もう、いい」

 小さなため息の後に、静かに彼女はそう呟いた。

 するりと、彼女の細い腕が回される。ぎゅっ、と押し付けられた暖かさと鼓動が、何処か余所余所しくわたしの胸に伝わっていく。

「え……?」

「だから、もう……いいわよ」

 肩に顔をうずめられる。抱きしめられたまま、わたしは身動きが取れなくなってしまった。そのまま、彼女も何もしない。ただ抱き着いたまま、肩に顔をうずめたまま、何も言わない。

 沈黙がやたらに耳に痛い。ただ彼女の暖かさが、拒絶されていない証明だろうか。

 からからに乾いた喉で生唾を飲み込み、意を決して言葉をかける。

「美緒――」

「――こっちを見ないで!」

 きゅ、と回された腕に苦しいくらいの力が籠められる。あわせようとした視線は所在を見失い、そのまま彼女の震える肩に戻った。

「今はっ、……今は、なにも聞きたくないし、見せたくないの」

「……美緒」

 肩を濡らす熱さが、そのまま今の彼女の感情なのだろうか。吐き出された言葉が、そのまま今の彼女の感情なのだろうか。悲しいのか。苦しいのか。それともその両方か。……いいや、今必要なのはそんなことじゃない。

 愛しさで胸がいっぱいになる。彼女は彼女。強くて、綺麗で、誰にも心配を掛けまいと仮面をかぶっている――弱いところもある、泣くこともある、桜田美緒という女の子だ。

 そんな彼女に、推し量って、気遣って、そのまま曖昧にしたくない言葉を、今わたしは持っているのだから。

「わたしは」

 ぐい、と美緒を引きはがして、視線を合わせる。涙を流し、ぐしゃぐしゃになった彼女の顔を見て、ああ、こんな彼女の顔を見ることも初めてだ、と少し苦笑しながら言葉を続ける。

「君が大好きだ。だからどんな君でも見たいし、見せてほしいよ」

 そう言って、笑いかける。額と額をこつんと合わせる。

 触れ合う熱がくすぐったい。間近の彼女の顔が、少し慌てている様子が分かる。頬を濡らしていた涙も、赤くなった瞳も、少し乱れた髪も、彼女なら本当に綺麗で好ましいものに思えた。

「これなら隠せないな」

「見ないでよ……こんな顔……」

 美緒は恥ずかしいのか、頬を赤らめて顔を逸らす。そんな仕草も、たまらなく愛おしい。

「ごめん、我儘だけれど、わたしは見たいから」

「……駄目だって」

「だからごめん。………綺麗だよ、美緒」

「……………………ばか」

 ふい、と彼女が顔を背ける。そのままわたしに背を向けて、ごしごしと目をこすった後、肩越しにこちらを振り返った。少し拗ねたような、不機嫌な顔だ。

「もう行くわよ。……彼、随分と待たせちゃっているし」

「ああ」

「それとね、真琴」

 ついて来ようと立ち上がったわたしに、静かな声が投げかけられる。

「さっきの、本当?」

 質問は短く、簡単だった。だからこそ、明瞭に言葉の意味が理解できた。美緒はわたしに覚悟を問うている。

 ――わたしは、どんな美緒でも――

「――ああ。本当だ」

 それは甘い考えなのかもしれない。何も見ていないから、綺麗だと思う彼女しか見ていないから、こんな結論になっているだけなのかもしれない。この返答を後悔するのかもしれない。

 ただ、今はこれが本物のわたしだ。全ての彼女を求めているのがわたし自身だ。

「……そう」

 溜息のような微笑みを一瞬浮かべ、前を向いて彼女は歩き出す。

「ならいいの。ありがとう、真琴」

「どういたしまして」

 前を向く刹那。彼女の瞳が一瞬朽ち果てる前の桜色に輝いたのを、わたしは見逃さなかった。













「――随分、影が減ったな」

 再びの夜空。眼下に流れていく町並みは相変わらず明かりの一つもない真っ暗闇だが、その中で蠢く黒い影と、それを追う鳥の姿は克明に捉えることができた。

 先ほど見たその光景との差異は、影の数だ。明らかに少なくなっている。

「この町に棲むだけで、鳥はある程度神性を持つ。鴉のみならず、適性があれば鳶でも鳩でも死骸を貪るだろう。今夜は特に死臭が強い。それを頼りに多くが勝手に飛び回り、亡者を啄んでいるのだ」

「へぇ……」

 俺の呟きに、カラスが答える。成程、道理で大きさの違う翼がちらほらと見受けられるわけだ。

「同胞だけ十分かと思ったが、他の連中のお陰でケリがつくのはずいぶん早かろう」

「……朝には、全員食われるのか」

「ああ。恐らくは」

 ……あれが悪霊だと聞いた。人間の成れの果て。俺が斬ってきたモノ。

「妙な感傷を感じているようだ」

 ぶっきらぼうな調子で、カラスが言葉を投げつける。

「迷うのかね? 眩んで立ち止まるのかね? それとも、目隠しをしたまま崖へと向うのかね?」

「五月蠅い」

 どうでもいいと考えているのだろう。俺に何の興味も抱いていないのだろう。意味のない要らない言葉をカラスは吐き出して俺に放り捨てているだけだ。

 哀れみも、嘲りも、何もない空っぽの罵倒が、それでも俺の頭の奥底をひっかいて消えていく。それがたまらなく不愉快で、虚しくてしようがない。

「どうしろっていうんだ、馬鹿野郎」

「君で決めたまえよ、そんなつまらないことは」

 それができたら苦労なんてしていない。

 目隠しを取るには、まだ、俺には勇気が足りていないのだ。

「立木」

「……なんだよ、社」

「わたしは……わたしは、これを弔いだと思っている」

 普段とは違い、化粧を施し巫女装束を着た社は、一瞬だけ言葉に迷った後、はっきりとそう言った。

「この町には、多くの悪霊が存在している。だけれど、元は生きていた人間だ。今でも生きていたいと思っていた人間だ。彼らはこうして現世にとどまって、誰かを呪うことしかできない」

「…………」

「けれど……そんなの、悲しいじゃないか。だから、これは弔いなんだ。方法は普通とは違うけれど、それでも彼らをこの世界から解放してあげることはできる」

 静かに、しかし確固たる意志を持って、そう彼女は心の内を語ってくれた。

 弔い……。彼女が用いるあの奇妙な剣術は、この世ならざる者を鎮める為の術なのだそうだ。だからきっと、そういう見方をすることができるのだろう。社には後ろめたさなどかけらもない。……俺のように、ワケも分からず相手をしていたワケではないのだから。

「……美緒さんは、どう思っているんだ?」

 振り返ってそう問いかければ、彼女は少し自嘲気味に微笑んだ。

「わたしは、そんな大層な意識はなかった。ただ必要なことだったからそうしていた。正直、考えない方が楽だと思うけど……そうも行かないんでしょ?」

「そう、だな……。俺が怖気づいているだけだ。あれが生きていた誰かで、それを邪魔だから殺していた……。そんな自分に、それを割り切ることも出来ない自分に自己嫌悪を抱いて、今更躊躇している」

 溜息を吐く。何度も何度も覚悟をしてる。……覚悟をしているつもりになっている。

「統也君。飛び立つ前にもカラスが言ってたでしょう? 彼らはそれを望んでいる。……真琴が言ったとおりよ。あなたがどう思おうと、悪霊は君に弔われているの」

「だから、気にするなって?」

「逆よ。誇りなさい。少なからず、あなたに救われた人も存在しているのだから」

 ……どう思おうが救っている、ね。甘ったれているのもいい加減にしろってことなら、何にも反論できないな。

 少なくとも、彼女達二人はあんな事実を受け止めて今ここにいるのだから。

「……分かった。迷ってる場合じゃないもんな」

 またため息を吐く。白く凍り付いた息はそのまま吹き付ける風に乗って飛び去っていった。

「今は、桜田蒔苗をどうにかする。それが先決なんだろ?」

「ええ。カラスさん。もうそろそろ到着するかしら?」

「ああ」

「なら準備をしましょう。統也君、真琴、どんな状況に陥っても作戦通りに」

「分かった。……大丈夫か、立木?」

「問題ない。やるだけやるさ」

 作戦。一応、そう呼ぶべきであろうものを、出発前に三人で決めた。正直な話、これがどれほど通用するのかまったく把握できない。相手の底が知れない。懸念要素もある。ただ、勝算も在るのだ。

 ……人事を尽くして天命を待つとはいうが、結局は俺もそれにならうしなかないのだろう。

「不安か?」

 ぼそりと、社が呟くように問いかける。

 夜風に紛れてしまいそうな程小さくて、そうなることを望んでいるかのように遠慮のない響きの言葉。案外、本当に拾われることを望まれていない、期待されていない言葉だったのかもしれない。

「……そりゃ、まあな」

 ただ、無意識にそれへ答えを返してしまった。特に何も考えていなかった。殆ど脊髄反射の返答。少し驚いたように、社が俯き加減の顔をこちらに向けた。

「聞こえたのか」

「ああ。耳の調子がいいみたいだ」

 はぐらかすように呟き返して、少しだけ流していた視線を引き戻す。少しだけ感づいてしまった自分の変化の切れ端には目もくれずに、立ち込める下界の暗闇をまた眼窩に流し込む。

 そうしてそれを瞼で閉じ込める。何も見えない方がいい。きっと、今はまだそちらへと進むことは必要じゃない。そんなことをして、迷っていたくはない。

 やがて、夜に溶け込みそうな程真っ黒い地面に、カラスは静かに降り立った。

 眼前には大きくて古めかしい、先日目にしたばかりの門。

「到着だ」

「それでは」

 一つ頷き、彼女はひらりとカラスの背から降り立った。

白い紙人形をとり出して、美緒さんはそれにふっと息を吹き込み、投じる。瞬間ぐしゃりと紙人形は小さく小さく潰れて、小さな小さな白い点になり――炸裂した。どういう原理か、指向性を伴った衝撃は破壊の剣になり、容易く門を貫きその残骸をまき散らした。

どうやって乗り込むのか疑問だったが、想像以上に荒っぽい手法だったので、思わず声が出てしまう。

「すっげぇ……!」

「……わたしの家に何か蓄えていると思ったら、こんな危険物を……」

「こういう状況になってしまえば、屋敷に備蓄するのは無意味なのよ。使わなきゃ無害だったから、許して頂戴。……急ぐわよ」

 迷うそぶりも見せずに走り出す美緒さんに、慌てて俺と社はついていく。カラスはそのまま門の前で待機。彼には彼で別の仕事がある。突っ込むのは俺たち三人の役目だ。

「……っ!」

 先を走る美緒さんが、一瞬息を呑んだのが分かる。ただそうしたのを理解できたが、何を思ったのかまでは理解できなかった。

 ただ、門の奥の光景を理解して、俺も同様に息を呑むことになる。

「なんだよ、これ……」

 桜が咲いていた。満開の桜だ。今は春の頭だから、それは何も不自然なコトじゃない。普通なら、当たり前の光景だろう。

 桜の在処は、どう考えても異常だった。

「……壁や門から、桜が生えてやがる」

「この町に生きていたわたし達以外の住人は、ほとんどアレに命を吸い取られてしまったのでしょうね……。――来るわ!」

 メキメキと異音を立てながら建物から生えている桜の樹々が捩じれ、こちらに襲いかかって――来た!

