表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

ホームズ:破

 ホームズ:破:序


 ――ごぼごぼ、ごぼごぼ。ただ息だけが口から洩れていく。溺れない俺は、息苦しさだけを募らせて沈んでいく。

 ごぼごぼ、ごぼごぼ。声は出ない。悲鳴もない。ただ音だけが、波だけが耳朶を打つ。もがく手は嫌になるほど重くて、何をつかむこともできない。

 ごぼごぼ、ごぼごぼ。白い泡は、はるか遠くの水面の輝きで、微かに光って昇っていく。無意味な空気だけが息苦しさも何も感じずに俺の元を離れていく。

 ごぼごぼ、ごぼごぼ。悠い。遼い。それでもまだ見えている。朧気でも、目指したものは見えている。まん丸い、真っ白な光。夜空に浮かぶ、あの晩の月。

 ごぼごぼ、ごぼごぼ、ごぼごぼ、ごぼごぼ、ごぼごぼ、ごぼごぼ。

 届かない。戻れない。触れない。沈んでいく。

 意識はそのままで、ただ息苦しさだけが俺を終わらせずに、無限にきつく締めあげてくる。

 何も、何も言えない。言葉はすべてひねりつぶされた。重苦しくなっていく水に、暗闇に、誰に伝わることもないまま潰されて消えた。……諦観が、真っ黒い鉄の鎖のように俺の足に絡みついている。そうして引っ張っているのだ。同じ色の暗闇に。その奥の、灼熱に煮えたぎる地獄に。

 つかめない。何も、出来ない。諦めたのだから当然だ。

 嗚呼――何を錯覚していたのか。

立木統也。そもそもお前は、手も伸ばしていないくせに。















「統也様!」

 ぐらぐらと体を揺すられる。ハッと意識を引き上げれば、目の前に見慣れたメイド服。

「……美緒さん」

「大丈夫ですか、統也様!?」

 必死な声音だった。……俺は、気を失っていたのだろうか。時計を見れば、半周程長針が進んでいた。

 酷く頭の中が静かだった。目の前の少女を、なんの感動もなく視覚は捉えている。

「――――…………」

「……統也様?」

「大丈夫じゃ、ない。正直、まだ混乱している……ハズ」

 吐き出した言葉は、実に曖昧だった。

 そうだ。思い出すのは、軽く触れるだけで凍えてしまいそうなほど、どうしようもなく冷たい喪失感。脳髄をさわりとそれが撫でていく。

 だのに、

 なんだ。このやたらに何も動かない、荒野めいた心象は?

「――ごめん、なさい」

「…………何が?」

「平気なはずなんてないのに、無神経な質問を――」

 魔女と同じ顔で、少女はそう言った。

「――いいって、別に。心配してくれたのは分かっているから」

「え……?」

「今日は、朝は作らなくても大丈夫。あまり、食欲もわかないし。……顔、洗ってくる」

 絶句する美緒さんの横を通り過ぎて、洗面所に向かう。覗いた鏡に映る顔が、やたらと暗くて見づらかった。両手にためた水を幾ら顔に当てても、濡れている感触は曖昧なまま。

 タオルで顔を拭いて、再び鏡を見上げる。――誰も映っていない。

 ふいと鏡から顔を背ける。部屋に戻って着替えた。無音の室内に、衣擦れの音がやけに大きく響いた。

 ……昨晩、出かけようって話をしたな。

「…………」

 引いたままの布団の上に寝転ぶ。このまま、一日寝てしまおうかとも一瞬考えたが、直ぐにその考えは取り下げた。……その理由を、俺は深く考えたくはなかった。

 出かけよう。

 脳みそが捩じりだした結論に突き動かされるように、俺はよろよろと部屋を出た。

 やたらに、廊下に色がない。光もない。無味乾燥とした灰色に見える。

「統也様……」

「……美緒さん。少し出かけてくるよ。今日は、家事はやらなくてもいいから」

「わたしも、ついて参ってはいけませんか?」

 思いつめた表情で彼女は頭を下げた。やわらかな茶髪が、その動作と共に揺れる。

「ちゃんと、帰ってくるよ」

「お願いします」

「……一人にしてくれないか」

「どうか、わたしを伴わせてくださいませ」

 しんしんと、苛立ちが降り積もっていく。……誰なのだろうか、この少女は。一体自分を誰だと思って俺に指図するのか。今のこの心象に俺を貶めたのは、何処の誰だと思っているのだろうか。

 俄かに煮え立った激情をかみ殺して、重い声を吐きだす。

「――放っておいてくれ」

 彼女に注いでいた視線を引きちぎる様にそらして、俺は屋敷を出ていった。

 降り注ぐ日差しがやたらに眩しい。堪らずに目を伏せた自分が、何故か後ろめたいように感じて、余計に顔を俯けて歩き出した。

 眩しい。

 されど色がない。やはり、灰色の視界だ。

















 灰色の中を歩く。感覚が、五感がやたらに遠い。それが錯覚なのか、実際俺が歩いているのか止まっているのか、確かに判別することもできない。

 頭の奥底で、脳味噌の一部が融けて役に立たなくなってしまったのかもしれない。

 奇妙な浮遊感を伴って、俺は歩き続けていた。

「…………」

 屋敷の近所は、不思議に思うほど人がいない。……まあ、理解はできる。あの屋敷がロクな代物じゃないことくらい、もうとっくに俺は理解している。尋常な生活を送っているなら、ここに近づくなど百害あって一利なし、ということなのだろう。まったく賢明な判断だ。

 そも――今の惨状を鑑みれば俄かに信じがたいが――あの屋敷はこの町の権力者の住まいだったワケだ。ただの庶民が、強大な力を持つ権力者の近くに住まうことを、あまり良しとしなかったのも、その習慣が恐らくはこうして長く根付いていることも頷ける。

 それに、黒々と迫るような大きく深い森も、化け物の一匹や二匹潜んでいてもおかしくない雰囲気がまたおどろおどろしい。気分がいいものではないし、当然近づきたいものでもないのだろう。

 ……民家がないワケだ。

 もっとも、今の俺にはそれがありがたい。余計な喧騒は、きっと頭痛の種にしかならないだろう。静かな方が、何も考えない分余程いい。……それは、ある意味依存に違いない。思考停止を終えて、見たくもないものを見てしまわない様に、ひたすら逃避を続けることへの依存。ただ暖かくも涼しくもない、熱くも冷たくもない停滞への依存。麻痺しつづけているフリをした心は、酷く惨めだった。

「…………」

 ぼんやりと、森の奥を見つめる。……そう言えば、確か、あの奥に鳥居があった。結局この町に来た日以来、今日まで思い出すことはなかったのだから、さして興味も抱いていなかったのだが。

 ただ、目的が要る。目的を持って行動している内は、余計なことを考えなくて済むから。向き合わないで済むから。だから丁度いいと思った。

 俺は鳥居へ続く苔むした石段を登り始めた。不用意な体重のかけ方をすれば容易に足を滑らせかねない程、階段はよく滑る。それ程深く、隙間なく苔が生える程に、ここには誰も訪れず、長い、長い時間の中でこうして静かにあったのだろう。

 鳥居も同様の有様であった。むしろ、もっと酷いかもしれない。生い茂った樹々に覆いかぶさられ、根本は苔むし更には弦に巻きつかれている。森に呑み込まれているようにさえ見えた。

 何を思ったのかかろうじて覗く、元の灰色の石肌に手を伸ばす。何故触れようと思ったのか、考える必要も、やめる必要もなかった。

 湿った冷たさと、ざらついた手触りが伝わってくる。

 ふと、長い時間、この柱は何を思っていたのだろうと考えた。考えて、すぐに苦笑した。意味のない思考だ。石が何かを思うなんて、ありえないだろうに。

 くつくつと喉の奥から、おかしさが笑みになって漏れだしてくる。それがどうにも止まらなくて、目じりに涙が浮かぶほどまで続いてやっと収まった。涙を拭って、視線を移す。

 鳥居の奥には、古い社があった。小さな、小さな社だ。鳥居や階段よりもボロボロになって、森の一部にされてしまっている。

 それでも、社だけはそれに郷愁を覚えさせない。違和感がないのだ。まるで、そうしているのが自然なようにさえ見える。元来これは人工物ではなく、偶然樹々の朽ちた後に社のような形になったように思えてしまう。森の中、朽ちて苔に覆われ、小さな木々の目が芽吹いている様が、とても神々しい。

「……生きているみたいだ」

 ぼそりと呟いた言葉に、不意に感慨が滲んだ。かつて在ったであろう信仰も、参拝する人々も、託されていた役目さえも失った社が、今こうして新しい命の苗床になっている。

 風に揺れる若葉は、燦燦とした日に照らされて輝いているように見える。

 ……変わらないだろうに。俺も、目の前の社。何一つ変わらない。何もない。親も死んで、引っ越してきた町はただ不穏で、唯一の味方も――恋人も姿を消した。この朽ち果てた社と、一体何が違う。何が違うと言えるんだ。

「ホームズ。……俺は、俺は――」

 今の俺は、無意味じゃないのか。目の前の社のように、ただ終わるだけじゃない意味を持っているのか。昨晩の彼女の言葉が、

 いつの間にか、視界は灰色を忘れていた。

 瑞々しい緑色が、あたり一面で萌えている。降り注ぐ日差しは葉の間を通り抜けて、静かに地面を照らし揺れている。

 ――綺麗だ。

 ざわりと風が頬を撫で、命の音を鳴らして通り過ぎる。

 胸の奥が締め付けられるような感覚。

 ……俺には、何が出来たのだろうか。何が出来ていたのだろうか。彼女に何をしてあげられたのだろうか。何を与えられたのだろうか。一人で諦めて、一人で後悔しそうになって、彼女に助けて貰って、彼女に助けて貰って…………俺は、何が出来た。

 俺は――立木統也は、彼女に一体何が出来ただろうか。

 それだけじゃない。父さんも、母さんも、俺の知らないうちに、もう、手の届かない場所に行ってしまった。……まだ、なにも返せていないのに。なにも言えていないのに。

「――……」

 社の前に腰を下ろした。

 俺は、何もできなかった。大切な人達に、なに一つも報いてやることが出来なかった。

 それが悔しくて、悲しくて仕方がない。やりきれない。何もできなかった自分が許せない。状況に流されるだけの自分が情けない。

 両手で顔を覆う。真っ暗に閉じた視界の中で、眼を閉じた。

「ぁ、っ、ぅあぁああ……」

 吐き出す言葉に、涙に、何の価値も意味もない。それを止めることも、また同じく。意地を張るだけ無駄だ。そも、張れるだけの意地なんて、欠片も残っていないのだから。

 掌に、熱い雫がこぼれる。震える口元は、漏れ出す声をとどめる役には立ちそうにない。

 こみ上げて溢れる嗚咽は、酷く苦い味がした。


























「………ふぅ」

 息を吐く。ひとしきり泣いた。それはもう思い切り泣いた。目が痛い。多分、今は酷い顔をしているだろう。

 それでいい。さっきまでの顔よりは随分とマシだ。

 少しだが、頭の中がまとまっているように感じられる。……まだ、色々と受け止め切れていないが。頭の中身と心の整理には、もう少し時間をかけたいところだ。

――これから、どうする。

泣きわめいてふさぎ込むのか。

被害者面して首をくくるのか。

あの魔女や彼女たちを問い詰めるのか。

それとも、

「約束通りに、彼女を探すのか」

 閉じていた目を開く。

 声に出して覚悟が決まる。今は、それしか出来ない。それしか、俺にはもう残されていない。

「――絶対に見つけ出す」

 この約束だけが、俺を突き動かしてくれる。

 立ち上がり――瞬時に短刀を閃かせる。背後に立っていたのは、真っ黒い着物に身を包んだ青年だった。

 しかし、顔はうかがえない。こちらに背を向けて彼は立っている。

「あんた、誰だ?」

「――――」

 青年は答えない。足音も何も聞こえなかった。気配の一欠けらも俺はつかめていない。だのに、彼は俺のすぐ後ろに立っていた。……少なくとも、どう考えても意図的に俺に気付かせている。何故だろうか? 不可解さは残るが、しかし青年は十二分に脅威だ。ここまで無防備に近づかせた時点で、同じ人間なら遥かに格上だ。妖怪変化の類ならば、もっと恐ろしいモノだろう。無防備を貫くという選択肢は最初の最初に無視した。では撤退か?

 否。それこそまさかだろう。手掛かりが向こうから転がり込んできたのだ。

 こちらを一瞥することさえしないまま、彼は歩き出す。相も変わらず、背はむけたままだ。

「…………」

 切っ先を下げる。少しだけ緊張の糸を緩ませた。……どうにも敵意を感じない。ただ近づいてきただけ? まさか――

 踏み込む。

 ぐっと重心を下げ、立っている時点で保持している位置エネルギーを勢いへ。

 躊躇いなく刺突。風を切って奔る切っ先は――しかし青年の背に突き立つことはなかった。

 幻か何かのようにその姿が霧散する。当然の如く、手ごたえはない。驚愕の間もなく、こちらを向いて青年が眼前に現れる。

「――っ!」

 こちらを向いて――果たしてそうだろうか。青年には、顔がなかった。えぐり取られたかのように、ぽっかりと目も鼻も口もない。空虚な暗闇だけをこちらに覗かせている。

 一瞬、脳裏にこの町で幾つも見たあの黒い影を思い出す。しかし、この青年はあの影、だろうか? 幾分、雰囲気が違うように感じる。

 しかし、実際彼を攻撃しても倒すことはできなかった。霧散こそしたが、あれは消滅ではなく回避だろう。

「なんなんだ、お前は」

「――――」

 再度の問いかけに、青年は答えない。暫くの沈黙が緊張の糸を張り詰めさせて――

 動く。

 青年の一歩目の踏み込みに合わせて、俺は再び短刀を構え、

「な――っ!」

 同じタイミングの跳躍で攻撃を回避された。――霧散に頼らない!?