「くそっ、たれぇっ!」

 悪態を吐き捨てながら必死に、走る、走る!

「どんな理屈で来やがるんだよ!」

 木の枝というものは、場合によっては恐ろしい凶器になる。鉄と較べればそりゃ脆いが、人体なんて簡単に貫ける鋭さと硬さ、生木ならば容易くは折られないしなやかささえも持っている。幼いころ、キャンプに行った山でそう俺は学習した。木の枝は、勢いさえあれば洒落にならん威力になるのだ。

 そんな木の枝が、大量に、自身の意思で、猛スピードでこっちに突っ込んでくる。

 四方八方から。当然――真正面からも!

「邪魔ァッ!」

 抜刀し、両断! 横薙ぎの一閃は勢いよく迫っていた枝を上下真っ二つに斬り裂き、突き進む。一度抜いて弾みがついたのか、自分の中で小さく燻っていた躊躇が消えた。次々と襲い掛かってくる枝も、なんなく切り裂いて進んでいける。

 何より、

「――馴染むな、コイツ」

 社の家で受け取った刀は、まるで自分の手足でも振るっているかのように、自然に扱うことができた。

 それは最初から俺が持っていたかのように、それは最初から俺が振るっていたかのように、思い通りの軌跡を描いて、思い通りの結果に辿り着く。自然と口元に浮かんだ笑みに気が付いて、やはり自分はもうまともではないのだと再認識した。

 違和感の源は過去の自分だ。この刃を握らず、この月の下、この夜と桜を乗せた風の中を駆け抜けていない自分が、酷く気持ち悪く感じる。

 それに喪失感も恐怖も伴わない。淡々と、そんな事実の理解だけが脳に差し込まれて、それをまた淡々と処理している。

 無味乾燥とした現実と事実の手触りが、掌を通して全身に染みわたり、融けて消えた。

 ――だから、なんだ。

 迫る枝をまた両断して、走り続ける。

 今はそれ以外の事を考えたくはなかった。


 ……


 屋敷に乗り込んで真っ先に行うのは、香音の救出だ。なんでも、彼女は元々この屋敷とは別の家で生活していたらしいが、退院後は屋敷で過ごしているらしい。

「……それ、大分マズくないか?」

 なにせあの魔女だ。人質を取ることを躊躇するほど、優しい脳味噌はしていないだろう。

 そんな俺の懸念に、きっぱりと彼女は答えた。

「いいえ、案外大丈夫なモノよ。あの人、感情でしか動かない上に、あまり身内には手出ししないから」

「へぇ……」

 暗い廊下をずっと歩いた先、静かに扉を開ければそこには、ベッドですやすやと寝ている香音の姿があった。美緒さんの言った通りなのだろうとは思っていたが、実際無事な様子を自分の目で確認すると安心できる。

「とは言っても、流石に放っておくのは不安だし、今晩はイレギュラーまみれ。近くにいてくれれば、そうでなくたって屋敷から遠ざかっていてくれれば、最低限の安全は確保されているはずよ。少なくとも、今殺されていない時点でね。――香音。起きて、香音……」

 ゆさゆさと揺さぶられて、眠たげに目をこすりながら香音はベッドから起き上がった。

 ぼんやりとした表情でこちらを見て、こてんと首を傾げている。

「お姉ちゃん……? あれ? 統也君に……真琴お姉ちゃんもいる……」

「ごめんな、夜遅くに。今はとにかくここから出ないと」

 ほら、と背中を向けると少しだけふらふらとした足取りで近づき、ぽすりとそのまま身を預けてきた。

「よし、いい子だ」

「えへへー……」

 負ぶってやると、嬉しそうに香音は笑って、ぐりぐりと額を押し付けてきた。……まだ寝ぼけ半分の様だ。甘える仕草は子猫にも似て――此処に居ない少女を想起させるには十分だった。

 ……今は、その感傷に浸っているわけにもいかないだろう。手筈通り、今準備を進めている彼に向けて、声を張り上げる。

「――来てくれ、カラス!」

 声は真っ黒い部屋の暗闇の中で響いて解け――変化を呼び込んだ。

 轟音と共に屋根に風穴が開けられる。そこから舞い降りるのは、人の造形を取り込んだ異形の大鴉だった。

「待たせたな。結界の破壊は無事に完了だ」

「ありがとうございます。これで、多少なりともこちらに分ができました。後は……」

 言葉を濁して、美緒さんは俺に視線を向ける。それに頷き返して、カラスの背中にゆっくりと乗る。ここからは一旦別行動だ。

「頼むぜ」

「ああ」

「んん……?」

 カラスは大きく羽をはためかせ、自分の開けた屋根の穴から飛び立った。

「統也君、どこへ行くの……?」

「……俺の屋敷だ。そこで済ませなきゃいけないことがある」

 耳元で囁かれた問いに、振り向くこともなくそれだけ答える。……実際、本当に何も大したことはしない。彼女にしてもらうことは、血を一滴だけ貰うこと、それだけだ。

「……ねぇ、統也君」

「なんだ?」

「怖く、ないの?」

 短い言葉のやり取り。それは静かに、斬り抉る様に、言葉が俺の頭を掻き乱して過ぎ去った。

 一際力強く跳ねた鼓動。ぞっと泡立った肌を伝って、冷たい汗が流れて飛んで、そうして散った。

「教えて、統也君。きっとこれは、」

「必要なことだ」

 溢れ出しかけた感情を断ち斬る。どこまでも追い縋ってくる怯えも、後悔も、ここで押しとどめなければ、たちどころに俺の心臓も髄も脳も、感情さえも喰い破って穴だらけにしてしまうだろう。

 それは、きっとある種の救いだ。過去から繋がった今の俺と、そこから始まる未来の俺を救済する、一つの選択。何もかもを喪うとも、安寧も平穏もこの掌から零れようとも、砕けた自我を傷つけることは出来ないだろう。

 今は未だ、何一つ決着がついていないのだから。

「それ、質問の返答になってないよ」

「ごめん。俺、格好つけたがりなんだ」

「おまけに嘘つきだ」

「……そうだな」

「でも……うん。今はそれでいいと思う」

 静かに笑って、彼女はまた背中に自分の顔を埋めた。

「ねぇ、統也君。答え、きっと聞かせて。あなたが望んだ時に、きっと」

「――ああ」

 吐息のように優しく暖かいその言葉は、確かに俺の背を押してくれた気がした。

「ありがとう、香音」

「どーいたしまして、統也君」


 ……


「……静かだな」

 二人きりで歩く廊下。立木は無事段取り通りに香音と共にこの屋敷から離れた。

 それからずっと歩いているが、まったく襲ってくる気配がない。不思議に思いつつ、なんとなく感想を漏らす。

 ぼそりと呟いたそれに、美緒は頷いた。

「そうね。もう、桜田蒔苗は防御の策を練っていないでしょう。そんなもの、最初から意味がないもの」

 なんてことのない風に言われた内容に首を傾げる。意味がない? 先ほどの桜の樹々でさえ四苦八苦していたのに?

「腑に落ちないかしら?」

「まぁ……うん」

「意味がないのは本当よ。この町を使って行おうとしている事、全部が無意味。当の本人が一番それを理解している筈なのだけれど……厄介なモノね」

 ふぅ、とため息を吐いて、彼女は立ち止まった。

 目の前には立派な襖。……桜田蒔苗のいる部屋、その入り口。

「あなたもそう思うでしょう? ――ねぇ、わたし?」

 美緒が手を振るう。ひらりと紙と人型が舞い――炸裂した! 門を破るために使っていた湯術。それとまったく同じものを、彼女は何の躊躇いもなく発動させたのだ。

 轟音と共に巻き上がった煙が、視界を覆いつくしてしまう。

「気を付けて、真琴!」

「重々承知!」

 一見過度にも見える威力だが、これで倒れたとも思えない。刀を抜いて構え、油断なく周囲の気配に意識を張り巡らせ、そのままジッと停止する。

 べっとりと張り付くような、重い、重い気配があった。……桜田蒔苗の気配。人の形をしていても、こうも気配が違うとなると到底人間だとは思えない。

「――どわいーる んせぶ らそ だずきとぅーりゃ」

 眼前の埃の靄。その奥から静かな声が聞こえる。

 桜田蒔苗の声だ。

「耳を塞いでっ!」

 切迫した声音で、美緒がそう叫ぶ。訳も分からないまま、大急ぎで言われたとおりにする。

「――びくられちぎ けるま うりゅ ぉおくぁたえのるん」

 次の瞬間、靄が切り裂かれたように吹き飛び、その勢いそのままにあたり一面に散らばっていた瓦礫は切り刻まれ、吹き飛んでしまった。

「な……!?」

「あれが言刃よ! 同じものが聞こえたらすぐに耳を塞いで!」

「わ、わかった!」

 言刃……辻桐をこの町の主たらしめた、最強の呪い。聞いてしまったものに、回避不可能な死を与える、透明な言葉の刃! そして、わたしが使う呪文のオリジナル!

「なんであの人がそんなものを!?」

「あの人が特別なのよ! 普通は使えないわ! とにかく――今よ!」

「っ!」

 彼女の言葉に背中を押されるように、わたしは走り出す。

 作戦はいたって単純。「今」という号令に従って攻撃を行う、それだけの単純な方針。

「はぁっ!」

 地面すれすれを切っ先が征く。跳ね上がる様な軌跡を描いて――刺突へ!

「発!」

 短い発音と共に、札が飛ぶ。それは破裂するとたくさんの光の粒を巻きちらし、その光の粒は弾丸のように桜田蒔苗へと殺到した。

 わたしの突撃と同じタイミングで懐から札をとり出していた桜田蒔苗は、特に驚いた様子もなく、取り出した札を光の粒に向かって放り、こちらにむかっては右足の下駄を蹴りの動作でそのまま飛ばしてきた。

「くっ!」

 わたしの手をしたたかに打ち据え、刀の勢いは削がれ、軌道も逸れた。からん、と河合ら音を立てて下駄が床に落ちる。手には奇妙な痺れが残っていた。あの勢いに、この痺れ。あの下駄も呪物だったということだろう。

 一方、放られた札は一瞬で燃え上がり、その炎は飛び込んできた光弾を飲み込んで直ぐに消えた。

 こちらの攻撃は完全に防がれた。だが、

「これで二つ――!」

 彼女が持つ呪物はあと八つ。防御のために二つを消費させることに成功した。

「……へぇ」

 感心したように、桜田蒔苗がにんまりと唇をゆがめる。

「その子、ちゃぁんと話したんだぁ……。……それで一緒にいてあげるなんて、あなた優しいのね」

「茶番を!」

 痺れが残る手に力を込めて、刀を握りなおす。手首を返し、外を向いた刃を内側へ、そのまま斬り上げへ入る。だが踏み込みも足らず、勢いも足らない斬撃。当然、容易に桜田蒔苗はそれを回避し、反撃と言わんばかりに残る左の足でこちらの顔を狙う。