 そのままこちらの頭上でくるりと宙返りをして、青年は着地した。軽い身のこなしだ。随分と人間離れしている。こちらの手が完全に読まれていたというオマケつきだ。振り返って、切っ先を向ける。今は体勢が崩れてしまっている。短刀を構えても気休めにしかならないだろう。致命的な隙を晒しているにも等しい状態。攻められれば、当然ひとたまりもない。先程も同様。攻撃後、伸び切った体を無視していた。しかし、そんな隙をつこうともせず、ちらりと顔を向けるだけで、青年は霧散した。

 …………なんだったんだ、アレは。緊張を解いて、息を吐いた。短刀を収める手に、奇妙な脱力感を感じながら、思案する。

 アレにはやはり、攻撃の意思はなかったのだろうか。攻撃を加えるためでなければ、一体何のために現れた? いきなり斬りかかったのは、少々下策だったかもしれない。かといって、対話を行えるかどうかも怪しいところだし、そもそもあの青年以外――町で追いかけまわしてくる黒い影――が襲ってこない保証もない。その都度その都度、確かな判断をする必要があるだろう。

 さて、これからだ。

 予想外の珍客と戯れてしまったわけだが、このまま帰ろうか? 休息を取るべきだろうか。

 ……いや、大丈夫だろう。まだ体力には問題ない。然程消耗はないから、当然だ。それに、幸いにも調べる場所の検討はついている。昨夜のあの廃ビルだ。幸いにあそこは町中だから、調べたいことは道中調べながら進めばいい。

「あのカラス、昼にもいるのか?」

 いてくれれば御の字。いなくても、何かしらの手掛かりはつかめるかもしれない。話が聞けるかどうかは怪しいが、あの天使(で、あっているのだろうか?)にも話を聞きたい。

 俯けていた顔を上げる。

 行こう。もたもたしている時間が勿体ない。

 頬を諸手でたたいて、気合を入れた。短刀をしまって鳥居をくぐり、石階段を下りていく。

 社を立ち去る瞬間、何故だか背中に視線を感じた。……振り返っても、相も変わらず森に呑みこまれかけた古い社があるばかりだった。










































―――静かに、月が輝いている。

   ざわざわと森が風に揺れている。

   わたしは、何かに導かれたように、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

















此処は何処だろうか? 静かに疑問だけが胸の中に燻っている。それを覆い隠すように、微睡みが揺れていた。

 窓からは音のない月光。幾枚か、小さな淡い色彩の花弁が躍る様に風に舞う。

 四角く区切られた夜空には、深く深く澄み渡った黒が満ちていて、その中央には満月が大きく映し出されている。

 無機質にも見える光は、鮮やかに咲き誇り、そして尽きる儚い命を艶やかに魅せていた。

 微睡むまま、わたしはそれを眺めている。

 横たわる床のひんやりとした感触が、とても心地いい。

 音はない。風に揺れる空気は静謐さから抜け出すことはかなわないまま、無音のまま、何も語りかけることはない。

 月が、夜が、光が滲む。

 不意に流れ出した熱さに戸惑う。何故――何故、切なさを憶えるのだろうか。瞳を拭えば、確かに涙が指を濡らしていた。何故――わたしは泣いているのだろうか。何故、何故、何故、何故――

 立ち上がって、書架へ駆け寄る。先程まで心地がいいだけだった床の冷たさが、唐突に嫌なモノになる。

なにか、なにか手掛かりはないのだろうか。不可解な情動に突き動かされるまま、わたしは本を捲る。たくさんの物語がわたしの中に流れ込んでくる。

 けれども、どれも違うのだ。求めるものではない。探しているものではない。――今のわたしが、失ってしまっているものではない。また、別の本を捲る。

 何度も何度も本を手に取り、内容に目を走らせる。ページの捲れる時の音、古い紙の臭いや感触、どれもが新鮮なモノだったが、残念ながら今のわたしにはそれに構う余裕はない。

 違う。違う。違う違う違う! 必死だった。わたしが何を失ったのか、忘れてしまったのっか。絶対に思い出したかった。見失ったモノを、見失ったままに喪うことが怖かった。

 また、風が吹く。開いた本の頁がぱらぱらと捲れる。とっさに抑えようとしても間に合わず、どのページを開いていたか、もう分からない。

 嫌だ。嫌だ。忘れるなんて嫌だ。

 ……そもそも、なにを忘れてしまったのかも忘れているくせに、わたしは焦燥感と喪失感に苛まれている。

 力なく、本を置く。座り込んで、膝を抱える。果たして、頬を伝うこの涙に意味はあるのか。ただ空虚に悲しみだけを滲ませるこの感情に、何の由来があるのだろうか。微睡んでいればただ平穏であるというのに。

 そう、理性は冷たい言葉を叩き続けている。その通りだ。無理に自分で自分の傷口を――あるかどうかも分からない傷口を抉ることなんてないだろう。

 それでも。

 一向に涙は止まらない。感情は止まらない。止めることが出来ない。

 わたしは、月明りの中で咽び泣いた。

 ……どれ程、そうしていたのだろうか。

 目が痛い。きっと今鏡を見れば、充血して酷い有様になった目を見ることが出来るだろう。喉も酷い。ずっと泣いていたせいでヒリヒリする。

 随分と時間がたったが、相も変わらず月は輝き、夜が明ける様子はない。

 時が止まっているかのようにも感じる。それが事実か否か、確かめる手段を持ってはいなかったが。

 様々なものが抜け落ちているように感じた。きっと、確かにわたしは失っているのだろう。先程までの悲憤も、恐怖も、既に水面に揺れる薄明の如く曖昧だ。潮が砂浜から引いていく様に、そして二度と同じ潮が帰ってくることはないのと同じように、わたしの心は移り変わっていく。

 それは今のわたしが感じ取れないだけで、悲しいことなのかもしれない。恐ろしいことなのかもしれない。わたしは……とても大切な何かを失っているのかもしれない。それさえもわたしは覚えていないし、実感もない。

 ないない尽くしの憶測塗れ。それが今のわたし。……何も持っていない、わたし。何一つ覚えていない、わたしという誰か。

 自分の頬に触れる。ひんやりとした曖昧な感覚が伝わってくる。

 ――わたしは誰だ。

 記憶の糸を手繰ろうにも、程なくしてそれは途切れ、続くのは空虚さばかり。何もない。わたしの内側は空っぽだ。光の一欠けらもない、無明の闇。あるいは、影の一つもない虚ろな光か、誰も映さない、無限に続く合わせ鏡か。

 ただ惑い、ただ彷徨い、ただ喪い、ただ眠り、ただ忘れるだけがわたしなのか。愕然とする。自身の空虚さにも、その行く末の空虚さにも。悲しむ心さえ失って、悼むべき喪失さえも忘れて、在り続けるのだろうか。

 ……嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!

 そんなものは耐えられない。そんな末路は耐えられない。あんまりじゃないか。余りにも哀れではないか。

 全てを、自分を形作る何もかもを失って、それを自覚できないまま消え去っていくだなんて。それを憶えていることも、思い出すことも許されないだなんて。

 まるで夢の様ではないか。眠る人々が視る、刹那の幻となにも変わらないではないか。

 それに価値はあるのか。意味はあるのか。わたしという存在は、一体何の為にこうして在るのだ。

 何も言わず、相変わらず月は静かに輝いている。

 もう、わたしは泣く気力もなくして、眼をつむって膝を抱えた。

 ……誰でもいい。誰か、わたしにわたしを頂戴。でないと、またわたしは――
































 昨晩はやたらと色々あった。おかげさまで、来たばかりのこの町でも昨日通った道は鮮明に覚えている。

 休日の日中、出かけている人はそれなりにいるが、大概は俺の顔を見た瞬間に驚いた顔をするか、視線を逸らす。……当然か。今朝のニュースじゃ俺の顔も出されていた。死体で発見された夫婦の息子――それも行方不明である重要参考人が、ぶらぶらと平穏な町の中をほっつき歩いているのだ。

 中には、警戒するような視線を向けてくる者や、ひそひそ隣と話す者もいる。あまり愉快じゃないが、今は無視だ。そんなことは重要じゃない。

 とにもかくにも、あの廃ビルに向かおう――

「――!?」

 思わず立ち止まって息を呑む。ふっと幽霊じみた唐突さで、確かに先程見た着物姿の青年の背中があった。

 どくん、と心臓が跳ねる。時間が間延びして、止まっているように感じる。間違いない。先程見た、あの顔のない青年だ。

 何故、また俺の前に……? ――いや、今はとにかく引き留めなければ!

 余計な思考を振り切って、走る。同時に叫んだ。

「待て!」

 俺の声に振り向くこともせず、背中はゆっくりと遠ざかっていく。

 人が出ている、といっても所詮は田舎町。繁華街というわけでもないから、走るのに邪魔というほどじゃない。

 だのに、おかしい。

 こっちは全速力。追いかける背中はゆっくりとした足取り。当然、距離は縮まっているはずだ。そうでなければおかしい。

 ……おかしいのだ。青年との距離が、一向に縮まらないどころか、遠ざかっていくなんてことは。

「待て――待ってくれ!」

 叫ぶ声が、荒い息で掠れる。走っても、走っても、追いつけない。

 それでも、走るしかない。今、あの背中を見失うわけにはいかない。それは、彼女を見つけ出す手掛かりを一つ見失うことと何も変わらないから。

 時折人とぶつかる。軽く頭を下げて、走り続けた。形振り構っていられない。

「お前はなんで俺の前に現れる!? お前の目的は!? お前は何を知ってる!?」

 届かない手を必死に伸ばしながら、頭に浮かび上がってくる疑問をひたすらに叩きつける。内容を吟味する余裕なんてない。必死に声を絞り出す。それしか出来ない。追いつけないのなら、せめて、言葉を――!

「教えてくれ! お前は一体、」

「待て!」

 唐突に、腕をつかまれ、つんのめる様に立ち止まる。

 続くはずだった何者なんだ。という言葉はその拍子に消えた。苛立ちながら振り返る。

 細い指の感触から予想していた通りに、俺の腕をつかんでいたのは少女だった。鴉の濡れ羽色の髪をポニーテールにした、凛とした表情の少女。

「……何をしているんだ、立木」

 静かに、しかし有無を言わせない雰囲気を湛えて、彼女は俺に問う。

「社、真琴…………! どういうつもりだ……!」

 彼女――社は、こちらの怒気を敏感に受け取ったからか、少し怯むような表情をした後、ぐっと持ち直し、言い返してきた。

「こちらの台詞だ。今日は、屋敷にずっといる筈だと美緒から聞いている。何故、こんなところにいるんだ。……美緒はどうした」

 強い語調で、そう問いただしてくる。だが、今は人を追っている最中だ。丁寧に応答していては見失う。今はまだあの背中が見えている。まだ追いつけるはずだ。

 落ち着け。彼女と言い争っていても、何一つメリットはない。早々に切り上げて彼を追いかけなければ。

「今は、それどころじゃない。頼む。放っておいてくれ」

「答えろ!」

 必死な声で、社は叫んだ。落ち着いた雰囲気――悪く言えば、無機質ともとれる彼女のイメージにはそぐわない、感情的な声。

 不意の大声に驚いた俺の表情で気が付いたのか、ハッとした表情で彼女は俺の腕を離す。

「――すまない。……少し、感情的になりすぎた」

「……美緒さんなら、屋敷にいる筈だ。もし……屋敷に行くのなら、朝はすまなかったと言っておいてくれ」

「君はどうするんだ」

「さっきの男を追う。歩いていたんだから、まだそう遠くへは行っていないはずだ」

「……さっきの? 君以外、この道を通ったものはいなかったが?」

 怪訝そうに、社は眉を顰める。……彼女には見えていないのか? 昨晩はあの黒い影と戦っていたから、てっきり見えているものだと思っていたが……。

 男の背中を探して、今自分が何処にいるのかを理解する。追いかけてる最中は、周りを見ている余裕なんてなかった。

「……ここは」

「見ての通り、廃ビルだ。ここは嫌な気配が多い。溜り場にうってつけだろうに、不良もあつまらない程だ。当然、他の人も寄り付かない。……犬や猫も寄り付いかないあたり、よくわかるんだろうな」

 彼女も同様の感想を抱いているのだろう。ボロボロになったビルに向ける視線に、好意的な感情を見て取ることはできなかった。

 生唾を呑み込んで、からからに喉が渇いていることに気が付く。先程まで全力で走っていたのだから、当然だ。

 だが、

「――社。カラスを見たか?」

「カラス?」

「ああ。妙な鳴き声のカラスだ。ここいらで見かけなかったか?」

「いいや、見ていないが……何故だ?」

「……そうか。いや、見ていないなら、いい」

 偶然だろうか? 偶然あの青年の背中を追いかけて、偶然人のいない方向へ向かって、偶然社に引き留められて、偶然廃ビルの前に居る…………まさか。

 あの青年が導いた? 一体何のために? いや、とにかく今はここの調査を始めるべきだろう。

 一歩廃ビルの入口へ踏み出すと、社が驚いたような表情をする。

「……ここに入るのか?」

「予定変更だ。どうにもキナ臭い」

「………そうか。入るのか」

 妙に歯切れが悪い。そういえば、何故彼女はここに居たのだろうか。……この廃ビルに用があるのか? いや、ならば入ればいいだけの話だが、社は一歩も動かない。

 ……まさか、とは思うが。

「入らないのか?」

「…………」

「……………………怖いのか?」

「怖くなんかない! 怖くなんかないぞ!」

 すごい勢いで社は首を振るが、殆ど自白しているようなものだ。というか、怖いのか。

「…………怖くない」

 そう彼女は繰り返すが、声は弱々しいし顔面は蒼白だし、よく見れば微かに足も震えている。どう見ても怯えていた。

 流石に少し可哀想に思えて来た。

「……一緒に来るか?」

「いいのかっ!?」

「いや、まあ、探す手が多ければ助かるし」

「すまない、蒔苗様に頼まれていたんだが、刀も昼間だから持ち込めなくて……おまけに美緒は君の方へ行っているから一緒に調査もできないし、そもそも今日に限ってやたらと調査場所が怖いし!」

 ぱーっと表情が明るくなったと思ったら、なんだか知らんがまくしたてられた。

 余程ここの調査が嫌だったのか……。いや、そもそも、

「桜田蒔苗の依頼……?」

「危険な悪霊が湧かないよう、定期的に確認しているんだ。……まあ、刀を使わせてもらえるのは夜だけなんだが……」

 ずーんと沈んだ調子で、色々と話し始める。

 一人で行かずに済むことになって安心したのだろうか。

「悪霊の調査だろう? 丸腰では危険じゃないのか?」

「逃げる手段は心得ているし、連中が活性化して本当に危険になるのは夜だからな。……それに万が一死んでも替えが利く。そう判断しているんだ、あの人は」

 少し悲し気にため息を吐いて、彼女は小さく微笑んだ。いろいろと吐き出して落ち着いたらしい。普段のクールな雰囲気に戻っている。

「……すまないな、つまらない身の上話に付き合わせた」

「構わないさ。そろそろ行こう」

「ああ」

 埃臭い暗闇の中に、二人で入る。

 暗いといっても今は日中で、この廃ビルの窓は全て割れて日が差すし、そもそも天井も崩れて吹き抜けのようになっている。懐中電灯もなにも必要ない。が、それでも元は密閉されていた建物だ。薄暗くはある。歩けば降り積もった土埃が少し舞い上がるのも手伝って、あまり視界はよろしくない。

「……今日はいないのか?」

「さっき言っていたカラスか?」

「ああ……」

 彼女には視線を向けず、靄の中で目を凝らす。

「妙な鳴き声のカラス、か…………ただのカラスなら幾らでも見るが、妙な鳴き声となると心当たりがないな」

 若干申し訳なさそうな調子の社に、ふと気が付いたことを問いかける。

「そういえば、この町やたらとカラスが多くないか?」

「……そうなのか?」

「電線にびっしりと泊まっているのが朝昼晩と三連続で拝めるのは、少し異常だと思うんだが……?」

「わたしはこの町から出たことがないからな……。カラスなんて、これくらい何処にでもいるものだと思っていたが」

「……少なくとも俺の町では、こんなには多くなかった」

 喋るカラスの件もある。異常な多さのカラスも全くの無関係とは思えない。……あのカラスは、ここをねぐらにしているわけではなさそうだが。

 埃が徐々に落ち着いてくる。

「……なにか、白い物が見えないか?」

「ああ……今日も居る」

「今日も……?」

 不安そうな彼女の言葉に、静かに頷く。

 靄の奥、微動だにしない白い影が見える。人によく似ていて、しかし全く違うパーツを持ったシルエット。

 昨晩見たあの天使が、瓦礫の上で横たわっている。

「……なんだ、アレは……?」

 社の驚く声を無視して、天使を観察する。先程からピクリとも動かない。だが、微かに胸が上下しているので、死んでいるワケではないだろう。

 もう少し近づいて、様子を見てみるか……。

「朝は寝ているのか…………?」

「お、おい!? そんな近寄って大丈夫なのか?」

「ああ、昨晩会った時には何もしてこなかった。人型だし、歌も歌っていた。うまくいけば、会話できるかもしれない」

「あれが……人に見えているのか!?」

「はぁ?」

 振り返ると、彼女は怯えた表情で後ずさっている。……何を言ってるんだ、彼女は?