顔を逸らしてそれを避け――そのまま後ろに飛び退る。

 刀を構えなおしつつ、先ほど下駄を当てられた右手に目をやれば、異常に手の甲が赤く腫れていた。

 化粧のお陰でこの程度ですんでいるが……そうそう何度もは食らっていられない。

「先読みされるの、いざ正面から戦うとなると厄介ね……!」

「お互い様、でしょう? 搦め手を殆ど使えないなんて、呪術師として死んだも同然じゃない」

 美緒の悪態に、桜田蒔苗が忌々しそうに目を細める。

「頭の中が繋がっている……。おかげさまで、あなたの過ごしたどうでもいい時間を共有しなければいけない。まったく……最悪よ」

「同感よ。あなたの吐き気を催すような感情を、四六時中受け止めなければいけないなんて、本当に最悪でした。ただ……だからお互いこんなにも面倒な手を使う」

 緊張した局面の最中、二人の敵意同士がぶつかり、こすれ、弾けあって、眩い火花を散らす。……強すぎる呪いと呪いが、互いに牙を剥き、喰らい合っているのだ。それ程の確執が、感情が、彼女たちの間にある。

「肉人形が、よく吠えること……」

「呆けた悪霊が、言えた義理ですか?」

 桜田美緒という少女がいる。今の世に、人の腹から生まれた少女だ。かつての世に桜田蒔苗として生き、そして死んだ少女だ。

 桜田の秘術、胎内転生。それこそが、桜田美緒という少女を――肉を持つ桜田蒔苗の亡霊をこの世に産み落とした術だった。本来は、桜田の家系を見届ける為に執り行われた術も、本人が悪霊として現世に存在していたという状況では、ただ使い勝手のいい手駒が一つ存在したという事でしかなかった。……たとえ、その駒に意思があったとしても。

 駒として産まれ、駒として生かされる生涯が、どれ程の苦痛かわたしは知らない。

 かつての自分が怨念と呪詛に塗れ腐りはて、他者を害し続ける現実が、どれ程悲惨かわたしは知らない。

 それら全てを受け止め、歯を食いしばって、今ここで自分自身に立ち向かう彼女の心の内を、わたしはきっと理解できないし、理解することもないのだろう。

 だから、せめて彼女の隣で、彼女を支え、彼女を助けたいのだ――

「――今!」

 声を張り上げる。

 あの二人は本来同一の存在。故に彼女と彼女は同じ感情を、感覚を、記憶を、思考を、寸分の狂いもなく共有している。故に、互いに術策は無駄だ。事前の打ち合わせが単純だったのもこれに起因する。つまりは、一人で打ち合う将棋なのだ。手の内を全て知っているが故に、決定打が存在しえない。だが、今この場所には――わたしという第三者が存在している!

 号令の瞬間、緊張が弾け飛ぶ。状況が動く。一歩目で踏み込み、二歩目で跳ぶ。下段から上段へ構えなおし――振り下ろす!

速さ、勢い、単純に威力を出すならコレが一番手っ取り早く、避けられづらい。同時に、こちらも防御の手段を失う。文字通り捨て身の一刀。当然、隙だらけのこんな状況を見逃されるワケがない。

 桜田蒔苗は、こちらをぎろりと睨みつけて、それをまた唱える!

「どわいーる んせぶ らそ――」

「――ッ!」

 同時に独りでに伸びた黒い糸が、刀を受け止めて勢いを奪ってくる。

「しまった!」

 攻撃は不発、おまけに空中で体勢を崩している。これでは、満足に耳を防げない――!

「疾!」

 美緒が鋭く投擲した札が瞬時に捻じれ、まるで矢のように高速で飛翔する。

「だずきとぅーりゃ」

 しかし、それを先程の黒い糸が絡めとる。同時にぼっと勢いよく神と札が燃え上がり、ハイになって消えた。これで彼女の残りの呪物は七つ。一方で呪文は止められていない。

「びくられちぎ」

 当然それで終わりではない。その奥からもう一つ、同じ札が飛翔する。先程投擲するとき、もう一枚を少し後ろに放り、同じタイミングで術を起動したのだ! 無様に地面を転がりながら、急いで体勢を立て直す。

「けるま うりゅ――」

 札は、真っ直ぐに桜田蒔苗の喉を目掛け飛翔し――貫いた!

「がっ、ぁっ……!」

「今!」

「駄目!」

 ――がくん、と足を無理やりに止めたせいで前のめりになる。

 必死な声色の静止が何を警告していたか、それをわたしは理解した。

 貫かれた喉から滴り落ちる魔女の血が、一瞬で膨張し破裂した。飛んだのは一本の針。丁度、飛び込んでいればそれにわたしは貫かれていたことだろう。

「……返された」

「――――」

 喉を貫かれたまま、にぃ、と桜田蒔苗は唇を釣り上げた。声を出せはしなくとも、その表情からは嘲笑の色が見て取れる。

 今は呪文を使えない筈だ。なのに、何故……?

「くっ、ぁあっ!」

「美緒っ!?」

 疑問に思いながらも構えた直後、背後から上がった苦悶の声に振り向く。膝から崩れ落ちた美緒が、喉を抑えながら蹲っていた。

 ――感覚の共有!

 彼女は呪文を封じるために、自らの喉を貫くのと同じことをしたのだ。……わたしの、不用意な攻撃のせいで、そんなことをしなければいけなくなったのだ。

「――ッ」

 ずるりと、ゆっくり蒔苗は札を引き抜いた。本当にゆっくり、ゆっくり、じりじりと揺らしながら、痛みを与えながら、最後の最後に粗雑に引き抜いた。

「か――あぎっ、ッ……!」

「く……!」

 悔しさに歯噛みしている場合じゃない。自分の尻を人に拭わせてしまった。その分はすぐに取り返す!

 構えを変える。先程まで構えていた下段から切っ先を起こし、正眼へ。

 真っ直ぐ視線の先へ相手を捉え、静止した。碌々策を練ることもできないが、それでも、咄嗟に動けなければ仕方がない。

 静かに緊張感だけが降り積もっていく。背後で呻く彼女と、同じ顔でにまにまと厭らしい笑みを浮かべる彼女の間で、思考が徐々に冴えていく。不思議な感覚だった。吐く息の音がやけにはっきりと聞こえる。

 どうする/どう動く/どう詰める/どう斬るべきか。

 答えがぱっと花火が広がる様に脳裏に閃き、つららの様に凍り付いた。

 後は、そう動くだけだ。

「…………へぇ」

 じゅっ、と焼き付くような音を立てて、蒔苗の首の傷が見る見るうちにふさがってしまった。

 感心したように唇を薄くたわませて、つい、と人差し指をこちらに向けた。

 指先を向ける、というのは銃口を真っ直ぐこちらに向けられたようなモノ――ではない。はったりだ。手札が少ない以上、虚実織り交ぜて確実な一手を彼女は下すだろう。そして、此方に突き刺さる意思を感じない。彼女は此方を呪っていない。つまり、頼みにしているのは次の一手……!

 構えを崩さず、視線を外さず、呼吸を深く、静かに眠らせていく。

 静かだった。先程まで遠くなっていた音の手触りを、わたしは確かに感じていた。同じ拍動、同じ呼吸。耳を澄ます。瓜二つの音が前と後ろに在った。そして、そこにこそ勝機があった。

 とくん、とくん、とくん、とくん、

 一定のリズム。変わることがないままで連なっていく鼓動。

 とくん、とくん、とくん、とくん、

 それが乱れる時がある。筋肉の怒張。骨格の撓み。臓器の収縮。いずれにせよ――

 とくん、とくん、とくん、 とくん、

 ――それは、何かをする時なのだから、先んじて打てばこちらが勝つ。

 一歩、大きく踏み込む。一歩、大きく蹴り上げる。視界が一気に流れる。拍動がひときわ強く跳ね上がる。口から熱い吐息が漏れる。切っ先がゆらりと下がり、矢をつがえるように肘を曲げ、引き絞るように引く。

 そのまま、放つ。

「ぁ――――」

 驚愕を湛えた瞳が、わたしをぼんやりと捉える。納得していないことがありありとわかる瞳だった。何故、と問いかけるような瞳だった。

 鋭く冴えた刀は、寸分違わず同じ鼓動を続けていた彼女の心臓を貫いていた。

 ……タネは単純だ。彼女達は同じ考えに縛られている。美緒が何かをしようとすれば――心臓の鼓動に少しの変化があれば――当然、同じ思考が伝わっている。それを先に潰すために、桜田蒔苗は意識を美緒に向け、結果意識の外に在ったわたしから致命的な一撃を受ける羽目になった。「今」という言葉で攻撃するタイミングを取る戦法も、ここでうまく機能した。声でのやりとりに拘ることで、それが此方が用いる基本戦術だと認識させられた。実際、そうしていたし、そうしようと取り決めていた。ただそこにイレギュラーを差し込んだだけだ。

 美緒も想定していなかった、わたしの独断での行動。だからこそ、彼女と同一の存在である桜田蒔苗はそれに対処することができず、今こうして地面に伏している。

「……呪物は無駄だ。社の技術が、元来幻想を殺すものだと聞いたよ。この刀で貫かれた以上、あなたは死からは逃れられない。……もう、お終いなんだ」

 心臓を貫かれている上、間合いもこちらに分がある。呪法は致命傷にならず、起死回生の呪文があろうと、唱え終わる前に殺せる。彼女の詰みだ。

「ああ……、そう。もう、わたしはお終いなのね」

 くすくすと、まるで少女のように彼女は笑う。今まで見たことのある、悪意に満ちた恐ろしい魔女の笑顔ではなく、まるで純真な少女のような笑顔だった。

 弱々しくせき込めば、真っ赤な血が黒い着物を汚す。どう考えても、彼女はもう助からないだろう。そうしたのは、わたしだ。彼女を殺したのはわたしなのだ。

 暗く湿った後悔がべったりと足元に絡みつく。それを振り払おうとは思わない。彼女は多くの罪を犯した。だとしても、間違いなく彼女もわたし達と同じく、この町の異変に巻き込まれた被害者だった。だから、この後悔と一緒にわたしは歩いて行こう。この先、どんな結末が待っていたとしても。

「……おやすみなさい、もう一人のわたし」

 すっ、と白い手が横たわる桜田蒔苗の頬に添えられた。美緒がいつの間にか立ち上がって、こちらに寄り添っていた。まだ息は荒く、額には汗が滲んでいる。……当然か。喉と心臓を貫かれた痛みを彼女も感じているのだから。

 ぼんやりと桜田蒔苗は美緒を見上げるばかりだった。唇が微かに動くが声はない。もう、そんな余力は残されていないのだろう。ただ、諦めたように閉じられた口元が、少しだけ笑顔のように見えるのは、きっと気のせいではない。少なくとも、わたしはそう信じている。

 真っ直ぐに蒔苗を見ている美緒の表情はわからないが、それでも、これで彼女の今までは少しは報われた筈だ。

「――そしてさようなら、いままでのわたし」

 次の瞬間、唐突に桜田蒔苗の頭が破裂した。

「美緒……ッ!?」

 彼女に向けて伸ばした手が、何かにぶつかり弾かれる。更に、次々と体のあちこちに強い痛みが奔った。

 周囲に勢いよく散らばったのは、脳漿と血に塗れた頭蓋だった。

「な……ッ!?」

 理解が追い付かない。

 動いている。

 降り抜かれた拳が、眼前に迫り、衝撃。

 暗転する視界。顔のど真ん中を突き抜ける激痛。それ以上の混乱が脳内を駆け巡っている。

 ――何故、動く。

「……桜田、蒔苗!」

 死んだ人間は動かない。悪霊でさえ、霊的に死ねばそれは例外ではないだろう。

なのに、動いている。頭のない、桜田蒔苗が動いている。動いて、わたしへ攻撃を加えている。

 理解不能の事態は、戦闘の熱から冷めかけていた脳髄を激しく揺さぶった。何が、一体どうなっている。

「呆れた。目先の情報に囚われて、すぐ奥にある単純な事実も見過ごしてしまうなんて……。……いえ、その錯覚への脆弱性こそ、人間らしさとでも呼ぶべきなのかしら」

 溜息交じりに、そう彼女は桜田蒔苗の後ろで吐き捨てた。

 血と脳漿と頭蓋と頭髪が散らばる中、動揺も何も表情に浮かべず、ただただ無機質な視線をこちらに注いで、桜田美緒はわたしと相対していた。

「美緒……。どういうことだ?」

「見ての通りよ、社真琴。わたしはソレを利用している」

「どういうつもりだ」

「根本はもう頭のないそれと一緒。腹の中の汚れっぷりもね。障害がなくなれば、好き勝手するのを我慢する必要がないでしょう?」

 だから、どうして。怒鳴りかけて、無理矢理に言葉を飲み込んだ。声を出せずに喉が震える。

 どうしてだ。震える喉は、それでもなお声を出そうとする。感情を吐き出そうとする。

「ねぇ、あなたはどうするの?」

 ふらりと、首なしの体が一歩前へ出る。美緒が札を一枚手に取る。……ここで、彼女はわたしを殺そうとしている。受け入れがたい事実だったが、事実は事実だ。逃げることもできない。見て見ぬ振りもできない。

 それをしてしまえば、待っているのは後悔だけだ。……桜田蒔苗に強いられていた人生は、そういうものだった。桜田美緒と共に歩んだ人生はそういうものだった。

 覚悟が、また一つ増えた。きっと、これまでのどんな決断よりも早くて、そしてこれまでのどんな決断よりも重いそれを、自分自身に刻み付けて、わたしもまた、一歩前へと踏み出した。

「君を止めるよ」

 真っ直ぐに突き付けた切っ先の延長線上で、彼女は三日月のような笑顔を浮かべた。

 静止は一瞬。

 動く。動く。動く。動作は三者三様。わたしは刀を構えて駆け出し、首なしの死体はがくがくと人形じみた動きで迎え撃つように突っ込み、裏切った少女は懐から取り出した札を鋭く投擲した。

「―――戸和謂流 雲瀬歩 螺祖 龍鬼刀夜

   火冥霊契 化縷真 生裏結 覆暮辺恵乃屡」

 唱える。同時に手の中の刀が重みを増す。これだけが、わたしの使える唯一の呪術。死人殺しの呪術だ。蒔苗が腕を振り上げる。手に握るのは、懐から取り出した真っ黒い球体。それをわたしの頭目掛けて叩きつけようとしている。

 一閃。至近距離での一撃は、球体を握る右手を手首から斬り落とした。そのまま腹を思いきり蹴る。勢いよく吹き飛ぶ蒔苗とすれ違うように札が迫る。

「発!」

 眼前で爆発。人間の体など容易くバラバラにしてしまう衝撃波が襲い掛かる。

 だが、

「――やはり、効果は薄い」

 爆風の中、わたしは立っていた。そう、今のわたしに、通常の呪術は大して効果が出ない。

「その化粧、もう少し手を抜いておいた方が楽だったわね」

 ふっ、と嘲るように笑いながら、がりがりと彼女は手首を爪で引っ掻く。だらりと垂れ下がった指先に、破れた血管から滴る血が溜まっていく。それが徐々にゆっくりと固体になっていき、血液特有のぬらぬらとした光沢から金属質な冷たい光沢へと変貌した。

 剃刀だ。血でできた剃刀を、美緒は握っている。

 わたしは今、呪術の効果を殆ど受け付けない。言刃のように本当に強力、かつ特殊な呪術でしか害されることはないだろう。余程酷くても、痛みで痺れが残るくらい。それも全て、今着ている着物と施された化粧の力だ。

 だが、それにも例外がある。

 例えば、その化粧や着物を汚して――穢してしまうような方法を使われれば、たちどころに力を失ってしまうだろう。そして、今目の前の彼女が握っている剃刀は、そういう役割に特化した代物だった。

 ――死体と少女が迫る。

「く……っ」

 蒔苗の無事な左手が伸びる。狙っているのはわたしの首だ。だが、彼女に気を取られすぎればその隙を突かれてこちらは一気に不利になるだろう。

 かといって、蒔苗を無視すればそのまま縊り殺されてしまう。

 刀を構える。とにもかくにも、悠長に選ぶ時間はない。

 八相から振り下ろし。蒔苗の右腕を斬り飛ばす。

「躊躇いなし。……まるで殺人鬼ね」

 耳元で囁き声が聞こえる。

「――もう、今更の話だろう」

 振り向きざまに一閃。飛び退る美緒に、鋭い視線を向ける。

「桜田蒔苗を今殺したばかりだ。そうでなくとも、祓うという名目で多くの魂を消してきた。無実と言うには、わたしは君と同様手を汚しすぎている」

「……わたしと同様、ねぇ……?」

 切っ先を真っ直ぐに見返して、彼女はわたしの言葉を鼻で笑った。

「殺し合いをしている相手に、峰打ちを狙ういい子ちゃんの貴女が?」

 背後から死体が迫る。もう首も、両手もない、あまりにも無残な死体。それがよろよろと、不格好に体を引き摺ってくるように此方へ来る。

 もはや警戒する必要もない。あれにわたしを害することはできない。

「いえ、甘ちゃんというべきかしら。情けをかけて何になるの? 貴女がわたしを殺そうと殺すまいと、もう意味はない」

「……そうだな、君が生きようと生きていまいと、わたしには関係ない。美緒にも関係ない」

 ふぅ、と息を一つ吐き出す。

「ただ、自分で決めたことに――わたし自身の出した答えに、真っ直ぐ向き合うだけさ」

 彼女の瞳を睨み返す。感情が読めない――読ませまいと冷たく凪いだ瞳。

 ふと、屋敷に向かう少し前を思い出す。あれはまるでいい夢を見ていたような感覚だった。心地の良いそれがぷっつりと途切れて、冷え冷えとした現実が目の前にある様など、まるで夢そのものではないか。

 知らず知らずの内に、口元に自嘲気味な笑みが浮かんでいる。どこか、諧謔的な心持になっているのかもしれない。だが、それは今迷う理由にはならない。

 動く。

 一歩目で踏み出す。二歩目で切っ先を引き上げる。三歩目でくるりと峰を向ける。

「――また、そんなことを」

 ほとほと呆れた様な口調で美緒は憶する様子もなく剃刀を構える。

 確かに、この判断は彼女を侮りすぎだろう。まだその懐にわたしを殺すには十分な呪具がある。特に警戒すべきは、彼女が何度も使用している高速で飛翔する札だ。いくら防御が強力だろうと、完全に無効化できるわけではない。事実、先ほどの爆発によって既に効果は弱くなり始めている。呪術の効果は防がれるとも、その影響で汚れる。汚れれば、その分化粧や着物の効力は薄まる。そして、そんなものに対処する方法をわたしは持たない。

 だから、四歩目で――跳躍。

「――――ぐっ!」

 どっ、と鈍い音が響く。刃ではなく、峰が美緒の肩に食い込んでいる。振り下ろす勢いと、落下の衝撃。それはか弱い少女に膝をつかせるには十二分な威力だった。

 刃を、美緒へ向ける。首筋に押し当てられた刀は、ぎらりと威圧的な光を放つ。

 一瞬、睨みつけるようにその光を見て、美緒はすぐにまだ痛みで歪んでいる瞳をわたしに向けた。

「つまらないわ」

「……同意見だ、美緒」

 刀を首から離さず、ひざまずいた。

 視線は外さない。見下ろす形から、真正面から見つめる形になる。

「こんな物騒な茶番に付き合わされるわたしの身にもなってくれ」

「茶番とは失礼ね。本当に殺すつもりだったわ」

「自分自身を、だろう?」

 溜息交じりの言葉に、彼女は投げやりな微笑みを返した。

「ええ、その通り」

「……もう、先は長くないのか」

 告げた言葉は決定的だった。

 彼女が顔に張り付けた表情が崩れ落ちる。そこから覗くのは、どうしようもなく静かで深い、安堵と絶望だった。

 わたしの言葉に首肯して、囁くように彼女は言った。

「この町は、もうすぐ終わるの」















 ホームズ:急:破へ

































 ホームズ:急:破


 龍鬼刀夜という存在があった。

 脈々と受け継がれていた辻桐の家に時折発現する、かつて受け入れた相容れぬ血。特異点とでも呼ぶべき過去の片鱗。

 誰もが望まぬ、あの、息もできぬ冷たさと昏さを――真実の宙に触れて狂い果てた哀れな肉。

 その最後の一人が俺だ。凄惨な過去より取り残されたのが俺なのだ。

「…………」

 たった一人、誰もいない部屋に俺はたたずんでいた。香音は今は屋敷で待っている。

 ここは月折町ではない。雨衣市の閑静な住宅地。……俺の実家だ。

 差し込む月明りに照らし出された部屋は、埃が積もっていて生活感がまるでない。家はもう空き家になっている。

 まるで、この家には最初から誰も住んでいなかったようだ。

「いや、本当に誰もいなかったんだよな」

「ああ。この家には、ここ数年入居者はいない。当然、殺人事件も起きていない」

 肩に止まったカラスが、淡々と事実を羅列する。

「全て、夢なのだからな。夢が現実に影響を与えることはない」

「……俺もお前も、その夢の住民ってワケだ」

 月折町はとっくに滅んでいる。

 龍鬼刀夜という存在がいた。辻桐という一族が居た。桜田という一族が居た。社という一族が居た。月居町という町があった。――全て遠い過去の話だ。

 彼が彼女を呼んだのだ。

「三代目の龍鬼刀夜がこの町に生まれた」

 カラスが呟くようにそう言った。

「彼は何も見えなかった。何も知らなかった。人の情動など終ぞ理解しえなかった。世界を形作る光も音も終ぞ認識しなかった。二つの意識をバラバラに人から外して、龍鬼刀夜はただ声ならざる声に耳を澄ませていたのだ」

 気が付けば、月とは別の光が俺の頬に当たっている。古ぼけたブラウン管が、ザァザァと無意味な砂嵐を垂れ流していた。それと同じものが、幾つも俺を取り囲むように転がっている。誰も住んでいなかった部屋は、青白い人口の光に染まっていた。

「そうして、彼はやがて声と言葉を交わし始めた。正確にはそれは言葉などではなかったが、特に重要な話でもない。大事なのは、相手と感情や意思を交わしたという事実なのだ。それは交信とでも呼ぶべきだったのかもしれない」

 しんしんと声だけが脳に積もっていく。ざらざらとした手触りの光は眼に痛い。自然と思考は変わり映えしない雑音じみた画面を切り離して、聴覚に集中していった。

「君も少しは理解できるだろう。交信とは、一種の思考共有だ。脳内の情報を互いに閲覧し、そしてそれぞれで感想を得る。これは素晴らしいものだが……龍鬼刀夜は相手が悪かった。余りにも交信した対象が異質であり――そして此方に興味を持ってしまった」