「いや……背中には羽は生えているけど、それくらいしか人と違うところはないだろ?」

「そのカラスの化け物の、どこが人間なんだっ!?」

 つんざくような絶叫。社の表情は、恐怖と混乱がぐちゃぐちゃに混ざって酷い有様だ。

 荒くなる息を落ち着かせながら、彼女は真っ直ぐに俺を見て問いかける。

「――……君は、一体何を見ているんだ。立木統也」

「……嘘だろ?」

 何処か呆然と呟けたのは、どこか情けないその一声だけだった。 

「俺の目がおかしいんじゃなくて、そっちの目がおかしいんじゃないのか? 呪術なんかに手を出しているんだ。余計なものをよく見ているのかもしれない」

「……それは間違いない。わたしたちの血には、たくさんのものが雑ざりこんでいる。良い物とも、悪い物とも知れない、古い力あるものの血筋だ。だから、少なくとも常人よりは見たり聞いたりする力は強い。けれども――」

「…………」

「君は異常だ。普通の人間なら、この町を徘徊する悪霊をはっきりと認識することはない。できたとしても、それは余程力の強い悪霊だ」

「それはおかしいだろ。じゃあ、学校で影が出たっていう噂は何だったんだ」

「その影はわたしが追いかけている悪霊だ。時折とても強力な悪霊が出るといっただろう。あれがそうだ。ここしばらくこの町をうろついている。……君が視たのとは別だ」

「……それなら、何故俺がそれを見る」

「確証はない。けれど、あの屋敷に住まわされているのなら、まず間違いなく君の血は、この町に関わる古い血筋だろう。その正体をわたしは知らない。元来社は外様だ。その末裔であるわたしも、立場は部外の協力者と何も変わらないからな。桜田の家は排他的だ。呪術の大家らしく、必要最低限しかわたし達に教えず、多くを自分達で秘密にしている」

 彼女は俺の背後に視線を移す。

「そこに居るソレは……確かに敵意は感じない。けれど、断じて人じゃない。意思疎通ができるモノでもない。…………立木。ひょっとしたら君は、わたし達よりも――!」

 言葉が途切れる。同時に、背後に動く気配。

「――――!」

 天使が起き上がっている。硝子玉のような虚ろな瞳は、真っ直ぐに俺を見ている。

「…………お前は」

 重なり合っているはずの視線。けれど、奇妙に実感がない。俺のことを彼女は見ているはずなのに、その視線を感じることが難しい。視線を重ねているはずなのに、建物か何かを見上げている時のように、一方的に視線を注いでいるような感覚。

 あえぐように、俺は口を開いた。

「お前は、何か知っているのか?」

「――――」

 変わらず、天使は答えない。

「………………」

「……立木」

 社が俺の手を引く。

「無駄だ。……この手の連中は無害だが、何を伝えることもできない。何を感じようと、何を考えようと、わたし達に伝えられることはない。だから――」

「――………」

 だから。その後に続く言葉は、一体何なのか。

 答えを探すこともしないまま、俺は無言で踵を返した。


 ……


 彼は始終無言だった。

 酷く疲れた表情で、黙々と屋敷への道を歩いている。足取りはしっかりしている。このまま一人にしても、問題なく彼は屋敷へ変えるだろう。

 ……そう、わたしは――社真琴は思った筈なのに。

「別に、ついてこなくていい」

 ぶっきらぼうにそう言った立木から、視線をそらす。

「………君の為じゃない。屋敷で一人でいる筈の美緒に会いに行くだけだ」

 半分本当半分嘘の台詞を吐いて、心中で溜息。

 彼女の顔を見ておきたいというのは本心だ。だが、それだけでもないのも間違いない。……彼を、放っておけないと感じているのは、間違いないのだ。

 何故、と心の中を探ってみれば、それらしい理由は見つかった。なんてことはない一種の共感と同情だろう。彼は桜田の企みに巻き込まれた被害者だ。まるきりとは言わずとも、ある程度は自分の意思で彼女たちに協力しているわたしとは違って、彼は完全に桜田の当主――桜田蒔苗の意思によってこの町にやってきて、彼女の張り巡らした謀略の糸の中でもがき続けている。

 彼は彼女を魔女と呼んだ。……あながち、誤った表現ではないと思う。あの人は、冷徹で、残酷で、気分屋で――とにもかくにも、他人の命をなんとも思っていない節がある。

 そんな彼女の事だ。朝のニュースにあった事件――立木の両親の死体遺棄事件――もあの人の手引きかもしれない。……かもしれない、どころか一番の有力筋だ。そういうことが出来る類の人間だと、わたしは痛いほど理解している。

 ……彼は、わたしや美緒のことを、一体どう思っているのだろうか。少なくとも、いい印象なんて持っていないだろう。わたしもあの子も、揃って彼女の味方をしているのだから。

「…………」

「…………」

 何度か彼に話しかけようとして、ずっと言葉を見つけられないまま、ただ気まずさだけが固まっていく。……一体わたしは、何をしているのか。別に彼を送る義理なんてない。確かに被害者だが、わたしにどうこうできる領分じゃない。

「…………」

 だから、放っておけばいい。そうするべきだ。感情云々の問題じゃない。正しいかどうかの問題だ。そもそも、彼からしたら加害者側に立つわたしが、一体何をするというのか。

「……なぁ、社」

「うん!?」

 唐突に話しかけられ、少々オーバーに反応してしまう。

 そんな私の様子を見て、彼は少し引き気味に言葉をつづけた。

「昨日の晩、俺が連れていた猫を見なかったか?」

「……猫?」

「白い猫だ。今朝から見つからないから探している」

「見ていないな……。何か心当たりはないのか?」

「……ない」

「すまない、わたしも君のところの猫の行方は知らない。……しかし、そうか。屋敷から帰ってきたときに少し楽しそうだったのは、それか」

 随分懐かしいことを思い出す。あの子にとって、あの事は――

「――それって、なんだ? 美緒さんに、あいつと何か関連が?」

「ああ、いや、美緒とあの猫には多分直接の関係はない。でも、美緒は昔、家で猫を飼っていたからな。黒猫だったけれど、君の猫とよく似た雰囲気の猫だった。小柄で、人懐っこい猫でね、わたしも時々撫でさせてもらったよ」

「……その猫は、今はどうしているんだ?」

 ふっ、と小さく漏れた声は、抑えきれなかった寂寥か。一度だけよぎった昔の感情を呑み込で、淡々と告げる。

「死んだよ。あの子の妹と辻桐屋敷に忍び込んで、妹――香音は意識不明の昏睡状態で、猫は亡骸で見つかった。妹――香音は、まだ病院で眠っている」

 彼が息を呑む。

 ……随分と昔の話。わたしのたった二人の友人が、楽しそうに笑うことがなくなってしまった事件。原因は不明。犯人も分からない。事故かどうかさえも判断がついていない。そして、今も香音は目を覚まさない。

「……そうか」

 静かに、それだけ呟いて彼は歩みを速めた。

「やっぱり、あの屋敷には何か居るんだな」

「間違いなくいるんだろうな。それが何か、知っているのは桜田の家だけだが」

「ありがとう社」

 藪から棒に、彼が立ち止まった。

「なんだ、急に」

「話を聞かせてくれた」

「………それくらい、礼を言うようなことじゃないだろ?」

 わたし達は、君を苦しめているのだから。

「それでも、俺は助かる」

「………………そうか」

「ああ」

 言葉の短いやり取りの後、また二人とも無言に戻った。……それでも、その間に横たわる沈黙が、あまり気まずくなくなったような気がした。




























「…………ただいま、美緒さん」

「……おかえりなさいませ、統也様」

 少し気まずい気分で門を開けると、見慣れてきたメイド服が玄関から出てきた。

 既に太陽は頭の真上。もう昼だ。朝に出て行って、そのまま随分と出歩いてしまった。

相変わらず、その表情は読みづらい。怒っているのか悲しんでいるのか、それさえもよく読み取れないけれど、

「――朝はごめん。八つ当たりをした」

「――ごめんなさい。今朝のわたしは身勝手でした」

 声が重なる。

 驚いて顔を上げれば、どうにも美緒さんも同様で、眼を丸くしている。

「美緒さん?」

「統也様?」

 ……また重なる。

「…………えー、と……?」

「……はぁ。二人そろって何をやっているんだ」

 呆れたように、後ろで見ていた社がため息を吐く。

「とりあえず、中に入りましょう」

 少し恥ずかしかったようで、赤みのさした頬を隠すように顔を背けて、美緒さんは俺と社を中へ促した。


 ……


 朝には色彩を失って見えた食卓は、元の落ち着いた色彩を取り戻していた。自分でも、不自然なくらいに落ち着いているように感じられる。けれども、それでいい。無駄に取り乱すより、きっと何倍もマシだ。社は俺の後ろに立っている。座ればいいと思うが、本人曰く一応のけじめらしい。美緒さんは俺の体面に座って、少しだけ顔を俯けている。俺と、真っ直ぐに視線を合わせようとしない。

 一口、淹れて貰ったコーヒーを飲む。カップを置いたのを見計らって、美緒さんは静かに切り出してきた。

「今朝、ニュースを見ました」

「……ああ」

「ご愁傷様です。お婆様からは、これからはこの町で統也様の面倒をすべて見ると言付かっています」

「そう、か……。ああ、クソ。良い趣味しているな、あの人」

 ため息を吐く。

「他に、何か言っていたか?」

「お葬式も、こちらで手はずを整えますので、統也様の手は煩わせません。……何か、ご注文はありますか?」

「……葬式。そうだよな、ちゃんとやらないと……。ああ、でもほら、俺のこと、警察が探し回ってるみたいだけれど、どうするんだ?」

「この屋敷の中で、内々に執り行うつもりのようです。ご遺体は……警察からお預かりできていませんので、骨を埋めることはできませんが」

「……ああ。そう、だな。こっちの方でしか出来ないなら仕方ない。うん。段取りはそっちに任せる。手伝えることがあるなら、俺も――」

「――統也様」

 淡々と、何処か事務的に続いていた会話を区切る様に、ぴしゃりと美緒さんが問いかける。

「どうしますか?」

「…………」

 どうする、か。

 当然、葬式の段取りの話ではないだろう。そんなことを、彼女は聞きたいわけじゃないだろう。

「桜田蒔苗を、どうするおつもりですか?」

「……どうもしないさ」

「何故?」

「意味がないから」

 俺にとって、今あいつをどうこうするという事に、なんの意味も価値も伴わない。

 だってそうだろう?

 あの人の悪意の由来なんて、俺の知ったことじゃないのだから。

「それよりも、やらなきゃいけないことがある」

「……それは?」

「守らないといけない約束が一つあるんだ。あの人がどうとか、今は考えられない。考えてやる義理もない」

「何故、そこまで? 統也様。今のあなたに必要なのは休息なのではないですか?」

「……その通りだよ、多分。ゆっくり休んで、それから動くべきだと正直俺も思ってる。今は少し落ち着いているけれど、きっと心の整理も終わってない」

「なら――」

「――だけど、それで手遅れになりたくない。立ち止まって、父さんと母さんの事考えて、そうやってちゃんと立ち上がっても、大事なものをまた失ったんじゃ意味がない。……だから、今は立ち止まりたくないんだ」

 俺が泣いたところで、その涙で誰が救えるわけでもない。ホームズを見つけられるわけでも、約束を守れるわけでもない。

 だから、やるべきことをやりたい。やらなくちゃならない。たとえ――

「――魔女が、この屋敷の何かが、俺を邪魔するのだとしても、俺は立ち止まっちゃいけないんだ」

 諦めることも、絶望することも、一歩前へ踏み出してからしたって間に合うのだから。

 美緒さんが目を閉じて、小さく頷く。

「……わかりました。ええ、それならばわたしから一つ提案があります」

 真っ直ぐに、彼女は俺の目を見て、あの魔女そっくりの笑みを浮かべた。

「統也様。共同戦線に興味はありませんか?」







































―――一面、真っ白だ。

   その白の中、たくさんの文字がばら撒かれている。

   大量の本がその頁を月光の中に晒されていた。

















 膝を抱えて、わたしはぼんやりと月光を眺めていた。

 開かれたたくさんの本が、降り積もった雪のように床を白で覆い隠している。しかし、それも一瞬の事。まるで先ほどまでの光景を夢だとでも言いたいのか、また本は元の場所に戻っていく。

 ……蓄えたはずの記憶が、重ねたはずの知識が、また抜け出していくのがわかる。抜け出したのがわかる。

 また、か……。もう、落胆も絶望も、零れ落ちる筈の涙さえも枯れ果てた。何を知っても意味がない。何を持っても消え失せる。残るのはただ寂寥と悲哀と、僅かばかりの後悔だけだ。

 それでも、わたしはまた立ち上がる。

 泣きはらした目が痛い。ずっと嗚咽を続けてきた喉もひりひりする。もう、どのくらいここで本を読んでいるのだろうか。もう、どれくらい同じ寂寥と悲哀と、そして後悔を味わい続けているのだろうか。……降り積もるそれらは、失った知識同様意味がない。

 何故。そう自問自答するのも、これで幾度目か。答えなんて、とうにわたしは忘れている。思い出せもしないことに、意味を求めることも、理由を見出すことも、きっと馬鹿げている。

 それでも。

 伸ばした手の先、触れる本の表紙は冴えた空気に晒されて、ひんやりと心地よく冷え切っている。手に取った本の表紙には、きっと今まで何度も見てきただろう題名が乗っている。

「シャーロック・ホームズの冒険」

 その文字列を何処か懐かしむような心地で撫でて、本を開く。

 それは、探偵の物語を集めた本だ。飄々とした名探偵と、語り手であるその助手。そんなコンビが事件の真相に挑む、古典的なミステリー。静かにページをめくる。知識と感情が、またわたしの中に降り積もっていく。

 きっとまた無意味だ。きっとまた無価値だ。

 それでも、今、立ち止まりたくないわたしがいる。止めてしまうことを恐れるわたしがいる。この月光の中に、わたしを形作る知識や記憶を喪うのだとしても、こうして本を捲ることを否定したくないわたしがいる。手の届かない彼方の記憶を、忘却を、感情を、追いかけ続けているわたしがいる。

 希望の一欠けらさえ見えない。何が結実するわけでもない。これまでの感情が報われるわけでもない。

 絶望している。諦めている。だから、きっとこれは逃避なのかもしれない。あるいは、あるいは――――これがわたしなのかもしれない。

 喪われ、遠ざかるモノに縋りつき、在り続けることがわたしという存在なのかもしれない。

 手を伸ばす。

 震える指先は何を掴むこともできず、冷え切ってまた床に堕ちるだけだろう。きっと、そうして触れる床は、痛いほど冷たいのだろう。

だけど、手を伸ばさなかったらそれさえも感じ取れない。それさえも忘れることが出来ない。

そうなればわたしは、正真正銘の空虚になり果ててしまうだろう。

諦めること、絶望すること、全部挑戦しなければ出来ないことだ。挑戦してから出来ることだ。そして、してからだって挑戦出来るものだ。

わたしはきっと、また何もかもを喪って、失って、書架に手を伸ばすのだろう。

きっとまた後悔する。きっとまた落胆する。きっとまた、きっとまた――

ああ、それでも。

無駄じゃない。どんなに無意味でも、無価値でも、無駄なんかじゃない。

そう想うわたしがいる。そう信じるわたしがいる。

空想か幻想か、はたまた妄想か夢想か。カタチはなくとも、わたしは何かを得て、また次へと繋いでいるのかもしれない。

ふと、ページから目をあげ、月明りを眺める。

「――あれ?」

 ぽつりと漏れた疑問の声。混ざりこむ不可思議な響き。頬に触れてみれば、少しだけ微笑んでいる自分に気が付く。

「……わたし、なんで笑ってるんだろう」

 そんな呟きは、誰に答えられることもなくふわりと吹いた風に消える。

 どうしてだろうか。

 やはり確かにわたしは前へ進んでいる。そんな気がした。















 ホームズ:破:破へ


































 ホームズ:破:破


『わたし達にとっても、あのヒトは害悪でしかありませんから』

 思い返すのは、彼女の、余りにも深い感情を込めた言葉。

「……共同戦線、ねぇ」

 ぼそりと繰り返すのは、彼女が切り出してきた提案だ。

 俺の目的はホームズの捜索。彼女たちの目的は、桜田蒔苗の排除、最終的には、殺害。

 今のこの町は、完全にあの魔女の私物として扱われている。そう美緒さんは語った。

『町の住人は、無自覚の内に生殺与奪権を奪われています。ですが、あなたは違う。立木統也様。桜田の正統な主であり、そしてこの町の外で育ってきたあなたは、桜田蒔苗にとって永きに渡る計画を完遂させるための最期の鍵であり――それを阻止し、彼女を殺すことを目的とするわたしにとって、最強の切り札です』

 そう、彼女は言っていた。

 切り札。それはいったいどういう意味合い、どういう場面で切り札になるのか。そんなことは、一切教えてもらえなかった。

 確かに桜田蒔苗は脅威だ。呪いの威力は昨晩体験済みだし、広い人脈を持っていることも、葬式の話から大方予想が出来る。そも、俺をこうしてこの屋敷に住まわせている時点で、方々に色々と口利きが出来るのは確定的だ。

 だが、美緒さんが本当に味方かどうかも分からない。いや、色々と世話してもらっておいて失礼かもしれないが、それとこれとは別問題だ。彼女の役割は元々俺の監視役。つまるところは桜田蒔苗の陣営としての役割だ。裏切ったなんて保証なんてない。最悪、こうして共同戦線を持ちかけられたこと自体、俺を罠にはめるためなのかもしれない。

 そも、あの魔女が身内の裏切りに気が付かないモノだろうか? 美緒さんが本気で裏切るのだとしても、それを見過ごす程迂闊な性格をしているとは思えない。それどころか、逆手にとって余計にこちらを追い詰める一手に化かしかねない。

 結局、リスクとリターンが見合わないというのが理由になる。俺と彼女たちでは、目的が噛み合っていないのだ。

 彼女を追うために、あの女を殺す事は必要なコトじゃない。少なくとも、今殺す事が有用だと判断できない。どころか、情報網を持っているだけ、あの人に味方する方が上策かもしれない。……いや、弱みを握られたら、あんな性格をしているんだから、嬉々としてそこをズタズタに引き裂きにかかるだろう。最悪だ。

 桜田蒔苗に対抗策をとるとするならば、徹底的に無視しつつ警戒することだろう。呪術への対抗策は簡単だ。あの魔女に関して考えすぎないことだ。どうにも彼女の手繰る呪術は、こちらの感情がかなり重要な要素となっているのだろう。少なくとも、俺の食らった呪術は全て俺の感情に関係したものだった。ある程度法則性が見抜けていれば、そこまで極度に怖れるものでもない。

 多分、本当に警戒しなければいけないのは呪いではなく人脈の方だろう。こっちは無力な高校生だ。堀を埋められたらそれこそ手も足も出せないまま終わる。……今時座敷牢で軟禁とか、あの魔女なら大真面目にやりかねないから笑えない。もっとも、何が厄介かと言えば、向こうのやりたいことがこちらの嫌がらせとしか知らないから、どういう手を打ってくるかわからないことだ。やってきそうなことの幅も、出来そうなことの幅も広すぎる。手に負えなさすぎる。

 ただ、幸いなのは向こうにすぐ動く気配がないところだろう。無理矢理こっちにコンタクトをとって、警察なんかから匿える程の人脈。それを活用すれば、それこそ俺を監禁することも容易いはずだ。そうしない、ということはそのまま監禁その他より社会的な攻撃をする必要がないのだろう。結局本気を出されたらどうしようもないのは事実なので、こちらにとっては好都合だ。

 ……さて、これからどうするべきか。

「探す、っていうのはまあ決定事項として……」

 共同戦線、断る理由もないけれど断らない理由もない。……保留でいいか。今日はもう来ないとも言っていたし、返事は明日にしよう。

 美緒さんが作ってくれた夕飯を食べながら、俺はぼんやりとこれからと、今夜の探索の予定を考える。

 ……やっぱり、もう一回あの廃ビルに向かうべきだよな。社はあの天使のような少女を、カラスの化け物と呼んだ。そう見えているのなら、やはり尋常な存在じゃないのだろう。だからこそ、しっかりと調べなければいけない。

「……ホームズ」

 彼女の手掛かりをつかむ。もしかしたら、彼女の過去にそれがあるかもしれない。

 時計を見る。長針は天頂を指し、短針は七時を指していた。もう日は暮れ、月が昇っている頃合い――この町が狂いだす頃合いだ。

 部屋に戻って外套を手に取る。得物は木刀と、貰い物の短刀。たった二つだが完全武装だ。少なくとも、今まで戦ってきた影相手ならばこれだけで十二分だろう。

 静かに、深呼吸を一つ。

「行こう」

 そう気合を入れてふと食堂を覗くと、

「どうも。お邪魔しています」

「……何してんだ、あんた」

 蔵子さんがお茶を飲んでいた。


 ……


「……何やってんだ、俺」

「あら、女性とお茶しながらそんなこと言うのは、少し無作法ですよ?」

 ぼんやりとそんなことを呟いた俺を、窘める様に彼女は笑う。

「そもそもの話をしてしまえば、勝手にお茶を始めた私が一番無礼で無作法で傍若無人でしょうけれど」

「罪状に、出かけようとした人間を無理やり引き留めたっていうのも追加してくれ」

「まあまあまあ。おいしいお茶とお菓子は如何ですか?」

 はい、と差し出された煎餅を受け取りつつ、ため息。

「全部自前ですよ?」

「いや、そうじゃなくて……というか自前だったのか、これ」

 何処で調達してきたんだ……? ああ、いや、それはどうでもいい。少なくとも今はどうでもいいんだ。

「俺、出かけたいんだが」

「はい」

「なんで蔵子さんとお茶しなくちゃいけないんだ?」

「はい、それはですね……」

「………それは?」

「息抜きですよ」

 なんてことのない口調で、ゆっくりした口調で、蔵子さんはそうにっこり微笑んだ。

 ……何言いたいんだ、この人。と、いう感想は浮かばない。最近確かにそれが足りないという自覚がある。実際今の俺には必要なモノだろう。けれど、

「蔵子さん、俺には立ち止まっている暇は――」

「ない、と言いたいのはよくわかります。ですが……そうですね。自分も助けられない人に、他の人を助けることは出来ないでしょう?」

「それは一般論で正論だ。……それで休めるほど、俺は利口じゃない」

「知っています」

「だったら、」

 つい、と唇に白く細い指が伸びる。続けようとした言葉は、それだけで遮られてしまった。

 笑んでいた彼女の瞳が醒めている。真っ直ぐに、こちらの奥の奥を見ている眼だ。

「――だったら、何だと? 成程、猛る言の葉には確かに勢いと剛さが在ります。されど……勢いはいつか失われて、そして途絶えるものです。剛さもまた、罅割れ砕け散るものでしょう。なれば、それを唱える魂も、形作る肉もまた同じ……それを、忘れてはいけません」

「……無理はするなってことか」

「その通りですよ。あんまり無理して目的が達成できないのは、それこそ本末転倒でしょう?」

「自分を大事にしすぎて、目的を達成できなくとも本末転倒だ」

「ああ言えばこう言いますね」

 徐々に刺々しさを帯びてきた声をやんわりと受け止め、また微笑む。

「焦る気持ちはよくわかります。だからこそ、成就させるためには慎重になりなさい。自分をないがしろにしても、視野が狭いままではただ同じ場所で足踏みするだけですよ」

「…………」

 それは……それは、確かにそうだが。

「用意周到に詰めて、さっくりと片付けることをお勧めしますよ。やれることはやれるだけやって、仕舞は楽々悠々と。後はゆったりお楽しみ。それが一番賢いでしょう?」

「……そんなに悠長にはしていられない」

「出来る限りで構いません。ですが無茶をするにしても、少し意識するだけで随分と違う物ですから」

 ゆっくりとした動作で差し出された手には、その白い肌の柔らかさとは対照的な、黒く冷たい硬質さが輝いていた。

 小さな、古ぼけた黒い鍵だ。

「これは……?」

「持っていきなさい」

 それだけ言って、彼女は俺に鍵を握らせる。

「あなたは、使いどころを知っているでしょう?」

「…………ああ」

 ここしばらく調べた場所で、鍵を使う場所は一つしか心当たりはない。……やっぱり、この人はこの屋敷と縁のある人なのだろうか。そうであれば、この屋敷の蔵に住んでいることも、例の御守りを知っていたり、短刀を持っていたことにも納得がいく。

 それでも、この人(?)の正体は不明のままだ。

 危険じゃないとは思うんだが……。

「それでは、そろそろ帰りましょうか」

「え、あ、はあ……え?」

「わたしの用は済みましたからね」

 鍵から視線を引き上げれば、冗談のように蔵子さんは姿を消していた。

「頑張って」

 昨日と同じ言葉だけが、俺の耳に届いて消える。

「……言われなくたって頑張るさ」

 ……


 ざり、と靴の下で細かな砂とアスファルトがこすれ、嫌な音が鳴った。吐く息が微かに白く曇って、すぐに溶けて消えた。桜はまだ散らずに咲いているようで、

 黒々と大きな口を開けて、夜は空を覆っている。昇る月は、まだ丸い。

「……相も変わらず人気のない」

 本当に人気がない。お茶を始めて大体三十分経ったか経っていないかだから……今、せいぜい七時半とかそんな時間だ。少しくらい、出歩く人がいてもおかしくない時間だろうに、人っ子一人見かけない。

 やっぱりおかしい。場合によっては刃物だって振り回すから、人目がないのは正直助かるが、それでも違和感が強すぎる。

 だってそうだろう? 人が住んでいる町なのに、昼間は普通に出歩いている人も多いのに、なんで家に明かりが殆どないんだ……?

「…………ちっ」

 舌打ちを一つ零す。今、俺の顔には苦々しい表情が張り付いていることだろう。

 嫌な想像だ。本当に嫌な想像をしてしまった。……ただ単純に、きっとこの町が狂った影響なのだろう。別の場所に飛ばされるとか、この町のこの夜ならばあり得る気がする。

 がしがしと頭を掻いて、気を取り直す。

 夜の空気は、静かに冷たく纏わりついている。すぅと深呼吸をすれば、肺に冴えた空気が入り込み、そのまま体にゆっくりと染みわたっていく。

「……よし」

 コンディションは問題なし。いつでもどこでも、連中を相手してやれるだろう。……だから、

「――……そろそろ、追いかけっこは終わりにしないか」

 振り返れば、黒い影がポツリと立っている。

 家を出てから、ずっと背後から感じていた気配の正体。

 ……何故、襲い掛かってこないのか。警戒こそしていたが、随分と無防備に背中を晒していたはずだ。連中に待ち伏せやその他諸々の高度な戦法が使えるとは思えない。そもそも、攻撃をせずについてだけ来ていることが違和感を感じさせる。これまで見てきた影は、能動的に探し回る様子こそなかったが、基本的にこちらを見つけ次第襲い掛かってきた。

 何が目的なのか。……そもそも影の目的を知らないまま、奇妙な個体のソレを知ろうとすることが烏滸がましいのだろうが――

 するりと白刃が閃き、輝く。脅すように踊った刃に特に反応を示すことなく、やはり立ち尽くしたままだ。そのまま、眼球のない視線とにらみ合い――一歩踏み出す。影は動かない。一歩、また一歩。アスファルトを踏みしめて、徐々に徐々に間合いへ捉えていく。

 やはり、影は動かない。

 ただ、真っ直ぐにこちらを見ているだけだ。

クルリと、逆手に握った短刀を順手に握り替える。殺した息を吸い――吐き出した。

「っ」

 踏み込み。

 ざっくりと深い手ごたえ。

 影は、動かない。

 無音の刺突。再び閃いた白刃は、吸い込まれるように影の胸に突き立てられた。伸びきって弛緩した腕にもう一度力を入れ、ずるりと短刀を引き抜く。

「     」

「――――――――――――――――ぇ?」

 小さく、本当に小さく、音が鼓膜を震わした。いや、違う。音じゃない。それはただの音なんかじゃない。確かに、不明瞭で曖昧だったけれど、確かにそれは――

「……なん、で……?」

 ――それは声だった。

「ありがとう」という、言葉だった。

ざぁ、と強く吹いた風に攫われるように影が消える。見上げた空は、月明りを拒絶するように暗く、影の痕を迎え入れる様に黒かった。風を追うように仰いだ視線は何を見ることもなく、力なく自分の足元に落ちた。

目に映るのは、踏みしめられ朽ちかけた、桜の花びら。

疑問が、思い切り頭を殴ってそのまま何処手の届かない場所へ逃げ去ってしまったように感じた。……殴られ損だ。

「…………」

 口の中で、微かに苦い味がするような気がした。一体、何がどうなっている。あの影――この町に来てから、もう何度も対峙しているあの影は何だ。一体何だ。正体は何だ。……何も、何も俺は知らない。知らないじゃないか。

 あれの正体は何だ。俺は、一体何を殺したんだ。

 今日に限って、なんでこんなに、手に残る感触が生々しいんだ。

 鞘に短刀を収める。微かに、手が震えているのが自分でも理解できた。……何を、今更。斬るってことは――傷つけることだろうに。

 夜の空気が、妙に生臭く感じられる。息を満足に吐くことも吸うことも出来ない。息苦しい。頭が、痛い。冷汗が額に滲んで頬を伝った。左手で拭えば、触れる汗の冷たさが背筋にすとんと落ちた。

 ……落ち着け。落ち着くんだ。今必要なのはその事じゃない。そんな後悔も、苦悩も今は捨てておけ。考える必要はない。無駄だ。だから、だから、考えるな。あの正体も、俺の殺したものも、何も考えるな――!

「――酷い顔だな、少年」

 ばさりという羽音と、ひらりと舞い落ちる黒い羽根。はっとして引き上げた視線の先には、夜よりも尚黒いシルエットがあった。

「……カラス」

「昼間、彼女の元に出向いたようだな」

 とん、とんと跳ねるようにこちらに歩み寄って、カラスは言葉を続ける。

「おかげ様で、今晩は彼女の歌が聞けそうにない」

「夜更かしの為に、昼から寝るのは感心しないぜ。朝起きて夜ぐっすり眠る方が健康じゃないか」

「人の尺度だな。残念ながら、夜行性の我々にとって、昼は君たちの夜と同義なのだよ」

 飄々とした調子で、そう笑い、彼は首を傾げた。

「瞳は醒めたかね?」

「……何だよ、それ」

「醒めているようだな。完全ではないが、時間の問題だろう」

「…………」

 このカラス、話が通じない――というよりも、一人(一羽?)で勝手に納得して、勝手に話を進めてしまう。何が厄介かと言えば、どうにも彼の言葉に嘘の響きが見当たらないことだ。

 つまりは、彼にしか理解できない何かがあって、それは他ならぬ俺の異変なのだ。俺の何かが、俺の理解の外で変わり続けているという事だ。

 昼間のあの出来事を――社の言葉を思い出す。彼女には、カラスの化け物に見えていても、俺には天使のような姿をした少女としか、あの廃ビルの主を捉えることはできなかった。

 瞳が醒めるというのが、何を指しているのか俺は未だ理解できない。けれど、もしかしたら、彼女と――普通の人と違う物を見ることを指しているのだろうか? いや、だが昨晩から俺は彼女を天使のような外見として認識していた。ならば、一体――?