 いったん言葉を切って、カラスは俺の頭に飛び乗った。そのまま器用に俺の顔を覗き込む。黒檀色の嘴が、俺の額を斜め上から指した。

 光に照らされ青色にも見える瞳が、無機質な視線を投げて寄越す。

「例えば――川を泳ぐ魚を、いきなり人間が手づかみしたらどうなる?」

 簡単な問いかけ。考えるまでもなく、答えはすぐに出る。

「掌の温度で火傷して……そのまま弱って死ぬだろう」

「正解だ。あの町に起こったことは、つまりはそういうことだった」

 ぶつん、とブラウン管から光が消える。光に慣れかけていた視界が、再び暗闇の中に放り出された。

「彼女は、我々とは違った。違いすぎたのだ。彼女と彼は、そんな差異を理解することもなく、互いに触れ合い、そして狂った」

 バサバサとカラスが飛び立つ。ついてこい、ということだろう。いつの間にか開け放たれていた窓から、一歩外へ。

 じゃり、と靴の下で砂ぼこりが鳴る。家の庭……ではない。庭ならば、手入れされた芝生か、そうでなくともぼうぼうに伸びた雑草が生えているだろう。だが俺の足元は、どれとも違うありさまだった。

「……ここは」

 視線を引き上げる。

 俺は、眼前に広がる光景を見たことがあった。他でもない、あの夜。カラスと初めて出会った時に見た、あの光景だ。

 滅んだ町。終わった町。

 ああ、そうか。あれはこれから迎える結末じゃない。俺たちの住んでいたあの町の、本来の姿なんだ――

「彼女が町に降りたった時、彼はその存在の本質に触れて狂った。そして、町もまた、狂い果てて死に絶えたのだ」

 黒い翼が、影のように銀色の空を閃いた。

 それと対になるように、翼がもう一つ。綺麗に、緩やかな曲線を描くそれとは対照的にゆらゆらと捻じれるような軌跡で、カラスがもう一羽飛んでいる。

 そのすぐ下に、人影が一つ。

 ぼさぼさの黒髪。ひょろりとした長身。細い足首には、鎖の千切れた足かせが嵌っている。

 そんな影が、俺の前に背を向けて立っている。

 ……あれは、誰だろうか? 知っている気がする。懐かしい気がする。そして、俺が決して知るはずがないようにも感じる。

 不意に、影がこちらを振り向いた。

 距離があるせいか、顔はよく見えない。ただ、硝子玉のように輝く、蒼い瞳だけははっきりと視えた。

「――――」

「――――」

 沈黙が二つ。息もせずに二人の間に横たわっていた。

 カラスが、銀色の空を飛んでいる。

「ゲー」

 歪な鳴き声を上げて飛んでいる。ふらふら、ふらふらと、彷徨うように不確かに、真っ黒い影の様な翼を広げながら。

 そのカラスが、墜ちる。ひときわ高く、やはりふらふらと上昇して、そこから力尽きる様羽ばたきをやめて、真っ逆さまに墜ちていく。まるで、一本の黒い槍のように、こんどは迷いのないくっきりとした軌跡で墜ちていく。

 重力の手で叩きつけられて、カラスは地面に貼り付いた。べったりと頭を地面に押し付けて、翼はぐしゃぐしゃにねじ曲がり、コンパスのようにとがった嘴は薄く開き、だらりと舌が覗いている。

 それが体を引き摺る様に動いた。あらぬ方向に曲がった片足と、無事だった片足を使って、ずりずりと前へ前へと進んでいる。

 死んでいなかった、わけではない。生物学的に考えれば、間違いなくカラスは死亡している。ただ、それでも動いているのだ。彼女がやってきて、そうして狂ったこの町で、生者が捩じれて千切れてしまうことも、死者が起き上がり這いずることも、なにも異常ではない。

 カラスは動いている。脳髄はもはや、身体を統制する機能をすっかりと喪失してしまっている。筋肉もすでに腐敗が始まり融解しかけている。眼球はぐるりぐるりと動作に合わせて揺れ、その焦点が定まることはない。ただ、死肉を貪るというその霊的な性質のみが確かに作動し、生き生きとその意義を果たそうとしているのだ。

 故に、カラスは進む。眼前の死肉を――呆然と立ち尽くす、呼吸をやめた肉の塊を、ただ蒼い瞳で虚空を見つめるだけの意味のないカタチを胃の腑に呑みこむために。

 ばきり、と硬質な音が響く。カラスの顎関節が砕ける音だ。蝶番の役目を失ったそれは嘴をつなぎとめることはできず、結果だらりと下嘴はぶら下がる。ぶちぶち、と軟質の音が響く。カラスの喉が裂ける音だ。だらだらと溢れる血を涎の様に垂れ流し喉はぱっくりと大口を開ける。ばりばり、と大きな音が鳴る。カラスの腹が開く音だ。ずらりと並んだ肋骨はそのまま牙の役割を、ぶるぶると蠕動する胃や腸などの内臓はそのまま舌としても機能していくのだろう。

 その身をズタズタに引き裂いて、カラスはあんぐりと大口を開けた。そのまま、不格好に捻じれた翼を広げてまたふらふらと青年の眼前まで飛んだ。

 そして、そのままバツンと青年の首を食い千切った。

「彼女は嘆いた。何故こんなことになってしまったのか。ただ、孤独を望んでいないだけだったのに。と、そう嘆き、そのまま眠りについた。目の当たりにした現実はあまりにも悲しく、直視し続けることは到底できそうになかった」

 かたかた、と気が付けば機械の動く音が耳に流れ込んでいる。自分はいつの間にかふかふかとした椅子に座っていた。見回せば、あたり一面は薄暗く、眼前から届く光だけが唯一の高原だった。

 目の前には大きなスクリーンがあり、映像が流れ続けている。さほど大きくはない、どこか古ぼけた映画館だ。かたかたというあの音は、映写機でフィルムが回る音だろう。

 ぼんやりと映像を眺め続ける。肩に微かな重さを感じ、見てみればカラスがとまっていた。

 映像は平々凡々とした、ツマラナイよくある日常の風景を映したものだった。それが延々とスクリーンに流れては切り替わり、また別の日常を映していく。

「ふふっ」

 小さな笑い声。隣の席を見てみれば、小柄な少女が映像に見入っている。顔はなぜかぼやけてよく見えない。ただ、先ほどの青年と同じように、俺は彼女をよく知っているように感じた。

「あなたも、こういうのが好きなの?」

 顔をこちらに向けることはせずに、少女はそう問いかけてきた。一瞬、どう返答しようか逡巡したが、そんな思考とは無関係に唇は動き、言葉を紡いだ。

「ああ。嫌いじゃない。自分の持っていないモノには、やはり憧憬の念を抑えられない」

 抑揚の薄い、俺の声よりも少し低くしゃがれた声。喉をあまり使い慣れていないような声。それが勝手に少女の問いに答える。視線を少し落とせば、俺の服は着物になっていて、視界に入り込む前髪も心なしか長く、手足には鉄枷が嵌められていた。

「そうなんだ。それじゃあわたし達は、ひとりぼっち同士だね」

 くすくすと笑って彼女は席を立った。それからくるりとこちらを振り返って、俺に尋ねた。

「ねぇ、今度わたしもそちらに行ってもいいかしら。いつも一人きりでいるのだけれど、こんな風景を手の届く距離で見てみたいの。たった一人が完結させる世界よりも、多くがかかわりあいながら続く営みが見たいの」

 その言葉が酷く悲し気で、その声が酷く寂し気で、その様子を心のどこかで自分自身と重ねて、俺は頷いた。

「いいとも、きっと歓迎するよ。君が訪れる日が楽しみだ」

 次の瞬間、ぶつんと音が途切れる。同時に光も一切が消えてなくなり、俺はまた、あの静かな夜の暗闇に取り残されてしまった。

「なぁ。俺は今どこにいるんだ?」

 暗闇の中で、カラスが俺の問いかけに答える。

「さて……何処だろうか。私にも判別できない。ここは夢の外だ。夢の中に生きる私たちでは時間軸も地理的な座標もなんの影響もうけられず、影響することもできない。ただ自分の中に存在する記憶を自分の感じ取るモノに貼り付けて生きているように振舞うだけだ」

 ここは俺たちが住んでいた夢の外。彼女が望む俺たちの形を通さず、俺たちは世界を見ている。

「そうか。つまり、俺は体を失っているようなものなのか。見て聞いて、嗅いで感じて味わう肉がない。感覚を確かにする肉がない。だから、在った筈のもの、在る筈のものの中をさまよっているんだ。記憶の中にあること、なかったこと、自分の物であるもの、自分の物でないもの、全部関係なしで物質的な制約がないまま情報を読み取ってそれを自分の物だと認識する」

「そう。我々は肉体という魂の檻、アイデンティティーそのものを喪失している。本来であればそのまま消失するだろう。物質的な生命体は情報だけとなった瞬間に陳腐化して自我を保てなくなり普遍化する。だが、我々は違う。複雑な意識を持つ存在は共通の認識を持つことによって互いに互いを保証し合える。しかし今ほぼ単独と変わりない私達にはそれが不可能だ」

「つまりは、人間や普通の動物とは別のものになっているって事だろう?」

 俺たちにカタチはない。今は意識を形作る肉体を持たないまま俺はここに存在していた。

 本来ならば、意識は肉体に生まれるモノだが、今の俺にはそれは無理だ。それでも、ここまではっきりと俺は俺を自覚し、その上で俺が認識している世界への違和感を感じ取れていた。

 つまりは、俺は人間とはもう程遠いモノになっているということだろう。

「正解だ。我々はほぼ概念生命体になっている。物質的な側面はあくまでこの生命体として持つ機能の一部に過ぎず、そして我々の本質に最も近いものだ。私達は共通の認識の中で生きている。例えば死骸を貪りその代償に生前に力を貸すモノ。あくまでも、この町に根付いたモノだ。しかし、情報とはこの世に普遍的に存在するものだ。物質に囚われることなくな。あくまで認識とはその法則に基づいて物質的に構成された存在が、受信する際に発生する、方法の差異に他ならない。だからある意味で私達の存在は世界中で――この宇宙全てで保証され、そして同じように否定される」

「……俺も、そんなものの仲間入りって訳か」

「いいや、君はどちらかと言えば元からそうだった方だ。血が流れている以上は、その因子を多少受け継いでいる。……とはいえ、これ程はっきりと自意識を保っているのは君自身が概念生命体に近づいているからだが」

 ……ため息を吐く。覚悟している事ではあった。この町の真相を、俺はもう美緒さんに教えてもらっていたし、なにより多くの事を経験しすぎた。

「結局、俺はどうすればいいんだろうな」

「まだ答えは見つからないか」

「アイツを助ける手段の手掛かりが手に入った段階だ」

 夜の風が頬を撫でる。空を見上げれば、うすぼんやりとした雲の輪郭がゆっくりと流れていた。今、月は見えない。この町では月は動いている。それがここが夢ではないなによりの証明だ。

「まだ、選ぶべき手段も見つかってない」

「……彼女を救う手段か」

 カラスの言葉は、そのまま重々しい事実に他ならなかった。

 どうすればいいのか、多くを知った今でも、自分自身の変化をよく自覚できた今でも、俺には為すべきことが見つからなかった。

 ふっ、と弱気な気持ちになる。

 俺は、一体どうするべきだろうか。


 家を振り返る:香音:急:急


 一歩前へ踏み出す:ホームズ:急:急へ
















 香音:急:急


 じりりりり、というけたたましい目覚まし時計の音。

 寝ぼけた頭で、もぞもぞと布団の中から手を伸ばし時計を止めた。まだ布団から出たくない。

 今はまだ春休み。久々の実家なのだから、ゆっくり二度寝をしても文句を言うヤツはいないだろう。

 そう結論付けて、俺は午前八時の優雅な惰眠を貪っていた。

 まだ春も始まったばかりで、朝の空気は布団の中の温もりと較べればどうしても肌寒い。宿題もとうに終わり、予定もないこんな日は、昼当たりまでこうしてだらだら時間を潰せるのが本当に素晴らしい。

 勿論起きればランニングも素振りも頼まれていた洗濯だってするが、それはそれ。息抜きは大事。超大事。そして今日は息抜きに徹すると決めたのだ。

 嗚呼、素晴らしきかな春休み!

「おはよう、統也君!」

 ……もっとも、安息は儚いものと相場は決まっている。俺の安息もまた、例外ではなかった。

 ばたーん、と派手に音を立てて扉が開いた。そこでは、堂々と仁王立ちをした顔見知りの少女がいた。少し汗をかいていて、真新しい制服を着ている。

 彼女は桜田香音。俺の婚約者である。

 なんでも、昔から桜田の家の次女は辻桐の家に嫁ぐのがしきたりだそうで、そして俺の実家である立木は、その辻桐家の末裔だそうだ。いや、それなんてエロゲと思うだろう。俺も思った。思ったけれどまあ、断るようなことでもない。むしろ俺みたいなのに嫁いでくれるというのだから、大歓迎だ。……とはいえ。そう思えるようになるまで随分と色々なすれ違いがあったのだが。

「統也君……まだ寝てる?」

「……あの元気な挨拶で、起きないワケがないだろ」

 布団から起き上がって、俺は彼女に笑いかける。

「おはよう、香音。それ、うちの学校の制服か」

「うん! やっと届いたから、いの一番に見せに来たよ!」

 香音は今年で高校生になった。俺も一学年上がって今年から二年生になる。

「これで統也君と同じ学校に通えるね」

「そうだな。……一応、人前じゃ許嫁じゃなくて、先輩後輩だからな」

 そう釘を刺すと、彼女はむっとした表情で指を振る。

「わかってるよー、それくらい。節度は何事にも大事だもんね?」

「ならいいが……」

「心配なんていらないいらない。これでも、わたしはあなたの立派なお嫁さんなんだから!」

 胸を張って、彼女はそう言った。

 ……まあ正直なところ、俺は彼女と一緒に高校に通うことはとても嬉しい。

 だからさっきの釘指しは、半分自制の意味も含んでいる。

「ああ、そうだな」

「もー、ほんとに信じてる?」

「信じてる信じてる。ところで香音」

 ぷんすかと怒る彼女を、宥めながら一つ質問をする。

「お前、ちゃんと姉ちゃんに連絡してからこっちに来たのか?」

「ぎくぅっ! にゃ、にゃんのことかなぁ……?」

 半分確信めいたものを抱きながら質問を差し向けると、香音は冷汗をだらだらと流しながら視線を背けた。

「美緒さん、お前が俺の家に来るって知ってるんだよな? ……まさか、黙って出てきたなんて事はないよな?」

「あ、うん、うん! そりゃもう、ばっちり伝えましたよ、ええ!」

「ふぅん……」

 半信半疑で頷くと、うちの前で車が止まった。

 窓から覗いてみると、ここ一年で随分と見慣れた黒塗りの高級車が我が家の前に鎮座している。そしてその車から降りてきたのは、顔見知りのメイドさんだった。こちらに気が付いたのか、メイドさんは窓越しの俺を見上げて、にっこりと微笑みかける。そのまま流れるような所作で(どこからか取り出していた)スマートフォンを耳に当てた。

 殆ど同時に、枕もとで充電されていたスマートフォンに電話がかかってくる。

 香音は部屋の隅でぷるぷると震えていた。ああ。やっぱりか。

「……もしもし?」

『もしもし。美緒です。おはようございます、統也様』

 電話から聞こえたのは案の定、柔らかで優しい声だった。そして、香音にとっては半分死刑宣告のようなものだった。

 桜田美緒。桜田家長女にして、桜田家次期当主。そして、俺の許嫁である香音の姉で――

つまり俺の義姉になる人である。

 俺――立木統也は、去年の春からここ雨衣市の実家ではなく、隣町である月折町の辻桐屋敷で生活を送っていた。なんでも、結婚後は屋敷が俺の家になるそうで、早いうちに慣れておくことと、月折町に住む住人に俺の顔を覚えてもらうことが目的らしい。

 高校進学と同時に、夢の一人暮らしが叶うのか、などと俺は妄想していたが、そうは問屋が卸さない。家事能力が壊滅的な高校生の一人暮らしなど、親も世間も認める筈がなく、その結果家事万能勉学優秀、おまけに俺を面倒見る理由までそろっていた、同い年である桜田美緒さんが俺の面倒を見ることになったのだ。

 つまり、俺は丸一年この彼女のお世話になりっぱなしだったワケである。それもメイド服姿で。

 当然、頭なんて上がる筈もない。自然とさん付けで呼ぶことが癖になってしまった。

「おはよう、美緒さん」

『朝早くからすいません。それで、本題ですが……桜田香音はお邪魔していませんか?』

「あー……」

 曖昧な声を出しながらそっとカノンを窺ってみれば、ふるふると首を振っている。

 ……まあ、少しくらいは庇おう。

 くるりと香音に背を向けて、淡々と質問に返答を返す。

「確かに今、香音は俺の部屋にいる」

『やはりそうでしたが、では今すぐ迎えに――』

「――ごめん、俺が誘った。本当はもっと遅い時間に会う予定だったんだが、なんか時間伝えるのミスったみたいだ」

『統也様、それは……』

「そういうわけだから、大丈夫。後でちゃんと送るよ」

『はぁ……わかりました。では、そのようにいたしましょう。……統也様、少し甘すぎますよ』

「はっはっは、ご忠告ありがとう。義姉さんのいうことだ、肝に銘じておく」

『まったく……』

 電話の向こう、呆れた様な表情が簡単に思い浮かぶような、ため息交じりの声色だった。

 それに苦笑を返して、通話を切る。同時にぼふんと何かが腰に抱き着いてきた。

「……ありがとう、統也君。わざわざ庇ってくれて」

 ぐりぐりと押し付けられるさらさらとした髪を撫でてやれば、余計頭を押し付けられた。

 彼女には、猫っぽいところがある。割かし気分屋で、思いついたらさっさとそれを行動に移してしまうところもその一つだ。行動力があると言えば聞こえはいいが、流石に何処に行くかの一言もなしにふらっとでかけるのはよろしくない。

 と、いうワケで

「まあ、それはそれとしてお前、さっき俺に嘘をついたよな」

「へぶっ」

 撫でるのをやめて、チョップを落とす。頭を押さえて彼女は上目遣いにこっちを睨んだ。

「なにするのさ」

「ちゃんと、連絡くらいしておけ。携帯あるんだから、移動中にぱぱっとやれるだろ?」

「う」

「くどくど言いたかないけど、お前のソレは悪い癖だ」

「むう……」

 少しむくれた彼女の表情は可愛らしい。が、それはそれである。

「分かってるもん」

「もんってなんだ、もんって」

「分かってるけど……分かってるけど~~~~!」

 一応は反省している、らしい。

 しかし、それでも納得しきれていないらしく、みゃーみゃーと抗議を始めた。

「でも、やりたいことを見つけたら一気にやらないと、間に合わないかもしれないし!」

「あー……」

 その一言は割と俺に効く。正確には、俺と香音に効く。

 俺と彼女は許嫁と決まって、挨拶に行った時が初対面じゃあない。もっとずっと前のことだ。俺たちがまだ、小学生だったころにたった一度思い出を共有していた。

 それが互いに忘れられなくて、俺たちはお互いに婚約破棄協定を結び、そのために色々と奔走したりもした。……少し前までの、笑ってしまいそうなすれ違いだ。

「まあ、確かに色々とあったけどな」

 ぽん、と香音の頭に手を置いて、そのままぐしぐしと撫でる。

「やっぱり、突っ走りすぎるのは良くないぞ。せめて、俺にくらいは一言連絡してくれ。自分の嫁さんが行方知れずとか、マジでぞっとしない」

「…………ん」

 少しだけ頬染めて、返事だか何だかよく分からない声を出して、彼女はそっぽを向いてしまった。

「? ……。あー……」

 その反応が解せなくて、少しだけ自分が何を言ったか考え、改めて照れる。

 なんというか、その、我ながらなんでそーいうことを恥ずかしげもなく言ったのか。言葉のチョイスというか、センスというか、もっとこう……なにかあっただろうに。あっただろうに……

「……統也君ってさ」

「んぁー?」

「何その返事……。まあいいや。統也君って、あれだよね」

「……。なんだよ」

「割と考えなしにキザな台詞吐くよね。似合ってないのに」

「…………なるほど。お前は俺を殺したいのな。よーくわかった。葬式の手配を進めるよ」

「んー、いやいや、嬉しいよ? 嬉しいけどほら、恥ずかしいものは恥ずかしいし……」

「言われなくとも自覚してる。……だから追い打ちはヤメロ」

「なんでこう、自分でも恥ずかしがるような台詞をポンポン吐いちゃうの?」

「知らぬ」

 存ぜぬ。

 不貞腐れながら、再び布団の中にもぐる。あー、この温もりだけは俺を見捨てない……。これが安らぎというモノか――

「――とりゃ」

 もぞ、と冷気が入り込んでくる。同時に、何処となく甘く感じる自分以外の匂いが真っ暗な布団の中に混ざった。更に言ってしまえば、小柄な誰かさんが俺の背中あたりでごそごそ動いている。

「んー、統也君の匂いだぁ」

 すんすん香音が俺の匂いを嗅いでいる。猫が甘えるのなら、丁度こんな感じだろうか。

 彼女は額を俺の背中に摺り寄せて、腹のあたりに手を回した。後ろから抱きしめられるような形だ。……これはあれか。拗ねているのを慰められているのだろうか。

「――そぉいっ!」

 と、思いきやするりと手は離され、布団が勢いよくはぎ取られた。

 当然、ぬくぬくと布団の中の暖かい空気を堪能していた俺は、外の冷たい空気に晒されてしまうワケで、

「寒ぅっ!」

「布団の中に閉じこもらない! ほら、着替え用意しておいてあげるから、早く顔洗ってきたら?」

「……おう」

 がしがしと寝ぐせのついた頭を掻きながら、俺は猫背で部屋を出た。まあ、美緒さんには俺が呼び出したことにしたんだ。こいつが勝手に押しかけて来たにしても、相手をしてやるのが甲斐性というものだろう。