「考えているな」

「……なに?」

「私の言葉の意味を考えているようだ。瞳が醒めようと、別に一気に見えるものが変わるわけでもない。ゆっくり、しっかりと自分の視覚を確かめるといい。きっと、見えていなかったモノを見つけられるだろう」

「それは、」

 どういう意味だ。そう問いかける言葉はばさりと飛び上がった羽ばたきの音に遮られた。

「言葉通りの意味だ。何、そう急がなくても大丈夫だ。先ほども言っただろう? 時間の問題だと」

 身軽な調子で電線の上に降りて、カラスはまた、あのくつくつという嫌な笑い方をした。

「ついてきたまえ、彼女が君に会いたいそうだ」

「は? ――おい、待て!」

「遅れるなよ」

 それだけ言って再びカラスは飛び立つ。それを追いかけるため、俺は走り出した。


 ……


 ぜぇぜぇと荒い息を吐く。こちらを振り向くことなく飛び続けるカラスに置いて行かれないよう、ずっと必死に走り続ける羽目になった。万が一廃ビル以外に飛ばれたらたまったもんじゃないと思って走ったのだが、やはりというかなんと言うのか、結局たどり着いたのは廃ビルだった。

「お前……、少しはゆっくり飛べよ……!」

「ふむ、これでも年寄りなのだがな。着いてくるのにそこまで疲れるとは、少年、運動不足かね?」

「鳥が飛ぶスピードと人間の走行速度を同列で語るな! おまけにお前は黒いから見失いそうになるんだよ!」

 というか、そもそもカラスって鳥目じゃないのか。夜飛べるものなのか。いや、しゃべるカラスに常識を求めてもしょうがないのかもしれないが。

「見苦しい言い訳だな、若人よ」

 何処か楽し気にそう言って、カラスは昨晩の焼き直しのように月明りの中に降り立った。歳を指摘するならば、その月明りの中心にいるものが、歌を歌わずに眠っていることだろうか。

 カラスは、あの跳ねるような歩調ですぅすぅと寝息を立てている天使の元に歩み寄り、やさしく嘴でつついた。

「起きたまえ。ご執心中の彼が来てくれたぞ」

「――」

 ぱちり、と眠たげに瞼を持ち上げて、天使が起き上がる。目元をこすりながら、調子を確かめる様に羽をはためかせている。

 ……やっぱり、細かな違いはあるだろうけれど、俺には彼女は人間のようにしか見えない。社の言うようなカラスの化け物とは、どうしても思えない。意思の疎通もできないような存在ではなく、言葉の通じる自分に近しい存在だと俺は感じる。

 小さく欠伸をした後、彼女はふわりと瓦礫の上からじっとこっちを見ている。

 そのまま、動かない。時折まだ少し眠いのか、こくりこくりと船を漕ぎそうなるが、それだけだ。

 ……うん? どういうつもりなんだ?

「少年。彼女はどうにも眠くて動きたくないようだ」

「ああ、うん。見ればわかる」

「だが、どうしても君に渡したい物があるようでな」

「……こっちから受け取りに来いってことか」

 瓦礫の山に登ると彼女がずっと左手に握っていたモノを、俺に手渡してくれた。それで満足したのか、天使は一つ頷くと、また瓦礫の上に寝そべってすぐに寝息を立て始めた。

「――うん? これって……」

 天使がくれたソレと、よーく似た代物を俺は貰ったばかりだった。

「また鍵?」

「ほう……?」

 ぱちりと一つ瞬きをして、カラスが俺に向き直る。

「また、かね? これと同じモノを既に貰っているのかね?」

「さっき……という程さっきでもないが、同じような鍵を人に貰ったばかりだ」

「――そうか。さて、誰が手渡したのかまでは分からないが、彼女に代わって同じ言を重ねる必要もないな」

「ああ。使いどころならもう目星がついている」

 それだけ言って、俺は背を向ける。

 ポケットに鍵を放り込んで、天使とカラスに手を振った。

「じゃあな。ありがたく使わせてもらうよ」

「そうするといい。――それと、一つ助言だ」

「うん?」

 くるりと振り返れば、やはり昨晩の焼き直しのように、カラスが闇夜に飛び立っていった。昨晩との違いを指摘するならば、そう――

「今晩中に病院へ向かうといい。少年――君にとって、きっと素晴らしい出会いが待っている筈だ」

 ――何処となく笑んだ声で、暖かい声で、郷愁と感慨と、曖昧で言葉にならない感情を滲ませた声で、彼が飛び去って行くことだろうか。






「病院、ねぇ……」

 スマートフォンで調べれば、あっさりこの町たった一つの病院の位置が分かった。流石は文明の利器。

 大して廃ビルから遠くない。歩いて十分程だろう。

 ――結局、俺はどうするべきなのか。

 カラスとの邂逅で吹き飛びかけた疑問が、一人黙々と歩き始めたとたん頭の中に舞い戻ってきた。

 どうする。

 決まっている。ホームズを探すのだ。一緒に居ると、そう約束した。それを俺は守りたい。それしか、俺にはもう――

「――もう、何だって言いたいんだよ、俺」

 それは逃避じゃないのか。ただ、向き合わない言い訳に彼女を利用しているだけじゃないのか。……ただ、見ていたくないから逃げているだけじゃないのか。

 そんな言い訳じみたものをなくしたくないから、彼女を探すのか。そんな事の為に、あの約束を利用しているのか。そんなくだらない理由で、俺は――俺は、振り返るべきものを振り返らないのか。考えなきゃいけないことも何もかも、見ないふりをして進んでいくのか。

 残されていない? 本当にそうか? 母さんも、父さんももういない。だけれど、俺は何かを見落としていないか?

「…………」

 俺は――何をしているのだろうか。立ち止まるべきか。否か。美緒さんに啖呵を切っておいて、さっそく揺らいでいる。自分で自分が可笑しくて、情けなくて、みっともなくて仕方がない。

 昼間の虚無感とも喪失感とも違う、くだらない、最低な自己嫌悪が俺を雁字搦めにしようと手を伸ばしてくる。

立ち止まる。

「……………………」

 ――俺は。

 ずきりと、頭が痛む。考えがぐるぐると頭の中で巡って、どんよりと重苦しく世ドン行くのが分かる。堂々巡りだ。答えなんかが出るわけがない。何が正しくて、何が間違っているのかさえ判断できない俺が、答えを出せるわけがない。

 縋ってくる吐き気を振り払って、俺は夜空に浮かぶ白い月を見上げた。銀色がしんしんと目に染みる。泥濘から顔を出して、一つ息を吸ったような心地になった。

「――くそっ。立ち止まれるかよ!」

  少しだけ楽になった息苦しさの中で、吐き出すようにやっけぱちじみた言葉を吐き出す。

 結局持ち出したのは今朝の結論だった。考えたって進まない、進まないんだ。だから…………考えるな。これ以上……迷ったって仕方がないのだから。

 だけど、

「――――」

 踏み出した一歩で、また立ち止まる。

 きっと、この先も俺はあの影と向き合うのだろう。あれはこの町と間違いなく深いつながりがあるものだ。だから、またあの影と相対し――また斬るのだろう。人に似た形をしていた。だから気分はよくなかったが、それでも影は人間じゃないから――人間じゃないと思っていたから、斬ることが出来た。

 けれど――あれは、人間なのか? 社は、あの影を悪霊と呼んでいた。霊というのなら、少なくともあれは生前人間だったのではないか? それに、家を出て俺をつけていたあの影は、小さくとも、それでも確かに言葉を話した。だとすれば……だとすれば、まさかとは思うが、影には――彼らには、生前の記憶が残っているのではないか? ならば、

「っ……!」

 ならば、

 ――その先が、その言葉の先に続く答えが、連なる結論が、酷く冷たく強く熱く鋭く鮮やかに、俺の心臓を喰い破った。

 ならば、

 ならば、

 ならば、

「――俺は、人殺しなのか」

 声に出した一言は、どうしようもないほど決定的で、何故だか俺を、自分で自分を思いきりぶん殴っているような気持にさせた。

 ……………………もう、これ以上はやめよう。

 色々なことを考えれば、色々な柵に縛られて、雁字搦めにされてしまうのがオチだ。止まりたくない。彼女を助けたい。少なくとも、俺はそう思っている。思っているんだから、それは理由だ。

 ………理由があるんだ。だから、それでいい。それだけでいいんだ。

 もう、俺は何も考えるべきじゃない。

 彼女が救えないくらいなら、何も考えない方がいいんだ。

 止まったままの一歩目に、二歩目を継ぎ足す。

 ふらふらと体が揺れているのが分かる。

 それでも、俺は歩いている。進んでいる。

 立ち止まっていない。

 ああ、もうそれだけで十分だ。進めばいい。それしかないのだから、それ以外なんて考えてもどうしようもないだろうに。

 月明りが、静かに道を照らしている。迷う事なんてない。ほら、だから、何も考えないで、何も見ないまま、何も聞かないまま、何も感じないまま、ただただ進め。進め。進み続けろ。

 真っ直ぐに前だけを見ていればいいんだ。前以外、眼を向けなければいいんだ。

「…………それで、いいんだ」

 だのに、ぼそりと呟いた言葉が、酷く苦い味がするのは何故だ。……何故だ。


 ……


 地図で見た通り、病院にはすぐに到着した。この町らしいというべきか、やはりこの病院にも光がない。消灯時間を過ぎているという解釈もできるが、そうではない、もっと直接的な理由だろう。

 明かりの一つもない夜の病院は、月の光に照らされて大きな化け物のようにどっしりとたたずんでいる。

 それなりに大きい病院だからだろう。何処か古臭いこの町にそぐわない、綺麗で清潔感を感じさせる自動ドア。それが音もなく開いた。……警備も何も走っていないらしい。ありがたい話だ。

 諦観じみた感慨を抱きつつロビーを歩き、エレベーターの前で立ち止まる。

そういえば、

「……病院とは言っていたけど、病院のどこへ行けばいいんだ?」

 ただ病院に行けとしか言われていない。

 ……あのカラスは、肝心なことを伝えないよう努力でもしているのだろうか? 一体どうすればいいのやら、さっぱりわからない。

 一通り病院の中を歩いてみるべきだろうか?

 そう、考えあぐねていると――


 ちりん


 小さく、鈴の音がした。暗闇に紛れて音もなく動く気配がする。みゃあ、と微かな鳴き声をそれはあげていた。

「――ホームズ?」

 違う。そう確信しているのに、俺は無意味に問いかけた。

 案の定、するりと月明りに伸びた足は、滑らかな夜色の毛並みだった。

「みゃぁ」

「……違う、よな。あいつ、暗いところじゃ目立つもんな」

 しゃがんで手を伸ばせば、すりすりと頭を寄せて、黒猫は甘えてきた。

「よしよし。人懐っこいなー、お前。それに……それに、ホームズにもよく似ている」

 本当に黒猫は、猫の姿になっていた時のホームズとよく似ていた。体格も、手足の長さも、毛並みも、耳の形も瓜二つだ。

「みゃぁ」

 また一つ鳴いて、猫は俺に尻を向けとてとてと歩き始める。何処に行くのだろうと眺めていれば、ついてこいとでも言いたげにこちらを振り返って、また「みゃぁ」と泣いた。

 ……どうせどこに行けばいいのかもわからない。あの猫について行ったところで、何か問題になるワケでもないだろう。それにこの町の動物がすることが、本当に無意味だった覚えがない。

 ちりん、と首輪に着いた鈴が鳴る。それがまるで、道しるべのように暗闇の中で響いている。俺は、静かにその音を追いかける。

 鈴の音と俺の靴音が、無音の廊下に響き渡る。間取りの都合だろう。窓があまりないこの廊下では、本当に猫の鈴だけが頼りになる。

 ひょいひょいと、身軽に猫は病院の階段を上っていく。二階、三階を通り過ぎて、四階でやっと止まった。またこちらを振り返って、そして今度は顔を何処かへ向けて、ひらりひらりと跳んで行った。

 急いで階段を駆け上がると、もう猫の姿はなかった。……やっぱり、ただの猫じゃなかったのか。ひょっとしたら、あのカラスと同じような類なのかもしれない。

「…………うん?」

 ふと、違和感を覚える。何かがこの階では違う。他の階では感じ取らなかったモノを、ここでは感じ取っているようだ。その正体が分からない。よく見知ったものだと感じるが一体――

「――気配か?」

 そうだ、人の気配だ。夜になってくるってしまうこの町に、まるきり足りない人の気配があるのだ。

 何処だ? 何処から感じている? 漂っている? 一体何処から?

 思考を巡らせながら、視線をぐるりと闇夜の中に潜らせて見つけ出す。

 いた。

「……………………」

 無言で、無音で歩み寄る。視線の先に在るのは病室の扉。その奥から、気配が二つ流れ出している。一つは何処か慣れを感じるモノで、もう一つはとてもか細い――それこそよく意識しなければ気が付けないモノだった。

 廊下の突き当りはガラス張りになっている。そこから差し込む月明りが、目前の扉を微かに照らし出していた。素気のない調子の文字で、綴られている名前は「桜田香音」。

 ……奇妙に予感があった。もしかしたら、と昼に社と話をした時から、自分でも気が付かない程静かに疑念を抱き始めていたのかもしれない。

 猫に、少女。符丁はたった二つ。だが、それはこの町に来てから体験した中でも、特に鮮烈なそれと合致する。だが、まさかと思っていた。

……扉に手をかけ、開ける。がらりという音が、やたらに大きく耳に響く。

 病室の窓は開け放たれていた。

 ひょう、と笛の音を真似たように風が鳴る。

 満月が、四角く区切られた空の中で輝いている。

 ひらりと舞っているのは、風に煽られた桜の花弁だろうか。

「ぁ――」

「――――」

 視線と視線が重なる。感じ取った気配の通り、病室には二人いた。

「統也様!?」

「美緒さん……?」

 病室にいたのは、桜田美緒と――

「……ぅ、ん………?」

 もぞ、とベッドの上で体が揺れたのが分かる。閉ざされた瞳が、ゆっくりと持ち上げられていく。

 俺は、ただ絶句したままその様子を見つめていた。

 何も言えなかった。何もできなかった。何も考えられなかった。

 美緒さんともう一人が病室にいた。そのもう一人は、ベッドに横たわった少女。

 美緒さんと同じ茶色の髪。そりゃそうだろう、恐らくは彼女が社の言っていた美緒さんの妹だ。髪の色くらい、姉妹なのだから似るだろう。

「――ああ、そうか」

 ――奇妙に予感があった。ホームズの正体についての予感だ。ひょっとすればと思った。まだ、その少女は病院で眠っているはずだから。

 もし、ホームズの正体が霊的なものならば?

 もし、桜田香音という名前の少女が無関係でないならば?

 もし、ホームズという存在が、桜田香音の戻らない意識そのものだとしたら?




「――ホームズ?」

 からからに、喉が干からびているように感じる。水が飲みたい。冷たい氷を入れて、よく冷やした水を喉に流し込みたい。

 そう思ってしまうほどに引きつった喉を無理やりに動かして、俺は声を絞り出した。半ば、それは悲鳴だったのかもしれない。道理で遼い。自分の聲が遼い。実感さえ酷薄だ。カタチは酷く曖昧だし、音色は無様にひしゃげている。それでも、どうにか込めた意味は相手に届いていた。届いてしまった。

 悲鳴に、声が返される。

「――ワトソン君?」

 それは、その名前は、誰が、誰を呼ぶための物だっただろうか。

 それは、その名前は、誰が、誰に呼ばれるための物だっただろうか。

 一体、誰と誰の間で用いるモノだっただろうか。

 一瞬に明滅が奔って、奔って、後は眩んだ。






















 ホームズ:破:急へ


































 ホームズ:破:急


 どうにも、自分はそう遠くない時間に自滅するらしい。

 参った、と苦笑する。そうしている自分に気が付いて、また苦笑。どうにも、自分には――わたしには、危機感というものが欠けているらしい。あるいは、そんなものも投げ捨ててしまう程投げやりなのか。

 前者だといいな、などとまた取り留めのない感想を浮かべながら、わたしは書架から目を外して、明るく輝く月を見上げた。

 月が綺麗だ。月は、恐らくはずっと綺麗なのだ。わたしが憶えていないだけで、ずっとずっとあの夜の中で輝いているのだろう。さて、では一体わたしは何をしていたのか。

 決まっている。本を読んで、読んで、また読んでいた。覚えていないけれど、わたしならずっとそうしているだろう。実際、覚えている範囲内ではそうしていたのだから、間違いない。そもそも読書しかできないし、ここにはお客さんも来ないのだから。

 だから、またページを捲ろう。うすうす気が付いているが、これはどうにも自殺行為らしい。本来自分の維持に使うべき力を全く別の物に注ぎ込んでいる。緩慢な自殺というヤツだ。まあそんなことに気が付いたのは覚えていないがつい最近だし、そもそも緩慢な自殺だろうがなんだろうが、わたしにできることはそれしかない。どちらにせよジリ貧ならば、好きなことをやって華々しく散る方が好みだ。

 選択の余地も特にない。同じ阿呆なら躍った方がマシだろう。それくらいの浅い思考でそうわたしは結論付ける。

 慟哭も、悲哀も、繰り返しの中に置いてきた。振り返れば、きっと後悔が笑って手を振っているのだろう。絶望と諦観は、仲良く肩を組んでいるに違いない。

 厚みのない積み重ねだ。覚えていない積み重ねだ。ただ事実だけが降り積もっているだけだ。

 ああ、それで十二分。

 連続しないわたしには、それくらいの感傷がお似合いだ。

 また、視線は文字を追う。連なって出来上がる意味を、繋がって出来上がる物語を追いかける。

 くすりと浮かんだ笑顔。今のわたしは、ひょっとしなくても過去という物に執着という物を覚えていないらしい。それがどうにも嬉しいような、寂しいような奇妙な感覚だ。だってほら、一応わたしは過去を思い出すのが目標だったワケだし。だから、何と言うのか、厄介な宿題がなくなったような、好敵手が不意にいなくなってしまったような、そんな感じなのだ。

 言葉が足りないのは許してほしい。せっせせっせと頭に言葉を詰め込んでも、忘れてしまうので意味がないのだ。それでも、文字を詰め込むのも、お話を読み込むのも楽しいので、何度忘れても止めはしないのだが。

 ところで結局、わたしとはなんだったのか。まあ、そんな疑問は付きまとう。意識内とはいえ、疑問は疑問。不思議なものは不思議なままだし、知的な何かしらである以上、わたしは割とその答えが知りたかったりするのだが……。消える前に、答えを知ることが出来るのだろうか? まあ無理だろう。あっさり結論と予想が浮かんでぱちんと消えた。否定的な意見はやはりちょっとばかり悲しくて、そして楽しくないのだ。

 現実逃避という程深刻ではない逃避も兼ねて、わたしは読書に戻った。暇つぶしになぞ解きに挑むのは悪くないが、悲観的になるのはよろしくない。

 なので、ここは一つ賭けでもしてみていいかもしれない。

 内容は今から考えよう。何せ、とびきりのロマンスもアドベンチャーも、サスペンスだってこの部屋には詰まっているのだから。参考文献はもりだくさん。それをどう活かせるかは、わたし自身の腕次第だ。

 そう考えると、自分で物語を作り出すようでとてもわくわくする。

 鼻歌交じりに本を選ぶ。少しだけ迷って、手に取ったのはきっと今までも、そしてこれからも一番気に入っているだろう、古典的なミステリーだった。

 ……長い付き合いになるのだろうか。過去を知らない自分には、明確な結論を出すことはできない。しかし、心のどこかで渦巻いている確信は、もしかしたらこの想像の証明なのかもしれない。

 成程、これが運命か。

 開け放たれたままの窓枠に腰かける。背後から差し込む月明りは、本を読むのには丁度いい照明替わりだ。

 口ずさむのは、今適当に編んだ歌。そんなものでも、十分にわたしの心を浮き立たせる役に立つ。まあ、必要かどうかで言えば多分必要ないのだろうけれど。それだけ、今のわたしはこれからやろうとすることを楽しみにしているのだ。

 捲るページの感触も、眼にする文字の黒さも、全部覚えていないけれど、全部新鮮に感じるモノだけれど、それでも、何故だかとても懐かしくて、馴染み深いモノに感じられる。

 不意に風が吹き抜ける。

 桜の花びらが、月に照らされて淡く輝いていた。








―――誰かの泣き声を聞いていた。

「何故泣いているんだ?」

 真っ白い空間。顔を伏せて嘆く少女に問いかける。

「もうすぐ終わってしまうから」

 相変わらず声は震えたまま、顔も伏せたまま、少女はそう答えた。

「何が終わってしまうんだ?」

 不明瞭さを振り払うように、問いかけを重ねる。

「楽しい楽しい夢が終わってしまうの」

 だが、帰ってくるのはやはり不明瞭な返答ばかりだ。

「何故夢が終わると悲しいんだ」

 少しだけ語気を強くして、また問いかける。

 すすり泣きは止まらない。

「きっと、この夢の中身を、わたしは目を覚ましたら忘れてしまうから」

「――何故、」

 それが悲しいのか。

 そう問いかけるつもりだった。

「忘却は悲しい物よ。喪失は哀しい物よ。消え去るそれにどんな意味があろうと、なかろうと、痛みは伴うことに間違いはないのだから」

「………」

 問いかけの言葉が途切れる。求めていた答えを、少女は問いかけるまでもなく言葉にしてしまった。

 真っ白い部屋の中、俺はきっとがつんと思い切り頭を殴られたような表情をしているのだろう。

 やはり、すすり泣きは止まらない。

 沈黙が降り積もっていく。俺は、彼女に差し出す言葉を見失っていた。

「ねぇ、醒めたくないの。この楽しい夢から、綺麗な夢から目覚めたくないの」

 すすり泣きは止まらない。

「お願い……お願い、助けて。わたしを、この眠りから出さないで……。この夢の外に出さないで……」

 少女は縋りつく。そうして哀願する。……俺が、彼女を救う手段など、何一つ持ち合わせていないのに。

 顔のない顔が、俺を見上げていた。

「この夢が終われば、夢から目覚めてしまえば、わたしは――もう消えてしまうしかないもの」

「え?」

 顔のない少女は再び顔を伏せて、泣き続ける。

 目も鼻も口もない、真っ暗闇が張り付いている顔なのに、確かにすすり泣きは続いて、確かに涙も零れている。

 ……顔がない、という特徴はつい最近にも見た気がする。ただ、その詳細を思い出すことが出来ない。曖昧だ。それ以上記憶を追いかける気にもなれず、俺は足元へ卸していた視線を持ち上げた。

「消えるとは、どういう意味だ?」

 また浮かび上がった疑問を投げかける。

 彼女は首をかしげる。

「言葉通りよ。わたしはもう、この夢以外の全てを喪っているから。だから、この夢が終われば何一つも残されないの。……消え去るだけなの」

「……君はもう、死んでいるのか?」

「そうかもしれないけれど、分からない。今のわたしを、あなた達がどう表現するのか分からない。でも、きっと夢を見ているというのは、間違っていないと思う」

「君は誰だ」

「分からない。わたしはわたししか知らなかったの。けれど、わたしじゃない声を聴いて、そうしたらとても寂しくなってしまったからここに来たわ。……でも、誰もいなかった。だから夢を見ているの」

「………誰もいなかった?」

「ええ」

「そう、か……。君は、何処から来たんだ?」

彼女はゆっくりと空を指差した。

「上から来た」

「上から? 空か?」

「多分、そう?」

 顔のない少女は首をひねった。

「分からないのか」

「うん、分からない。正しいのかどうか分からないの」

「そうか」

 ぽん、と少女の頭に手をやった。

 何故そうしたのか自分でもよく分からない。分からないが、そうするべきだと思った。ぐりぐりと撫でるのも、その延長だった。

「…………?」

 だから、きっと意味がないのだろう。あるにしても、自分には理解できないモノなのだろう。こうして頭を撫でてやるのも、今から彼女に告げる言葉にも。

 ただ、思考が「そうするか?」「そうしよう」と阿吽を返した以上の理由など、考えるだけ無駄なのだから。

「生きたいのか?」

「……生きたい」

「生きて、如何する?」

「分からない。だけれど、」

 生きたい。と、ただそれだけを少女は真っ直ぐに言った。顔がない顔の中に、確かに表情を見た気がする。それに恐らくは見とれていた気も。

「そうか。そうか」

 何故だろうか。無性にそれが嬉しいと思った。また、無様な自己投影をしているのかもしれない。それでもよかった。それでよかった。

 ただ些細なことだが、少女の浮かべた表情を何と呼ぶのか、それだけが分からなかった。






















 夢だ。

 夢を見ていた。

 自然、目を覚ませばそこには現実が重々しく横たわっている。

「――うん?」

 体のすぐ横に重みを感じて見てみれば、優しい茶色の長髪が流れていた。見知った紙に似ていて、しかし全く違う髪の色。

 何とはなしに手を伸ばして、止めた。……彼女が彼女なのか、今一つわからなかった。

「おはようございます、統也様」

「うぉわっ!? み、美緒さん!? お、おはよう」

 ずずいと美緒さんが寄ってくる。……無表情のままで。

「ところで統也様」

「……なんだ?」

「妹に、何をなさろうとしていたのでしょうか?」

「あー……、いや、ちょっといつもの癖で」

「いつも?」

 怪訝そうに――ついでに圧迫感も強くして――彼女は首を傾げた。眼が笑ってないよ、眼が。

「つまり……統也様には毎朝毎朝自分の隣で眠る少女の頭を撫でる癖があると? 変態ですか?」

「……いやー、うん、まあ、そうなる……か?」

 違う、誤解なんだ。と言いたかったのだが、よくよく考えると美緒さんの言う通りなので頷くしかなかった。ホームズの頭、確かに撫でていたからつい同じようにやってしまったわけだし。

「……否定しないのですね」

「出来ないからな」

「右のストレートでよろしいでしょうか?」

「勘弁してくれ」

 ぐっ、と構えた拳を残念そうに下ろして、美緒さんはため息を吐いた。

 一つわざとらしい咳払いをした後、彼女は普段通りの表情に戻った。

「――あらためて、おはようございます統也様」

「おはよう。……えーと? 昨晩はなにがあって、それで結局どうなった?」

「昨晩、統也様とお話しした後にわたしは屋敷に戻り、許しを得てから妹の見舞いに向かいました」

 不幸中の幸いというべきか、彼女の妹――桜田香音は昏睡状態のまま停止しつつ成長しているような症状を表しているらしい。道理で病人にしては少し華奢なくらいで、体も髪もきれいなままだったワケだ。理由なんて考えも及ばないが、どうしたって常識の範疇ではなかっただろう。

「そうしていたら、何故かあなたがこの病室に入ってきたわけです」

「そうしていたらって……あの時はもうほとんど深夜じゃないか。桜田の屋敷には戻らなくてよかったのか?」

「その許可を貰いに一旦赴いたのですよ。……わたしにとっても、あそこは居心地のいい場所ではありませんから」

「…………」

 ふっ、と沈んだ色を揺らめかせて、彼女は瞳を微かに伏せた。何故かと聞く気になれず、かといって聞きたいこともなく、ただ少しだけ開いた俺の口は、沈黙だけを吐き出していた。

 うっすらと漂いだした気まずさを断ち切る様に、美緒さんは伏せた瞳を持ち上げた。

 ――真っ直ぐな、抉り抜くような視線だった。

「……話を戻しましょう。統也様、あなたが病室にやってきたと同時に長く昏睡状態に陥っていた香音は目を覚まし、そして――あなたはホームズという名を呼んで気絶しました。そのままにしておくワケにも行きませんので、こうして今は病室のベッドを借りています」

「え……、あ」

 本当に病院のベッドだ。どうにも、俺は昨晩から病室を出ていないらしい。

「その……ありがとう。それとごめん。迷惑かけた」

「滅相もございません。わたしは――統也様のメイドですから」

「……それでもだ」

 溜息を一つ吐く。

 そんなつまらない礼なんて、彼女は欲しくないだろう。

「単刀直入に申し上げます」

「…………」

「統也様は、あの子と何か関りがあるのですか?」

「……それは」

「お答えくださいませ」

 有無を言わせない、相も変わらず強い口調。ただ、今回に限ってはそれだけじゃあなかった。

「どうか、お願いします」

「ちょっ……何やってるんだ!?」

 いきなり床に膝も手もついて、そのままの勢いで頭までつけようとした美緒さんを、慌てながら止める。

「知る必要があります。何もかもを、わたしは知らなければいけません」

「だからって……こんな事をしなくていい」

「形振り構っていられません。どうか、お願いします。――あなたは、何を見ているのですか? この町に来て、何を見て何と話をしていたのですか? 教えてください、統也様……!」

「……君は、何故そこまで?」

「時間がないのですよ。それに、立ち向かう相手は非常に危険です。こちらが万全でなければ戦うことすら許してもらえないでしょう」

 淡々と、彼女はつまらない事を並べ立てるようにそう言った。

「だから、」

「だから、自分なんて投げ打ってでもって話か?」

「……ええ。昨晩言ったでしょう? あの魔女が君臨し続ける限り、この町に明日は在りませんから」

「……そうか。分かった。別に元から隠す気なんてないからな。この際だから、全部しゃべろうと思ってた。こんな意味の分からない状況に巻き込まれて、関係者も大量にいるんだ。気狂い扱いもしないだろ?」