欠伸をしながら、ぱたんと後ろ手で扉を閉める。

彼女と何をしようか。そんなことを考えると、少なからず自分の気持ちが浮足立つのが理解できる。間違いなく、俺は彼女に弱い。

そんな彼女が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのも、なんだかんだ嬉しい。

「……でも、布団はぎ取るなら潜り込まなくてもよかったよな」


 ……


 彼の部屋にはよく入る。わたし――桜田香音は(今時珍しいことに)彼の婚約者だ。

 そんな関係性だから、時々彼の面倒を見る。……まあ、最初は嫌がって姉さんに任せていたりしたけれど……結局のところ、不幸な行き違いだった。

 いろいろとお互いにしょうもない嫌がらせや悪戯を重ねてきたけれど、それももういい思い出になっている……と思いたい。

「さてと……」

 統也君の機転のお陰で、今日は二人でいられることになった。制服だけ見せて直ぐ帰るというのも味気ないと思っていたから、素直に嬉しい。どこに出かけようか。何をしようか。全然なにも決まってないけれど、二人で一緒に考えるのも、やりたいことをお願いするのもされるのも、きっと楽しいに決まっている。

 例えば……制服デートとか悪くないかもしれない。そもそも、わたしは統也君に制服を見せにわざわざ来たわけだし。

 ああ、でも少し急いだせいで汗ばんじゃってる。さっき布団の中に潜り込んだときとか、汗臭いと思われていないだろうか。制服も、流石に今すぐ洗濯して干して二人で出かけよう、とはいかないだろう。となると、まあ制服デートなんて選択肢はなくなってしまう。

 なら代案を出そうと考え始めてみるけれど、仮にも彼氏どころか婚約者の部屋で汗臭い(そうでもないかもしれないけれど、一旦気になり出したら仕方なくなってきた)ままうんうんと唸っているのもどうかと思えて来た。なので、

「統也くーんシャワー借りるよー」

「いや、それはいいけど頼むから俺いないところで服とか脱いでくれないか?」

「脱衣所と洗面所が一緒になってるからしょうがないの」

「別にしょうがなくはないだろ。俺が顔洗ったり髪型直したりしている横で風呂に入る準備をする必要はないと言ってるんだ」

 ぐしぐしと顔を拭いながら、彼がジト目を向けてくれる。

「もー、サービスだよサービス」

「……時々思うんだがな。お前はなんだかんだ物ぐさなところあるよ」

「え? そう?」

「思い切りがいいとは思うし行動力もあると思うがな、やったことの後始末とか前準備とかすっ飛ばすのはどうかと思う」

 少しだけ呆れた様な調子の言葉に首を傾げると、そうため息交じりに言われた。成程、言われてみれば納得できる。まあ、悪癖の類だと思う。

「んー、確かによくないね……。反省します」

「悪いとまでは……ああ、いや悪いと言えば悪いな。けれど、別に俺とか美緒さんの前でやる分には別にいいって。人前ではやるなよ。友達なくす」

 時折、彼はまるで母親のような時がある。別にそれが嫌だとか、説教臭いとは思わない。人に色々なことを言うけれど、自分に向けられる指摘にも真摯な人だ。一つしか年が違わないのに、時々自分よりもずっと大人びて見える彼を、何となく自慢に、それと少しだけ可笑しく思いながら、からからと風呂の扉を開ける。白い浴室には、形にならず沈む石鹸と水の匂いが満ちていた。

「ね、統也君」

「んー?」

「お風呂デートとか、どう?」

「却下」


 ……


「彼シャツとはいいものだー」

「それ言ってるのがシャツ貸している俺じゃなくて、着ている本人ってーのが解せない」

 統也君のベッドの上でごろごろと寝転がりながら、わたしは手を伸ばす。ぎゅーっと背伸びをするようにして、ようやくベッドに寄りかかりながら文庫本を読んでいる彼の後ろ髪に触れられる。そのまま、わしゃわしゃと雑に撫でるような手つきで髪をいじくってみた。

「……なんだよ」

「いや、あんまり統也君は髪の毛に癖ないよね」

「まあ、髪を整えるのに時間が要らないのは助かるな」

「触っててなんか飽きないんだよねー」

「そりゃどうも」

「反応薄いなぁ……。撫でられるのはお嫌い?」

「……嫌いじゃないから、努めて無反応にしてんだよ」

「へー?」

「声、ニヤついているな」

「なんだか可愛らしい返答が貰えたからねー」

「そりゃどーも。で、結局出かけなくていいのかよ」

「ん。偶にはこうしてのんびりしてるのもいいかなーって。ほら、わたしは統也君が屋敷に居る時には、いつもどこかに引っ張って遊んでたしさ」

「ふぅん……」

「そーれーにー……統也君の実家にはなかなか来れないから、いろいろ探してみたいしね」

「……は?」

 少し口元を引きつらせながら、統也君がこちらを振り返る。

けど、もうわたしはベッドから降りているのだ。

「エッチな本とか、きっと置いてったりしてるよね~♪」

「マジで探すつもりか?」

「もちろん」

「……別にいいけどさぁ」

 ベッドの下……にはない。じゃあ本棚の奥の方かもしれない。

「どれどれ……。……んー?」

 本を取り出して手を突っ込んでみると、明かに本とは違う固い感触がある。手を伸ばして引っ張り出してみれば、少し古ぼけた箱が出てきた。

「あ、それは――」

「――ははーん、さてはこの中かなー?」

 やれやれといった様子でわたしを見ていた彼が、しまったという様子で彼が静止をかけるが、もう遅い。見つからないと高を括っていたのかもしれないが、わたしの名推理には勝てなかったようだ。

 ……まあ、婚約者の持っているそういう本を漁るのはどうかと思わないでもないけれど、本人が止めないのでセーフだと思う。

随分長く大切にしまわれていたのだろう、その箱を開ける。

 中に入っていたのは、丁寧に折りたたまれた、桜の柄が刺しゅうされた真っ白なハンカチ。

「え、これ……」

「……まあ、全然普段使いは出来なかったけど、大事にはしてた」

「……そっか」

「…………ああ」

 ずっとずっと昔――初めて出会った時の、あの日の約束の名残を手に取って、わたしは少しほうとしていた。

 ……そっか。あの約束はわたしと同じように、彼と一緒にいてくれたのか。今、こうして形になってくれたのか。

 彼の部屋の中、形のまま残っていた思い出がどうにも照れくさくて、それに嬉しくて、真っ赤になってしまった自分の顔が恥ずかしくて、わたしは顔を伏せる。

 彼とわたしの距離は近い。そりゃもうとっても近い。丸一年ほとんどぎゃーすか言い合いをしたり、よく分からない張り合いをしてみたり、いろいろとしたりされたりやったりやられたりしてた間柄だ。まあ、最初は険悪とはいえ遠慮がないやり取りをしていたし、それも徐々に軟化していって最後には今この関係になっている。だから、わたし達は恋人のような友達のような、近いけれどよく分からない距離感で接している。

 そのせいで、普段はあまりどきどきしたりときめいたりはしない。全くないというワケではないけれども、彼との会話はやっぱり気が置けない友人同士と同じようなやり取りになってしまいがちだ。

 そんなわたしでも恋する乙女の類ではあるから、だから……まぁ、その――

「なーんだ、お前も顔赤くなってる」

 ――こういう、夢のような結果が、その先を見るという現実が、たまらなく眩しくて、熱くて、じっと見つめるにも、手に取るにも、わたしには難しい。

「……そーいう統也君もじゃん」

「恥ずかしいからな」

 ぽんぽん、と俯いたままの頭を撫でられる。そっぽを向くと、苦笑しながら彼はわたしの顔を覗き込んだ。

「懐かしい思い出なんて、しまっとくに限るよ。一人で見る分には楽しいけど、誰かに見られた途端、恥ずかしくなる」

「何も反論できないなー、その理屈」

「じゃあすぐにそれを元の場所にしまっとけ」

「……それはやだ」

「なんで?」

「……折角だから、これも作り直すよ。統也君とはこうして一緒に居られるんだし、これも、しまい込んでもらうよりも、普段使いしてくれた方が嬉しいから」

 彼に手渡したそれはどうみても女性向けのデザインで、普段使うのはどうしてもハードルが高かっただろう。けれど、今のわたしはお姉ちゃんに(付き合ってもらったおかげで)少しくらいなら裁縫ができる。このハンカチもすこし手直しすれば十分使えるだろう。

 ……まあ、近日中に完成させるのが難しいのは、恥ずかしい話なのだけれど。

「そっか。なら頼む。……楽しみに待っとく」

「んー、あんまり期待しない方がいいと思うけどなー」

「はっはっは。彼氏彼女になって初のプレゼントだ。期待するなってのが無理だろ」

「あー、そっか。前までのヤツはこうなる前かー……。……これ、地味にプレッシャーだね」

「おっと、そりゃ悪かった。じゃあ、俺も何か用意するよ。買うんじゃなくて、何か手作りでさ、俺の作ったものと、香音が作り直すハンカチ、交換し合うっていうのはどうだ?」

「それは楽しそうだけど……無理に付き合わなくていいよ? わたしがなんとなくやりたいからやることだし」

「同じことだよ。俺もそうしたいから、そうするんだ。……うーん、しかしアレだな。改めて考えてみると、婚約破棄を目指していた頃の方が、お互いにプレゼント贈りあってたような?」

「……確かに」

 そのほとんどはお互いへの嫌がらせだった。そのうちの幾つかは、意図しない喜ばしいプレゼントだったりもした。

 嫌い合っていたわたし達の上書きのように、もう一度贈り物の約束をする。

 触れ合うように微笑みあって、頬を染め合ったりしてみる。形になったあの日の夢が、そっくりそのまま今のわたし達だった。

「ねぇ――統也君」

「うん?」

「嘘、じゃないんだよね……?」

 意図せず言葉に滲んだ疑問符が、ゆらゆらと曖昧に言葉になった願望を揺する。

 何を言い出すのか。自分でも戸惑ってしまう。けれど、それは間違いなくわたしのなかに居座っている感情で、不安で、引き金で、それを晒してしまうのは、きっと彼がどうしようもなく優しい人で、優しい瞳をしていて、それでいてどうしようもなく醒めた眼でずっとわたしを見る、わたしの一番大切な約束の人だから――

「どうしたんだよ、いきなり」

「――ごめん、変なこと、聞いちゃった」

「……不安か? 俺が居なくなるかもしれないとか、そういうこと考えてるのか?」

「まあ、一回約束を守ってくれなかったからね。それに……もっといい子が、統也君にはいっぱいいるって、よくよくわたしは分かっているから」

「買い被り過ぎだ。俺はな、お前を相手するときに遠慮はしないって決めてるだけだ。他の女の子相手じゃ、こうはいかないよ」

「そのことを言ってるんだけどなぁ……。まあ、いいか。それなら、わたしに独り占めされていなさい。…………なんて、ね」

「…………ふん、もう、俺はとっくにそのつもりだ。――って、おい、自分の言った台詞の恥ずかしさを、俺の顔色で再認識するな。言った直後に自覚できるだけ、俺の方がマシだろソレ!」

「なーんのことだかさっぱりわからんニャー。いやー、さっぱり、さっぱり理解できない。というわけで、そろそろご飯とか作ろうと思うんだけれどねえ折角だし一緒に作らないとか誘ってみますが、そこのところ如何かしら!?」

「無理矢理話題を変えるなよ……あと焦り過ぎだ。そうなるならああいうのは口に出さずに取っておけよ」

「統也君、それ、ブーメラン」

「あー……、ああ、うん、確かに」


 ……


 太陽が頭のすぐ上には少し届かない場所で、燦燦と輝いている。

 揺れる買い物袋は二つ。一つは私の左手に、もう一つは彼の右手に。空いた互いの手は、互いの手を握っている。

 ちなみに、ぱっと見は堂々としているように見えるが、こうして白昼堂々手をつないだりしているのは初めてなので、緊張して二人そろって真顔になっているだけだったりする。そも、何故手をつなごうとしてしまったのか。思い出してみて、脳内でため息を吐く羽目になった。何とはなしに互い違いに空いた掌を少し意識してしまって、手を伸ばしたり離したりしている内に、どちらが捕まえたかいつの間に手をつないでいた。

 ……なんだろう、こう、特に何をしようとしたわけでもないのが、やたら恥ずかしいというか。改めてどーいう風に彼を思っているのか、考えなければいけない気がするというか。

(――うーん、何がひっかかっているんだろ?)