 溜息を一つ。

「とりあえず、話をする前にこの子をどかしからにしないか? 病み上がりをこのままにしておくのはよろしくない」


 ……


「……まあ、それで病院に行ってこの病室に入って、情けないことに気絶したわけだ」

「何故この病室が分かったのですか?」

「黒猫に案内された。おかげで迷わなかったよ」

「黒猫、ですか……?」

「ああ。さっきホームズの話をしたろ? あいつとそっくりな猫だったよ」

「…………そう、ですか。あの子は……ずっと香音の傍にいてくれたのですね」

 ……まさかとは思っていたが、まあそういうことなんだろうな。……だとすれば、やはりホームズの正体は……。

「…………」

「統也様? どうなされたのですか?」

「ああ……なんでも…………いや。やっぱり相談させてくれ」

「なんでしょうか?」

「さっき、ホームズの外見が香音と瓜二つだったって話をしただろう?」

「はい」

「……ひょっとしたらだ。あいつは、君の妹の――桜田香音の生霊なんじゃないのか?」

「それは……」

「…………」

 美緒さんは腕を組んで考え込んでしまった。彼女は呪術を学んでいるらしい。多分は、俺なんかよりも何倍もこういったことの知識を持っているのだろう。

 ……ありえない話、だろうか。いや、いずれにせよ桜田香音とホームズが、完全に無関係だとは考えにくい。少なくとも何か関係があるはずだ。

 その関係とやらの正体が何なのか。皆目俺には見当がつかないが、恐らくは聞いていて気分がいい物ではないと、何故かそんな予感がした。

「統也様、これはわたしの私見ですが――」

「う、んん――何の話してるの……?」

「……香音」

 美緒さんが話を始めようとしたタイミングで、隣のベッドでもぞもぞと桜田香音が起きてきた。眠たげに目をこすりながら、ぼんやりとした表情で口元を緩ませる。

「ん、おはようお姉ちゃん」

「…………ええ、おはよう。体の調子は大丈夫?」

「うん。ちょっとふらふらするけれど、平気だよ。……えーと、ワトソン君、でいいんだよね?」

 香音が少し困ったような表情で、首をかしげる。

「今でもちょっと信じられないんだ。……あの日、わたしはメアリと一緒に屋敷に入ったことを覚えてる」

「…………ああ」

 また、ぐらりと昨晩のように視界が揺れる感覚。ぐんにゃりと歪んでブレて、それでもまっすぐに正しいモノを見ている感覚。

 酷い違和感が脳味噌を直接かき混ぜている様だった。

「でね? 気が付いたらわたしは本を読んでいたの。ほら、あの晩に持っていた文庫本。わたし、あの本がとっても気に入っていてね、何度も何度も読み返したわ」

 覚えてる? と彼女は不安げな声色で聞いてきた。

「――そう、だな。そうだった。覚えているよ」

「……よかった。じゃあ、やっぱり夢じゃないんだね」

 本当に、心底嬉しそうな表情で彼女はそう言った。

 夢じゃない。

 その通りだ。確かに俺はホームズとこの数日間一緒に過ごした。過ごしていた。

 だけれど、今の彼女に――ホームズの記憶を持っている彼女にとって、それは夢を見ていたような感覚だったのだろう。

「……夢なんかじゃないさ」

 桜田香音の笑顔が歪む。

 ……違う。歪んでいるのは、狂っているのは、きっと俺だ。

「そういえば、まだワトソン君の名前教えて貰ってないよね。学校で先生に呼ばれたり、お姉ちゃんが読んでいたりしたから、ちゃんと知っているけど」

「ん? ああ、そういえば……」

 確かに俺は、一度もホームズに自分の名前を伝えていなかった。なんとなく、ワトソンと呼ばれるだけでいいと――名前を呼んでもらう必要がないと思っていた。それは、何と言うのか、関係が希薄だからとかそういう理由じゃなくて、もっと親しみのある意味でそう思っていた。

 うまく説明できないけれど、確かに俺はそう感じていてホームズも同様だったから、だから名前をわざわざ伝えるという事をしなかった。

「うーん、統也君って呼んだ方がいいのかな? ほら、ワトソン君ってあだ名みたいなものだし、別に名前を知っていないわけでもないし」

 だから、新鮮に感じる。ホームズと同じ顔をした少女が、ホームズが気にしていなかったことを気にしている事が、とても新鮮に感じられる。

「……好きにしてくれ、俺は特に気にしないから」

「うん、じゃあ統也君って呼ぶよ」

 にこにことした笑顔で、彼女はぴょんとベッドから飛び降りた。

「よっと、と……!?」

「おいっ! ……危ないぞ」

 しかし、寝たきりだったせいか、香音は着地こそしたが後ろにバランスを崩してしまう。

 咄嗟に手を伸ばして引き寄せる。……危なかった。

「あ、ありがとう、統也君!」

「別にいい。今度から気を付けろ。転んで頭打って、そのままもう一回意識不明になんてなったら、笑うに笑えないだろ」

「えー、そんなことしないよー」

「今さっきやりそうになったヤツが言えたセリフか?」

「うそうそ、気を付けるよ、本当に。……もう一回寝たきりなんて嫌だもの」

「その時は――」

「――その時は?」

「……………………いや。なんでもない」

「んー? 気になるでしょ? 教えてよー」

「本当に何でもない。何でもないんだって! おいバカ、ちょ、寄りかかって頭をぐりぐり腹に押し付けるの止めろ! お前、姉の前で恥じらいとかないのか!」

「統也君がー、教えてくれたらー、止めてあげますよー?」

「だから本当に何でもないって! お前相手に隠し事なんでするかできるか! だからそれヤメロ、今すぐヤメロ。なかなかくすぐったいし美緒さんにじーっと見られているのが恥ずかしいんだよ!」

「え? もっと恥ずかしいこと色々してるのに?」

「あ、ちょっ、このバカ! こんなタイミングでそんな特大級の爆弾を投下するヤツがあるか

!?」

「えへへー、顔赤いよ?」

「誰のせいだと――!」

「――統也様? 香音?」

「……美緒さん?」

「……お姉ちゃん?」

「詳しく、もっと恥ずかしいことの詳細を、お聞かせ願えますか?」

「「ひぇっ」」






















―――しん、と音が失せている。


 目を覚ませば、そこは酷く冷たい部屋だった。

 おかしい。今わたしはワトソン君を抱きしめているはずなのに、胸の中にあるはずの物がない。

存外柔らかい彼の髪の感触も、吐息の暖かさと湿気も、彼の涙の熱さも、悲しみをそのまま温度にしたような、冷えた涙の冷たさも。

何もない。……繋がっていない。寝ている時も、微かに感じ取れていた――実感だけは出来ていたものが、丸ごと消えている。

SOSは出せそうもない。

 きょろきょろと視線を彷徨わせて、窓の外を見てこの肌寒さに納得する。たくさんの桜が咲いていた。煌々と月が夜空に輝いていた。

 ……春の頭に窓を開け放していれば、部屋も相応に寒くなるだろう。

 大量の書架と、それに収まる大量の本。体温の一欠けらも感じさせない冷たい書斎。随分と見慣れていて、そしてここしばらくは見慣れなくなったもの。

 ずっとわたしが閉じこもっていた、夜の書斎だ。

「……参ったわね。明日は約束があるのに」

 ぼんやりとした頭でそう呟く。

 約束――そう、約束だ。ワトソン君と一緒に、息抜きに遊ぶ約束。なんだかデートみたいで楽しみにしていたというのに、起きて目にする光景がこれでは少々どころか大分面倒な異常事態に巻き込まれたという事だろう。

 さて――どうするべきか。

 書斎を出るのがまず大前提だが、覚えている。わたしは彼がこの扉を開けるまで、ここから出れたことはない。

 単純な問題、この扉を開けることがわたしにはできなかったのだ。押しても引いても、あの扉はびくともしない。

 試しにやってみたが……思い切り拳で殴っても、体当たりをしても、実は扉ではなく、扉模様の壁なのかと疑ってしまう程に動かない。正直、本当に壁を殴っている気分になった。昼になるのならまた話は別だが、この部屋で昼を迎えた覚えがない。残っている記憶は、大体空が白んで来た所で終わっている。そも、夕暮れのあの時間帯、あんなことが何故できたのかすらわたしには説明できない。出来ると思ったからやったら出来た。それがあの一発の真実だ。

 と、いうワケで、

「再び囚われのお姫様、か……」

 自分で言っておいて似合わないなぁと苦笑しながら、いつかのように窓枠に腰かける。

 また本を読んでいようか。――それとも、

「…………推理でも始めようかしら。ねぇ、ワトソン君」

 出来る範囲から捜査でも始めようか。

 立ち止まりっぱなしなんて、そんなの自分らしくないのだから。

 脈絡のない超物理とは暫くお別れ、愛しの彼とも縛らくお別れ。だけれど、それでへこたれてあげる程わたしは優しくないのだ。むしろ、誰のせいだか何のせいだか知らないが、非常にわたしは不愉快だ。

 明日は楽しいお出かけの予定だったのに、それが台無しだ。これが単なる過去の焼き直しなら――わたし一人の悪夢ならば別にいい。けれど、きっとこれはそうじゃない。

もっと厄介で、もっと大規模な何かなのだろう。この町で過ごしてきて/この書斎でずっと閉じこもって/彼と共に駆け抜けて、理解できるのはこの町の事象に明確な悪意はなくとも、色濃い狂気は満ち満ちているということだ。

 とん、と窓の枠から飛び降りる。ひやりとした感触が裸足の足の裏に張り付いた。

 冴えた空気の中、ついと視線を動かせば書架に行儀よく並んだ背表紙で目が止まる。……背筋を違和感が、何本もの固く細い足で這い回った。

 何だろうか。何を違うと感じているのか。何に違和感を感じているのだろうか。正体の見えない、手ごたえのないソレの気配だけを感じ取っている。その原因を見極めるために、薄暗く陰る背表紙に目を凝らす。程なくして、わたしは違和感の正体を理解した。

 ……ああ、そうか。確かにこれは違う。

「――本の題名が違う」

 見知ったそれらと違う文字列に目を走らせる。古ぼけて掠れている。余程長い時間、雨晒し

にでもしたかのような有様だ。手に取ってみれば案の定本自体も酷い状態で、中身を読むことは非常に困難だろう。

 題名だけはなんとか読めるが……

「……ん? これって――」










 目を覚ませば、相変わらず札塗れの天井が映る。……暗い。まだ夜中だ。

 結局丸一日香音と一緒に過ごすことになった。色々なことを話した。出会った夜のことも、影と出会った夕方の時のことも……ずっと一緒に居るという約束の事も。

 間違いなく、彼女はホームズの記憶を持っていた。俺と一緒にこの町を探索した記憶を持っていた。多少違和感は在った。声は一緒でもそのトーンや印象が違ったり、彼女が見せていた癖を見せなかったり、それとは違う癖を見せたり。

 些細なコトだと、そう考えられたから深く考えていなかった。彼女は失っていた記憶を取り戻して、元の感情や表情を取り戻したのだと、そう、思っていた。

「――…………」

 あの夢は、

 あの光景は、

 彼女は、

 じりじりと、焦燥感が俺の脳髄を焦がしていく。

「…………終わっていないのか?」

 まだ、何もかも終わっていないのか? 




















 夢を見た。

 冷たい空気。

 澄み渡った夜空。

 まん丸い月。

 風に踊る桜の花弁。

 古い紙の匂い。

 全部夢だ。夢の中で見て、感じ取ったものだ。……わたしとは違う少女が、見て、感じ取ったものだ。

「――そっか。そうだよね」

 薄々と予感だけはあった。感じ取ることが出来た。ただ、その正体を理解できなかっただけの話。

 わたしは――桜田香音は――彼と共に夜を駆けた、ホームズという少女ではない。あくまでわたしは、彼女の記憶や感情を引き継いでいるだけだ。その理由は分からな。分からないけれど――

「あの部屋は……」

 本が大量に収められているあの部屋。薄暗くて、辻桐屋敷では珍しく窓が存在しているあの部屋。書斎と呼ばれているあの部屋を、確かにわたしは知っていた。

 だって、その場所は最後にわたしが視た場所だから。

「…………」

 そこで何を見たのか。どうしてわたしは眠ったのか、それを覚えていない。思い出せない。ただ、あの少女の正体と無関係ではないことだけは確信を覚えていた。

 ……見つけ出さなければならない。彼を救うためにも、













 夜の町を歩く。ただ一人きりの散策は正直心細いが、もう慣れたものだ。時折一緒に行動してくれる幼馴染も、今夜ばかりは出歩こうとは思わないだろう。何せ、長く眠ったきりの妹が目を覚ましたのだから。

「はぁ……」

「物憂げな表情ね。相談にでも乗りましょうか」

「ああ、いや、お気遣いなく。大した理由でもないので」

「知ってるわ。それでも、一人きりでいるよりも気が紛れるでしょう? はい、差し入れ」

「ひゃっ!」

 ぴとり、と首筋に暖かい感触が押し付けられ、驚いて声を上げてしまう。

 振り返れば、意外な顔がにこにこと笑顔を向けていた。

「今晩は、真琴。久々にあなたのそういう声を聴いたわね」

「み、美緒!? 今夜は香音と一緒にいるんじゃなかったのか!?」

「わたし、一言もそんなことは言ってないわよ」

「え」

 思わず間抜けな声が出る。

 ココアの缶に口を付けながら、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。暖かな吐息が、微かにその唇と夜の空気を湿らせて溶ける。

「あなたの早とちりね。わたしは仕事をしている最中に、上の空になるような危なっかしい子は放っておけないもの」

「む……」

 からかうような口調に、「そんなことはない」と言い返そうかと思ったが、やめた。実際ついさっき上の空になっていた以上は、説得力なんて皆無なのだから言うだけ無駄だ。

「……悪かったね、こんな歳になっても危なっかしいままで」

「冗談よ。ここしばらく疲れてることくらい知ってるわ。忙しいのは分かるけれど、あんまり無理しない方がいいのに」

 くすくすと笑って彼女は言葉を続ける。

「香音、元気になったわ。……彼のお陰、なのかしらね」

「立木の事か? ……何か関係が?」

「さて、ね……。わたしも彼も香音も、関係があることは理解できているのだけれど、何故目を覚ましたのか、きっかけが見当もつかないの」

「……そうか」

 こくりと一口分のココアを飲み込む。優しい甘さと、暖かさが喉を滑っていく。

 ほう、と息を吐けば、孤独と恐怖で強張っていた頬が、少しだけ緩んだ気がした。

「元気になったなら、よかった」

「ええ。本当に。今度顔を見に来てくれない? あの子もあなたに会いたがっていて――」

「君の事だ、美緒」

 苦笑気味にそう告げれば、美緒は少し驚いたように目を丸くした。

「…………そんなに、元気がなさそうに見えたかしら?」

「今は少しマシになっているけれど……大分、疲れては見えたよ」

「そっか……」

 控えめな調子で笑って、彼女はココアを口につける。

「生まれてから殆ど一緒に居るんだから、それくらい気が付くよ」

「……そう、ね。当たり前の話か」

「ああ」

 それ以上、何も言わずに二人でぼんやりと夜を眺めていた。

 暖かった差し入れは、もう随分と冷めてしまっている。

「ねぇ」

「ん?」

「真琴は……」

「…………」

「…………ごめんなさい、なんでもないわ。気にしないで」

 誤魔化すように笑って、彼女は一歩明かりのない町の中に踏み出した。

「そろそろ行きましょう。仕事は早めに終わらせた方が楽だもの」

 手が差し出される。細い指。綺麗な指。白い指。自分のソレとは違う、美しいソレが寄闇に映える。

「ああ」

 短い応答。差し出された手を握る。

 ……わたしは、彼女が大嫌いだ。

 何も晒さない彼女が大嫌いだ。美しいままの彼女が大嫌いだ。

 知っている。美緒がずっと桜田蒔苗に余計な被害を出させないように動き続けていることを。彼女に隠れて何かの準備をし続けていることを。この町の今を憂いていることも。立木統也を救うために八方手を尽くしていたことを。あの影一つ一つが消えるたびに苦しそうな表情をしていることを。

幾つも、幾つも、細かい傷が奔ることを知っている。その美しさの下で、何千何百回ときずつけられたことを知っている。君が、ずっと昔から傷だらけだと知っている。

 傷だらけの君が大嫌いだ。

 その傷を見せまいと仮面をかぶる君が大嫌いだ。

 なにより――

「真琴? どうしたの?」

 立ち止まったわたしを訝しんで、歩き出していた彼女が振り返る。

 かけられた声で、はっと我に返った。

「いや、なんでもない。早く行こう」

「……真琴」

 少しだけ苦笑気味に、それでも目元に本当に嬉しそうな笑みを浮かべて、美緒は歩み寄る。

 背伸びをして、小さな掌が優しくわたしの頭を撫でた。

「大丈夫よ。わたしは大丈夫。……ありがとう」

 ――ああ、本当に大嫌いだ。大嫌いだよ、美緒。

 誰かのためにふりかえる君が、そうやって気遣って、励ますために笑える君が、自分の傷を放っておく癖に、他人の傷は放っておけない君が、誰かのために心の底からの笑顔になれる君が――わたしは大嫌いだ。

「……どういたしまして、なんて言わない」

「いらないわ。好きで言っているだけだもの」

 それを最後に、会話が途切れた。黙々と明かりのない町を歩き続ける。

 見上げれば、表情も変えない、動くこともない満月が空に輝いている。……これがわたしの知る、たった一つの夜。星も見えない、硝子細工じみた空っぽの空。

 美緒は、これ以外の空を知っているらしい。この空が間違っていることも知っているらしい。

 ……確かに、違和感を覚えないだけで、この空は、この月は、教えられてきたものとは違う。ただ、そういうものとしか思っていなかった。実際、この町以外の夜では、月は学校で習った通りに浮かび、そして沈んでいくらしい。

 成程、道理だろう。夜になったら、誰もいなくなる町が当たり前だなんて、そんな馬鹿げた話があるワケがない。












 ひたり、ひたり、廊下を歩く。

 素足には冷たい床。

 照明も分岐路も、扉さえない無味乾燥な廊下。

 ただ歩く。ただただ歩く。明かりがなくとも――随分と暗闇に慣れたからだろうか――幸いよく目が利いている。じっと視線を壁に這わせながら、歩き続ける。

 何処だ。何処だ。何処にある。

 あの晩見つけたものを――彼女と出会った書斎につながる扉を、探し出さなければいけない。

「……何処だ」

 もう大分歩いているというのに、変わらず同じ景色ばかりが視界を占めている。ずっと、ずっと、ずっと、同じ廊下を歩いているだけだ。

 あの晩、彼女の書斎に着くまでは一体どれくらい歩いただろうか。怯えながら歩いたせいで、明確な距離を覚えていない。もどかしい感覚。舌打ちをかみ殺しながら、少しだけ歩幅を増す。……自分でも、酷く焦っているのが理解できている。

ずきりと頭が痛んだ。額に触れれば、はっきりと熱を持っている。この分だと、こみ上げてくる吐き気も気のせいではないだろう。

一歩進むたびに、足が重くなる。息が苦しくなる。

何故か。

……知ったことではない。

「何処だ……ッ!」

 半ば吠える様に、声を絞り出す。

 見つからない。

 見つからない。見つからない。見つからない。見つからない。見つからない、見つからない、見つからない、見つからない、見つからない、見つからない、見つからない見つからない見つからない見つからない見つからない見つからない見つからない見つからない見つからない見つからない見つからない見つからない見つからない見つからない見つらない見つからない!

「――何処だっ!」

 叫ぶ。ほとんど悲鳴だった。

 何故、ここまで自分が焦っているのか理解できない。何故、これ程彼女に執着しているのか理解できない。

 それでも、今の俺には立ち止まるという選択肢も、引き返すという選択肢も見えていなかった。ただ焦りばかりが募っていく。ただ息苦しさだけが増していく。

 ただ、何もない壁ばかりが続いている。

 扉がない。

 彼女へたどり着く道筋がない。

 ぴたりと足が止まってしまう。

「…………俺は、」

 続く言葉は喉の奥。腹の底から這いださない。

 ホームズ、教えてくれ。

 俺は一体どうすればいい?

「探すのか……」

 ぼんやりと呟いて、無理に一歩を踏み出す。

「……探さないのか」

 もう一歩を続ける。

 答えが出ない。答えは出ない。

 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。同じところを歩かされているような感覚だった。何も見つからない。何も分からない。何も思いつけない。何も。何も。何も。何も、何も何も何も何も何も――俺には、もう、

「――――ッ」

 怒鳴り声を噛み殺して、ダン、と思い切り壁に拳を叩きつける。

 ……気は晴れない。重くどろりと濁った黒い靄は、頭の中に漂ったままだ。

 閉じていた目を、暗闇に向ける。

 相も変わらず、何もない。真っ直ぐな空間が口を開けているばかりだ。

 迷う余地のない道筋だけが眼前に示されている。

 無言で歩き続ける。歩き続ける。

 ……それしかできない。

 もう一度向き合わなければいけない。もう一度考えなければいけない。もう一度答えを出さなければいけない。

「……だから、か」

 目の前に、またあの青年が立っている。顔のない視線が真っ直ぐに俺を捉えている。暗闇から浮かび上がる様に、ゆらりと刀を構えていた。敵意は、相変わらず読めない。けれど――

『――刀を抜いたなら、それは斬られる覚悟があるという意味だ。どんな時でも、それを抜くなら戦う覚悟が必要だよ』

 間違いなく、青年はこちらと敵対しているのだろう。そう理解できれば、行動の選択肢は一つきりに絞られる、

 一歩踏み出して後悔が滲む。

 二歩踏みしめて恐怖が漏れる。

 三歩踏み込んで感情を廻す。

 間合いに入る。

 ぐるぐると巡るどす黒い感情を、八つ当たり気味に刃に乗せた。

 切っ先に喉笛を睨ませて、突きだす。技も読みもないただ勢いと力に任せた一撃。

 当然、隙を晒すことになる。

 下段から掬い上げるような一閃。三日月めいた軌跡が狙うのは、短刀を握る右手。お手本通りの、美しく正確無比な一撃。

 だが、そう来るとは読んでいる。

「ッ!」

 四歩目。

 重心を後ろに落として、踏み込みを軸足に体を回す。顔のすぐ前を刃が通過する。

 切り裂かれた空気を振り払うように、勢いを殺さないまま横なぎに短刀を振るう。

 迫る斬撃に、しかし青年は冷静に対処する。跳ね上がるような軌道を描いていた刀は、一転して上段よりの振り下ろしに切り替わった。

 剣戟。刹那に火花が散って、消える。拮抗もまた一瞬。

 互いに崩れた体勢からの起死回生の一手。直ぐに間合いを取り、構えあう。

「…………」

「…………」

 無言での睨み合い。どちらか動けばどちらかが死ぬ。……成程、死人に口なしとはこのことか。この無言は、定まらない互いの未来に他ならない。

 くく、と喉から笑いが漏れる。

 俺は何をしているのか。もう何度目かも分からない自問自答。それに、初めて諧謔を覚えた。

 滑稽だった。何もわからぬままに刃を構えている自分が。

滑稽だった。そんな自分に付き合って刀を突き付ける青年が。

滑稽で仕方がない。この意味の分からない命の取り合いが。

 くるりと手の中で短刀を回す。順手から逆手に。

 笑いを口の中で転がしながら、視線を注ぐ。

 上段の構えで青年は動かない。積極的な攻勢には出ない。また迎え撃つ算段だろうか。

 ……それにしても、コイツは一体何が目的だ? 一度目は咄嗟に警戒してから攻撃をした。二度目――今回は状況に流されて戦闘を始めた。……俺を殺す事、か? それにしては追撃も不意打ちもしてこない。行動から理由を拾えない。強いて言うならば、俺と戦うためだろうか? いずれにせよ、その奥の真意は見えないままだ。

 実力がかけ離れているのは理解できる。コイツは気配が読めない。呼吸が読めない。次手が読めない。実力が読めない。

 俺よりも遥かに格上だ。

 闘争の高揚が凍り付き、鋭く戦闘の冷静に置き換わっていく。

 逆手のまま、納刀。ちん、と小さな金属音が空々しく響いた。

 ふっ、と笑みだったモノを吐いて、問う。

「――なぁ、お前は一体何が目的だ?」

 目的は幾つかあった。意思の疎通は可能か。目的は何か。動揺を誘えるか。

 結果は、どれも不発で終わった。

 神速の踏み込み――からの振り下ろし。薄闇を切り裂いて刃が襲い掛かる。抜刀。がっちりと短刀と刀の刃と刃がぶつかり合う。リーチは向こうに分があり、先に攻勢へ踏み切ったのも向こう。勢いから言って、このまま力勝負に持ち込まれれば無様に崩され斬られるのがオチだ。

 だから、握る手の力を抜きながら体勢を崩す。――重心を崩す。

 ふわりと青年の刀が押しのけようとする力を失って流れる。同時に青年の眼前に安全な空間が出来あがる。その空間を踏み潰すように一歩足を出す。

 零距離からのぶちかまし。リーチの差があるのならば、それより内側に飛び込んで相手の間合いを殺すのが定石だ。だが、青年もまた俺の手を読んでいたのか、はたまた咄嗟に判断したのか、刀を捨ててどっしりと腰を落とし、ぶちかましを受け止めた。

 懐に飛び込んだのは俺も同じ。こうして体をしっかりと固定されては、反撃は出来なくなってしまう。……俺が、短刀を持ってさえいなければ。

 切っ先が青年を睨む。手の中で再び向きを変えた短刀は、再び起死回生の一撃に移行し――

 跳ね飛ばされた。

「ぐぅっ!」

 腹に衝撃。息が吐き出されて呻きになる。思い切り蹴飛ばされ、床を転がる羽目になる。追撃が来る前に立ち上がって、短刀を構えなおした。とりあえず体を動かすことに問題ない。……あの馬鹿力で蹴られて、内臓が破裂していないのは幸いだ。

 青年は静かに刀を拾い上げ――鞘に納めた。

「……ぁあ?」

 じろりと一度、何もない顔を俺に向けて、背を向けた。そのまま立ち去ろうとする。

「おい、待て――っで!?」

 はっ、と我に返って急いで追いかけようと走り出す。

 ごん、と思い切り何かにぶつかった。

 痛む鼻を抑えながら何にぶつかったのか確認をして、呆然となる。

「――え、あ、……え、マジで……? ……マジかぁ…………」

 目の前に扉が表れていた。


 ……


 ギィ、と扉が軋みながら口を開ければ、咽かえる様なカビと埃の臭いが口と鼻腔に入り込んできた。たまらず咳込み、口元と鼻を覆う。……あまり長居したい部屋ではないな。

「……なんだ、この部屋」

 扉は、確かにあの晩に見た書斎のソレと瓜二つだった。

 月光が埃で靄がかかる部屋を幻想的に演出している。誰もいない部屋。空気さえも止まっていたのだろう。一歩踏み出すごとに埃が舞い上がる。

 書架が立ち並んでいた。古ぼけて、黒ずんだ木目が目玉のように俺を睨んでいる。

 本が収まっていた。朽ちる一歩手前だ。腐る一歩手前だ。

 誰もいない。夢で見た光景とよく似て、しかし随分とその光景は昔に思える有様。

 手を伸ばす。ボロボロになった本を手に取る。

「――《シャーロック・ホームズの冒険》」

 これを知っている。もっと新しかったこの本を知っている。確かに、あの晩彼女が持っていた本だ。

 やはりここはそうなのか。あの晩に見た、あの晩に彼女と出会ったあの部屋なのか。

 ……なら、この惨状はなんだ? 何故これ程までに書斎は古ぼけている?

 探索を始める。

 埃は大分落ち着いてきている。月明りのお陰で何かを見落とすということもないだろう。

 幾つかの本を手に取ってみる。……殆どの頁は損耗が激しい。激しすぎる。読み解くのは相当困難だろう。幸いなのは、見たところそういった本の大体は文庫本のようだ。それも、いわゆる古典的な名作。さっきの《シャーロック・ホームズ》に加え、《海底二万マイル》、《こころ》に《ジキル博士とハイド氏》といった具合に、まるで節操がない。

 ……手掛かりにはならないか。

 書架の下段には、部屋の諸々よりもさらに古く見える木箱があった。念のため、さやに納まったままの短刀でつついてみる。

 ガシャン、と大きな音共に、見るからに怪しげな紫色の何かが弾け飛んで行った。……忘れていたが、この短刀は普通に妖刀とかそういう類だった。そしてこの屋敷も、何が起こるか分からないびっくりどっきり怪奇お化け屋敷だ。用心しておいて正解だった。

 おっかなびっくり箱の蓋を持ち上げれば、中にはやはりと言うべきか、古びた本が一冊。

 表紙には何も書かれていなかった。もう一度鞘でつついてみるが、今度は何も反応がない。安全……だろうか? 手に取ってみても、噛みついてくることはとりあえずないが……。

 ぱらりと中身を覗く。

「……家系図、か? 辻桐輝夜って……この人が初代なのか。……うん?」

 指で血筋に沿って名前を追っていると、見慣れない名前で止まる。

「龍……鬼? 刀、夜…………これ、名前か?」

 龍鬼刀夜。凡そ名前とは思えない文字の連なりが、家系図の中に紛れ込んでいる。

「配偶者は……辻桐璃音。じゃあ、やっぱり人の名前なのか?」

 それにしては物騒な漢字が多いというか……そもそも、なんて読むのかさえ分からない。リュウオニカタナヨル? まさか。

 どうにも、家系図中には他にも龍鬼刀夜という名前が見受けられる。……一人の人間を指す言葉ではないのだろうか?

 それにしても、読み方が分からない。音読みが妥当だろうか。龍って、音読み出来るのか? ああ、そう言えばもう一つ龍には訓読みがあったな。タツとも読める筈だ。

 これと後は音読みを繋げると、タツ、キ――

「……いや、まさか」

 龍鬼刀夜。

 タツキトウヤ。

 立木統也。

 ――偶然か? 本当は別の読み方があって、こういう呼び方もできてしまうだけだろうか? ……きっと、きっとそうに違いない。

 だって、そうだろう?

 どんな理由があってこの奇妙な名前の読みと、俺の名前の読みが一致していなければいけないんだ?

 だから、これは偶然だ。偶然に違いないんだ。あるいは、何かの拍子に俺の両親がこの名前を聞いて、それを真似したのかもしれない。一応はこの屋敷の主と俺の血は繋がっているらしい。そういうことも、あったのかもしれない。

 何か、もっと悍ましい理由があるのかもしれないなんて、そんなのは俺の妄想だ。疲れているんだ。だから余計なことを考える。よくない事を考える。考えてしまう。だから考えるな。何も考えなくていい。これ以上考えてはいけない。

 耳鳴りがする。耳鳴りが止まらない。止まってくれない。

 家系図を閉じる。

 瞼を閉じて、開く。

「…………」

 少しだけ、頭の中が静かになったような気がした。

 ……落ち着け。取り乱すな。今はこのことを考えるのをやめよう。もう部屋に戻って、ゆっくり寝て休むべきだろう。

 箱に家系図を戻そうとして、違和感。……何かが挟まっている?

 ちりん、と鍵が落ちて小さくなった。三つ目の黒い鍵だ。

「……なんで、ここに。…………いや、考えても仕方ないか」

 溜息を一つ吐いて、鍵を拾い上げる。月明りがきらりと真っ黒い輪郭に反射して輝いた。

「……あの先に、一体何があるんだ」

 呟きは、埃の舞う冷たい空気の中にほどけて消えた。

 次の瞬間、俺の眼前には巨大な黒い手が現れる。

「え?」

 あっけにとられた俺は、そのままロクな抵抗もできずに手に捕まってしまった。そして、黒い手は何の痕跡も残さず消えた。

 人が一人消えた書斎には、ただ埃の上に誰かがいた証拠である足跡だけが残されていた。



























 ホームズ:急:序へ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