 心当たりがない、ワケではないけれども、思い当たるそれらではない気がしている。で、そういう気がしているなら多分そうじゃないということなんだろう。ふわふわした感覚だけれど、割と今までの人生でも宛にしてたし、完璧に間違いじゃない。

 ぐるぐると考え込む感覚に少しだけ首を傾げながら、隣の彼を見てみる。

 同じように、こちらを覗き込んでいたのだろうか、斜め上から差し込んでいた横向けの視線とかち合う。さっとそらして、前を真っ直ぐに見直した瞳にはそっけない雰囲気を出しているが、先ほどの一瞬の余韻のように赤くなった頬のせいで、台無しになっている。

 無性にその様子がおかしくて、わたしも視線を前に戻しながら少し吹き出してしまった。むっとした様子でちらりと彼はこちらを見て、すぐに諦める様に、取り繕うように、さっとまた視線を戻した。またまたそれが可笑しくて、わたしの笑いは一層濃くなってしまうのだけれど、苦笑するように統也君も一緒に口元に笑顔を浮かべる。

 焦らなくても、いいだろう。

 笑いで緩む口元を頑張って引き締めながら、繋いだままの手で、その指の腹で、彼の掌の甲をなぞる。触れる肌の感触が、温度か、どうにも嬉しくて楽しくて、愛おしい。

「くすぐったいな」

「やだった?」

「……まあ、力がこもらなくなりそうでビビったけれど、不意打ちじゃなければそれ程」

「ふーん? じゃ、もうすこし触ってていい?」

「いや、出来れば気になるからやめて欲しいかな」

「男女間の適度なスキンシップじゃん」

「んー。ならさ」

 ぱっ、と彼の手がわたしの手から離れ、するりと結びなおされる。より繊細に、きっちりと、絡め合うような調子で、手の平と平が再密する。

 いわゆる、恋人つなぎというやつだった。

「こっちの方がらしいだろ」

「……そうかも」

 先ほどより強く伝わる感触と温度で、心地の良いむずがゆさがさざめく。

 一寸の戸惑いにそのさざなみは化けてわたしの頬にさらりと朱を引いた。

「ほーら、朱くなる」

 お互い様だな、と笑って彼が少しだけ歩調を速める。つられてわたしも少し足を急がせる。早くはなっているけれど、まだ二人で共有する歩調だ。

 空は真っ青に突き抜けていて、太陽はようやくてっぺんまで登り切って、影は足元丸くなっている。

 白昼堂々のスキンシップ勝負は、照れて歩調を速めてしまった彼の負けだろう。
























「嗚呼――成程、それはそれで幸せな結末だ。とても幸福で、とても平穏で、そしてとてもつまらない――かけがえがない。なんともまあ、理想の運命だ。これ程に見事なハッピーエンドは見当たらない。見つけられない。脚本家ならば稀代の天才と言うべきだ。だが――」

 言葉が斬られる。薄い御簾のように垂れ下がった、暖かな現実を斬り棄てるように。

 眼前には男が一人。仰々しい言葉まわし。一目で仕立てがいいと理解できる黒い着物。その腰に差した物々しい刀。一切合切異常で異質な青年が、真っ直ぐに視線で俺を射抜いて、縫い留め、音を吐いている。

 それは言葉にも似て、しかしどうしても言葉と思えない程真っ直ぐに意識に斬線を刻み込み、そして拭い去ることはできない。

 ゆらりと一歩前へ踏み出す。二足で地面に立ち、それに沿った動作であるはずなのに、青年のソレはまるで幽霊の所作を見つめているように、昆虫の狩りを眺めるように、奇妙な非現実感と神秘感を、そして淡々とした零度の無機質さを感想に犇かせるのだ。

「教えてくれ。――教えてくれたまえよ。君は何だ? 何故ここに

居る? 何処からここに来た? 何処へ行く? 何をする? 決まり切っているものを尋ねているのではない。君が決める行方を、今、私に聞かせてくれたまえ」

 する、と視線が喉元にあてがわれる。あの、気が狂いそうな、真っ直ぐで歪んで鋭く撓む、深く澱む鮮やかな異形の青が、青が――

「――ッッッ!」

 身を鎮める。沈める。緊張と恐怖と恐慌で弾け飛びそうな全身の筋肉と心臓を、慄く肋で押さえつけて、地面を見失って体を放り出してしまいそうな足をしっかりと踏ん張らせて。

 構える。鍔を左手の指で押し出して、柄を握りしめ――

 寸でのところで、自分が虚空を掴んでいることに気が付く。それと同時に全身の神経が凍り付いた。今、俺は何をしようとしていたのだろうか?

「俺は――」

 悲鳴じみた自分の声と、目の前へと迫る一歩が重なる。喉から絞り出された言葉は音になれないまま、震えて死んだ。

 答えを。差し出す答えを。狼狽える脳髄は、怯え惑った精神は、きっと簡単な彼の要求にすらまともに答えることができないまま愚図愚図と腐って融けて、俺の中から蒸発していく。

「……無理、か。そうだろう、それでいい。君は、そのままの方が都合がいい。誰かが見る夢だ。主人公は脚本の善し悪し等理解できないしするべきでもない。悲劇は客観的な主観でのみ成立するし、それに必ずしも登場人物の本心は必要ではない。ただ与えられた仮面を素直にかぶることだけが君たちの存在意義だ。生きているように見えればいいし、死んだように見えればいい。殺されたようなら上等だ」

青い目は、変わらず俺を捉えたまま、しんしんと雪が降り積もるように、刻々と時効で事件が終わってしまうように、粛々と葬儀が進んでいく様に、淡々と畜生が精肉されていく様に、距離だけが死んでいく。

 意味が分からない。

 意味が分からない。

 一体何が起きている。始まっている。

 彼は誰か。俺は誰か。何故ここに居たのか。何故こうしているのか。

 この指に絡む暖かさは、一体誰の――

「ぁ――」

 そうだ。俺は、ここに居る。ここで生きて、ここで育って、ここで彼女と一緒に生きていく。

これまでも、これからも。

 ぴたりと、青年が立ち止まる。貌が、よく見えない。靄がかかっているのでも、影になっているのでもない。それでも、何故かはっきりとその貌がどんなであるか、認識することができない。ただ、煌々と輝く、青い、青い目だけが、はっきりと視えている。

「――今一度、君に問おう」

 するり、と腰の刀が引き抜かれる。ぎらぎらと威嚇するように輝く白刃は、青年の異常な雰囲気と相まって、まるで心臓を鷲掴みにされたとような恐怖を覚えさせてくる。だが、それでも――

「……統也君」

 香音が、不安そうな顔で俺を見る。それに、一欠けら分だけ微笑み返した。今はそれが精いっぱいだ。

 ――何故だろうか。今の俺は、目の前のコイツに負ける気がしない。

 既に理解している。あれは俺とは違う世界の物だ。そして、俺に敵意を持っている。だからああして、俺に揺さぶりをかけている。どういうワケだかしらないが、そうして俺が自分自身を曖昧に感じてしまうことが、奴にとって好都合なのだろう。つまり、そうならなければ――俺が俺自身を強く持っていれば、奴の目的は達成されない。そして、俺はそうするために必要なことを既に知っている。

 繋いだ手に意識を集中させる。触れる温もりに、その持ち主に、そしてここまで積み重ねてきた思い出を、一つ一つ手にとって確認していく様に、思い出し、確認していく。

 もう、何も悩むことなどない。

「君は、一体誰だ?」

 淡々と告げられるそれは最早ただの言葉で、それはつまらない質問に過ぎなかった。

 突きつけられた切っ先は、真っ直ぐに俺を指している。

 恐怖はいつのまにか消え失せている。自分に感じていた違和感もどこかに行ってしまった。

 だから、俺は告げる。

 俺自身の名前を、告げる。

「俺は、立木統也だ。それ以上でも、それ以下でもない」

 言い斬る。

 同時に、突きつけられた刀がざぁ、と風に吹かれた砂のように消え失せた。

 だらりと青年は手を下げ、一歩此方に踏み出してくる。

「――そう、お前はタツキトウヤだ。そして、」

 ずるん、と引き込まれるように、俺と彼の間の距離が一瞬で消える。眼前に、青い目が迫った。それは真っ直ぐに俺の目を見て、更にその奥の奥を覗き込んでいるかのような鋭さと、そして言いようのない得体の知れなさを湛えていた。

「それは、私自身だよ」

 それは、酷く決定的な言葉だった。

 目の前の男がさらさらと影のような、砂のような何かになって消えていく。

 それは口元に一瞬だけ微笑みを浮かべて、そのまま暗くも明るくもない灰色の背景に奇妙な陰影を名残せ、そして何処とも知れない彼方へと吹き去っていった。

 膝をつく。体に力が入らない。彼女とつながっていたはずの手には、熱を喪った硝子のような灰を握っているばかり。

「ぁ、……あ、ぁあ……ぁ……」

 頭が痛い。割れる様に、砕ける様に、潰れる様に、捻じれる様に、痛い。痛い、痛い、痛い!

 それとも、今俺の頭は本当に割れているのだろうか。砕けているのだろうか。潰れているのだろうか。捻じれているのだろうか。涙で視界が曇る。頬を伝うその雫の熱さとは別に、奇妙な冷たさが額を伝い視界を蒼く濁らせる。

 触れた指先には、冷たさと想像以上に水に似た感触が伝わる。見れば、指には青い色が出てくる。あの、気が狂いそうな、深く鮮やかな青い色――

「――俺は」

 ずきり、ずきり、区切るように間隔を開けて、締め付ける様な痛みがやってくる。

 苦痛に歪んだ唇から漏れる声は、まるで老人のようにしわがれ、ひび割れていた。

 体が、まるで燃え上がっていくかのように、白い灰になって風に攫われていく。

「私は――」

 声が聞こえる。全てが灰色になって崩れていく視界の中には、その声の主はいない。

 ……いいや、とっくに気が付いている。

 風に攫われていく体の奥底から、青い光が漏れている。まるで蛹が蝶へと姿を変えていく様に、俺は、俺というカタチを、存在を、魂を忘れ去って、次のカタチに生まれ変わろうとしている。

「嗚呼、嗚呼、嗚呼――……」

 これは、俺の中から聞こえる声だ――

「……帰って、来たのだな」
































 BAD END「ただいま」

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